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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場)

御手作場 御手作場は安政三年に庵原菡斎(いばらかんさい)の自費開墾場を箱館奉行所に移管したことに始まる,元幕府普請改役の菡斎は隠居の身であったが、竹内保徳箱館奉行に従う息子の勇三郎と共に安政元年箱館に来たり,よって箱館奉行所は箱館在の赤川村の内字石川沢に御手作場を設定して、弁之助にその開発を申し付けた。  ,家来新井小一郎、さらに同五年の磐城中村藩相馬大膳亮の家来新妻助惣・佐々木長左衛門・大友新六に対し、それぞれ箱館奉行所雇,なお、上記の在住、御手作場の外に、箱館奉行所の奨励により、各地の場所で場所請負人による開墾も着手され始
新札幌市史 第1巻 通史1 (ロシア産種子と牛の回付)

ロシア産種子と牛の回付 このような中にあって興味を引くのは、ロシア産の種子が箱館奉行所よりもたらされていることである,小麻の項には繊維を製する法を詳細に述べ、それは衣類の最上の織物となり、またこの古布をもって紙を製し、箱館奉行所,以上のようなロシア産種子は、蝦夷地に適合する寒冷地作物として、箱館奉行所の積極的な奨励によるものであったが,なおまた、箱館奉行所イシカリ役所より、同所備付けの牛、牝牡合わせて五頭を、イシカリ御手作場備付として引
新札幌市史 第1巻 通史1 (直場所の経営費)

表10のように、箱館奉行所が直接金銭で支出した五カ年の経費は二万三三三七両余で、うち一万七一八二両余は,これは全体の七三・六パーセントにものぼり、箱館奉行所の名で行われたクシュンナイ直場所経営は、事実上イシカリ,佐々木勝造は漁場取締役横山喜蔵に随ひ、金五千両を箱館奉行所まで携帯して納めたることあり。     ,小嶋源兵衛調役の時にして、文久二年十一月廿一日箱館奉行所へ納めたり(註 文久二年は荒井、尚石狩在勤)。,箱館奉行所の言ふ事を一々聞きては、何事も成し能はしとて、随分独断遂行せしこともありき。
新札幌市史 第1巻 通史1 (大友亀太郎)

これより先安政二年五月に幕府は、箱館奉行堀織部正の申し立てに基づき、蝦夷地の開拓仕法の定立を二宮尊徳に,新妻、佐々木、大友(新六)らは直ちに箱館奉行所によって在住に任命され、箱館近在に設定した御手作場の差配,にあたり、それに従う亀太郎も箱館奉行所雇として木古内御手作場の開墾に従事するが、同安政五年十二月十五日,亀太郎独力の差配により大野村移民四八戸・開田畑一〇〇町歩余を成しとげたのであるが、慶応元年(一八六五)に箱館奉行所,このような状況の中で、翌二年、前述のように箱館奉行所は新たな体制をもって改めてイシカリを中心とした蝦夷地開拓
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住制の停滞)

このことは、箱館奉行所自体がイシカリを政治的、軍事的に、またそれゆえに開発を目指しての要衝の地と位置づけながら,これは開拓の主体として案出された在住制の行き詰まりに起因するものであろうが、その背景には第一に、箱館奉行所,蝦夷地上地之儀ニ付見込大略申上候書付)などと、文化期の第一次直轄時代の蝦夷地経営費とは比較にならない現状を、箱館奉行,このような状況の継続の後、慶応二年(一八六六)正月に箱館奉行の小出大和守は蝦夷地開拓に関する上申書を提出,しているが、その中で「当地御用途之儀も方今追々見通し相付、御収納より御出方相減候に付」と、やっと箱館奉行所
新札幌市史 第1巻 通史1 (経営指針の提示)

慶応二年二月にイシカリ御手作場の差配を命じられた大友亀太郎は、直ちに同月、開墾取扱掛の職名をもって箱館奉行所宛,そしてこれらに対する指示・回答が、小出箱館奉行に伺い済みの上、箱館奉行所調役最上徳内を通じて一括して達,以上の三項を大友は開陳しているが、これらに対し箱館奉行所は次のような指示を与えている。
新札幌市史 第1巻 通史1 (山田家の難儀)

山田家の難儀 その後の両者の交渉は表3を見ていただくこととし、五月二十五日箱館奉行所は次の決定を山田家,③  出稼所のうち、イシカリ場所の鮭荷物は、イシカリで積み込み箱館へ廻送しなければならない(箱館奉行所,箱館奉行所は東蝦夷地出産の鮭について直䑺を認めていたからである。,表-3 安政3年 山田家出稼荷物一件日次表 月日 山田家等 箱館奉行所等 1 19 奉行より老中へ、
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの開発)

箱館奉行も「蝦夷地ハ御国内之藩屛、殊ニ外国え接壤致し居候ニ付、万一之義有之候節、御国惣体之憂ニ相成候」,このような中にあって、西蝦夷地のイシカリは、つとに箱館奉行所においても注目するところの地であった。,場所請負人として差配していたが、その不都合な場所支配が明白になったことを契機に、安政五年(一八五八)箱館奉行所,、諸商売等為営候ニ付、永住人数も相増候儀ニ有之」と、文久二年(一八六二)の段階でのイシカリの状況が、箱館奉行
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場の導入)

御手作場の導入 慶応二年(一八六六)二月一日に在住の関定吉ならびに大友亀太郎は、箱館奉行所より次のような,伺之上申渡候(達願御用留 大友亀太郎文書―以下『大友文書』と略記)  すなわち、蝦夷地の開拓に関しては、箱館奉行所,さきの箱館奉行小出大和守のイシカリ開拓の要請は容認され、直ちに右のような命令が発せられたものとみられ、
新札幌市史 第1巻 通史1 (八幡宮の勧請)

箱館総社八幡宮神主菊池大蔵(出雲守、重賢)は、箱館奉行所に対し、イシカリに八幡宮の末社を勧請することを,ただし、この位置の指定はすでにこれ以前に箱館奉行からなされていたようである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (山田家の出稼)

川口西方、エベツブト近くのホリカモイ、千歳川筋の三カ所で新たに引場を開設することが阿部屋と話し合われ、箱館奉行所,ここで注意したいのは、これにともなう冥加金五〇両が運上金に上積みされ、阿部屋を通して箱館奉行所に収納されたこと
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロ調査)

二回目は安政三年(廻浦)であるが、この時は前年の暮に箱館奉行所雇に任用されており、蝦夷地の幕府直轄に基,づき西蝦夷地と北蝦夷地の請取を命じられた箱館奉行所支配組頭向山源大夫の手付として参加した。,石狩川上流の諸河川調査の折、五月に石狩川に沿いサッポロを検分、さらに上川よりイシカリへ一旦帰着後、閏五月堀箱館奉行
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住制の成立経過)

安政二年四月の箱館奉行から老中あての伺に、在住対象者は五〇〇石以下御目見以上(将軍に謁見できる家格)、,以下とし、かつ箱館奉行所役人の定員外とし、さらに御手当扶持および御手当金を元身分に応じて支給することが,ついで同年七月の、箱館奉行からの伺に基づいて、元身分に応じた在住手当・引越料等が定められ、開墾地の付与等
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリへの情報伝達)

それは箱館奉行所を通じてイシカリ役所にもたらされ、さらにイシカリ役所から管内の詰合や在住に至るまで廻状,旧幕府側のものとして、例えば明治元年三月五日に箱館奉行所が手中にした目付から遠国奉行衆にあてた触書には,また杉浦旧箱館奉行も、明治元年三月二十一日の達で、支配向一同に対し以下のように指示している。,引き続き箱館裁判所権判事井上石見と同岡本監輔の連名による、杉浦旧箱館奉行あての次のような書付が、イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (請負体質の弛緩)

請負体質の弛緩 なぜ、箱館奉行はイシカリ改革を行おうとしたのだろうか。,商人の常として、藩や箱館奉行所に、おおいに儲かっていると吹聴はしなかったろうが、請負人をやめさせられるような,幕府の第二次直轄以来、西蝦夷地海岸への出稼人は急増し、箱館奉行所の積極的な出稼奨励策は、円吉一派の独立志向,安政五年箱館奉行所からイシカリ番人たちへの申渡し書によると、主人の為筋を心がけず、自分の利欲に迷う不正
新札幌市史 第1巻 通史1 (勝右衛門のその後)

、ミツイシ、シツナイ、ウラカワ、サマニの八カ所を請負いたいと願い出、だめならば五カ所でよいと言うが、箱館奉行,慶応元年箱館奉行所への願書には、肩書きに〝水戸大津浜〟の住人とあり、水戸藩への願書に〝石狩新場取開人〟
新札幌市史 第1巻 通史1 (事務の引継)

事務の引継 かくして箱館裁判所総督清水谷公考は明治元年閏四月二十六日に箱館に着し、翌日杉浦旧箱館奉行,かくして旧箱館奉行所のイシカリ役所においても、七月に箱館裁判所より参事井上弥吉ほか附属三人がイシカリへ
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政の大獄)

その後、水戸藩は反幕府運動の中心的存在となっていくから、幕府直轄地であり、しかも箱館奉行所の直捌地である
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地での活躍)

第四回目は、安政三年(一八五六)であるが、この前年に蝦夷地は再度幕府直轄領となり、武四郎はその年十二月に箱館奉行所雇,三月二十九日箱館奉行所支配組頭の向山源大夫の手付として箱館を出立、イシカリより石狩川をたどって内陸に入
新札幌市史 第1巻 通史1 (沖の口体制)

松前藩の抵抗で全蝦夷地の荷物改めを断念した箱館奉行は、安政三年二月「東地の分、都て箱館にて諸事取扱、西地,すなわち、東蝦夷地の荷物は箱館で船改めをして役銭を徴収し、箱館奉行所の歳入とする。
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

「石狩御場所御引渡之節於彼地書上之扣」は安政二年(一八五五)幕府の蝦夷地直轄に際し、村山家が箱館奉行所,「石狩改革一件」は、長年つづいた場所請負制の廃止とそれにかわる新政策の遂行状況を、箱館奉行所や石狩役所
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロと水戸藩)

一斉に蝦夷地調査を始める安政三年、斉昭は逆に内願はもとより警衛開拓の建言さえ差しひかえ、江戸で在府の箱館奉行,水戸藩の推挙により箱館奉行所の雇に採用され、安政三年から五年にかけて全島調査を続け、イシカリの歴史に大,後述の勝右衛門も藩との恒常的な文通の中で、箱館奉行所吏員の往来、その世評、外国船の去来、交易等を毎便書
新札幌市史 第2巻 通史2 (箱館裁判所の設置)

箱館においても、その開港要務に当たると共に、直轄領とした蝦夷地の支配をも行使するため設けられていたのが箱館奉行,そして翌日旧箱館奉行の杉浦勝誠より政務を引継ぎ、五月一日に箱館裁判所を開庁したのである。  ,この蝦夷地全面の政務引継により、石狩に置かれていた旧箱館奉行所のイシカリ役所も、同年七月に引継を完了し
新札幌市史 第1巻 通史1 (開発方御用取扱)

喜三郎はこの前年、箱館奉行所から何かの仕事を与えられた。,箱館奉行所の〝御用達〟を肩書きにし、「越後新潟金四郎、喜八、イシカリ場所漁業出稼、且土地開発方被仰付」
新札幌市史 第1巻 通史1 (カラフトへの足場)

松川弁之助とその一統、山田文右衛門、米屋喜代作等に開拓させ、クシュンナイを中心とする西海岸の前進基地は箱館奉行,-17 カラフトを調査する佐倉藩士(北蝦夷画帳の内)  イシカリ改革にともない、イシカリ場所は箱館奉行,イシカリ直捌との違いは、出稼人への仕込みまで箱館奉行所の名で行ったこと。
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政三年の調査)

このイシカリ勤番所には、箱館奉行所の調役並、下役、雇医師、同心、足軽の各一人の計五人の幕吏が勤番している,五月八日、隊長の箱館奉行所支配組頭向山源大夫、手付松浦武四郎、イシカリ詰合下役立石元三郎にイシカリ番人
新札幌市史 第1巻 通史1 (農民扶助の内容と方法)

箱館奉行所において決定をみているイシカリ開拓の年間予算総額は三〇〇〇両であるから、これをすべて農民移住扶助,ところで右の大友の取調書に関して、箱館奉行所は疑問を提示してその回答を求めているが、それに対する大友の
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの機能)

北蝦夷地における日露の関係が緊迫化するにつれ、箱館奉行所のイシカリ役所は北蝦夷地をも管掌するところとなり
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ酷使と私曲)

-3 阿部屋の場所請負罷免の請書写 (滋賀県立短期大学蔵西川家文書の内)  蝦夷地を直轄し、箱館奉行所
新札幌市史 第1巻 通史1 (水野一郎右衛門の在住への降格)

儀三郎はもと表火番で、安政二年十月十七日に箱館奉行所の支配調役並出役となり、三年三月にスッツ詰となった,一郎右衛門への処置は、場所詰役人に対して綱紀粛正と精勤をもとめる、箱館奉行のきびしい姿勢のあらわれであった
新札幌市史 第1巻 通史1 (産物会所とのつながり)

場所請負人との妥協で成り立つ第二次直轄経営ではあるが、たとえ箱館奉行所が蝦夷地の場所を直捌としても、出産物
新札幌市史 第1巻 通史1 (稲荷丸と山田家出稼荷物)

蝦夷地の幕府直轄にともない、箱館奉行所はそれを取り消してしまった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (運送と通信)

通信は、主に箱館奉行所と各場所詰役人間の御用状の伝達や物品の伝送であった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (移住の自由)

移住の自由 イシカリ改革は長年の場所請負制を廃止し、それに代わる直捌を柱とした箱館奉行による土地住人,まず、箱館奉行は、請負人が強く抵抗してきたイシカリにおける和人の定住を許し、出稼を積極的に奨励することにした,四月十三日、阿部屋のほか五人へ、表1のように箱館奉行所で申渡しがあった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政五年)

これにともない箱館奉行はイシカリ役所にその土地と住人を直接掌握支配させることにして、直捌制を導入した。,その四年後、文久二年(一八六二)箱館奉行所において編纂した『蝦夷地御開拓諸取扱向手続荒増(あらまし)申上候書付
新札幌市史 第1巻 通史1 (林木の保護)

安政三年七月、箱館奉行所は伐木制限を打ち出し、イシカリ役所の許可なしに木を切るのを禁じた。
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

安政五年(一八五八)尊徳門人新妻助惣(奥州相馬藩)に随い箱館に来て、箱館奉行所付木古内新開場掛に雇われ,・(29)、「御扶持被下高御扶持請取高共調書上」(33)を除き、大半は大友亀太郎自身が起草し、同時に箱館奉行所,二文書で、前記の『二 開墾入用請払書上帳』のうち、慶応二年分と慶応三年分の施行事業ならびに収支決算を、箱館奉行所石狩詰調役樋野恵助
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ役所の創設)

経費については、箱館奉行所の蝦夷地御入用金からの支出を申請している。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロの検分)

、水戸領内の物産(粉コンニャク、茶等)を箱館からアメリカ、ロシア、中国等に輸出することはできないか、箱館奉行所,ツイシカリからエベツブトにかけてのこうした調査は、箱館奉行の思惑と示唆が背後にあったと思われる。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (夷境の一都会)

にとまどうが、旅するうちに深い理解を示すようになり、イシカリ庭中鶴の巣籠りの舞や酒を酌交す作法に心服し、箱館奉行所
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロ大府への展望)

古くは近藤重蔵より、先述したごとくに箱館奉行所のみならず幾多の幕吏・藩士らが、この地域に大きな関心をいだいていたのであった,なおそれをツイシカリの乙名ルピヤンケならびにサッポロの乙名モニヲマにも再三ただした上で、竹内、堀、村垣の三箱館奉行
新札幌市史 第1巻 通史1 (大友亀太郎のサッポロ選定)

このイシカリ御手作場はすでに前章で述べられているように、慶応二年(一八六六)箱館奉行所の強い意向のもとに
新札幌市史 第2巻 通史2 (本府建設とアイヌ労働)

本府建設とアイヌ労働 明治初年の札幌は、幕末においてイシカリ役所と箱館奉行所あるいは各場所詰役人間の
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所運営の手抜き)

また、箱館奉行所雇松浦武四郎は上川からの帰途ツイシカリ通行屋に一泊を申し出たが、元小家から連絡がないので,当時、阿部屋の不手際として箱館奉行から強く指摘された一つに、銭箱~トヨヒラ~千歳を結ぶ内陸道路開削の粗雑
新札幌市史 第1巻 通史1 (漁法の工夫)

常陸地方で江戸時代前期から鰯(いわし)漁に使っていた八坂網(はっさかあみ)を持ちこもうとイシカリ役所と箱館奉行所
新札幌市史 第1巻 通史1 (大津浜グループ)

水戸藩は江戸邸が窓口になり、在府の箱館奉行やその下僚と折衝をつづけた。,箱館奉行所では組頭力石勝之助が勝右衛門に会い、エトモ、ホロベツ場所請負を希望するのなら、直接恵比寿屋に
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地警備と「在住」の任用)

結局、原半左衛門がたまたま文化元年(一八〇四)、箱館奉行支配調役に組み入れられた後、手付の者も地役御雇,えられていくこととなり、同四年の西蝦夷地の直轄後は、「以来は御宛行二十俵弐人扶持被下同心と唱へ抱入申たく」と、箱館奉行同心,いまひとつ幕府が蝦夷地直轄後、あらたに箱館奉行所の組織のなかに任用した身分に「在住」がある。,箱館奉行では、文化四年、「在住」五〇人必要を主張、「小普請、御普代之内より差遣わし、尚不足之分ハ諸向御抱席
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場の性格)

以上のような御手作場も、その採用にあたって箱館奉行所は必ずしも積極的ではなかった節がみられる。
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

安政五年(一八五八)石狩改革にともない、箱館奉行所は彼に出稼として鮭漁場を割り当て、石狩川筋江別より上流域
新札幌市史 第1巻 通史1 (阿部屋のその後)

あわてた阿部屋は松前藩の口添を得て箱館奉行所に願い出、翌元治元年引場と本陣守を再び許されるという混乱をみせた
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