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(四三)生駒東太

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 【江戸の人】生駒東太は弘化四年十一月江戸に生れ、後和泉陶器村に移住した。【土屋弘に學ぶ】時に鳳州土屋弘堺に在り、東太其門人となつた。人と爲り、實直才幹あり、鳳州を助けて塾生を監督し、塾規を立て、兼て堺師範學校に學んだ。成業の後、【宿院小學長】明治七年四月宿院小學長となつた。時恰も學事草創に際し黽勉努力、【教務大に擧がる】教務大いに擧り、訓育並びに管理の方法、秩序整然として觀るべきものがあつた。近畿諸縣の教育者競ふて來觀し、其方法に倣ふもの多く、宿院小學の名聲一時關西を風靡した。在職二十八年、終始一日の如く、【文部省賞を享く】文部省功績を賞し、六國史及び硯匣を賜ひ、大日本教育會亦功績章を贈り其他府縣の賞賜は實に無數であつた。一朝疾に罹り、終に明治三十三年八月三十一日享年五十四歳を以て歿し、南宗寺の塋域に葬つた。會葬者二千五百餘人に達し、頗る盛儀を極めた。(墓誌)本市は其功續を表彰し、同人の寡婦生駒シナに扶助料として終身年金百圓を給與することゝし、(明治三十三年十月五日市會議決第五十七號)更らに大西市長等相謀り、功績を傳へんが爲め、撰文を土屋弘に請ひ、碑を其墳上に建てた。(墓誌)