天野六兵衞其先は播磨網干に出で、正德年間堺に移住し、世々六兵衞と稱した。十一代六兵衞夙に農具改良の志を抱き、【麥、籾摺臼の專賣特許權】麥摺臼を發明し、明治二十三年二月專賣特許權を得た。又意を籾摺臼の發明に傾け、是復特許權を得た。(天野六兵衞壽碑銘)是に於て工場を山本新田に設け、〓の商標を附して廣く諸國に販賣した。(三寶村誌)製作に當つては、用意周到を極め、【用材選擇の苦心】臼齒の用材選擇には、自ら山林に入つて之を採り、又手づから礬土を撰んで、臼齒の羽面に塡充する等よく凡人の企及する能はざるものがあつた。(天野六兵衞壽碑銘)續いて四十一年十一月三德鍬、同四十二年二月及び同年九月麥打器、大正三年十二月麥摺機等の專賣特許權を得た。(三寶村誌)是より先、六兵衞に就いて技を習ふ者、其德を旌表せんが爲に相胥り、【壽碑】三十三年二月壽碑を寺地町東三丁旭蓮社境内に建てた。(天野六兵衞壽碑銘)大正五年二月三日享年六十二歳を以て病歿し、法號を天譽善應寬政禪定門といふ。(三寶村誌)