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(三二)和田復軒

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 和田復軒名は恆、字は子常、晚に迂翁と號した。(墓誌)【堺の人】堺の人、幼より學を好み、程の學を宗とした。【紀伊より河内に徒る】中年紀伊伊都郡東家村に移り、晚年には河内天見村に徒つた。【人と爲り】人と爲り、恂謹清儉、交游を喜ばず、足跡十里を出でなかつた。東家村寓居時代には子弟の薰陶を事とし二十九年の久しきに及んだ。明治二年三月和歌山藩知事德行を聞いて、【和歌山の督學】郡督學に擧用せられ、教化大に行はれた。復軒、春秋に精しく、畢生の精力を、此一經に注いだ。數部の著書があつたが、後皆之を焚いた。晚年讀むところのものは、唯子文集一部のみで、易簀の際猶ほ之を手にしたといふ。其資性の致すところ人の知ることを求めなかつたが、而も人自ら之を知り、遂に一方を教化し、追慕已む能はざらしむるものがあつた。(晚晴樓文鈔下)明治九年三月二日享年七十三歳を以て歿し、【墓所】天見村扇谷に葬つた。(墓誌)歿後東家の村民、德を慕ふて已まず、地を舊居の西南に卜して遺物を藏め、碑を此處に建て、【遺愛碑】題して復軒和田先生遺愛碑といふ。(晚晴樓文鈔下)