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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ見聞)

イシカリ見聞 一行は安政四年三月七日郷里を出発、四月八日箱館に到着した。,ソウヤにもどったあとオホーツク海岸から太平洋岸を通り、八月二日ユウフツ泊、翌日ここから再びイシカリを目,いわゆる千歳越を往復して内陸を調査し、イシカリの位置をさらに確かめようと、八月四日イシカリ着、翌日この,このように成石は老中阿部家の石川和介などと同じく、安政四年の春秋二度イシカリを検分、「開墾耕種の地には,また、この紀行からイシカリ近辺の交通事情を知ることができる。 / イシカリ見聞
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの詰役)

日本海沿岸の西蝦夷地は、はじめスッツ・イシカリ・ルルモッヘ(留萌)の三カ所の持場(詰)割とされた(後に,そのうちイシカリは当初シャコタン、ビクニ、フルビラ、ヨイチ、オショロ、タカシマ、オタルナイ、イシカリ、,アツタ、以上の九場所を管轄し、イシカリが調役の駐在する詰場所とされた。,図-1 イシカリ持場所(○印)  イシカリが詰場所に選定されたのは、安政二年十一月に出された箱館奉行,て滞留のよし」とされており、この前後にイシカリ場所の引継がおこなわれていたことがわかる。 / イシカリの詰役
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ要害論)

イシカリ要害論 イシカリ川を下った近藤重蔵は、復命書にあたる蝦夷地取調書を見る限りイシカリ付近の奥深,触れているが、イシカリの将来を見通した、いわゆる「イシカリ要害論」であった。,②イシカリ場所について  イシカリ場所が「蝦夷地第一ノ都会ノ地」であるといったように聞いている。,第一には、イシカリ川筋カバト山。,イシカリの将来を見越した、またイシカリ場所の漁業資源とそこに集まる人的資源に着目した防衛論が前面に出るあまり / イシカリ要害論
新札幌市史 第1巻 通史1 (海防論とイシカリ)

海防論とイシカリ 寛政年間(一七八九~一八〇〇)以降、ロシア、イギリスなど外国船の来航が頻繁となり、,弘化三年、ちょうど松浦武四郎がカラフトを探検して、帰途イシカリを通ってユウフツへ抜けた同じ年にも松前近海,その場合イシカリよりハママシケへの通行は、ツイシカリよりルルモッペ(留萌)への道路を開削するがよいだろう,④イシカリ詰の勤番が小人数なので、人員増加した方がよいだろう。  ,軍艦造営の拠点をイシカリに据えたのは、近藤重蔵のイシカリ要害論に影響されたのだろうか。 / 海防論とイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの繁栄)

イシカリの繁栄 イシカリ改革以降、出稼人が大幅に増加し、越年もするようになった。,それらにともない商人・職人もふえ、イシカリに町家がたちならび、町並みも形成され町役も任命されるようになった,荒井金助は、イシカリに本府を建設し、将来は〝北京〟にしようとする壮大なプランをもっていたので、移民の奨励,この金助のプラン及び箱館奉行の政策により、イシカリに永住人も次第にふえ、イシカリが繁栄してくる様子は、,願書類の控や布達書類がよく残されており、イシカリ市中の動向がよくうかがえる、貴重な資料群となっている。 / イシカリの繁栄
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの機能)

イシカリの機能 武四郎はしばしばイシカリをもって、枢要の地と称している。,これをみると枢要の地イシカリとは、石狩川河口の運上所や勤番所を中心としたイシカリの集落地域のみを指すのではなく,、広義にイシカリ十三場所を含む石狩川下流地域を指していると推察される。,イシカリは西蝦夷地の海上航路において、箱館とソウヤの間のほぼ中間に位置し、またすでにユウフツとをもって,、イシカリの重要性はますます増大されていくのである。 / イシカリの機能
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの開発)

イシカリの開発 北蝦夷地(カラフト)におけるロシア南進の急迫化にともなって、幕府は現地北蝦夷地での直接的,このような中にあって、西蝦夷地のイシカリは、つとに箱館奉行所においても注目するところの地であった。,、イシカリは古くから西蝦夷地と東蝦夷地とを結ぶ重要な交通の起点であり、また石狩川河口域は鮭漁の有数な漁場,このような重要な位置を占めるイシカリは、松前藩の時代より引き続き、阿部屋村山伝二郎が場所請負人として差配,の請負制を廃して直捌とし、いわゆるイシカリ改革を断行した(第四章参照)。   / イシカリの開発
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ山請負)

イシカリ山請負 宝暦年代(一七五一~六三)以降になると、イシカリ場所の請負の形態のひとつとして、イシカリ,翌年七月二十八日付のイシカリ山伐木願書によれば、宝暦五年より八カ年間イシカリ山へ杣夫を入れ、寸甫=丸太一,表3は、イシカリ囲木寸甫と江戸・大坂登寸甫等の各生産高と、山方入用金等山方費用高および商売徳用金(純利益,ためしに宝暦十年分の生産高をみてみると、イシカリ囲木寸甫と江戸・大坂登寸甫とを合計した四万五四七八挺であり,(純利益) 備考 イシカリ囲木寸甫 江戸・大坂登寸甫 イシカリ山方入用金 杣方当座渡金 6月9月勘定分手代貸 / イシカリ山請負
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ川の地図)

イシカリ川の地図 ところで、サッポロ川がツイシカリ川に流れ込むように流路を変えたことを証明する地図が,分流してフシコサッポロ川(旧サッポロ川)とサッポロ川(旧ツイシカリ川)となり、サッポロブトで、かたやツイシカリブト,でそれぞれイシカリ川と合流している。,(2)『イシカリ川之図』  本図は、写真5のごとくイシカリ川の河口から上流域サンケシにいたる流域を横長,川に流れ、ツイシカリでイシカリ川に合流している。 / イシカリ川の地図
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの内国化)

しかし、そうした歴史的方向へ確実に進行していたことをイシカリ改革は物語っている。  ,ユウフツ場所からは多くのアイヌがイシカリ場所に毎年やって来た。,イシカリのアイヌは場所請負人の支配をはなれ、イシカリ役所の管轄に入り風俗習慣まで内国化を求められる。,改革によりイシカリの異域性は音をたてて崩れだした。,しかし、この時点でイシカリが村とならず、村並とさえ呼ばれた形跡がないことは、改革の限界を示すのだろう。 / イシカリの内国化
新札幌市史 第1巻 通史1 (第二次直轄とイシカリ)

第二次直轄とイシカリ 第二次直轄となり、イシカリには調役以下の詰合役人が派遣されるようになるが、特に,イシカリ詰の調役は、シャコタン(積丹)からアツタ(厚田)までをイシカリ持場として担当することになった。,それゆえ、イシカリはこれらの広域地域における行政の中心地となった。  ,イシカリ改革であった。,イシカリ改革にともない、イシカリ詰の勤番所はイシカリ役所と称されるようになった。 / 第二次直轄とイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ建府との関係)

イシカリ建府との関係 善光寺・西本願寺がともに、サッポロ・ハッサムに寺院建立の指定をうけたのは、蝦夷地総鎮守社,の建立と同様に、イシカリ建府の設定とつよく関係をもっている。,にイシカリの本府をおくことが、企図されていたためである。,またあわせて、イシカリ開発のことが期待されていた。  ,イシカリには、慶応二年(一八六七)二月に、改会所の通詞役であった玉川啓吉宅に、箱館御坊付イシカリ道場が / イシカリ建府との関係
新札幌市史 第1巻 通史1 (武四郎とイシカリ改革)

武四郎とイシカリ改革 武四郎は「石狩場所人別帳に添て上る書」(燼心餘赤)にて、イシカリ場所は運上金年一,武四郎はイシカリ改革後のイシカリの様子を、「此度直捌に成てより移住の者も多く、僅一年の間に一すじの町家,となりしも、偏に休明の御世なるかな」と述べ、イシカリ改革の成果を「休明の御世」と讃嘆している(西蝦夷日誌,イシカリ改革の成果が実際的にどのようなものであり、武四郎はどのように評価しえたのか興味がもたれる。,しかし武四郎は安政六年(一八五九)以降、二度とこの蝦夷地に渡ることがなかった。 / 武四郎とイシカリ改革
新札幌市史 第1巻 通史1 (範正のイシカリ入り)

範正のイシカリ入り 写真-2 村垣淡路守範正 (市立函館図書館蔵)  以上のイシカリ改革の計画,が問題になってきたこの折に、範正のイシカリ入りがなされたのであった。,イシカリには二十九日まで滞在し、三十日にはツイシカリを出立し、千歳に向かうのであるが、この期間中、範正,範正の『公務日記』は、イシカリ滞在中のことはいたって簡単で、胸中にイシカリ改革のことがあったはずなのに,すでに、イシカリ改革の既定路線ができあがっていたためであろうか。 / 範正のイシカリ入り
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ役所の評価)

イシカリ役所の評価 イシカリ役所は、これまでみてきたように、イシカリ改革あるいはクシュンナイのイシカリ,この結果、イシカリの繁栄やサッポロの開発をもたらすなど、明治以降につながる基礎をきずいたといえよう。,またこの基礎の存在により、特にサッポロには本府が設置され、移民の招募がおこなわれたといえる。,以上の点で、イシカリ役所の存在と施策は、札幌市史にとり重要な意義をもち、高い評価を下すことができるのである / イシカリ役所の評価
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ場所の新道)

イシカリでも、(一)イシカリ・アツタ間、(二)イシカリ・ツイシカリ間、(三)銭箱・ユウフツ間、以上三本,一 イシカリよりツイシカリ迄新道之儀、是又請書出ス。同様申渡ス。,この時に、イシカリ場所請負人の阿部屋に、(一)・(二)の着工を命じたことがわかる。  ,さらに敷設に関して三分の一をイシカリ請負人にあてることを献言しており、この武四郎の献言のもとに(二)が,写真-1 ツイシカリ番家(西蝦夷図巻より) / イシカリ場所の新道
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ改革の胎動)

イシカリ改革の胎動 イシカリ改革は、漁場を独占した場所請負人を廃止し、場所経営を箱館奉行が直接的におこなうという,たとえば、イシカリ場所内の開発の問題である。,「イシカリ改革」の史料上の初見は、『公務日記』の安政四年四月三十日条である。,廻浦途上の村垣範正は、この日イシカリの廻浦を終え、千歳に着いていた。,から「イシカリ兼持」となっており、イシカリ「出張之見込」に対し、堀利熙の意見が具申されてきたのが、この / イシカリ改革の胎動
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ役所の創設)

イシカリ役所の創設 イシカリ改革の実施にともない、イシカリ場所全般の行政・司法をつかさどる機関として,創設されたのがイシカリ役所であった。  ,イシカリ役所は、これまでのイシカリ詰の役人の編成をそのまま継承したものではあったが、役所の組織下に漁場,ここでは、改革後のイシカリ役所の動向をさぐってみよう。  ,イシカリ改革の実施にともない、第一に手がけられたのは、建物の移管である。 / イシカリ役所の創設
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ通過の第一報)

イシカリ通過の第一報 調査団がイシカリに検分御用として到着するのは、目付グループ本隊が五月二十日、勘定方,イシカリについては、オタルナイより船路七里余とし、 イシカリ  運上家幷勤番所、蝦夷家有之。,シユウツ  [イシカリアツタ]境 と報じている。  ,』ともいう)には、「是より、西イシカリ越道有。,此所より船路イシカリ境迄、シユマヽフともふす処え四里、都合凡拾六里程にてイシカリ川へ出る。 / イシカリ通過の第一報
新札幌市史 第1巻 通史1 (金助赴任時のイシカリ)

金助赴任時のイシカリ この当時のまず第一の問題は、何度もふれてきたようにイシカリ改革の問題であった。,金助もイシカリに関する調書を作成しており、この実現にむけてまい進するところであった。,この安政四年二月に大竹慎十郎・長坂与一郎がイシカリに入地以降、四年中には一七人程の在住が、イシカリに続々,と入地あるいはイシカリ詰を申し渡されている。,在住による開発地所の選定、必要物資の補給などをすすめ、イシカリの開発を円滑におこなうことが、急務の問題 / 金助赴任時のイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリアイヌの流散)

イシカリアイヌの流散 イシカリ場所を支えたのは豊富な鮭であったが、さらにそれ以上に実はアイヌの人々の,第二次直轄になり、イシカリ場所が廃止され直捌となった要因には、場所請負人である阿部屋(村山家)の非道な,イシカリ改革以後は、イシカリ役所が改(あらため)役(会)所を通じて直接的に「撫育」を行うようになった。,また、アイヌへの優遇策を謳(うた)ったイシカリ改革であったが、この改革は同時に和人の出稼労働を招いて、,また、開墾地の拡大にしたがい、アイヌは土地を追われることとなり、かつて隆盛をほこったイシカリアイヌが、 / イシカリアイヌの流散
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ「場所」と鮭)

イシカリ「場所」と鮭 イシカリ川と、その支流に位置する現在の札幌市域を包括した地域が、きわめて鮭の豊富,なところとして和人史料に登場してくるのは、前述したように水戸藩の派遣した大船快風丸によるものであった。,なかでもイシカリの鮭はよく知られていたらしく、享保二年(一七一七)の『松前蝦夷記』にも、「鮭 蝦夷地之内, 石かり ましけト云所ニて多く取ル」とみえる。,このように豊富な鮭は、前述したごとく元禄年間を通じて、干鮭の多くとれる地域は、夏商の主産物として家臣へ / イシカリ「場所」と鮭
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ入津の廻船)

イシカリ入津の廻船 イシカリに毎年どのくらいの荷船が出入りしたのだろうか。,六十艘、九十艘と云ふは真にあらず」(いずれも石狩場所 札幌市街 石狩町資料)とのこと。,イシカリ改革の年、安政五年の入津は四五艘と記録にある(市史一三四、一四一頁)。  ,)とみなされるようになると、太平洋を流通ルートとする東廻り船の重要度が増し、東蝦夷地からの直䑺とともに,、江戸へ向かうイシカリ鮭の荷船が増加したのである。 / イシカリ入津の廻船
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ改役所の設置)

イシカリ改役所の設置 安政五年、改革による新体制のもとで、基幹産業の漁業をどう発展させていくべきか検討,新体制にそった変更なくして、イシカリ漁業の発展は望めず、イシカリ改革の成否にかかわる問題だったのである,そこで、まずイシカリ役所の下部組織としてイシカリ改役所(あらためやくしょ)を設置した。,漁業が生産基盤のイシカリでは、ほとんどの住人がこれにかかわりを持つから、アイヌの「撫育」を含め広く民生,イシカリ役所の収益とすることにあった。 / イシカリ改役所の設置
新札幌市史 第1巻 通史1 (荒井金助のイシカリ到着)

荒井金助のイシカリ到着 イシカリ詰の首班が水野一郎右衛門、長谷川儀三郎という変則体制も、新たに荒井金助,範正からは、当然、イシカリ改革のことも種々、言い含められていたことであろう。,イシカリに向かったのは翌二十八日のことで、到着したのは『札幌沿革史』(明治三十年刊)の編纂史料として、,しかし、今回は急ぐ旅であり、箱館からイシカリへは一〇日もあれば充分なので、金助は七月初旬にはイシカリ入,ちなみに、イシカリから箱館への用状は、一〇日程の日数を要した。 / 荒井金助のイシカリ到着
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリは「不宜場所」)

イシカリは「不宜場所」 『入北記』には、「此場所支配人、土人ノ取扱ヒ以ノ外、不宜場所第一ト云フベシ、,ヨリテカク仰渡サルト見ヘタリ」と、イシカリ場所がいかに「不宜場所」であったかを、感慨をこめて指摘している,しかし、特にイシカリ場所が尖鋭的にあらわれており、この解決は場所請負制の廃止―イシカリ改革に、またなければならなかった,ここには直接、イシカリ場所についてはふれていないが、ここでいう「流弊」とはイシカリ廻浦の直後だけに、暗,にイシカリ場所のことをさしているとみてよいだろう。 / イシカリは「不宜場所」
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリへの情報伝達)

イシカリへの情報伝達 ところで変転する中央での政治的動向は、蝦夷地イシカリにおいても為政者側には詳細,それは箱館奉行所を通じてイシカリ役所にもたらされ、さらにイシカリ役所から管内の詰合や在住に至るまで廻状,このような中にあって、明治元年四月十二日に蝦夷地統轄の箱館裁判所が設置され、その達書が閏四月二十二日にイシカリ,詰調役樋野恵助よりイシカリの在住の面々にも廻状をもって伝達された。,引き続き箱館裁判所権判事井上石見と同岡本監輔の連名による、杉浦旧箱館奉行あての次のような書付が、イシカリ / イシカリへの情報伝達
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロと水戸藩)

イシカリ・サッポロと水戸藩 諸藩が一斉に蝦夷地調査を始める安政三年、斉昭は逆に内願はもとより警衛開拓,その結果、安政期にイシカリ・サッポロと水戸藩はどのように結びついていくのだろうか。  ,、イシカリの話題が水戸市中でささやかれたことがあったのだろう。,第三は大津浜グループ(第四章第二節参照)をイシカリに送り込んだこと。,差配権、イシカリ浜及び下流での鮭漁経営、イシカリの初代浜名主、同湊案内役。 第4章2節(1)       / イシカリ・サッポロと水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリアイヌの入会権)

イシカリアイヌの入会権 かたや千歳アイヌのイシカリ川筋での漁、かたやイシカリ川筋のアイヌの千歳川筋での,上ツイシカリの惣乙名シレマウカ、下ツイシカリの乙名レタリカウク、上ユウバリのアンラマシテ、同カシュウシ,上ツイシカリの惣乙名シレマウカは、『由来記』によれば、元来は千歳アイヌ系であるという。,なぜ上ツイシカリの惣乙名になったかは不明である。,同じイシカリ場所のうち下ツイシカリの乙名レタリカウクの場合も、やはり父親の代からイザリの干鮭場への出漁権 / イシカリアイヌの入会権
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ御用達と問屋の出店)

イシカリ御用達と問屋の出店 イシカリ改革により出稼人の急増をみるが、その多くは資力に乏しく、有力商人,一つはイシカリ直捌用達の任命である。,その主務は、直捌にともなう直営引場の鮭と役納鮭及び軽物類の移出販売で、イシカリ役所が必要とする物資の納品,利兵衛は前イシカリ場所請負人の一族で、すでに出店(本陣)をイシカリに持っていたが、あとの二者は翌安政六年出店,こうして改革後の流通機能は、イシカリ役所の強い統制のもとで発展していくのである。 / イシカリ御用達と問屋の出店
新札幌市史 第1巻 通史1 (幕府の崩壊とイシカリ在住)

幕府の崩壊とイシカリ在住 おそらく安政五、六年ころに最多数に達したイシカリ在住は、その後漸減し、明治元年八月現在,このうち中村はヤウスバに入地したとされているが、実態は兼定役代すなわち行政官として、主としてイシカリ役所,に出仕していたとみられる。,荒井好太郎も本拠をシノロにおきながらも、やはりイシカリ役所に出仕していたとみられるが、荒井については、,されており、この二人が最後のイシカリ在住と思われる(御人撰評議)。 / 幕府の崩壊とイシカリ在住
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地見回りとイシカリ場所)

蝦夷地見回りとイシカリ場所 ロシア船による襲撃事件の一方、文化四年五月十八日、異国船(のちに米国船と,ユウフツとイシカリとを結ぶ東西連絡路のシコツ越え道は、この事件の結果警備のために任地へ赴く幕吏や諸藩士,ところで、田草川と行動をともにした近藤重蔵は、イシカリをまた別の角度から見ていた。,それよりソウヤまで行き、任務を果たし、帰途は、イシカリまで戻り、イシカリ川よりシコツ越え道を通って東海岸,へ抜けたが、近藤重蔵のみは、テシオ川を遡り、それよりイシカリ川上流に出て、イシカリ川を下るコースをとった / 蝦夷地見回りとイシカリ場所
新札幌市史 第1巻 通史1 (東寗元稹のみたイシカリ)

東寗元稹のみたイシカリ 遠山、村垣一行は、同年八月江戸に帰って復命し、これにより西蝦夷地の直轄は確定,イシカリ[夷百軒余、運上屋十一軒]蝦夷地秋味大猟の所、三、四十年以前には、十二はひ程有しが、近来不猟と,一ぱひと云は、千石積一艘の事にて、鮭の数五万本也。イシカリ川、大河にて、千石余の船も岸によつて繫ぐ。,このように、イシカリにはアイヌの家が一〇〇軒ほど、運上屋が一一軒あって、秋味漁もかつては一〇〇〇石積一二艘分,れてトウベツなど、イシカリ平野の奥深く探検していたらしいことがうかがわれる。 / 東寗元稹のみたイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (上ツイシカリアイヌの離散)

上ツイシカリアイヌの離散 シレマウカの本拠地である上ツイシカリの場合、もっとも大きな影響を受けている,東蝦夷地内のウライ没収以降文化十年(一八一三)までの間に、シレマウカとその一族が上ツイシカリを去ったため,、「上ツイシカリ蝦夷人住居不仕不残他場所住居仕候」(由来記)というごとく、無人と化している。,其後人別御取調之節上ツイシカリ人数ニ相成候。  ,うちイザリブトへの移転は、シレマウカと息子やウタレたちで、「代々住居仕候」といっているので上ツイシカリ / 上ツイシカリアイヌの離散
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ在住の入地)

イシカリ在住の入地 第七・八章でのべたように、在住制あるいは大友亀太郎を担当者とした御手作場設置等によって,したがって本章ではこの問題には立ち入らず、村と呼称された集落について判明したことを記述するにとどめる。,おそらくこの三村は、開拓使から既存の村として認知されていたものと思われる。  ,ハッサム村は、安政四年(一八五七)二月に箱館奉行によってイシカリ在住入地の中心地と位置づけられたことに,骨子としている。 / イシカリ在住の入地
新札幌市史 第1巻 通史1 (紛争後のイシカリの首長)

紛争後のイシカリの首長 紛争後のイシカリの総大将ハウカセの動向についてはわからないが、その後なおしばらく,がイシカリの総首長であるように示している。,なお、庄屋のような役のもの一三人とあるが、それはイシカリ場所の各首長なのだろうか、享保二年(一七一七),イシカリの「またべ」もこの時期、これに比される頭人と見られていたわけであるが、松前藩士の商場知行地が蝦夷地,川流域のアイヌはペニウンクルとシュムクル派に属し、ペニウンクルは上流の人の意で、近文・ドロカワのイシカリ / 紛争後のイシカリの首長
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロの検分)

イシカリ・サッポロの検分 安政期に水戸藩がイシカリ・サッポロを領地としたり、藩の事業として直接開拓にあたることはなかったが,大津浜グループがイシカリの鮭漁業に着手した年、その実態をたしかめ藩としての対応を考えるための実地検分である,イシカリ・サッポロに来たのは生田目弥之介(なまためやのすけ)という人。,鮭漁期の十月七―十二日をイシカリ滞在とし、大津浜グループの漁業の実態をつかもうとしたのである。,ツイシカリからエベツブトにかけてのこうした調査は、箱館奉行の思惑と示唆が背後にあったと思われる。   / イシカリ・サッポロの検分
新札幌市史 第1巻 通史1 (テシオ川からイシカリ川へ)

テシオ川からイシカリ川へ 近藤重蔵ら一行は、九月二日イシカリを立ってリシリ島目指して北上した。,、帰路確認のこと、③西地警固の者の配置場所としては、ソウヤのほかはタカシマ、オタルナイのみと思われること,ソウヤよりの帰路は、近藤重蔵は一行の二人と別れ上下五人とともにテシオ川を遡り、イシカリ川上流へ出るコース,続く『石狩川筋図』の方は、テシオ川からシオカリ峠を越えてイシカリ川へ出てからで、十月十二日の「タナシ山高凡十丈,チュクベツ番屋から下流については、残念ながら図面は欠くが、のちの記録に「イシカリ河原ヨリ深山幽谷数十里 / テシオ川からイシカリ川へ
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎のイシカリ川筋探検)

トクヒラ イシカリより2丁程。,トマヽツタイ アイヌ小屋あり。 ツイシカリ イシカリより9里半。枝川秋味1000石上る。,いま一カ所ツイシカリ場所は、もともとシノツ(スノツ)にあったが、二〇年ばかり以前に当時のツイシカリ川河口,武四郎と同行のアイヌたちは、イシカリ川河口より九里半遡ったツイシカリでまず一泊したらしい。,ツイシカリより先は、エベツブト(イベツブト)でイシカリ川本流と分かれ、支流の千歳川に入った。 / 松浦武四郎のイシカリ川筋探検
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ開拓と荒井村の性格)

イシカリ開拓と荒井村の性格 以上みてきたように、荒井村は荒井金助が自費で開いた村であるが、幕吏の自費開墾,ここで問題の整理として、この時期イシカリの農業開拓の状況等についてまとめてみたい。,まずイシカリ役所直轄地内の在住は、盛期で二〇人以上入地したが、官の期待とははるかに遠い成果しかあげることができなかった,は在住と同じく実質的な知行地とされた、と考えるのがもっとも可能性として強いように思われる。,として官の土地、そして幕吏によるものが何某開墾地として在住同様となるということである。 / イシカリ開拓と荒井村の性格
新札幌市史 第1巻 通史1 (最上徳内のイシカリ探検)

最上徳内のイシカリ探検 東寗元稹の記述から、たまたま最上徳内の行動の一端が知られるわけであるが、公式記録,この時の最上徳内のイシカリ探検について詳細を知ることはできないが、のちに松浦武四郎が記しているところによれば,と記していることによってうかがわれる。  ,是迄を上ユフバリと云ふ。是より上を下ユフバリといふ。,最上徳内と松浦武四郎の探検は、その間約五〇年の隔たりがあるにもかかわらず、なお土地の人びとに記憶されていたというのも / 最上徳内のイシカリ探検
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『あかだも』『いしかり』)

『あかだも』『いしかり』 『凍土』より早い昭和二十八年一月、札幌アララギ歌会の編集により『羊蹄』休刊,の後継誌として『あかだも』が創刊され二十九年三月まで一五号を出して休刊した。,『いしかり』の創刊は三十一年一月。,主宰者は芥子澤新之介で毎号「赤鉛筆」という欄で歌に関する感想や主張を述べた。,復刊は四十六年二月で水口幾代が編集発行人となった。 / 『あかだも』『いしかり』
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリほか二場所借用運動)

イシカリほか二場所借用運動 『北方未来考』立稿後も斉昭は、蝦夷地領有嘆願運動をくりかえした。,原のカラフトはじめイシカリ、ソウヤ・リシリ計三場所借用の依頼を聞いて驚いた山田は、勝手掛家老蠣崎将監、,以上が、天保十四年の水戸藩によるイシカリほか二場所借用運動である。,イシカリ場所は一〇〇〇両、カラフト場所は一六〇〇両というごとく、有望場所のみをあげていたことが知られる,改革にともない、水戸大津浜の五十嵐勝右衛門という人物が、箱館奉行所から出稼としてイシカリの鮭漁場を割当 / イシカリほか二場所借用運動
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ赴任に際しての諸条件提示)

イシカリ赴任に際しての諸条件提示 次に第二の書類は『石狩出張ニ付奉願上候』と表記されたもので、ここでは,①大友と共にイシカリ開拓取扱として発令された関定吉が依願免となり、「私壱人ニテ取扱、万一手違等モ有之候,③八、九月頃移住予定の農民に給付する、米、塩噌、農具、家財等の諸物品は、夏中に買い入れてイシカリとオタルナイ,役所買上品を渡すこと、また来年以降の入用品は、イシカリにおいて越後その他に注文すべきとの奉行所の回答である,⑥イシカリ赴任後の公用出張の旅費、また石狩役所出張の節の宿泊費の支給を要請したのに対しては、不許可となっている / イシカリ赴任に際しての諸条件提示
新札幌市史 第6巻 史料編1 (〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕)

〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕 巳第三番 辰 シヤコタン ヒクニ フルヒラ 石カリ ヨイチ 人別, イシカリ之内   〔トクヒタ惣乙名〕   〔ハツシヤフ乙名〕   〔下サツホロ乙名〕   ,〔上サツホロ乙名〕   〔上ツイシカリ乙名〕   〔下ツイシカリ乙名〕   〔上カハタ乙名〕 / 〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕
新札幌市史 第1巻 通史1 (カラフトへの足場)

をみせた対ロシア外交に、イシカリ改革が果たした役割は小さくない。  ,写真-17 カラフトを調査する佐倉藩士(北蝦夷画帳の内)  イシカリ改革にともない、イシカリ場所,いいかえれば、カラフトのクシュンナイ直捌のためにも、イシカリの掌握が必要となり、イシカリ役所はイシカリ,イシカリ直捌との違いは、出稼人への仕込みまで箱館奉行所の名で行ったこと。,通称としてイシカリも直場所と呼ばれたが、奉行所は原則としてこれを認めなかったのは(市史六二頁)、イシカリ / カラフトへの足場
新札幌市史 第1巻 通史1 (第三回訴願と収拾)

文政五年三月、シリコノエは、小使サエラフニとの連名で、イシカリの支配人源右衛門と通詞平八の奥書を添えて,、紛争事件の顛末を縷々書き綴った願書を松前藩のイシカリ詰合宛に提出した。,そのおもな内容は、イザリ・ムイザリのウライ二カ所を返還する条件として、「イシカリ領分川筋ヘウラエ三ケ所之,ウラエ拵漁業仕度奉存候」と、ユウフツアイヌのウライをイシカリ川筋に三カ所設置するというものであった。,しかし、イシカリ・ユウフツのそれぞれの請負人をみてみると、二回目の訴願の時イシカリ場所の請負人だった米屋孫兵衛 / 第三回訴願と収拾
新札幌市史 第1巻 通史1 (運送と通信)

それゆえ、イシカリ場所ではイシカリより、①オタルナイ、②ユウフツないし千歳会所、③アツタ、以上の三区間,イシカリで馬が使用されるのは、イシカリ改革以降のことのようである。,佐倉藩士の一行が安政四年(一八五七)七月五日に、イシカリから銭箱にむけ馬を雇おうとしたが、「未だ荊馬にて,明治三年『兵部省分引継書類』には、イシカリには四八頭の馬が記載されている。,なお、安政六年九月には、牛二〇頭がイシカリに送られていた(ヨイチ御場所見廻日記)。   / 運送と通信
新札幌市史 第1巻 通史1 (知行と勤番)

ただし、西蝦夷地は幕府直轄時には、勤番所が五カ所あったが、今回はイシカリ・ソウヤ・カラフトの三カ所に減,天保九年(一八三八)の『蝦夷情実』(函図)によれば、イシカリ、ソウヤ、カラフトの西蝦夷地の勤番人数は四二人,越年手当も、オタスツが一六〇~一七〇両くらい、イシカリが五五~六〇両くらいと決まっており、イシカリ勤番所,このような松前藩士による勤番は、安政二年(一八五五)に幕府直轄となるまで継続され、安政二年のイシカリ勤番,おそらく最後のイシカリ勤番であろう。 / 知行と勤番
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の目的と行程)

イシカリの調査は当然ながら、この一旅程に含まれる。  ,前者は五月二十一日イシカリに到着し一泊ののちカラフトへ向かい、後者は二日後の二十三日イシカリ着、昼食休憩,のみをイシカリでとり、宿泊することなくカラフトへ急いだ。,後に紹介するように本隊を離れ千歳越によりイシカリに至る人、帰路東蝦夷地を回らずイシカリを再検分した人、,安政元年のイシカリの現況を理解するためにも、調査メンバーにより書き残された記録からイシカリの様子をうかがうことにする / 調査の目的と行程
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