【所在】吉川俵右衞門の屋敷址は吾妻橋通一丁七番地に當る。【俵右衞門と堺居住】元來俵右衞門は新港開鑿願書提出の爲め來堺した天明四年二月には大和屋庄兵衞方に寓し、四月には九間町榎並屋太郞兵衞座敷に移り、六月再び大和屋へ移つた。(泉洲堺湊一件)此後寬政五年四月に歸府し、更に同年十月來堺には旅宿へ到着したとあるから(湊普請願一件後年入用書拔)恐らく同町の榎並屋に移つてゐたものであらう。【堺に居を定む】次いで堺奉行より新港成就後の住所問合に對して俵右衞門が永住するも差支なき旨を答へたのは、當時私邸を構えてゐなかつた事を證するものである。從つて其屋敷を有するに至つたのは開鑿事業成就に近い頃で、拜領地の一部たる吾妻橋の西方に設け、其境域一町四方と傳へてゐる。(吉川庄右衞門氏談)【舊址】屋敷は今存してゐるが、僅に二十坪内外の小屋となり、規模も改められてゐる。