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(三三)梁田綗介

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 梁田綗介名は邦恕、字は仲容、葦洲と號した。通稱は綗介、後藏九郞と改めた。淡路洲本の士拜村益堂の第二子で、文化十三年生れ、【明石侯儒員梁田氏の五世】弱冠出でゝ明石侯の儒員梁田氏の第五世を嗣いだ。邦敬の長子卽ち四世邦久(字は雪航、號友梅菴)の義子である。(梁田忠山氏囘答書)綗介幼にして讀書に志し、篠崎小竹の門にあるもの前後十年經史を涉獵し、最も詩書を善くし、小竹每に其技を稱讚した。後安積艮齋、佐藤一齋及び森田節齋等に師事し、【帷を堺に下す】天保の末年帷を堺に下し、(日本教育史資料、梁田忠山氏囘答書)宿屋町中濱に住した。(左海人名錄)邦敬老歸するに及び、跡を繼いだ。【人と爲り】人と爲り謹嚴、度量寬闊清貧に甘んじ、人を教ふるに諄々として倦まず、安政以降士民の教化に務め、學風大に揚がり、遠近入門の弟子殆ど三百人に及んだ。土居光華、服部章、村上俊平、林謙介、澤田弘道等は、其主なるものであつた。【明石藩校教頭】明治二年明石藩々校創設の際、教頭に擧げられ、同四年老を請ひて、加古郡大久保村に隱れ、詩書を以て自ら娯んだ。橋本海關、松村介石等は當時の塾生である。同九年八月二十日享年六十一歳を以て病歿した。【遺稿】著すところ葦洲遺稿二卷がある。(日本教育史資料、梁田忠山氏囘答書)