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(五)小林久三

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 小林久三は寺地町東一丁久三郞の長男で、明治十一年三月出生した。資性磊落豪放、進取の氣象に富んだ。市立大阪商業學校、慶應義塾等に學び、三十一年十二月、一年志願兵として步兵第八聯隊に入營し、三十四年三月、陸軍步兵少尉に任ぜられ、六月正八位に敍せられた。三十七年四月充員召集に應じ、後備步兵第八聯隊に入隊し、第五中隊附を命ぜられ、七月征途に就いた。斯くて八月十九日、【第一囘旅順總攻擊參加】所屬軍は昧爽より旅順總攻擊軍に加はり、鳳凰山東北麓に進んで豫備隊となつた。二十一日旅團は增援の爲め、東盤龍山方面に前進し、所屬中隊は大隊の先頭として、五家房東南方に向つたが、大部は五家房北方無名山麓に至つて停止し、日沒を待ち、楊家屯西方の地隙に位置して夜を徹した。翌二十二日、所屬中隊は本隊と共に早朝行動を開始し、盤龍山の敵に對し、五家房北方高地に展開して突擊を決行した。敵は猛烈なる銃砲火を以て頑強に抵抗し、我兵は地物の利なく、死傷續出した。【奮闘戰死】此時久三は小隊長として奮戰し、砲彈身邊に炸發し、打撲傷を負ふたが、屈せず、部下を叱咜激勵して前進を繼續せんとし會々鐵條網破壞の任務に服せんとする工兵の援助を命ぜられ、彈丸雨飛の間を冒して前進し、漸くにして敵壘五十米突前の塹濠に達した際、左肩部に銃創を負ひ、鮮血淋漓たるも毫も之に屈せず、繃帶を施す暇もなく「右手さへあれば指揮が出來る」とて、右手に軍刀を提げ、左手に日の丸の扇を翳し、部下を督勵せる折柄、敵の機關銃より續發せる彈丸腹部を貫き、應急手當を施す間もなく遂に絶命した。卽日陸軍步兵中尉に進められ、從七位に敍し、後戰役の功により、功五級金鵄勳章、年金並びに勳六等單光旭日章を授けられた。(日露戰役忠勇列傳)遣骨を長泉寺に葬り、法名を釋良導といふ。(戰死病歿者及遺族名簿)