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解題・説明
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南北朝の争乱を表した「太平記」に、「細川清氏討死ノ事、附西長尾軍ノ事」の項に記される細川清氏戦死の地と伝えられ、地形から元々は海岸に近かったと思われる。正平17年(1362)、南朝方の将細川清氏は四国平定の命を受けて阿波・東讃を治め、阿野の白峰山麓、高屋に兵を進めた。一方、北朝の将は従兄弟にあたる細川頼之は宇多津に陣を取った。頼之が西長尾城を攻める偽策に、清氏が援軍を西長尾城に送った後、隙を突いて急襲された清氏は高屋の城を出て逆襲したが、三十六人の少人数のため全員戦死した。この戦いを白峰合戦と言い、この地を「三十六さん」と呼んでいる。 白峰合戦の敗北により、讃岐の南朝方は勢力を失い、北朝方細川頼之の支配する所となる。江戸時代になって、蘐園学派の儒学者中山城山は綾北の門弟とこの地を訪ね、文政6年(1823)、細川清氏を顕彰する「細川将軍戦跡碑」を建立した。 明治32年(1899)、この土地が売却されようとした時、細川頼之の部下であった野木備前次郎が乃木家の祖先にあたるとされていたことから、乃木希典に保存の協力を依頼する。林田村薬師院の住職小田耕岳が、知遇のあった善通寺師団長乃木希典大将に頼み、当地の無償払い下げを受けた。この土地には、松の大樹があり、国司藤原家成の詠歌による「千鳥松碑」が建つ。乃木大将も「千鳥の松」と称して愛でていた松があったが、松食い虫の被害で消滅した。乃木大将が明治天皇に殉職した後、小田住職は乃木大将の徳をたたえる石碑を建てた。
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