解題・説明
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滝宮の牛頭天王社と天満宮に奉納する念仏踊で、綾歌南部には南条各組、仲多度には7箇村組、旧鵜足郡の坂本組などと共に、松山・加茂・林田・西庄・金山・坂出の阿野北条郡の各地から滝宮に出向いていた。戦時中に中断していたのを、昭和30年頃、松山地区近辺の有志が再興し、旧来の形と諸道具が大屋冨町で継承されている。 踊は下知を先頭に大太鼓・笛吹き・ホラ貝・鉦打ち・大打ち物・子踊り(稚児)・側念仏衆と行列して宮を巡り、正面に日・月の立物を飾る社前の踊り場に入り、薙刀振りが場を清めて、大打物が周囲を警護した中央に下知・太鼓打ち・後踊りが日月を描いた大団扇を持ち、鉦打ち二人が場に入り、側念仏の「ナムアミドーヤ」の合唱にあわせて踊られる。この日・月の立物・大打物・後踊りは他の組みにはない、北条念仏独特のもので、踊りの形も中世・阿野北の古社寺で催されていた舞楽の影響を受けたものと思われる。 元来、この踊りは仁和4年(888)讃岐が大旱魃の際、国司菅原道真が城山の神に雨乞い祈願し、三日三晩の大雨に百姓が歓喜し、踊ったことに由来すると言う。後、法然上人(承元元年=1207流罪で塩飽へ、同年末赦免)がこの踊りに称名方式(念仏)を取り入れ組織化したと伝えられている。滝宮天満宮の祭日25日にあわせて稽古に励み、7月16日頃から地元氏神の境内で練習をしていた。また、雨乞い踊りであるから、旱魃の折にも祈願して踊った。今では、民俗行事として保存されている。
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