• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 31件
辞書ファセット
/ 1ページ
新札幌市史 第1巻 通史1 (秋味の請負)

秋味の請負 イシカリ川における秋味、すなわち「生鮭」交易の権利は、前述したように藩主に属しており、後述,元禄年代(一六八八~一七〇三)にすでにみられた、秋味交易の権利を特定商人に請負わせる方式は、次の正徳年代,「石狩秋味両艘百五拾両一ケ年被仰付」(万永代覚帳 元文五年)といった記述がみられるようになる。,イシカリの秋味請負の方式が、まとまった大きな金額の請負へと変化する傾向にあったのかもしれない。,表-1 西川伝右衛門家のイシカリ秋味船 年 運上金 秋味船 享保18   両 139 (6軒共同)      / 秋味の請負
新札幌市史 第1巻 通史1 (商人の秋味船)

商人の秋味船 また元禄期には藩主直轄の交易地に商人が運上金を納めてアイヌと交易する商船を出していた。,これら藩士の監督下にある商人の運上秋味船は、イワナイのカンニンコルが弘前藩士に語ったように、勝手に網をおろし,鮭を自由に取っていたとは考えられないが、アイヌとどのような取引をしたかも不明である。,快風丸は塩を持参してきて、鮭一万本ほどを塩引にして積み帰っている。  ,享保二年(一七一七)の『松前蝦夷記』を見ると、藩主から特に許された大川の秋味鮭は、需要も増しており、季節 / 商人の秋味船
新札幌市史 第1巻 通史1 (網漁法の導入と塩引鮭)

網漁法の導入と塩引鮭 この時期において、もっとも目立った変化は、秋味漁における網の導入である。,文化四年(一八〇七)、ちょうど秋味漁の季節にイシカリを通った幕府吏員田草川伝次郎の『西蝦夷地日記』にも,尤秋味積入前は夷人の外は決て不相成。,このような、秋味漁の網の使用については、同行した近藤重蔵も、見逃してはいない。,)とあることから、いかに秋味漁での網の使用が多かったかが知られよう。 / 網漁法の導入と塩引鮭
新札幌市史 第1巻 通史1 (商品流通にのった鮭)

天明元年(一七八一)、松前藩では、小林屋宗九郎の公訴をなんとか内済に持ち込むために、「石狩秋味惣船十五艘天明元丑年,すなわち、藩主直場所であるイシカリ秋味漁の経営を、借金の引当に請負わされたことになる。  ,小林屋は、『産物方程控』によれば、天明元年より秋味石高一万二〇〇〇石を一手に請負っていたが、手が回り兼,ちょうど、イシカリ夏商場所の運上金が増大したように、秋味漁においてもこの時期に大きな変化がみられた。,表-8 天明6年頃松前蝦夷地塩引鮭見積高 鮭漁場 石数 疋数 イシカリ川 30,000石 150万疋 / 商品流通にのった鮭
新札幌市史 第1巻 通史1 (役鮭)

役鮭 イシカリ役所が網持出稼人に課した現物納の営業税を役鮭と呼ぶ。,これは改革が役鮭の確保を重要課題にしたことを物語り、イシカリ改革の理想と現実の差とみなされよう。  ,役鮭八カ条(市史一二五頁)は、並の大きさの鮭を塩引きにして納めるよう定めたが、出稼人の負担が大きすぎるとし,ではどのくらいの役鮭(御手料場分を含む)が改役所に収受されたのだろう。,村山家資料『石狩秋味鮭惣引高幷歩訳共調子扣』による / 役鮭
新札幌市史 第1巻 通史1 (鮭漁の発展と変わる漁法)

イシカリ場所経営は、前述したごとく疱瘡の流行による人口の激減といった事態が生じ、文政元年(一八一八)秋味運上,半減された運上金は、天保二年(一八三〇)には、全部で一〇〇〇両に切り下げられ、秋味が五〇〇石以上とれた,表3に示したのは、安政二年(一八五五)段階のイシカリ秋味漁場での糸大網引場・網数である。,表-3 安政2年イシカリ秋味漁場糸大網引場・網数 糸網引場 網数 糸網引場 網数 ①海岸     1,表-4 安政2年イシカリ秋味漁場アイヌ榀網(自分網)引場・網数 網引場 網数  ①ワッカヲイ 11統   / 鮭漁の発展と変わる漁法
新札幌市史 第1巻 通史1 (熊野屋菊池忠右衛門)

明和二年(一七六五)、南部の山師熊野屋菊池忠右衛門は、福山城の表御門などの普請費用の引当としてイシカリ秋味跡買添船四,この秋味跡買添船というのは、イシカリ場所の一年間の商のうち、夏商、秋味、秋味跡買、秋味跡買添船、鱒といった,これにより、熊野屋は、イシカリ切囲と秋味跡買添船とを安永八年(一七七九)に取り上げられるまで継続している,ここでいう切囲とは、『松前産物大概鑑』によれば、秋味漁期に、網引場で直接船で買い上げて塩漬けにする塩引,熊野屋が、安永八年、イシカリの鮭切囲と秋味跡買添船の両方の権利を取り上げられたのは、次に述べる南部屋浅間嘉右衛門
新札幌市史 第6巻 史料編1 (〔村山家資料〕)

夷人より買入物幷売渡物直段書  安政二年乙卯四月 船皆具家木薪伐出しヶ所地名 年中漁業手配方仕来書幷秋味糸網夷人榀網員数書,当卯年鯡場出稼番人夷人名前書幷鯡網員数書  文化十一戌年 文政元寅年 御用通諸品直段定帳   場処境小名里数 秋味鮭漁業高見込, 〔御通行御用状譴之御人足 日々雇土人介抱書上 覚〕  〔春鯡出稼ヶ所幷人数書上 覚〕  〔秋味鮭漁場
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地見回りとイシカリ場所)

2.秋味は領主直場所で積石高6,500石ずつ、栖原屋引請。,田草川ら一行が通ったイシカリは、ちょうど秋味漁の最中で、弁財船一五、六艘が川の中に繫いであり、川端には,イシカリは、鯡(にしん)のほか鮭が中心で、秋味はすべて藩主直場所で、石高にして六五〇〇石ずつ、年々栖原屋,栖原屋は川や浜でとった秋味を直接アイヌと交易するようになっていて、各場所の請負人たちは一向に手出しができない,アイヌが、船に秋味を荷物として積み込んでしまったあとは、どこでも自分稼の秋味漁が自由で、助け合って食糧
新札幌市史 第1巻 通史1 (東寗元稹のみたイシカリ)

イシカリ[夷百軒余、運上屋十一軒]蝦夷地秋味大猟の所、三、四十年以前には、十二はひ程有しが、近来不猟と,一ぱひと云は、千石積一艘の事にて、鮭の数五万本也。イシカリ川、大河にて、千石余の船も岸によつて繫ぐ。,このように、イシカリにはアイヌの家が一〇〇軒ほど、運上屋が一一軒あって、秋味漁もかつては一〇〇〇石積一二艘分
新札幌市史 第1巻 通史1 (疱瘡の犠牲)

運上屋が、すでに天明年代(一七八一~八八)から軒をつらねており、このほかに、弁天社、板蔵、茅蔵、切囲(鮭を,ところが、文化十四年の場合、多くの働き手を失ったことから、秋味漁にすぐさま影響をおよぼした。,尤秋味鮭運上金弐千弐百五拾両之内千百弐拾五両、十三ケ場所夏場運上金六百七拾八両永百七拾五文之内三百三拾九両永八拾七文五分,六百拾六両弐分永百六拾六文七分上納可致   寅九月(村山家資料 道開)  これにより、阿部屋は、「秋味鮭運上金,猶又行衛為相尋番人共差遣飯料其外手当等為致候得共、右逃去候者とも迚も於山奥押なへて死亡仕候儀ニて、去丑年秋味漁之儀
新札幌市史 第1巻 通史1 (雇の実態と代償)

現在の札幌市域に包括されるアシリベツ、コトニ、オソウシ辺には、秋味漁が終了した時点で番人がそれぞれの番屋,秋味漁の場合はどうであろうか。,しかも、この秋味漁に従事した労働人口は、第二次幕府直轄直後の安政二年の場合、和人網引場一九カ所で三五七人,このような雇の場合、必ず「介抱米」五合、鯡、干鮭などが支給された。,また冬期の千歳川の場合、賃米六升と鯡・干鮭の類と出入時に定式濁酒と決まっていた。
新札幌市史 第6巻 史料編1 (件名目次)

八坂網調査の書状(年不明五月一〇日)    六 漁場経営策につき書状(万延元年五月九日)    七 秋味漁入用金,簡   二二 道普請の廻文(同年七月)   二三 馬草刈取の廻文(同年七月二八日)   二四 秋味漁業取調参集,(同年六月)    八 上トウヤウス鮭網二統建の届(同年六月)    九 シノツブト秋味引場返上願,同年八月)   二二 小商渡世願(同年八月)   二三 大工渡世永住願(同年八月)   二四 秋味他密売買禁止,触(同年七月)   四六 西会所割渡請書   四七 地所上地再割渡請書(同年七月)   四八 秋味引場拝借願
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所請負漁業の終末)

終末 イシカリ改革は漁業のあり方を直接変革しようとするものでなかったとはいえ、イシカリの生産基盤が鮭漁,② 秋、イシカリで鮭漁をする。 ③ イシカリアイヌが生産した干鮭の集荷をする。  ,その鮭漁はどのようになされていたのだろう。,『秋味漁業手続アラ増』(石狩場所請負人村山家記録の内)『漁業手配方仕来書 上』(新札幌市史第6巻31頁,軽物 秋味鮭代 5,846 68.6 8,786 73.8 2,924 51.2 3,088 48.2
新札幌市史 第1巻 通史1 (商場ちよまかうた)

寛文年次以前の御手船によるイシカリの商物については明らかでないが、干鮭、獣皮など取引の夏船のほか、秋味塩引,の鮭船が出ていたことは『津軽一統志』などによって理解できる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (鳥屋場から商場知行へ)

商場となると知行主は米、酒、煙草類とアイヌの獣皮、干鮭などとを交易する夏商船を出していたわけだが、ただ,秋味船は藩主の権利に属していた。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所の出産物)

まず海産物では、魚油、干鮭(からさけ)、鯡切込(にしんきりこみ)、身欠鯡、鮭鮓、数子、白子、串貝、干鱈,、鮭塩引、筋子、鮭披、鮭切漬の類である。,10束、筋子2斗入5樽、鮭披10束、椛皮20束、鮭切漬5樽 下カバタ 干鮭15束、鯡鮓2斗入2樽、鯡切込,元文四年(一七三九)の『蝦夷商賈聞書』では、「干鮭沢山」と、干鮭が第一であったが、天明末~寛政初年の『,松前随商録』では、「鰊、干鮭、鱒、梠縄、椛皮、鷹、鵰、鷲之羽、隼、熊胆、雑魚、秋味之類」という具合に、
新札幌市史 第1巻 通史1 (直䑺)

この特例は改革前から東蝦夷地出産の鮭を江戸や水戸藩那珂湊等へ送る場合に認められ、安政二年奥州諸藩が蝦夷地警衛,写真-8 平潟港(北茨城市)に入津した秋味船  直䑺による場合、イシカリで出荷物改めをして船役銭,また、改革により直捌となったので、イシカリ役所で使用する物品を運んだり、イシカリの役鮭を積み入れるために,出向く船からは役銭判銭を徴収しないことにし、役鮭を積んで入港した時の入口銭も免除とする。,こうした直䑺、沖の口税免除とともに、江差からイシカリへの大型船による出稼と鮭積出しの許可、帆待荷物の明文化
新札幌市史 第1巻 通史1 (集約化されるアイヌ労働)

それによればシママップ場所はむかしより五場所の合場所であり、海浜の漁が終わると、五場所のアイヌが干鮭とりにやってくるところであった,③鯡漁・秋味漁への労働力の集約  アイヌを、さらに場所外の労働へと押し出す原動力となったと思われるものに,秋味漁においてはどうであったろうか。,この時期の秋味請負のかたちは、前述したように、夏商、秋味請負ともに同一請負人が請負い、おまけに網の導入,又秋味漁事ヨリ引続永住ノ者モ有之。
新札幌市史 第1巻 通史1 (阿部屋の漁業経営)

図-4 改革前後の阿部屋の収支  収入をみると、改革前後で秋味鮭代の占める割合が大きく変わったことが
新札幌市史 第1巻 通史1 (御救交易)

イシカリでの御救交易の状況については、串原正峯の『夷諺俗話』に、「今年イシカリ川にて鮭漁御用交易ありしか,イシカリ 此川幅凡百弐拾間程秋味之頃ハ大船数艘往返仕候。,した一行は、イシカリ平野とイシカリ川の発見とともに、田畑に適した肥沃な土地あるいは、イシカリ川の豊富な秋味
新札幌市史 第1巻 通史1 (商場知行)

した記録を載せる『津軽一統志』によれば、知行主の積む交易品は、米、古手綿類を主とし、西蝦夷地からは干鮭(,東蝦夷地からは干鮭、干鱈、熊、鹿の皮、真羽、らっこ皮、鶴、鯨、塩引、鮭、赤昆布、魚油などがもたらされたとある,商場に毎年派遣される藩主の船数は「上の国之三十六、七、下の国之三十五、六此外に鮭船」(津軽一統志)とあるが,夏船は干鮭、毛皮類、数の子などの取引を主としていたが、のちに秋味、鱒、海鼠(ナマコ)などに新漁業を起こしたという
新札幌市史 第1巻 通史1 (出稼の諸相)

尤も平常は漁業なき処故、鰊時の如きは鰊場に赴き(但し人足を勤むるものを残し置く)、秋味時に帰り来る有様,また、鮭漁でにぎわいはじめる安政五年八月十一日、勝右衛門が浜名主として市中に廻文した一節には次のように,然に近年西蝦夷地不漁の場所も多(く)有之候に付、親妻子為介抱の秋味出稼に罷越候所、此節七百人余も相集り,、仍て是迄の通雇方給代の儀は、六月より秋味仕舞迄入込候由。,この中にも時季的に鮭漁とかかわった人は多かったであろう。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの機能)

(竹四郎廻浦日記) さらにこの石狩場所は蝦夷地において有数の鮭漁の地であったが、その運上金は金二二五,〇両、夏場秋味金一〇〇〇両におよぶと記している(再航蝦夷日誌)。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (大内清右衛門の偵察)

東蝦夷地直轄以後は、幕府による漁場開拓が盛んとなり、太平洋沿岸航路(東回り航路)の発達とともに蝦夷地産の塩鮭、,写真-2 天保12年那珂湊御船蔵(那珂湊市蔵)  ところで、イシカリ場所の鮭がどのようにして仙台,ロシア人のカラフト、千島襲撃事件の際、水戸藩より箱館まで派遣された秋葉友衛門等によっても、イシカリ場所の鮭は,、「秋味ノコト石カリ極上也。
新札幌市史 第1巻 通史1 (図版・写真・表組一覧)

写真-3 安永3年の銘のある手水石 石狩町金龍寺 (404頁)   表-1  西川伝右衛門家のイシカリ秋味船,・網数 『村山家資料』(新札幌市史 第六巻)より作成 (528頁)  表-4 安政2年イシカリ秋味漁場,イシカリ湾 佐波銀次郎『北遊随草』 (安政4年) (767頁) 写真-8 平潟港(北茨城市)に入津した秋味船,と引網数 『秋味漁業手続アラ増』(石狩場所請負人村山家記録の内)、『漁業手配方仕来書上』(新札幌市史 ,漁獲高・役高 村山家資料『石狩秋味鮭惣引高幷歩訳共調子扣』より (791頁)  表-8 ユウフツ場所からの
新札幌市史 第1巻 通史1 (田草川伝次郎)

折々鮭漁小屋あり。是はイシカリ川口よりサツポロ迄之間川丈け百里余之蝦夷集り鮭漁の所のよし。,秋味荷物積出し夫より銘々食料を取干上げ追々本宅へ戻る。此節もいまだ漁小屋に居るものも有之。,皆鮭漁せる様子にて鮭多く竿に掛て置。,一  産物   干鮭  七万束 五百束二、三万束又去々年は八千束位至て不同の由。   
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政五年の調査)

〈トイヒラ〉秋味漁小屋一軒あり。,当地の在住やオタルナイ辺への出稼の者たちの鮭漁を禁ずるものである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)

    一 イシカリの知行所持        知行所の宛行 鳥屋場から商場知行へ     二 秋味船請負,       藩財政の窮乏 家臣の秋味船 商人の秋味船   第二節 場所請負制の成立と十三場所…,390     一 享保・元文期        イシカリ「場所」と鮭 秋味の請負 十三場所と夏商,復領の申渡し 知行と勤番 アイヌ支配の構造     二 復領下のイシカリ場所経営        鮭漁,改役所の設置 新漁場の割渡し     二 漁業経営の多様化        漁獲高 漁法の工夫 役鮭 
新札幌市史 第1巻 通史1 (玉虫左太夫『入北記』(カラフトへ向かう))

サテ此ハツサフ川ハ小川ナレトモ深フシテ秋末(味)鮭数多ナリシカ、当節ハ只コウホネ、菖蒲ノミ生シ居ル。,此場所ハ、秋味ノミ故、秋ニナラサレハ出稼人来ラサルナリ。,上男一人ニ付 夷俵 七俵向 中男一人ニ付 同 六俵弐把 下男一人ニ付 同 六俵向  〆 一  秋味引場普請手宛給料左,ツイシカリフト番家守一ケ年手当給料 夷俵 十俵向 一  シマヽツフト番所守一ケ年手当給料 夷俵 十俵向 一  秋味糸引網雇蝦夷人手当給料幷,    土人給料幷交易ノ価調書 一  春給料 上造米 十八俵 中同 十七俵 女ノ子 十俵 一  秋味給料
新札幌市史 第8巻2 年表・索引編 (出典一覧(明治以前))

御雇医師・同並明細短冊(道文蔵) 212  荒井金助事蹟材料(道文蔵) 213  村山家資料「石狩秋味鮭物引高並歩訳共調子控
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました