ビューア該当ページ

(二)德成寺址

773 ~ 773 / 897ページ
 明治四十四年長崎縣北松浦郡二十村平鄕字蛭子畠へ移轉した(社寺明細帳)德成寺は、【元祿二年の規模】元祿二年堺大繪圖に江川町東側北角より十六間半(新間十七間五二寸五分)南にあつて西面し、東南北三方は人家に、西は道路に接した、東西六間(新間六間三)南北十三間(新間十四間五寸)の境域を有してゐた。【舊址】此境域は現在の南旅籠町西二丁四十四番地ノ一小豆爲吉氏住宅出入口より以南、同丁四十三番地ノ一辰吉三郞氏住宅裏側の干場迄が間口の址である。寺域は元和後市民の所有地となり、古繪圖にも作右衞門屋敷の内十二間一小間、忠右衞門屋敷の内半間一小間が德成寺屋敷へ喰込んでゐたと記してゐるが(元祿二年堺大繪圖德成寺貼紙)元祿二年には前境域を公儀より寺屋敷として扱はれてゐる。(元祿二年堺大繪圖)【德成寺町】殊に寶永四年堺町繪圖以下の町繪圖には當時表筋を德成寺と記し、舊來の江川町と稱してゐないものがある。