• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 168件
辞書ファセット
/ 4ページ
新札幌市史 第4巻 通史4 (貯蓄納税的活動)

聨合公区長宛飛行機献納資金壱万参千参百弐拾四円九拾五銭ノ仮領収書三五五円(九月二十日)」とあるように、各公区に割当てられた,この時期、献金、貯蓄、国債と表の顔は別々に見えるが、公区に割当てられた新種の税金と同一であり、公区長から,各隣保班長へと割当てられ、班員は相互監視体制の中、不満を表に出すこともなく、ひたすら協力するのみであった
新札幌市史 第2巻 通史2 (戦況報告会)

入場料は大人五銭、軍人・子供三銭で、入場料の半分が軍資献金にあてられた。  ,この収入の半分も軍人旅費遺族救恤費にあてられた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (小休所の建設)

すでにこれ以前に粗末な「昼所」が建てられていたが、この手前に新たな「小休所」を建設する予定をたてたのであろう
新札幌市史 第1巻 通史1 (住居跡)

この竪穴住居跡は、墓域のなかに一軒のみ建てられ、遺物もほとんど出土しないことから、日常の居住の用に供したものではなく
新札幌市史 第3巻 通史3 (大通の景観)

二十四年、北大通西三丁目に石造の北海道電灯会社が建てられ、同年同所に屯田銀行が並んで建てられる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (哺乳動物化石群)

このような特徴から、この海牛は北太平洋のベーリング海域に一八世紀末まで生息していたステラー海牛であると,ステラー海牛は、遊泳能力が衰え、沿岸ないし内湾の岩礁地帯で海藻を餌とした草食性の動物である。,写真-4 ステラー海牛化石 下顎骨(上)と肋骨化石片(下)  海牛化石についで多いのはクジラ類
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ場所の新道)

ホシオキ・シママップ間はイシカリの阿部屋伝二郎、シママップ・ユウフツ間はユウフツの山田屋文右衛門にわりあてられた,このうち最も難工事なのは、阿部屋にわりあてられたホシオキ・シママップ間であった。
新札幌市史 第2巻 通史2 (基幹的寺院の改築と移転)

しかし堂宇等はとりあえず建設した場合が多く、また地理的に必ずしも良好な場所を割当てられなかった場合もあり
新札幌市史 第1巻 通史1 (◇T三六一遺跡(豊平区里塚三七五番地))

遺跡は、三方を比高差二〇~三〇メートルの高さの丘陵に囲まれ、三里川に張り出した幅六〇メートルのテラス状
新札幌市史 第5巻 通史5下 (第三次長総第一次五年計画)

都市空間、交通計画、産業振興、生活環境、生涯教育、生涯福祉、市民交流の七部門の計画が立てられ、また初めて
新札幌市史 第1巻 通史1 (下野幌期)

また、近くの静かな海には、ステラー海牛の群が岩礁に繁茂した海草をのんびりと食べつづけ、外海に面した岩礁,図-5 ステラー海牛の全身骨格(体長約5m、完新世、ベーリング海峡のもの)  下野幌期に入ったころから
新札幌市史 第5巻 通史5上 (青年教育)

会場は小・中学校が当てられた。  ,会場は企業またはその共同施設があてられた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (完新世の冷涼期(五〇〇〇年~四〇〇〇年前))

一方、六〇〇〇年前ころ紅葉山砂礫堤で隔離された潟湖も豊平川や発寒川の土砂で西側から埋め立てられ、この時期
新札幌市史 第2巻 通史2 (市街大下水の整備)

、そこから東へ創成川まで通るもの、南六条から西二丁目を南北に大通まで通すもの、この際に胆振川が埋め立てられた
新札幌市史 第2巻 通史2 (雪中行軍の遭難)

同年九月、札幌中学校生徒の死を悼んで豊平共同墓地に札幌中学校校長矢島錦蔵の名で墓碑が建てられた。
新札幌市史 第4巻 通史4 (「ヘレン・ケラー女史講演会」)

周知のように、ケラーは家庭教師のサリバンの指導により、視覚・聴覚・言語の三重の障害を克服してラドクリス
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム番所)

当時、イシカリでは出稼人・職人・商人も増え、家作がさかんとなっており、建築材にあてられたと思われる。,獣皮は衣服・敷物に利用され、和人に珍重されたほか、カラフト交易にもあてられていた。
新札幌市史 第2巻 通史2 (辛未移民の小屋と御用火事)

彼らは東本願寺付近から豊平川端辺(南六条西一~六丁目辺か)に建てられた茅造りの移民小屋に一時収容され、
新札幌市史 第2巻 通史2 (兵村の副戸長設置)

副総代は伏見の居住者から出す原則がたてられたようであり、この原則は総代人制にも踏襲されている。
新札幌市史 第2巻 通史2 (新川の開削)

しかし近年の宅地開発の波が札幌郊外まで広がったため、その形状が順次変更されたり埋め立てられたりしている
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌製糖(株))

甥堀宗一が就任し、その八月宮内省の認可を得て苗穂村の御料地三万八九六二坪が二〇年間貸与され、工場建築地にあてられた
新札幌市史 第2巻 通史2 (校舎の新・増改築)

本格的なものが工法の不適切から早々に老朽化したものもあるが、それよりもたとえば札幌本府建設用として建てられた
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサムよりシユママツフへ)

この川はイシカリ・ユウフツの境界で、川を渡ったところに小休所二棟が建てられていた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (吉田茂八)

猟師を業としたというが、ハッサム番所では軽物交易の皮革類を収集しており、そのために丑太郎によりとりたてられ
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海道農業研究会事件)

きくかけ離れた虚構で、辛うじて肉体的・精神的拷問をともなう「巧妙、細心なる取調」(同前)によって組み立てられたものであった
新札幌市史 第3巻 通史3 (地方改良運動と顕彰)

と顕彰 日露戦後には、忠魂碑や開村記念碑あるいは地域の名望家の頌徳碑が地方改良の一環として急速に建てられるが
新札幌市史 第4巻 通史4 (山鼻尋常高等小学校の「開校五十年記念児童成績品及教育参考品展覧会」)

その第六室は「本道六市児童成績品室」に充てられたが、そこには量徳(小樽市)、弥生(函館市)、大成(旭川市
新札幌市史 第1巻 通史1 (開墾取扱所ほか建造物)

そしてこの堀割の落口付近に開墾取扱所、すなわち大友亀太郎の役宅が建てられていた。  ,翌慶応三年に本開墾取扱所が建てられた。
新札幌市史 第2巻 通史2 (住区画)

そこに宅地一五〇坪(約四九五平方メートル)が含まれ兵屋が建てられた。,その内一五〇坪(通路四〇坪を含む)が宅地で、あとの四八三〇坪が農耕地にあてられる。
新札幌市史 第3巻 通史3 (地域の諸相)

明治四十年四月三日の神武天皇祭を期して、日露戦勝記念に第七師団を率いた大迫(おおせこ)尚敏将軍銅像が中島公園に建てられた,一方琴似村では二年六月二十九日、開村碑と並んで建てられた忠魂碑の除幕式が、在郷軍人会・青年会・愛国婦人会
新札幌市史 第3巻 通史3 (酒造業)

表示はしていないが、このうち区内消費にあてられる比率をみると、明治四十三年二四・九パーセント、大正八年,しかも移入酒は区内消費にあてられる比率が高く、明治四十三年六八・〇パーセント、大正八年四七・二パーセント,札幌商業会議所の経済調査の着眼点もここにあり、区内消費にあてられる移入酒を駆逐し、札幌清酒の区内消費を
新札幌市史 第2巻 通史2 (貸家・空家の増加)

一方家作料取立の方はなかなかはかどらず、このため八年六月七日付で、家作費貸与の時点で建てられた家屋は粗悪
新札幌市史 第3巻 通史3 (〝燕麦村〟)

この事業の計画は三十七年にたてられ、篠路村では三〇〇町歩、札幌村では四六〇町歩(うち大字丘珠村が六〇町歩
新札幌市史 第1巻 通史1 (深き見込みの場所)

ともかく、場所請負制の否定は、その後の流れにてらし必然性をもっていたといえる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ起源論と日本人種論)

されるべきものであるが、その研究の大部分は人類学の中でも、もっとも地味な分野である基礎資料の集積に当てられ
新札幌市史 第2巻 通史2 (平岸村金山セイの場合)

南部で切り込んで船で石狩川を溯って篠路へ揚げ、それより駄鞍で運搬したもので、同じ形の家が道路の両側に建てられた,これらは、後の札幌駅付近に建てられていた倉庫で受け取り、担いで平岸まで運んだ。
新札幌市史 第1巻 通史1 (銭箱よりハッサムへ)

西蝦夷日誌』には、この通行屋のことを旅籠(はたご)と呼び、屋内には屛風(びょうぶ)・襖(ふすま)も立てられ
新札幌市史 第5巻 通史5上 (木工団地)

木工団地 鉄工団地よりも一足先に木工団地の計画が立てられた。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (竜神信仰)

戦後、農場の開放とともに竜神の祭りは途絶え、竜神が住むという池も宅地造成により埋めたてられた(下野津幌郷土史
新札幌市史 第4巻 通史4 (予定鉄道網の計画)

北海道の鉄道敷設予定路線が発表されるようになってから、北海道の拓殖計画との関係で鉄道路線網の計画がたてられるようになった
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

周辺山地の形成過程」『地質学論集』七号、篠原暁・木村方一・古沢仁「北海道石狩平野の野幌丘陵から発見されたステラー
新札幌市史 第5巻 通史5上 (日米団体関係諮問会議)

からまもなく戦線に出動した第七歩兵師団に対して、二十五年九月二十六日、札幌市議会では「幾多の功績を樹てられた
新札幌市史 第5巻 通史5上 (戦没者追悼と慰霊)

での玉砕となった五月二十九日に慰霊法要を行っており、四十八年には「大東亜戦争諸霊位追善菩提」の石碑が建てられている
新札幌市史 第1巻 通史1 (農民の住まい)

しかしこの家作は慶応三年に経費金三〇両余をもって一軒のみしか建てられず、これは松太郎に給付された。
新札幌市史 第2巻 通史2 (移住士族取扱規則の適用)

四八三円四二銭が旧開拓使の貸与金返済に充てられ、実際に彼らに貸与となったのは四一六二円四二銭五厘であった
新札幌市史 第1巻 通史1 (善光寺)

するばかりの地で、実際にはハッサムでの建立にはいたらず、この八月にイシカリの方に善光寺休泊所という名称で建てられた
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロの開発)

御手作場は、間もなく幕府の崩壊により消失したが、責任者によって計画が立てられ、それにのっとって移民が招来
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム川の利用)

なお、小休所・番屋はハッサム川(現琴似発寒川)のそばに建てられたが、このハッサム川はイシカリに向かう舟運
新札幌市史 第1巻 通史1 (札幌の墓壙と副葬品)

恵庭、千歳方面は、明治初期に苫小牧市美々に鹿肉缶詰工場が建てられていたことや、明治十二年の大雪による鹿
新札幌市史 第1巻 通史1 (新道の開削工事)

御在住御役宅御普請、新道切開見廻、壱里塚境杭建テ之事」とあり、「新道切開」はサッポロ越新道をさし、一里ごとに境杭もたてられたようだ
/ 4ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました