小林新助諱は信、【淀川の人】淀川(山城淀か)の人、(堺市史蹟志料)後姓名を朝比定水と改めた。(堺史料類纂拾遺)小川宗右衞門鄕學所を創め、幾何ならずして病歿し、其後稍々衰頽の風あるに際し、【鄕學所附屬人】嘉永四年八月新助鄕學所附屬人を命ぜられ、專ら其任に膺つた。是に於て講學の徒漸く加はり、黌舍狹隘を告げ且破損して教授上不便を見るに至り、【校舍の移轉と擴張】安政六年冬、奉行駒井信義に謀つて鄕校を九間町に移し、校舍を修築し圖書を購入する等、面目全く一新した。信義幕府閣老に上達して、【今橋の鄕校と同資格】大阪今橋の鄕校と同資格とし、【士籍に列す】新助を士籍に列し、且帶刀を允した。鄕校の給與額は舊の如くであつたが、新助の功勞を賞し、別に年々銀壹貫目を給與することゝした。明治元年土佐藩兵鎭撫として來堺に際し、鄕校及び藏書を沒收し、【鄕校の終末】學舍閉鎖せらるゝに及び、新助は遂に堺を去つた。(堺區學事沿革略記)