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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ
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新札幌市史 第4巻 通史4
(小樽新聞の記事)
小樽新聞
の記事 三月二十一日付『
小樽新聞
』に、「篠路学田一小作者」が「篠路村議諸氏へ」と題して投書しているが /
小樽新聞
の記事
新札幌市史 第4巻 通史4
(北海タイムスと小樽新聞の競合)
北海タイムスと
小樽新聞
の競合 この時期の新聞界は、『北海タイムス』と『
小樽新聞
』による〝二大新聞対立,しかし、
小樽新聞
の反応も早く、大正十五年六月「北海道定期航空協会」の設立を主唱し、航空機二機を入手している,いは
小樽新聞
の方にあった。,それが大正期、
小樽新聞
に社内紛争(大7)が起きた頃から勢いは逆転し始める。,後年、元
小樽新聞
社員森川勇作は「統合で樽新社員は道新に雪崩れこみます。 / 北海タイムスと
小樽新聞
の競合
新札幌市史 第4巻 通史4
(北海道新聞の創刊)
道内では、十六年末現在存続していたのは一一紙で、いずれも北海タイムスか
小樽新聞
および旭川新聞の系列に属,このような状況下で十七年、北海道庁長官戸塚九一郎は阿部良夫(北海タイムス)、地崎宇三郎(
小樽新聞
)、原忠雄,同月十二日、北海道庁長官裁定の形式で最終決定を見、十月末日をもって北海タイムス、
小樽新聞
、新函館、旭川新聞
新札幌市史 第3巻 通史3
(十一州同志記者大会と道民大会)
まず十一州同志記者大会は岩内新報、拓殖新報、北世界、小樽新報、
小樽新聞
、北海タイムスの記者が参加して豊平館,上野本治、丸山浪弥(岩内新報)、古谷周久(小樽新報)、東武(道会議員、北海タイムス)、安東俊明、坂牛祐直(
小樽新聞
,)、吉植庄一郎、桜井良三(拓殖新報)、南助松(新同胞)、平野文安(
小樽新聞
)、平田庚治、瀬川大作、助川貞二郎
新札幌市史 第3巻 通史3
(定山渓鉄道の敷設)
そのことが定山渓鉄道計画のはじまりであるという(
小樽新聞
大7・10・17)。 ,ところが補助金を期待していた御料局からの協力を得られなかったため、株式募集をしなかった(
小樽新聞
大7,運賃は、白石定山渓間二等一円三二銭、三等七五銭であった(
小樽新聞
大7・10・17)。
新札幌市史 第3巻 通史3
(小学校卒業後の進路)
その内訳は商業見習八人、家事手伝い一五人、給仕二人などであった(
小樽新聞
明37・3・27)。,三十七年度の卒業生のうち、中等学校などへの進学希望者は九八人で、非進学希望者の五〇人を大きく上回っている(
小樽新聞
,また、教員や看護婦、電話交換手として社会に出る卒業生もいた(
小樽新聞
明37・3・27)。,四十年度の卒業生一一六人中、高等女学校などへの進学者は九六人に上り、八二・七パーセントに達していた(
小樽新聞
,創成高等小学校の三十七年度の卒業生に対する志望調査の結果を紹介しておこう(
小樽新聞
明38・3・28)
新札幌市史 第3巻 通史3
(明治末期の札幌区民の読書傾向)
明治四十三年の『
小樽新聞
』は二度にわたって「札幌の読書界」と題する同名の記事を掲載し、札幌区民の読書傾向,独立社の主人は区民の「読書趣味」を、次のように三期に区分する(
小樽新聞
明43・12・24)。,同じ時期、札幌区民に最も人気があった雑誌は、博文館、実業之日本社発行のそれである(
小樽新聞
明43・9
新札幌市史 第4巻 通史4
(民間航空事業の開始)
その状況の中で大正十五年七月、
小樽新聞
社が社告で「北海道定期航空協会設立計画と趣旨会則」を発表して、定期航空事業,しかし
小樽新聞
社の場合、東京~札幌間の縦断飛行を試みたり、旭川へ飛来するなど宣伝につとめたが(たとえば
新札幌市史 第3巻 通史3
(上水道の設備計画)
水道敷設計画は、東宮行啓や水害などで遅れた(
小樽新聞
明44・7・8、北タイ 明44・10・10)が、,また山鼻町と豊平町については第二期計画に譲ることにした(
小樽新聞
明44・12・22~24、26)。,その後この水道敷設計画の詳しい経緯は不明だが、「大反対に逢ひて其侭立消えとなり」(
小樽新聞
大3・4・
新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌の米価高騰と区民)
しかし、八月十五日の『
小樽新聞
』には、「札幌でも廉売を開始した」の見出しとともに、十四日朝札幌の南一条通,写真-17 米価騰貴問題について,区民大会開催の動きもあった旨を報ずる新聞 (
小樽新聞
大7.8.15
新札幌市史 第3巻 通史3
(日清戦後から日露戦争期)
明治三十三年(一九〇〇)年末の『
小樽新聞
』は次のように述べている。,日露戦争中に札幌区役所が行った調査の結果が明治三十七年七月の
小樽新聞
に報じられている。,するの止むを得ざるに至れるものあるやも計り難く」というものが多かったと思われる(「時局と工業の影響」
小樽新聞
新札幌市史 第3巻 通史3
(北海道庁立第二札幌中学校の設立と「中等学校設立期成会」の活動)
この時点で、設立形態は札幌中学校の分校ではなく、「独立せる札幌第二中学校」とすることが決定した(
小樽新聞
,反対者は日野喜代治、脇屋愼造を中心に「新設中学校敷地変更期成会」を組織し(
小樽新聞
明45・2・18),、新たに「桑園方面」を候補地として提案した(
小樽新聞
明45・3・6)。,その一方で、賛成者は久保兵太郎、大見鶴吉を中心に「擁護運動」を展開した(
小樽新聞
明45・2・27)。,「中等学校設立期成会」の役員であった区会議員の永田巌、村田不二三ら四人はこの責任を取り辞職した(
小樽新聞
新札幌市史 第3巻 通史3
(施行延期)
この間安場は官舎に入らず山形屋旅館に投宿、そこへ日曜の朝、新長官の抱負を聞こうと訪ねた
小樽新聞
社の記者,につき「余は一向感服せず……一先づ実施延期の勅令を発布することゝなり居れば……其期限は無期の筈なり」(
小樽新聞
,無期延期を速報した
小樽新聞
は翌日の紙面で「吾人は固と区制其者の不完全を知る者なり。,勿論なれど、全然廃止すべきものなりゃ、或は如何に改正するや等は今日に於て断言し得べきものにあらず」(
小樽新聞
,、且つ来月一日より実施の事とて区会議員撰挙等にて、夫々競争者も出で居る際、此報に接し太く喜び居る」(
小樽新聞
新札幌市史 第4巻 通史4
(北大社研事件)
『
小樽新聞
』は「苗穂工場に吹込む赤化教育/労働問題の研究会を設け発会式挙行の段取り」(大15・4・6)
新札幌市史 第2巻 通史2
(北海民燈)
しかし当時小樽に日刊新聞がなくなっていたため、翌二十七年六月にこれを小樽に移し、十一月に『
小樽新聞
』と
新札幌市史 第3巻 通史3
(新聞記者と社会主義)
その後
小樽新聞
に移り、紙面で社会問題を積極的にとりあげ、小樽の社会運動を推進させた。
新札幌市史 第3巻 通史3
(石山山鼻間の軌道敷設)
その後三十八年から敷設をはじめた(
小樽新聞
明41・10・13)が、やっと四十年七月十八日、札幌区外の
新札幌市史 第3巻 通史3
(アイヌ実業補習学校の円山村設立計画)
これが広く札幌区民に伝えられたのは三十三年八月で、『
小樽新聞
』が「土人救育会と土人徒弟学校」と題して、,アイヌノ保護」、小谷部全一郎が「吾北海道土人」、加藤政之助が「日本国民ノ位置」と題しそれぞれ演説した(
小樽新聞
新札幌市史 第3巻 通史3
(書画会など)
今のところ三十五年四月に第二回の書画囲碁の会の開催が報じられている程度である(
小樽新聞
明35・4・13,また来札画家のほとんどは日本画であるが、三十六年八月には京都の洋画家小笠原豊涯が来札している(
小樽新聞
新札幌市史 第5巻 通史5上
(読売・朝日・毎日新聞社の札幌進出)
の札幌進出 終戦後間もなく、読売・朝日・毎日の東京三紙は、それぞれ北海道進出への足がかりとして、「
小樽新聞
新札幌市史 第3巻 通史3
(麗沢会結成)
「小樽啓明会」の有力会員であった出口豊泰は
小樽新聞
の記者であったが、九年に新聞社をやめ、北海道拓殖銀行
新札幌市史 第8巻2 年表・索引編
(出典一覧(新聞出典))
10)9月2日 ⑥札幌新聞 1880年(明治13)6月16日〜全45号 ⑦
小樽新聞
新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌記者俱楽部)
、相神豊吉、石川道三郎、奥村茂俊 札幌毎日新聞社 星野良平、中川寅三、下川与作、今里準太郎
小樽新聞
支局,、柴田欣兵衛、大島経男、土井栄知、湯浅為吉(以上北海タイムス社)、松本安二、戸田精一、宮原知久(以上
小樽新聞
支局
新札幌市史 第3巻 通史3
(旧露清語学校への移転)
旧露清語学校への移転 同会では教育会図書館の開館前から新たに移転し、施設の拡充を図ることを計画していたが(
小樽新聞
,こうした傾向はその後も変わらずに、三十八年の時点でも閲覧者の大半が学生と教員検定試験志願者であった(
小樽新聞
,この一銭という金額は当時の新聞(
小樽新聞
)の一部当たりの購入代金の半額に相当する。
新札幌市史 第4巻 通史4
(定山渓鉄道)
写真-11 定鉄電車開通を伝える
小樽新聞
(昭4.10.25)に掲載された温泉の鳥瞰図
新札幌市史 第3巻 通史3
(雑誌)
これは、のち『
小樽新聞
』(明27・11)と改題した(市史 第二巻)。
新札幌市史 第3巻 通史3
(興業としてのイオマンテの挙行)
(
小樽新聞
明39・1・22) ③ 熊祭り 札幌区南三条東五丁目金原恵吉は開期中(編注・北海道物産共進会,(
小樽新聞
明39・9・8) ④ 大通りの熊祭り/型ばかりで見物はガヤ/\ 昨日午前十一時より大通り西二丁目角,(
小樽新聞
大7・8・5) これらの新聞記事を通して、次のような問題が浮かび上がってくる。
新札幌市史 第3巻 通史3
(市街馬車鉄道の敷設計画)
札幌区の将来構想に関わって電気鉄道敷設の際の障害になるなどの慎重論、反対、推進など様々な意見が出た(
小樽新聞
新札幌市史 第3巻 通史3
(大字月寒村)
のとせ、北の鎮めの軍隊を、設けられしは此土地そ、実(げ)にも誉を増しにける……」と歌われているように(
小樽新聞
新札幌市史 第3巻 通史3
(大正二年の大凶作)
白石村の凶作状況については以下のように報告されている(
小樽新聞
大3・1・24)。
新札幌市史 第4巻 通史4
(札幌村)
この時期の札幌村につき『
小樽新聞
』(大13・3・27)は以下のように紹介している。
新札幌市史 第4巻 通史4
(調査会の成果)
また
小樽新聞
では「札幌都市計画/調査内容」という題名で、「札幌市役所都市係りにては本市都市計画に関して,
小樽新聞
の一五項目は、経画委員会の規則と同委員会の庶務規則である。
新札幌市史 第3巻 通史3
(就学督励と「名誉旗」の授与)
四十一年三月に「学事奨励ニ関スル規程」が一部改正されるまで存続し、全道で一二二校が「名誉旗」を授与された(
小樽新聞
,札幌区ではこの四校のほかに東尋常小学校が四十年度に(
小樽新聞
明40・4・6)、隣接する諸村では篠路村,の江南尋常小学校が三十七年度にそれぞれ「名誉旗」を授与された(
小樽新聞
明38・2・4)。
新札幌市史 第3巻 通史3
(井田菊蔵と金田日出男)
なお、十一年六月二十七日の『
小樽新聞
』は、井田菊蔵の土工部屋で生まれた美談を報じている。
新札幌市史 第3巻 通史3
(北海道庁立札幌高等女学校の設立と良妻賢母主義教育)
らしめざる者あるべきに其事今に至るまで唯単に心ある人の話題に上るの外一人の率先計画するなきは遺憾」(
小樽新聞
,三十年には札幌区に札幌簡易医学校とともに札幌高等女学校の来年度設立が報じられたが(
小樽新聞
明30・7,・15)、北海道庁の財政上の理由から中止となった(
小樽新聞
明30・7・21)。 ,また、三十年の『
小樽新聞
』(明30・8・13)は「北海道の女子教育」と題する記事を掲げた。
新札幌市史 第3巻 通史3
(尋常科の授業料徴収制の実態)
不徴収制は「第三次小学校令」の公布以前の段階では、財政的に「痛苦の感を覚ゆべきは二三の都府に過ぎ」(
小樽新聞
,なるものは教育費の大なると共に其授業料は自ら一の財源をなし今俄かに之を全廃するは収入の上に甚だ苦痛」(
小樽新聞
,このように札幌区は段階的廃止論の立場に傾いていたが、それは「授業料全廃の区の学事経済に少なからさる影響」(
小樽新聞
,ちなみに、尋常小学校の授業料は函館、小樽の両区でも札幌区と同様に徴収した(
小樽新聞
明33・11・9)
新札幌市史 第4巻 通史4
(例言)
『市史』、『北海道毎日新聞』は『道毎日』、『北海タイムス』は『北タイ』、『北海道新聞』は『道新』、『
小樽新聞
,各自治体の統計書や町村勢要覧の類、『札幌市公報』などの公報、および『北海道毎日新聞』『北海タイムス』『
小樽新聞
新札幌市史 第3巻 通史3
(労働者懇親会と北海道労働組合)
樺太の新聞雑誌)、間もなく休刊となり、今度は札幌区に移転して翌年四月三日から再刊となっていたという(
小樽新聞
新札幌市史 第4巻 通史4
(三度の電車争議)
電車従業員の初任給 札幌 33円 大阪 60円 函館 45 名古屋 50 東京 55 京都 60 『
小樽新聞
新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌区の学齢児童の増加と初等教育機関の整備)
これに拍車をかけたのが区外から札幌区内に通学する児童の存在で、明治三十九年には四三〇人に達していた(
小樽新聞
,同校は唱歌室や裁縫室を設備し、「区内既設の小学校と比較して総ての設計優等」(
小樽新聞
明36・7・3),星菊太(北海道師範学校校長)の調査によると、札幌区の学級数に対する正教員の不足数は三人に過ぎなかった(
小樽新聞
新札幌市史 第4巻 通史4
(近藤兼市と私立札幌盲啞学校)
昭和五年五月二十五日付の『
小樽新聞
』の報道によれば、同校では校長の近藤をはじめとする一八人の職員が一五
新札幌市史 第2巻 通史2
(救助活動)
このため、同年九月十日付で北海道毎日新聞社、北門新報社、北海日日新聞社、
小樽新聞
社の四社が協力して義捐金募集
新札幌市史 第3巻 通史3
(戊申詔書)
『
小樽新聞
』(明43・5・21)に掲載された「戊申詔書と本道の施設」によると、札幌支庁では札幌村の勤倹会
新札幌市史 第3巻 通史3
(北海道支部の役員構成)
これらの役員のなかで、大島、藤井、中西、谷、富益の五人は政友会札幌支部のメンバーで、後に評議員もつとめた(
小樽新聞
新札幌市史 第3巻 通史3
(演劇運動の成立)
ついで明治四十二年の『
小樽新聞
』には次のような記事がみえる。
新札幌市史 第3巻 通史3
(製麻会社の共済会と「掖済事業」)
娯楽・慰安の施設設置と行事の設定、衛生と治療の施設・制度の整備などであった(北タイ 明42・4・28、
小樽新聞
新札幌市史 第2巻 通史2
(移住推進の団体・組織)
故に我社は執心に之を主張拡充す」のスローガンをかかげ、十月から上田重良(のちの
小樽新聞
社主)、橋本義知,北海道支部は二十六年四月に札幌におかれ、移住者の相談業務にも応じ、会員は二十七年に五一七人に達していた(
小樽新聞
新札幌市史 第5巻 通史5上
(平和の滝と盤渓の奥の院)
平和の滝に関しては明治三十五年の『
小樽新聞
』(明35・5・24)に、法華宗信者が修行していたことが報道
新札幌市史 第4巻 通史4
(公区の業務整備)
方法、事務連絡の進め方など運営の円滑化をはかり、市公報附録として公区通信を発行したり、北海タイムスや
小樽新聞
紙面
新札幌市史 第3巻 通史3
(製粉業)
製粉高の少量なるに由るも二は運賃高額にして外国輸入粉と競争する能はざるが為なり……」といわれていた(
小樽新聞
,その差は小麦生産費によるところが大きいとみなされた(
小樽新聞
明35・3・28)。,北海道内の鉄道運賃が高いことは「札幌産麦粉の外出を妨くると同時に米国産麦粉の内入を防禦するものなり」(
小樽新聞
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