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(四二)樋口兼長

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 樋口兼長均太郞と稱し、朱陽と號した。【丹南藩士】家世々河内の丹南藩に仕へた。【帷を堺に下す】廢藩後來堺して生徒を教授した。人に接するに和易、交るに城府を設けなかつた。明治三十三年四月二十六日享年五十一歳を以て歿し、諡して靜孝といふ。越えて七月受業者相謀りて、【墓碑】墓碑を南宗寺の兆域に建てた。(墓誌)