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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ社会の形成)

アイヌ社会の形成 英雄ユーカラのテーマの時代は擦文期後半のアイヌ社会で、その成立期は一四世紀以降、近世以前,本州との、加えて沿海州との交易の拡大はアイヌの狩猟、漁撈、採集の生活を強化し、一面もたらされたアイヌにとっての,の変化の中で、熊祭りに代表されるアイヌ文化特有の諸宗教儀礼の精神文化が形成されてくる。,したがって中世のアイヌ社会は擦文文化期と異なる新たなもの、すなわち、アイヌ民族社会の形成期であった。,この民族形成過程の中でアイヌ民族の叙事詩「ユーカラ」がつくられてきたものと思われる。 / アイヌ社会の形成
新札幌市史 第5巻 通史5下 (「全国アイヌ語る会」)

「全国アイヌ語る会」 四十八年一月二十一日、札幌市内で「全国アイヌ語る会」が初めて開催された。,札幌在住のアイヌ民族による実行委員会(砂沢ビッキ代表)が「アイヌウタリが地域や組織を越えて話し合い、われわれの,また、三月三日には、「アイヌ解放の夕べ」(結城庄司代表)も札幌で開催されるなど、アイヌ民族問題を巡って,そのような機運の中、札幌でアイヌ民族の若者たちによる月刊新聞『アヌタリアイヌ―我ら人間』(アヌタリアイヌ,刊行会)が、「アイヌとは何か、自分がアイヌであるとはどういうことか、自分たち自身でアイヌ問題を考え解決 / 「全国アイヌ語る会」
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリアイヌの入会権)

イシカリアイヌの入会権 かたや千歳アイヌのイシカリ川筋での漁、かたやイシカリ川筋のアイヌの千歳川筋での,それでは具体的に、イシカリ川筋のアイヌが千歳川筋に有したそれは、どのような経緯で成立したのだろうか。,上ツイシカリの惣乙名シレマウカは、『由来記』によれば、元来は千歳アイヌ系であるという。,へ干鮭(アイヌの越年食糧)取りに行くことを誘われた。,これらは、すべて千歳川筋アイヌとの入会漁業であった。 / イシカリアイヌの入会権
新札幌市史 第1巻 通史1 (北方領土問題とアイヌ)

この領土問題の中で、アイヌの向背が重要な位置をしめていた。,当時、日本ではアイヌを日本の付属民と認識し、アイヌが居住する地域を日本領土と考えていたからである。,それは逆に、アイヌがロシア側に好意をよせることは、アイヌ居住地域がロシア領土にかたむくことを意味していた,アイヌの「撫育」が必要とされたもう一つのおおきな理由は、場所請負制によるアイヌ民族の衰退、アイヌ社会の,そのためにアイヌの人口は大幅に減少し、アイヌ社会の存立基盤も危機的状況をむかえていた。 / 北方領土問題とアイヌ
新札幌市史 第5巻 通史5下 (アイヌ新法制定へ始動)

アイヌ新法制定へ始動 アイヌ民族問題を根本的に打開していくためには、従来の法律を廃止して新法を制定しなければならないといった,昭和四十九年一月十九日社会党アイヌ民族特別委員会(川村清一委員長)では、アイヌ民族政策を発表し、「旧土人保護法,五十九年三月五日、道ウタリ協会で「アイヌ民族に関する法律(案)」がまとまり、同年五月二十七日札幌市内で,これ以後、同協会ではアイヌ新法制定特別委員会を開催、「アイヌ民族に関する法律案」を早急に実現するように,で開催、「アイヌ新法」制定実現などを目指し会員の団結・協力を確認、『アイヌ史』編纂事業の七カ年計画を開始 / アイヌ新法制定へ始動
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリアイヌの流散)

イシカリアイヌの流散 イシカリ場所を支えたのは豊富な鮭であったが、さらにそれ以上に実はアイヌの人々の,鮭はアイヌにとり石狩川の自然の恵みであり、貴重な食料源であると同時に交易品であった。,食料、日常品など主要なものは、漁場の労働か交易に依存する状況となり、アイヌ社会の生活基盤が失われつつあった,逆にアイヌの労働者の排除を惹起する結果となった。,また、開墾地の拡大にしたがい、アイヌは土地を追われることとなり、かつて隆盛をほこったイシカリアイヌが、 / イシカリアイヌの流散
新札幌市史 第5巻 通史5下 (民族教育とアイヌ史編纂)

民族教育とアイヌ史編纂 アイヌ民族に対する誤解・偏見・差別観をまず解いていくといった基本的なことから,たとえば、「ヤイ・ユーカラ(自ら行動する)アイヌ民族学会」では、昭和四十八年から観光バスガイドたちを招,道ウタリ協会では、これまで既存のアイヌ民族関係出版物は多いもののアイヌ民族にとって不満が多かったことから,アイヌ民族自身の手で『アイヌ史』の編纂を計画し、北海道民生部に補助金を要請してきた。,こうして編纂がすすめられた結果、道ウタリ協会アイヌ史編集委員会では、六十三年度から刊行開始し、『アイヌ / 民族教育とアイヌ史編纂
新札幌市史 第2巻 通史2 (アイヌの聚落と戸口)

アイヌの聚落と戸口 札幌に開拓使の本府を建設しようとした明治初年の段階において、アイヌの人びとの聚落,もともとアイヌの聚落と漁場とは一致していたわけでなく、幕末のアイヌの多くは石狩川筋で漁業に従事し、自己,次に明治初年の文献から、アイヌの聚落と戸口のおおよそを再現してみよう。,堀が偕楽園の官邸を過ぎ数百歩行くとアイヌの家二、三軒がある聚落に出た。,に際し開拓使が把握したアイヌの戸口は表7のごとくで、樺太から九年に移住した対雁アイヌを除くと戸数わずかに / アイヌの聚落と戸口
新札幌市史 第4巻 通史4 (アイヌ民族とバチェラー)

アイヌ民族とバチェラー バチェラーはその札幌での活動に対して、「アイヌの父」(北タイ 昭15・12・,アイヌ民族自身はバチェラーをどのように評価していたのであろうか。,開催された「第一回全道アイヌ青年大会」の議事である。,この近文アイヌの自らの生存を賭けた運動に対して、バチェラーは「決してアイヌ自身の心からなる策動ではあるまい,余市アイヌの違星北斗が「『強いもの!』 / アイヌ民族とバチェラー
新札幌市史 第5巻 通史5下 (アイヌ新法制定を目指して)

アイヌ新法制定を目指して 「アイヌ新法」制定を政府に要請してから六年が経過し、政府の一〇省庁による検討委員会,憲政史上初のアイヌ民族の「国会議員」が誕生したことになり、「アイヌ新法」早期制定に大きな弾みと考えられた,ここには、アイヌ民族が北海道に先住した独自の文化を持つ民族であること、アイヌ文化の振興や人権擁護のため,「新しい施策の展開」では、「アイヌに関する総合的かつ実践的な研究の推進」、「アイヌ語をも含むアイヌ文化,九年五月八日「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」通称「アイヌ / アイヌ新法制定を目指して
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌でのアイヌ民族の足跡)

札幌でのアイヌ民族の足跡 本巻が対象とする時期(明32~大10)、現在の札幌市域に生活していたアイヌ,向井はその後、立教大学神学部を卒業して有珠聖公会の牧師などをつとめ、昭和二十一年からは北海道アイヌ協会理事長,これと関連するが、聖公会(CMS)のジョン・バチェラーがアイヌ民族への布教活動の一環として、三十二年に,「アイヌ施療病室」はアイヌ民族の医療機関として、二十五年にバチェラーが布教活動の一環として設立し、聖公会,四十一年に閉鎖するまでに同病室で治療を受けたアイヌ民族は二〇〇〇人を超えていた(日本聖公会北海道教区  / 札幌でのアイヌ民族の足跡
新札幌市史 第4巻 通史4 (アイヌ民族自身の主体的活動)

アイヌ民族自身の主体的活動 昭和戦前期の札幌は北海道のなかで、一定の政治的・社会的位置を占めていた。,昭和五年(一九三〇)十二月には時計台楼上で、「アイヌの保護に関する演説会」が開催された(北タイ 昭5・,この演説会は近文アイヌの砂澤市太郎らが行ったもので、北海道アイヌ協会の機関誌『蝦夷の光』第二号には「堂々札都,また、昭和九年九月には砂澤と同じく近文アイヌの川村才登が、札幌市内の中等学校や小学校で「亡びゆくアイヌ,川村はこれに対して、「アイヌ風俗として八十年も昔のみすぼらしい挿絵のみ記されて、内地ではアイヌに対して / アイヌ民族自身の主体的活動
新札幌市史 第2巻 通史2 (アイヌの「解放」と救恤)

アイヌの「解放」と救恤 明治維新後の北海道におけるアイヌの存在は、前時代において境界画定による、北方,における日露外交の危機が去ったことと、それにアイヌにかわる日本人労働者を容易に獲得することが可能となったこと,したがって、開拓使のアイヌへの対応も、北海道の開拓を円滑に進行するために行われ、その第一がアイヌに対する,そして一旦は用達としてそれまでの村役人的な仕事を続行させ、アイヌへの「介抱」・「撫育」(アイヌへの酷使,これによって、請負人が行ってきたアイヌへの「介抱」・「撫育」等も当然開拓使の手に移った。 / アイヌの「解放」と救恤
新札幌市史 第3巻 通史3 (アイヌ小学校の修学旅行)

アイヌ小学校の修学旅行 明治四十三年九月、「北海道旧土人保護法」に基づいて特設された第二伏古尋常小学校,と芽室太尋常小学校の生徒四四人が修学旅行で札幌を訪れ、北海タイムス社や大日本麦酒株式会社などを見学した,このように当時の札幌は、アイヌ民族の生徒たちの目には、その生活や文化と対立する「近代化」の象徴と映っていた,札幌はアイヌ民族の「同化」を促す役割を間接的に果たしていたといえよう。,ここに自らの生活と文化を捨てさせ、脱アイヌへの道筋をつけようとする修学旅行の意図が端的に表現されている / アイヌ小学校の修学旅行
新札幌市史 第1巻 通史1 (集約化されるアイヌ労働)

集約化されるアイヌ労働 前述したごとく、この時期のイシカリ十三場所における人口数を見た限りでも、人口把握,ところで、人口把握のあり方が、果たしてアイヌの当時の生活実態を反映したものだったろうか。,①上ツイシカリアイヌの人別  文化十年(一八一三)、上ツイシカリの通詞幸吉以下三人が、上ツイシカリの,このような、イシカリ場所内のアイヌの鯡漁への出稼は、川口のアイヌの場合は以前から行われていたようであるが,この時期を境にアイヌは、次第に社会生活領域面まで自己の意志とは無関係に、労働力を集約して利用しようとする / 集約化されるアイヌ労働
新札幌市史 第5巻 通史5上 (札幌市民として・アイヌ民族として)

札幌市民として・アイヌ民族として アイヌ民族問題が北海道のみならず、日本における「先住民族問題」として,戦後二〇年を経ても何ら戦前と変わらず、「開拓」の陰に隠されてきたアイヌ民族の現状をいみじくも伝えたのは,、一人のアイヌ民族女性の言葉であった。  ,それに際して、アイヌ民族の一女性から「アイヌを忘れないで 北海道百年におもう」といった投稿が新聞に寄せられた,アイヌ民族が札幌市民として、「民族の誇り」をもって暮らせるために、アイヌ民族が社会の中で不利な立場に置 / 札幌市民として・アイヌ民族として
新札幌市史 第3巻 通史3 (「主唱者」とアイヌ民族との関連)

「主唱者」とアイヌ民族との関連 同会創立の「主唱者」はいったい誰であろうか。,したように島田や片岡とともに「近文アイヌ給与地問題」ではアイヌ民族を支援した。,加藤は第五帝国議会に単独で「北海道土人保護法案」を提出したように、以前からアイヌ問題への関心が高かった,こうして「主唱者」とアイヌ民族との関わりを探ってみると、それは福岡を除き、いずれも同会の創立までにそれぞれの,立場で、アイヌ民族との関わりを有するだけではなく、当時のアイヌ民族の境遇に対して一定の「理解」を示していた / 「主唱者」とアイヌ民族との関連
新札幌市史 第5巻 通史5下 (アイヌ文化の継承・保存を求めて)

アイヌ文化の継承・保存を求めて 九年七月一日施行の「アイヌ文化振興法」に基づいて「(財)アイヌ文化振興,一方、道ウタリ協会札幌支部では、三年十二月二十六日、「アイヌ新法」制定運動と並行して、市が策定中の四年度,からの「新五年計画」にアイヌ民族の歴史と文化を学び伝える(仮称)「アイヌ教育文化センター」の建設についての,市市民局生活文化部アイヌ施策課資料)。,同施設は、アイヌ文化とのふれあいを通して市民交流を促進するとともにアイヌ民族の歴史や文化を学び伝統文化 / アイヌ文化の継承・保存を求めて
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海道庁主催「北海道アイヌ手工芸品展覧会」)

北海道庁主催「北海道アイヌ手工芸品展覧会」 「北海道アイヌ手工芸品展覧会」は北海道庁学務部社会課が、,・佐上信一であった(北海道庁学務部 北海道アイヌ手工芸品展覧会開催状況)。,展覧会はこうしたアイヌ民族の経済的自立策の一環として開催されたのである。  ,「北海道アイヌ手工芸品展覧会開催要項」によれば、この展覧会への出品資格は「北海道在住ノアイヌ人」に限定,するとともに、出品申込書には「右ハ北海道アイヌ人〔氏名記入欄〕ニ於テ製作シタルコトヲ証明ス」という、アイヌ / 北海道庁主催「北海道アイヌ手工芸品展覧会」
新札幌市史 第4巻 通史4 (ジョン・バチェラーと「アイヌ保護学園」)

ジョン・バチェラーと「アイヌ保護学園」 周知のように、ジョン・バチェラーはイギリス聖公会(CMS)の,宣教師として、明治初期からアイヌ民族へのキリスト教の布教活動に従事しながら、アイヌ研究にも深く関わり、,『蝦夷今昔物語』(明16)、『蝦和英三対辞書』(明22)、『アイヌ炉辺物語』(明27)などの著書を出版,」に転じ、アイヌ民族への「同化」を推進する政策遂行者の側に身を置いた。,同学園は大正九年に自ら組織し、アイヌ民族の中等学校への進学希望者に対する経済的援助を目的とする「アイヌ / ジョン・バチェラーと「アイヌ保護学園」
新札幌市史 第3巻 通史3 (創立の契機としての「近文アイヌ給与地問題」)

施行されたが、アイヌ民族をとりまく社会的・経済的状況は一向に「改善」される気配がなかった。,こうした当時のアイヌ民族の状況を象徴する事件が、いわゆる「近文アイヌ給与地問題」である。,これに対して、近文アイヌの川上コヌサアイヌや小樽アイヌの天川恵三郎らは、前年施行された「北海道旧土人保護法,またこの時、近文アイヌを支援したのが、後に同会の役員となる近衛篤麿や島田三郎、そして片岡健吉であった(,こうして、小谷部の動向を軸に北海道旧土人救育会の創立までの経緯をたどってみると、それは当時のアイヌ民族 / 創立の契機としての「近文アイヌ給与地問題」
新札幌市史 第3巻 通史3 (アイヌ実業補習学校の円山村設立計画)

アイヌ実業補習学校の円山村設立計画 札幌区の西に隣接する円山村にアイヌ実業補習学校を設立する計画が具体化,調査結果は明らかになっていないが、これによってアイヌ実業補習学校を円山村に設立する方向で活動を開始したと,また、この役員会で「救育会の為に土地貸下げを出願すること」(同前)も合わせて決定した。  ,当日は藤井民治郎が「開会ノ主意」を述べ、中西六三郎が「土人ニ対スル法律ノ効果」、関場不二彦が「アイヌノ,この演説会は札幌区民に対して、アイヌ民族の現状と同会の活動趣旨の理解に加えて、運営資金を確保する目的で / アイヌ実業補習学校の円山村設立計画
新札幌市史 第5巻 通史5下 (札幌市議会への陳情運動)

第51号 アイヌ民族に関する法律制定等の要請方に関する陳情(昭和63・12・14採択) 第52号 アイヌ,協議機関設置に関する陳情(平成3・5・1審議未了廃案) 第55号 アイヌ民族の歴史、文化の紹介及びアイヌ,陳情を提出した札幌支部長は、「札幌市は独自のアイヌ民族対策を」持つべきであり、「札幌在住のアイヌ人口が,こうして十二月、札幌市市議会で「アイヌ新法」制定意見書が採択された。,これより先の四月十七日、札幌支部主催で「アイヌ新法」制定推進大会を開催、結束を固めた(ウタリ協会札幌支部 / 札幌市議会への陳情運動
新札幌市史 第4巻 通史4 (犀川会主催「北海道原始文化展覧会」)

、当時の北海道やアイヌ民族の歴史・文化研究者によって組織された犀川会が「北海道原始文化展覧会」を開催した,また、第二部は「アイヌ土俗品ノ部」で、イナウ・マキリ・イクパスイ・サパンペ・イタなど、アイヌ民族の儀礼,」、金田一京助が「アイヌの話」と題してそれぞれ講演を行った。,この展覧会では、アイヌ民族の文化を石器時代から古墳時代までの日本文化に対置し、それを「原始文化」(プリミティブ・カルチュア,このようなアイヌ文化認識は、民族のオリジナリティの発見や文化の相対化には繋がらず、逆にアイヌ民族の「文化 / 犀川会主催「北海道原始文化展覧会」
新札幌市史 第5巻 通史5下 (政府への要請と新法制定総決起集会)

政府への要請と新法制定総決起集会 北海道では昭和六十三年二月二十七日、アイヌ民族の社会的・経済的地位向上,また、道知事の私的諮問機関であるウタリ問題懇話会は三月二十二日、国に「アイヌ新法」制定を提言する最終報告書,こうして、北海道や道ウタリ協会による「アイヌ新法」制定への政府への要請を活発に行った(道新 昭63・8,また、平成元年(一九八九)十一月十四日、道ウタリ協会は札幌市内で「アイヌ民族の新法制定促進総決起集会」,」が開催され、これに続いてこの会議の下に「アイヌ新法」制定のために新たに設けられた検討委員会の初会合が / 政府への要請と新法制定総決起集会
新札幌市史 第2巻 通史2 (社会改良・慈善・衛生)

札幌基督教会のメンバーが中心となって広く会員を募り、月次会、演説会を開催。,同年ジョン・バチェラー、アイヌ問題について演説す。,青年倶楽部、アイヌ矯風部等も結成。 札幌慈善会 慈善活動。二十三年永山武四郎夫人を会頭に設立。,アイヌ矯風部を設置したのも同年のことで、ジョン・バチェラーはアイヌ語で禁酒を説き、アイヌの人びとの居住,二十五年は北海禁酒会の最盛期で、アイヌ矯風部で「アイヌ演説」が行われたり、禁酒遊説のために会員が上川、 / 社会改良・慈善・衛生
新札幌市史 第5巻 通史5上 (民族としての復権をめざして)

三月十三日、正式に社団法人北海道アイヌ協会(以下アイヌ協会と略)として認可された(北海道ウタリ協会 50,ところで、アイヌ協会の定款(昭21・3・26登記)によれば、総則で「本会ハ社団法人北海道アイヌ協会ト称,本会ハアイヌ民族ノ向上発展、福利厚生ヲ図ルヲ以テ其ノ目的トス。,アイヌ協会総会記録 同前 北海道アイヌ協会・北海道ウタリ協会活動史編)といった理由から「北海道ウタリ協会,これについては、北海道ウタリ協会『アイヌ史 北海道アイヌ協会・北海道ウタリ協会活動史編』に詳しいので参照
新札幌市史 第4巻 通史4 (山鼻尋常高等小学校の「開校五十年記念児童成績品及教育参考品展覧会」)

山鼻尋常高等小学校の「開校五十年記念児童成績品及教育参考品展覧会」 近代アイヌ史のなかで、昭和戦前期,はアイヌ民族の存在を際立たせる、各種のイベントが札幌市などで開催されたことに大きな特徴がある。,こうしたイベントが市民のアイヌ認識の形成に影響を与えたことは言うまでもない。  ,この小学校は「北海道旧土人保護法」を法的根拠として、明治三十五年に設立されたアイヌ小学校のひとつである,不明であるが、「内地各府県」とは異質な歴史的、文化的要素を内在した北海道とその教育を際立たせるうえで、アイヌ / 山鼻尋常高等小学校の「開校五十年記念児童成績品及教育参考品展覧会」
新札幌市史 第5巻 通史5下 (民族の歴史と文化を学ぶ)

また同年十月二日には「アイヌ文化に親しむ会」(藤村久和会長)が札幌市内で設立総会を開催した。,道内各地からアイヌ文化に関心を持つ約六〇人が集まり、アイヌ文化に親しみ、学ぶ場を作ろうという目的で、機関誌,五十九年一月には、「アイヌ古式舞踊」が国の重要無形民俗文化財指定を受けるなど、アイヌ文化の評価が高まる,一方で、同年七月には、札幌法務局が、札幌市内の道立高校の過去の社会科授業での「アイヌ民族侮べつ授業」を,アイヌ民族の歴史と文化を学ぶことから「アイヌ新法」制定運動への大きなうねりとなった。
新札幌市史 第2巻 通史2 (メソヂストと聖公会)

メソヂストと聖公会 日本基督教会に次いで教会を設立したのは、美以教会(メソヂスト監督教会)であった。,札幌基督教会設立後、メソヂスト監督教会の宣教は途絶えたが、佐藤昌介は教会員籍を美以教会から移さず、札幌基督教会,バチェラーは北海禁酒会の講師としてアイヌ人への禁酒を奨めるため、政府から臨時の巡回旅行と札幌への転住を,許されていたが、二十五年、転居して北海禁酒会アイヌ矯風部によるアイヌ施療病室の経営に当たることになった,バチェラー自身はアイヌ施療病室の隣、北三条西七丁目に住み、全道的に巡回し、山田致人(むねと)が定住の伝道師 / メソヂストと聖公会
新札幌市史 第5巻 通史5下 (「国際先住民年」)

「国際先住民年」 平成元年(一九八九)三月十三~十五日、道ウタリ協会主催の第一回「アイヌ民族文化祭」,語劇、民族衣装の紹介とファッションショー、アイヌ語弁論大会、展示等々盛りだくさんに民族の祭典が行われた,札幌市では、五月二十一日道ウタリ協会総会でダイス議長が挨拶し、「アイヌ民族も先住民族として尊重され基本的人権,国連総会より少し前の十二月七日には、札幌市内で「国際先住民族年とアイヌ民族の人権シンポジウム」が開催され,同年八月二十三日、ウタリ協会主催で「アイヌ新法」早期制定総決起集会が札幌大通公園で開かれ、民族衣装の会員
新札幌市史 第5巻 通史5下 (「単一民族国家」発言と抗議運動)

さらに十月十七日、衆議院本会議で陳謝・釈明にからみ、日本は「単一民族国家」と発言したことから、アイヌ民族,、事態はますますアイヌ民族の反発を招いた。,道ウタリ協会も「アイヌ民族の存在を無視し、抹殺するもの」と強く反発、抗議行動へと発展した。,札幌でも、十一月二十二日開催の合同教育研究全道集会の「人権・民族と教育」分科会に出席したアイヌ民族や教師,には、道ウタリ協会主催で「アイヌ新法制定を考える全道集会」が札幌市内で開催され、約三〇〇人のアイヌ民族
新札幌市史 第5巻 通史5下 (市立学校教員アンケート調査)

~七月十六日にかけて市内の市立幼稚園、小、中、高校の全教職員を対象に「アイヌに関するアンケート調査」を,アイヌ民族に対する正しい認識を探り、あわせて今後の教育研修や副読本作りなどに役立てていく目的で、教育機関,、教師自身がアイヌ差別の体験があるか、など核心に触れる重たい設問も並んでいた。,〉のアイヌに関するアンケート―集計結果とその分析― 昭61・3)。,に刊行したり、また「札幌市アイヌ民族教育に関する研修会」を定期的に開催し、民族教育の啓発活動を行っている
新札幌市史 第1巻 通史1 (夷境の一都会)

夷境の一都会 この調査で残された記録に窪田の手になる『協和私役』がある。,窪田はイシカリでアイヌの歌舞に感動する。,蝦夷地に足を入れた当初「土地異なれば人心も異るにや」(協和私役)とアイヌ文化にとまどうが、旅するうちに,示すようになり、イシカリ庭中鶴の巣籠りの舞や酒を酌交す作法に心服し、箱館奉行所がすすめつつある拙速なアイヌ,一行は、イシカリのアイヌが〝松前を見たければイシカリを見よ〟と言うのを聞き、荒涼たる夷境の一都会を慨歎 / 夷境の一都会
新札幌市史 第3巻 通史3 (労働者と社会主義)

労働者と社会主義 大正四、五年頃になると、札幌でも労働者の中に社会主義思想が影響をもってきた。,友愛会札幌支部の会員(特に鉄道労働者)の中にも社会主義的労働運動に関心を持つものが出てきた。,、大正期には札幌で弁護士を開業していたが、労働者が社会主義の影響を受けることを恐れ、社会主義撲滅運動を,しかし、そのかわり明治の社会主義者が視野に入れていたアイヌ民族問題が視界からはずれてしまった。,この時期の社会主義者で、アイヌ民族を視野に入れていたのは安達正太郎(小樽の人であるが、札幌で弁舌をふるった / 労働者と社会主義
新札幌市史 第3巻 通史3 (内務省の反対)

内務省の反対 このようにアイヌ実業補習学校の円山村設立計画は順調に進んでいた。,同会は明治三十四年五月、新たに「北海道旧土人保護法」に基づくアイヌ小学校を付設する計画をたてた(北海道旧土人救育会虻田学園報,白仁は同法の起草者である(竹ヶ原幸朗 近代日本のアイヌ「同化」政策)。,ニ依リ一歩ヲ譲」(同前)り、アイヌ小学校の円山村設立を断念した。,この決定によって、同会のアイヌ実業補習学校の円山村設立計画も白紙撤回となった。
新札幌市史 第3巻 通史3 (創立の目的と「救育」の論理)

創立の目的と「救育」の論理 同会は、初等教育課程を修了したアイヌ民族の青少年を対象に、「工芸、技術、,この点から考えて、同会の構想はアイヌ小学校と連続させる教育機関の設立を想定していない「北海道旧土人保護法,それでは、同会はどのような立場からアイヌ民族の教育を考えたのであろうか。それを探ってみよう。,北海道旧土人タル『アイヌ』モ日本国民ノ一部ナリ。,『アイヌ』ヲ教ヘヨ。『アイヌ』ヲ導ケヨ。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (来札以前の「故郷」の実態)

来札以前の「故郷」の実態 北海道民生部社会課では、三十五年にアイヌ民族居住地域の「不良環境地区五七地区,先駆者の集い 創刊号 昭38 北海道ウタリ協会 アイヌ史 北海道アイヌ協会・北海道ウタリ協会活動史編 ,また三十七年度には、日高支庁においてはじめてアイヌ民族の生活実態調査が行われ、三年後にその報告書として,日高支庁から『日高地方におけるアイヌ系住民の生活実態とその問題点』(昭40)として刊行され、アイヌ民族,アイヌ民族の多くは、新憲法下にあっても、アイヌ民族であるがゆえに、教育・労働・住宅問題等さまざまな形で
新札幌市史 第1巻 通史1 (改役所の設置)

アイヌ漁場は、元来、アイヌの冬季の食料源・交易物としてアイヌの漁場権を認めて成立し、和人の進出から保護,、アイヌ漁場はやがて場所請負の漁場に組み入れられ、漁場経営も請負人のもとに掌握され、アイヌは他の漁場同様,に労働者にすぎなくなり、アイヌ漁場も名目だけのものとなる。,写真-2 明治初年のアイヌ漁場の風景(北海道大学附属図書館蔵)  次に、アイヌの労働雇用の問題では、,以上のアイヌ漁場、労働雇用、軽物交易などにみられるように、イシカリ改革によりアイヌはこれまでの場所請負人
新札幌市史 第1巻 通史1 (『土人由来記』)

土人由来記』 寛政十一年(一七九九)、東蝦夷地が幕府の仮直轄となったため、それまでイシカリ十三場所内のアイヌ,ではどうして、千歳アイヌとイシカリ川筋のアイヌとが接触を持つようになったのだろうか。,に移って来た者の子孫が、オサツの者と縁組して千歳アイヌの仲間に入ったという話がある。,もともとサル系に属する千歳アイヌと西蝦夷地系に属するイシカリアイヌとは、交流の便宜から互いに譲り合っており,とイシカリ川流域のアイヌとのこのような入会漁業は、さして珍しいことではなく、慣習として行われていたらしい
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 埴原和郎他『シンポジウム アイヌと古代日本』、山田秀三『アイヌ語地名の研究』,、工藤雅樹「古代蝦夷の社会」『歴史評論』四三四号、高橋崇「柵」『東北古代史の研究』、『新北海道史』第二巻,「阿倍比羅夫北征記事に関する基礎的考察」『東北古代史の研究』、海保嶺夫『中世の蝦夷地』、石附喜三男『アイヌ,文化の源流』、菊池徹夫『北方考古学の研究』、大石直正他『中世奥羽の世界』、金田一京助『アイヌの研究』、,第七巻、『知里真志保著作集』、榎森進「ユーカラの歴史的背景に関する一考察」『北海道の研究』二、榎森進『アイヌ
新札幌市史 第1巻 通史1 (大正時代)

大正時代 大正時代に入ると、大正七年に河野常吉が中心となって「北海道人類学会」を発足させる。,そして同年には、開拓その他により多くの遺跡が破壊されていることを憂い、第一八道議会に「遺跡・遺物の調査並,さて、全国を風靡した日本人種論争も大正期に入ると坪井正五郎の逝去によってコロポックル説は息をひそめ、アイヌ,この時期には河野常吉も、アイヌの土俗や古記録等から、アイヌが最近まで石器を使用していた実例をあげ、アイヌ
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎の総括)

松浦武四郎の総括 阿部屋の経営下における、イシカリ場所のアイヌの実態を総括したとみてよいのが、松浦武四郎,これは安政四年九月ころに書かれたもので、蝦夷地全体のアイヌ問題を総括したものであるが、その中でイシカリ,幕府による第二次直轄あるいはイシカリ改革は、その目的のひとつに以上のような人口減少、アイヌ社会の疲弊と,またイシカリ改革による請負制の廃止も、幕府などによる新たな搾取と収奪をもたらすのみで、アイヌ社会にとり,さらに、改革後の漁場解放による和人の増加は、アイヌの労働の場や居住地をうばい圧迫することになり、窮乏と
新札幌市史 第3巻 通史3 (興業としてのイオマンテの挙行)

としてのイオマンテの挙行 イオマンテ(熊の霊送り)は食糧の神であるヒグマの霊魂を神の国へ送り返す営みで、アイヌ,これはアイヌ民族の固有の信仰に基づき、その原型は遅くとも十八世紀には成立していた(佐々木利和 イオマンテ,遊園地銀行会社運動場内広場に於て毎日熊祭りを行ふ筈にて協賛会へ許可を願出でたるが、熊は十一頭、アイヌ十四名,にて愛奴熊祭式及愛奴手踊追分節等を行ふ由出場アイヌは酋長ウレンパウク外三十余人なり。,アイヌ民族は生活の糧を得るために、その儀礼すらも商品化を余儀なくされたのである。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (産物の流通)

産物の流通 このような入会漁業が行われている場合、前述したように産物はあくまでも産出したアイヌに所属,ゆえに、千歳アイヌがイシカリ川で産出した産物の余剰はユウフツの集荷地へ、またイシカリアイヌがシコツ場所内,それをみて千歳アイヌもうらやましく思い、頼み込んで矢羽根による鷲の尾羽やかわうその皮をもって和産物と交易,このような『由来記』に記されている事実、たとえば、千歳アイヌがイシカリ川まで漁に行くことや、イシカリ川,ともかく千歳アイヌのみならずイシカリ川筋のアイヌも、東蝦夷地が寛政十一年(一七九九)に幕府直轄になった
新札幌市史 第1巻 通史1 (快風丸の報告から)

快風丸の報告から 寛文のアイヌ蜂起事件からややしばらくたった元禄元年(一六八八)、水戸藩は快風丸という,その際、イシカリ川流域の自然景観や産物、アイヌの社会についてかなり詳しい報告をしている。,川の脇にアイヌが住んでおり、両脇は平野になっていて、四、五里ほど先に大山が見える。,アイヌは別に警戒するふうでもなく、何の陣もなかった。  ,この間、イシカリ川口はもとより上流まで見分し、アイヌの生活にも触れて多くの情報を得ている。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (人口の減少)

人口の減少 慶応元年の人別帳による当時のアイヌの軒数は一一五軒、人口は四三九人であった。,これによるとアイヌの人口は、安政元年(一八五四)から四年まで漸減をみせ、五年になると大幅な減少にいたる,五年の場合、上川までを含んだ石狩川及び枝川の流域に住むイシカリアイヌの軒数は一四四軒、人口は五四三人であった,表-5 安政期以降のアイヌ軒数・人口 年 軒数 男 女 男女計 出典  安政1 165軒 348人 345,請負体制を中心とした和人によるアイヌ社会の破壊が、いかにすさまじいものであったか、この数値が如実に物語
新札幌市史 第1巻 通史1 (東蝦夷地の仮直轄)

東蝦夷地の仮直轄 アイヌが居住している場所を越えての漁業権が、アイヌ相互の慣習であれ認められている間,したような東蝦夷地の仮直轄となり、シママップ川から千歳川をもって幕府領の境界としたので、イシカリ・ユウフツのアイヌ,の相互に所有していた入会漁業の場まで、かたや幕府領、かたや松前藩領と二つに線引きされてしまった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (英雄詞曲「ユーカラ」を巡って)

英雄詞曲「ユーカラ」を巡って エゾは人種的な違い、すなわちアイヌとして意識されたことの表現であることについては,既述したが、アイヌ民族としての社会はいつ形成されたかについて、まずアイヌ自身の語る英雄詞曲ユーカラについて,アイヌ民族にはすぐれた口承による物語文学がある。,と人格神を主人公とする「オイナ」(聖伝)と人間の英雄を主人公とする「ユーカラ」の三種類に分類できる(アイヌ,金田一京助は虎杖丸と訳す)を例にとると、トメサンペチ川が大きく紆曲して流れるほとりのシヌタプカの山城に、(アイヌ
新札幌市史 第1巻 通史1 (商場知行)

知行形態も他藩の上士に給与される知行地に代えて、藩主の一族ならびに上級家臣には、蝦夷地での一定の地域でアイヌ,交易はアイヌを「介抱」するという名目でなされ、三百石くらい積む縄綴船に取締として藩士が通詞と上乗りし、,オムシャはアイヌ語のウムサで、アイヌが久しぶりに出会った時に互いになでさすり親しさを表す挨拶。,アイヌの交易は、物を贈り合って親しさを示す。そのはじめにオムシャをするのである。  ,アイヌとの交易において「米弐斗入の俵も、唯今は七、八升計宛入、大分の押売(買)被成候。
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