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新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ見聞)
イシカリ
見聞 一行は安政四年三月七日郷里を出発、四月八日箱館に到着した。,ソウヤにもどったあ
と
オホーツク海岸から太平洋岸を通り、八月二日ユウフツ泊、翌日ここから再び
イシカリ
を目,いわゆる千歳越を往復して内陸を調査し、
イシカリ
の位置をさらに確かめよう
と
、八月四日
イシカリ
着、翌日この,このように成石は老中阿部家の石川和介など
と
同じく、安政四年の春秋二度
イシカリ
を検分、「開墾耕種の地には,また、この紀行から
イシカリ
近辺の交通事情を知るこ
と
ができる。 /
イシカリ
見聞
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの詰役)
日本海沿岸の西蝦夷地は、はじめスッツ・
イシカリ
・ルルモッヘ(留萌)の三カ所の持場(詰)割
と
された(後に,そのうち
イシカリ
は当初シャコタン、ビクニ、フルビラ、ヨイチ、オショロ、タカシマ、オタルナイ、
イシカリ
、,アツタ、以上の九場所を管轄し、
イシカリ
が調役の駐在する詰場所
と
された。,図-1
イシカリ
持場所(○印)
イシカリ
が詰場所に選定されたのは、安政二年十一月に出された箱館奉行,て滞留のよし」
と
されており、この前後に
イシカリ
場所の引継がおこなわれていたこ
と
がわかる。 /
イシカリ
の詰役
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ要害論)
イシカリ
要害論
イシカリ
川を下った近藤重蔵は、復命書にあたる蝦夷地取調書を見る限り
イシカリ
付近の奥深,触れているが、
イシカリ
の将来を見通した、いわゆる「
イシカリ
要害論」であった。,②
イシカリ
場所について
イシカリ
場所が「蝦夷地第一ノ都会ノ地」である
と
いったように聞いている。,第一には、
イシカリ
川筋カバ
ト
山。,
イシカリ
の将来を見越した、また
イシカリ
場所の漁業資源
と
そこに集まる人的資源に着目した防衛論が前面に出るあまり /
イシカリ
要害論
新札幌市史 第1巻 通史1
(海防論とイシカリ)
海防論
と
イシカリ
寛政年間(一七八九~一八〇〇)以降、ロシア、イギリスなど外国船の来航が頻繁
と
なり、,弘化三年、ちょうど松浦武四郎がカラフ
ト
を探検して、帰途
イシカリ
を通ってユウフツへ抜けた同じ年にも松前近海,その場合
イシカリ
よりハママシケへの通行は、ツ
イシカリ
よりルルモッペ(留萌)への道路を開削するがよいだろう,④
イシカリ
詰の勤番が小人数なので、人員増加した方がよいだろう。 ,軍艦造営の拠点を
イシカリ
に据えたのは、近藤重蔵の
イシカリ
要害論に影響されたのだろうか。 / 海防論
と
イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの繁栄)
イシカリ
の繁栄
イシカリ
改革以降、出稼人が大幅に増加し、越年もするようになった。,それらに
と
もない商人・職人もふえ、
イシカリ
に町家がたちならび、町並みも形成され町役も任命されるようになった,荒井金助は、
イシカリ
に本府を建設し、将来は〝北京〟にしよう
と
する壮大なプランをもっていたので、移民の奨励,この金助のプラン及び箱館奉行の政策により、
イシカリ
に永住人も次第にふえ、
イシカリ
が繁栄してくる様子は、,願書類の控や布達書類がよく残されており、
イシカリ
市中の動向がよくうかがえる、貴重な資料群
と
なっている。 /
イシカリ
の繁栄
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの機能)
イシカリ
の機能 武四郎はしばしば
イシカリ
をもって、枢要の地
と
称している。,これをみる
と
枢要の地
イシカリ
と
は、石狩川河口の運上所や勤番所を中心
と
した
イシカリ
の集落地域のみを指すのではなく,、広義に
イシカリ
十三場所を含む石狩川下流地域を指している
と
推察される。,
イシカリ
は西蝦夷地の海上航路において、箱館
と
ソウヤの間のほぼ中間に位置し、またすでにユウフツ
と
をもって,、
イシカリ
の重要性はますます増大されていくのである。 /
イシカリ
の機能
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの開発)
イシカリ
の開発 北蝦夷地(カラフ
ト
)におけるロシア南進の急迫化に
と
もなって、幕府は現地北蝦夷地での直接的,このような中にあって、西蝦夷地の
イシカリ
は、つ
と
に箱館奉行所においても注目する
と
ころの地であった。,、
イシカリ
は古くから西蝦夷地
と
東蝦夷地
と
を結ぶ重要な交通の起点であり、また石狩川河口域は鮭漁の有数な漁場,このような重要な位置を占める
イシカリ
は、松前藩の時代より引き続き、阿部屋村山伝二郎が場所請負人
と
して差配,の請負制を廃して直捌
と
し、いわゆる
イシカリ
改革を断行した(第四章参照)。 /
イシカリ
の開発
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ山請負)
イシカリ
山請負 宝暦年代(一七五一~六三)以降になる
と
、
イシカリ
場所の請負の形態のひ
と
つ
と
して、
イシカリ
,翌年七月二十八日付の
イシカリ
山伐木願書によれば、宝暦五年より八カ年間
イシカリ
山へ杣夫を入れ、寸甫=丸太一,表3は、
イシカリ
囲木寸甫
と
江戸・大坂登寸甫等の各生産高
と
、山方入用金等山方費用高および商売徳用金(純利益,ためしに宝暦十年分の生産高をみてみる
と
、
イシカリ
囲木寸甫
と
江戸・大坂登寸甫
と
を合計した四万五四七八挺であり,(純利益) 備考
イシカリ
囲木寸甫 江戸・大坂登寸甫
イシカリ
山方入用金 杣方当座渡金 6月9月勘定分手代貸 /
イシカリ
山請負
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ川の地図)
イシカリ
川の地図
と
ころで、サッポロ川がツ
イシカリ
川に流れ込むように流路を変えたこ
と
を証明する地図が,分流してフシコサッポロ川(旧サッポロ川)
と
サッポロ川(旧ツ
イシカリ
川)
と
なり、サッポロブ
ト
で、かたやツ
イシカリ
ブ
ト
,でそれぞれ
イシカリ
川
と
合流している。,(2)『
イシカリ
川之図』 本図は、写真5のご
と
く
イシカリ
川の河口から上流域サンケシにいたる流域を横長,川に流れ、ツ
イシカリ
で
イシカリ
川に合流している。 /
イシカリ
川の地図
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの内国化)
しかし、そうした歴史的方向へ確実に進行していたこ
と
を
イシカリ
改革は物語っている。 ,ユウフツ場所からは多くのアイヌが
イシカリ
場所に毎年やって来た。,
イシカリ
のアイヌは場所請負人の支配をはなれ、
イシカリ
役所の管轄に入り風俗習慣まで内国化を求められる。,改革により
イシカリ
の異域性は音をたてて崩れだした。,しかし、この時点で
イシカリ
が村
と
ならず、村並
と
さえ呼ばれた形跡がないこ
と
は、改革の限界を示すのだろう。 /
イシカリ
の内国化
新札幌市史 第1巻 通史1
(第二次直轄とイシカリ)
第二次直轄
と
イシカリ
第二次直轄
と
なり、
イシカリ
には調役以下の詰合役人が派遣されるようになるが、特に,
イシカリ
詰の調役は、シャコタン(積丹)からアツタ(厚田)までを
イシカリ
持場
と
して担当するこ
と
になった。,それゆえ、
イシカリ
はこれらの広域地域における行政の中心地
と
なった。 ,
イシカリ
改革であった。,
イシカリ
改革に
と
もない、
イシカリ
詰の勤番所は
イシカリ
役所
と
称されるようになった。 / 第二次直轄
と
イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ建府との関係)
イシカリ
建府
と
の関係 善光寺・西本願寺が
と
もに、サッポロ・ハッサムに寺院建立の指定をうけたのは、蝦夷地総鎮守社,の建立
と
同様に、
イシカリ
建府の設定
と
つよく関係をもっている。,に
イシカリ
の本府をおくこ
と
が、企図されていたためである。,またあわせて、
イシカリ
開発のこ
と
が期待されていた。 ,
イシカリ
には、慶応二年(一八六七)二月に、改会所の通詞役であった玉川啓吉宅に、箱館御坊付
イシカリ
道場が /
イシカリ
建府
と
の関係
新札幌市史 第1巻 通史1
(武四郎とイシカリ改革)
武四郎
と
イシカリ
改革 武四郎は「石狩場所人別帳に添て上る書」(燼心餘赤)にて、
イシカリ
場所は運上金年一,武四郎は
イシカリ
改革後の
イシカリ
の様子を、「此度直捌に成てより移住の者も多く、僅一年の間に一すじの町家,
と
なりしも、偏に休明の御世なるかな」
と
述べ、
イシカリ
改革の成果を「休明の御世」
と
讃嘆している(西蝦夷日誌,
イシカリ
改革の成果が実際的にどのようなものであり、武四郎はどのように評価しえたのか興味がもたれる。,しかし武四郎は安政六年(一八五九)以降、二度
と
この蝦夷地に渡るこ
と
がなかった。 / 武四郎
と
イシカリ
改革
新札幌市史 第1巻 通史1
(範正のイシカリ入り)
範正の
イシカリ
入り 写真-2 村垣淡路守範正 (市立函館図書館蔵) 以上の
イシカリ
改革の計画,が問題になってきたこの折に、範正の
イシカリ
入りがなされたのであった。,
イシカリ
には二十九日まで滞在し、三十日にはツ
イシカリ
を出立し、千歳に向かうのであるが、この期間中、範正,範正の『公務日記』は、
イシカリ
滞在中のこ
と
はいたって簡単で、胸中に
イシカリ
改革のこ
と
があったはずなのに,すでに、
イシカリ
改革の既定路線ができあがっていたためであろうか。 / 範正の
イシカリ
入り
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ役所の評価)
イシカリ
役所の評価
イシカリ
役所は、これまでみてきたように、
イシカリ
改革あるいはクシュンナイの
イシカリ
,この結果、
イシカリ
の繁栄やサッポロの開発をもたらすなど、明治以降につながる基礎をきずいた
と
いえよう。,またこの基礎の存在により、特にサッポロには本府が設置され、移民の招募がおこなわれた
と
いえる。,以上の点で、
イシカリ
役所の存在
と
施策は、札幌市史に
と
り重要な意義をもち、高い評価を下すこ
と
ができるのである /
イシカリ
役所の評価
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ場所の新道)
イシカリ
でも、(一)
イシカリ
・アツタ間、(二)
イシカリ
・ツ
イシカリ
間、(三)銭箱・ユウフツ間、以上三本,一
イシカリ
よりツ
イシカリ
迄新道之儀、是又請書出ス。同様申渡ス。,この時に、
イシカリ
場所請負人の阿部屋に、(一)・(二)の着工を命じたこ
と
がわかる。 ,さらに敷設に関して三分の一を
イシカリ
請負人にあてるこ
と
を献言しており、この武四郎の献言のも
と
に(二)が,写真-1 ツ
イシカリ
番家(西蝦夷図巻より) /
イシカリ
場所の新道
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ改革の胎動)
イシカリ
改革の胎動
イシカリ
改革は、漁場を独占した場所請負人を廃止し、場所経営を箱館奉行が直接的におこなう
と
いう,た
と
えば、
イシカリ
場所内の開発の問題である。,「
イシカリ
改革」の史料上の初見は、『公務日記』の安政四年四月三十日条である。,廻浦途上の村垣範正は、この日
イシカリ
の廻浦を終え、千歳に着いていた。,から「
イシカリ
兼持」
と
なっており、
イシカリ
「出張之見込」に対し、堀利熙の意見が具申されてきたのが、この /
イシカリ
改革の胎動
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ役所の創設)
イシカリ
役所の創設
イシカリ
改革の実施に
と
もない、
イシカリ
場所全般の行政・司法をつかさどる機関
と
して,創設されたのが
イシカリ
役所であった。 ,
イシカリ
役所は、これまでの
イシカリ
詰の役人の編成をそのまま継承したものではあったが、役所の組織下に漁場,ここでは、改革後の
イシカリ
役所の動向をさぐってみよう。 ,
イシカリ
改革の実施に
と
もない、第一に手がけられたのは、建物の移管である。 /
イシカリ
役所の創設
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ通過の第一報)
イシカリ
通過の第一報 調査団が
イシカリ
に検分御用
と
して到着するのは、目付グループ本隊が五月二十日、勘定方,
イシカリ
については、オタルナイより船路七里余
と
し、
イシカリ
運上家幷勤番所、蝦夷家有之。,シユウツ [
イシカリ
アツタ]境
と
報じている。 ,』
と
もいう)には、「是より、西
イシカリ
越道有。,此所より船路
イシカリ
境迄、シユマヽフ
と
もふす処え四里、都合凡拾六里程にて
イシカリ
川へ出る。 /
イシカリ
通過の第一報
新札幌市史 第1巻 通史1
(金助赴任時のイシカリ)
金助赴任時の
イシカリ
この当時のまず第一の問題は、何度もふれてきたように
イシカリ
改革の問題であった。,金助も
イシカリ
に関する調書を作成しており、この実現にむけてまい進する
と
ころであった。,この安政四年二月に大竹慎十郎・長坂与一郎が
イシカリ
に入地以降、四年中には一七人程の在住が、
イシカリ
に続々,
と
入地あるいは
イシカリ
詰を申し渡されている。,在住による開発地所の選定、必要物資の補給などをすすめ、
イシカリ
の開発を円滑におこなうこ
と
が、急務の問題 / 金助赴任時の
イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリアイヌの流散)
イシカリ
アイヌの流散
イシカリ
場所を支えたのは豊富な鮭であったが、さらにそれ以上に実はアイヌの人々の,第二次直轄になり、
イシカリ
場所が廃止され直捌
と
なった要因には、場所請負人である阿部屋(村山家)の非道な,
イシカリ
改革以後は、
イシカリ
役所が改(あらため)役(会)所を通じて直接的に「撫育」を行うようになった。,また、アイヌへの優遇策を謳(うた)った
イシカリ
改革であったが、この改革は同時に和人の出稼労働を招いて、,また、開墾地の拡大にしたがい、アイヌは土地を追われるこ
と
と
なり、かつて隆盛をほこった
イシカリ
アイヌが、 /
イシカリ
アイヌの流散
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ「場所」と鮭)
イシカリ
「場所」
と
鮭
イシカリ
川
と
、その支流に位置する現在の札幌市域を包括した地域が、きわめて鮭の豊富,な
と
ころ
と
して和人史料に登場してくるのは、前述したように水戸藩の派遣した大船快風丸によるものであった。,なかでも
イシカリ
の鮭はよく知られていたらしく、享保二年(一七一七)の『松前蝦夷記』にも、「鮭 蝦夷地之内, 石かり ましけ
ト
云所ニて多く取ル」
と
みえる。,このように豊富な鮭は、前述したご
と
く元禄年間を通じて、干鮭の多く
と
れる地域は、夏商の主産物
と
して家臣へ /
イシカリ
「場所」
と
鮭
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ入津の廻船)
イシカリ
入津の廻船
イシカリ
に毎年どのくらいの荷船が出入りしたのだろうか。,六十艘、九十艘
と
云ふは真にあらず」(いずれも石狩場所 札幌市街 石狩町資料)
と
のこ
と
。,
イシカリ
改革の年、安政五年の入津は四五艘
と
記録にある(市史一三四、一四一頁)。 ,)
と
みなされるようになる
と
、太平洋を流通ルー
ト
と
する東廻り船の重要度が増し、東蝦夷地からの直䑺
と
と
もに,、江戸へ向かう
イシカリ
鮭の荷船が増加したのである。 /
イシカリ
入津の廻船
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ改役所の設置)
イシカリ
改役所の設置 安政五年、改革による新体制のも
と
で、基幹産業の漁業をどう発展させていくべきか検討,新体制にそった変更なくして、
イシカリ
漁業の発展は望めず、
イシカリ
改革の成否にかかわる問題だったのである,そこで、まず
イシカリ
役所の下部組織
と
して
イシカリ
改役所(あらためやくしょ)を設置した。,漁業が生産基盤の
イシカリ
では、ほ
と
んどの住人がこれにかかわりを持つから、アイヌの「撫育」を含め広く民生,
イシカリ
役所の収益
と
するこ
と
にあった。 /
イシカリ
改役所の設置
新札幌市史 第1巻 通史1
(荒井金助のイシカリ到着)
荒井金助の
イシカリ
到着
イシカリ
詰の首班が水野一郎右衛門、長谷川儀三郎
と
いう変則体制も、新たに荒井金助,範正からは、当然、
イシカリ
改革のこ
と
も種々、言い含められていたこ
と
であろう。,
イシカリ
に向かったのは翌二十八日のこ
と
で、到着したのは『札幌沿革史』(明治三十年刊)の編纂史料
と
して、,しかし、今回は急ぐ旅であり、箱館から
イシカリ
へは一〇日もあれば充分なので、金助は七月初旬には
イシカリ
入,ちなみに、
イシカリ
から箱館への用状は、一〇日程の日数を要した。 / 荒井金助の
イシカリ
到着
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリは「不宜場所」)
イシカリ
は「不宜場所」 『入北記』には、「此場所支配人、土人ノ取扱ヒ以ノ外、不宜場所第一
ト
云フベシ、,ヨリテカク仰渡サル
ト
見ヘタリ」
と
、
イシカリ
場所がいかに「不宜場所」であったかを、感慨をこめて指摘している,しかし、特に
イシカリ
場所が尖鋭的にあらわれており、この解決は場所請負制の廃止―
イシカリ
改革に、またなければならなかった,ここには直接、
イシカリ
場所についてはふれていないが、ここでいう「流弊」
と
は
イシカリ
廻浦の直後だけに、暗,に
イシカリ
場所のこ
と
をさしている
と
みてよいだろう。 /
イシカリ
は「不宜場所」
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ御用達と問屋の出店)
イシカリ
御用達
と
問屋の出店
イシカリ
改革により出稼人の急増をみるが、その多くは資力に乏しく、有力商人,一つは
イシカリ
直捌用達の任命である。,その主務は、直捌に
と
もなう直営引場の鮭
と
役納鮭及び軽物類の移出販売で、
イシカリ
役所が必要
と
する物資の納品,利兵衛は前
イシカリ
場所請負人の一族で、すでに出店(本陣)を
イシカリ
に持っていたが、あ
と
の二者は翌安政六年出店,こうして改革後の流通機能は、
イシカリ
役所の強い統制のも
と
で発展していくのである。 /
イシカリ
御用達
と
問屋の出店
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ・サッポロと水戸藩)
イシカリ
・サッポロ
と
水戸藩 諸藩が一斉に蝦夷地調査を始める安政三年、斉昭は逆に内願はも
と
より警衛開拓,その結果、安政期に
イシカリ
・サッポロ
と
水戸藩はどのように結びついていくのだろうか。 ,、
イシカリ
の話題が水戸市中でささやかれたこ
と
があったのだろう。,第三は大津浜グループ(第四章第二節参照)を
イシカリ
に送り込んだこ
と
。,差配権、
イシカリ
浜及び下流での鮭漁経営、
イシカリ
の初代浜名主、同湊案内役。 第4章2節(1) /
イシカリ
・サッポロ
と
水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリアイヌの入会権)
イシカリ
アイヌの入会権 かたや千歳アイヌの
イシカリ
川筋での漁、かたや
イシカリ
川筋のアイヌの千歳川筋での,上ツ
イシカリ
の惣乙名シレマウカ、下ツ
イシカリ
の乙名レタリカウク、上ユウバリのアンラマシテ、同カシュウシ,上ツ
イシカリ
の惣乙名シレマウカは、『由来記』によれば、元来は千歳アイヌ系である
と
いう。,なぜ上ツ
イシカリ
の惣乙名になったかは不明である。,同じ
イシカリ
場所のうち下ツ
イシカリ
の乙名レタリカウクの場合も、やはり父親の代からイザリの干鮭場への出漁権 /
イシカリ
アイヌの入会権
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリへの情報伝達)
イシカリ
への情報伝達
と
ころで変転する中央での政治的動向は、蝦夷地
イシカリ
においても為政者側には詳細,それは箱館奉行所を通じて
イシカリ
役所にもたらされ、さらに
イシカリ
役所から管内の詰合や在住に至るまで廻状,このような中にあって、明治元年四月十二日に蝦夷地統轄の箱館裁判所が設置され、その達書が閏四月二十二日に
イシカリ
,詰調役樋野恵助より
イシカリ
の在住の面々にも廻状をもって伝達された。,引き続き箱館裁判所権判事井上石見
と
同岡本監輔の連名による、杉浦旧箱館奉行あての次のような書付が、
イシカリ
/
イシカリ
への情報伝達
新札幌市史 第1巻 通史1
(幕府の崩壊とイシカリ在住)
幕府の崩壊
と
イシカリ
在住 おそらく安政五、六年ころに最多数に達した
イシカリ
在住は、その後漸減し、明治元年八月現在,このうち中村はヤウスバに入地した
と
されているが、実態は兼定役代すなわち行政官
と
して、主
と
して
イシカリ
役所,に出仕していた
と
みられる。,荒井好太郎も本拠をシノロにおきながらも、やはり
イシカリ
役所に出仕していた
と
みられるが、荒井については、,されており、この二人が最後の
イシカリ
在住
と
思われる(御人撰評議)。 / 幕府の崩壊
と
イシカリ
在住
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地見回りとイシカリ場所)
蝦夷地見回り
と
イシカリ
場所 ロシア船による襲撃事件の一方、文化四年五月十八日、異国船(のちに米国船
と
,ユウフツ
と
イシカリ
と
を結ぶ東西連絡路のシコツ越え道は、この事件の結果警備のために任地へ赴く幕吏や諸藩士,
と
ころで、田草川
と
行動を
と
もにした近藤重蔵は、
イシカリ
をまた別の角度から見ていた。,それよりソウヤまで行き、任務を果たし、帰途は、
イシカリ
まで戻り、
イシカリ
川よりシコツ越え道を通って東海岸,へ抜けたが、近藤重蔵のみは、テシオ川を遡り、それより
イシカリ
川上流に出て、
イシカリ
川を下るコースを
と
った / 蝦夷地見回り
と
イシカリ
場所
新札幌市史 第1巻 通史1
(東寗元稹のみたイシカリ)
東寗元稹のみた
イシカリ
遠山、村垣一行は、同年八月江戸に帰って復命し、これにより西蝦夷地の直轄は確定,
イシカリ
[夷百軒余、運上屋十一軒]蝦夷地秋味大猟の所、三、四十年以前には、十二はひ程有しが、近来不猟
と
,一ぱひ
と
云は、千石積一艘の事にて、鮭の数五万本也。
イシカリ
川、大河にて、千石余の船も岸によつて繫ぐ。,このように、
イシカリ
にはアイヌの家が一〇〇軒ほど、運上屋が一一軒あって、秋味漁もかつては一〇〇〇石積一二艘分,れて
ト
ウベツなど、
イシカリ
平野の奥深く探検していたらしいこ
と
がうかがわれる。 / 東寗元稹のみた
イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(上ツイシカリアイヌの離散)
上ツ
イシカリ
アイヌの離散 シレマウカの本拠地である上ツ
イシカリ
の場合、もっ
と
も大きな影響を受けている,東蝦夷地内のウライ没収以降文化十年(一八一三)までの間に、シレマウカ
と
その一族が上ツ
イシカリ
を去ったため,、「上ツ
イシカリ
蝦夷人住居不仕不残他場所住居仕候」(由来記)
と
いうご
と
く、無人
と
化している。,其後人別御取調之節上ツ
イシカリ
人数ニ相成候。 ,うちイザリブ
ト
への移転は、シレマウカ
と
息子やウタレたちで、「代々住居仕候」
と
いっているので上ツ
イシカリ
/ 上ツ
イシカリ
アイヌの離散
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ在住の入地)
イシカリ
在住の入地 第七・八章でのべたように、在住制あるいは大友亀太郎を担当者
と
した御手作場設置等によって,したがって本章ではこの問題には立ち入らず、村
と
呼称された集落について判明したこ
と
を記述するに
と
どめる。,おそらくこの三村は、開拓使から既存の村
と
して認知されていたもの
と
思われる。 ,ハッサム村は、安政四年(一八五七)二月に箱館奉行によって
イシカリ
在住入地の中心地
と
位置づけられたこ
と
に,骨子
と
している。 /
イシカリ
在住の入地
新札幌市史 第1巻 通史1
(紛争後のイシカリの首長)
紛争後の
イシカリ
の首長 紛争後の
イシカリ
の総大将ハウカセの動向についてはわからないが、その後なおしばらく,が
イシカリ
の総首長であるように示している。,なお、庄屋のような役のもの一三人
と
あるが、それは
イシカリ
場所の各首長なのだろうか、享保二年(一七一七),
イシカリ
の「またべ」もこの時期、これに比される頭人
と
見られていたわけであるが、松前藩士の商場知行地が蝦夷地,川流域のアイヌはペニウンクル
と
シュムクル派に属し、ペニウンクルは上流の人の意で、近文・ドロカワの
イシカリ
/ 紛争後の
イシカリ
の首長
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ・サッポロの検分)
イシカリ
・サッポロの検分 安政期に水戸藩が
イシカリ
・サッポロを領地
と
したり、藩の事業
と
して直接開拓にあたるこ
と
はなかったが,大津浜グループが
イシカリ
の鮭漁業に着手した年、その実態をたしかめ藩
と
しての対応を考えるための実地検分である,
イシカリ
・サッポロに来たのは生田目弥之介(なまためやのすけ)
と
いう人。,鮭漁期の十月七―十二日を
イシカリ
滞在
と
し、大津浜グループの漁業の実態をつかもう
と
したのである。,ツ
イシカリ
からエベツブ
ト
にかけてのこうした調査は、箱館奉行の思惑
と
示唆が背後にあった
と
思われる。 /
イシカリ
・サッポロの検分
新札幌市史 第1巻 通史1
(テシオ川からイシカリ川へ)
テシオ川から
イシカリ
川へ 近藤重蔵ら一行は、九月二日
イシカリ
を立ってリシリ島目指して北上した。,、帰路確認のこ
と
、③西地警固の者の配置場所
と
しては、ソウヤのほかはタカシマ、オタルナイのみ
と
思われるこ
と
,ソウヤよりの帰路は、近藤重蔵は一行の二人
と
別れ上下五人
と
と
もにテシオ川を遡り、
イシカリ
川上流へ出るコース,続く『石狩川筋図』の方は、テシオ川からシオカリ峠を越えて
イシカリ
川へ出てからで、十月十二日の「タナシ山高凡十丈,チュクベツ番屋から下流については、残念ながら図面は欠くが、のちの記録に「
イシカリ
河原ヨリ深山幽谷数十里 / テシオ川から
イシカリ
川へ
新札幌市史 第1巻 通史1
(松浦武四郎のイシカリ川筋探検)
ト
クヒラ
イシカリ
より2丁程。,
ト
マヽツタイ アイヌ小屋あり。 ツ
イシカリ
イシカリ
より9里半。枝川秋味1000石上る。,いま一カ所ツ
イシカリ
場所は、も
と
も
と
シノツ(スノツ)にあったが、二〇年ばかり以前に当時のツ
イシカリ
川河口,武四郎
と
同行のアイヌたちは、
イシカリ
川河口より九里半遡ったツ
イシカリ
でまず一泊したらしい。,ツ
イシカリ
より先は、エベツブ
ト
(イベツブ
ト
)で
イシカリ
川本流
と
分かれ、支流の千歳川に入った。 / 松浦武四郎の
イシカリ
川筋探検
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ開拓と荒井村の性格)
イシカリ
開拓
と
荒井村の性格 以上みてきたように、荒井村は荒井金助が自費で開いた村であるが、幕吏の自費開墾,ここで問題の整理
と
して、この時期
イシカリ
の農業開拓の状況等についてま
と
めてみたい。,まず
イシカリ
役所直轄地内の在住は、盛期で二〇人以上入地したが、官の期待
と
ははるかに遠い成果しかあげるこ
と
ができなかった,は在住
と
同じく実質的な知行地
と
された、
と
考えるのがもっ
と
も可能性
と
して強いように思われる。,
と
して官の土地、そして幕吏によるものが何某開墾地
と
して在住同様
と
なる
と
いうこ
と
である。 /
イシカリ
開拓
と
荒井村の性格
新札幌市史 第5巻 通史5上
(『あかだも』『いしかり』)
『あかだも』『
いしかり
』 『凍土』より早い昭和二十八年一月、札幌アララギ歌会の編集により『羊蹄』休刊,の後継誌
と
して『あかだも』が創刊され二十九年三月まで一五号を出して休刊した。,『
いしかり
』の創刊は三十一年一月。,主宰者は芥子澤新之介で毎号「赤鉛筆」
と
いう欄で歌に関する感想や主張を述べた。,復刊は四十六年二月で水口幾代が編集発行人
と
なった。 / 『あかだも』『
いしかり
』
新札幌市史 第1巻 通史1
(最上徳内のイシカリ探検)
最上徳内の
イシカリ
探検 東寗元稹の記述から、たまたま最上徳内の行動の一端が知られるわけであるが、公式記録,この時の最上徳内の
イシカリ
探検について詳細を知るこ
と
はできないが、のちに松浦武四郎が記している
と
ころによれば,
と
記しているこ
と
によってうかがわれる。 ,是迄を上ユフバリ
と
云ふ。是より上を下ユフバリ
と
いふ。,最上徳内
と
松浦武四郎の探検は、その間約五〇年の隔たりがあるにもかかわらず、なお土地の人び
と
に記憶されていた
と
いうのも / 最上徳内の
イシカリ
探検
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリほか二場所借用運動)
イシカリ
ほか二場所借用運動 『北方未来考』立稿後も斉昭は、蝦夷地領有嘆願運動をくりかえした。,原のカラフ
ト
はじめ
イシカリ
、ソウヤ・リシリ計三場所借用の依頼を聞いて驚いた山田は、勝手掛家老蠣崎将監、,以上が、天保十四年の水戸藩による
イシカリ
ほか二場所借用運動である。,
イシカリ
場所は一〇〇〇両、カラフ
ト
場所は一六〇〇両
と
いうご
と
く、有望場所のみをあげていたこ
と
が知られる,改革に
と
もない、水戸大津浜の五十嵐勝右衛門
と
いう人物が、箱館奉行所から出稼
と
して
イシカリ
の鮭漁場を割当 /
イシカリ
ほか二場所借用運動
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ赴任に際しての諸条件提示)
イシカリ
赴任に際しての諸条件提示 次に第二の書類は『石狩出張ニ付奉願上候』
と
表記されたもので、ここでは,①大友
と
共に
イシカリ
開拓取扱
と
して発令された関定吉が依願免
と
なり、「私壱人ニテ取扱、万一手違等モ有之候,③八、九月頃移住予定の農民に給付する、米、塩噌、農具、家財等の諸物品は、夏中に買い入れて
イシカリ
と
オタルナイ,役所買上品を渡すこ
と
、また来年以降の入用品は、
イシカリ
において越後その他に注文すべき
と
の奉行所の回答である,⑥
イシカリ
赴任後の公用出張の旅費、また石狩役所出張の節の宿泊費の支給を要請したのに対しては、不許可
と
なっている /
イシカリ
赴任に際しての諸条件提示
新札幌市史 第6巻 史料編1
(〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕)
〔
イシカリ
場所人別帳(松浦武四郎)〕 巳第三番 辰 シヤコタン ヒクニ フルヒラ 石カリ ヨイチ 人別,
イシカリ
之内 〔
ト
クヒタ惣乙名〕 〔ハツシヤフ乙名〕 〔下サツホロ乙名〕 ,〔上サツホロ乙名〕 〔上ツ
イシカリ
乙名〕 〔下ツ
イシカリ
乙名〕 〔上カハタ乙名〕 / 〔
イシカリ
場所人別帳(松浦武四郎)〕
新札幌市史 第1巻 通史1
(カラフトへの足場)
をみせた対ロシア外交に、
イシカリ
改革が果たした役割は小さくない。 ,写真-17 カラフ
ト
を調査する佐倉藩士(北蝦夷画帳の内)
イシカリ
改革に
と
もない、
イシカリ
場所,いいかえれば、カラフ
ト
のクシュンナイ直捌のためにも、
イシカリ
の掌握が必要
と
なり、
イシカリ
役所は
イシカリ
,
イシカリ
直捌
と
の違いは、出稼人への仕込みまで箱館奉行所の名で行ったこ
と
。,通称
と
して
イシカリ
も直場所
と
呼ばれたが、奉行所は原則
と
してこれを認めなかったのは(市史六二頁)、
イシカリ
/ カラフ
ト
への足場
新札幌市史 第1巻 通史1
(第三回訴願と収拾)
文政五年三月、シリコノエは、小使サエラフニ
と
の連名で、
イシカリ
の支配人源右衛門
と
通詞平八の奥書を添えて,、紛争事件の顛末を縷々書き綴った願書を松前藩の
イシカリ
詰合宛に提出した。,そのおもな内容は、イザリ・ムイザリのウライ二カ所を返還する条件
と
して、「
イシカリ
領分川筋ヘウラエ三ケ所之,ウラエ拵漁業仕度奉存候」
と
、ユウフツアイヌのウライを
イシカリ
川筋に三カ所設置する
と
いうものであった。,しかし、
イシカリ
・ユウフツのそれぞれの請負人をみてみる
と
、二回目の訴願の時
イシカリ
場所の請負人だった米屋孫兵衛 / 第三回訴願
と
収拾
新札幌市史 第1巻 通史1
(運送と通信)
それゆえ、
イシカリ
場所では
イシカリ
より、①オタルナイ、②ユウフツないし千歳会所、③アツタ、以上の三区間,
イシカリ
で馬が使用されるのは、
イシカリ
改革以降のこ
と
のようである。,佐倉藩士の一行が安政四年(一八五七)七月五日に、
イシカリ
から銭箱にむけ馬を雇おう
と
したが、「未だ荊馬にて,明治三年『兵部省分引継書類』には、
イシカリ
には四八頭の馬が記載されている。,なお、安政六年九月には、牛二〇頭が
イシカリ
に送られていた(ヨイチ御場所見廻日記)。 / 運送
と
通信
新札幌市史 第1巻 通史1
(調査の目的と行程)
イシカリ
の調査は当然ながら、この一旅程に含まれる。 ,前者は五月二十一日
イシカリ
に到着し一泊ののちカラフ
ト
へ向かい、後者は二日後の二十三日
イシカリ
着、昼食休憩,のみを
イシカリ
で
と
り、宿泊するこ
と
なくカラフ
ト
へ急いだ。,後に紹介するように本隊を離れ千歳越により
イシカリ
に至る人、帰路東蝦夷地を回らず
イシカリ
を再検分した人、,安政元年の
イシカリ
の現況を理解するためにも、調査メンバーにより書き残された記録から
イシカリ
の様子をうかがうこ
と
にする / 調査の目的
と
行程
新札幌市史 第1巻 通史1
(知行と勤番)
ただし、西蝦夷地は幕府直轄時には、勤番所が五カ所あったが、今回は
イシカリ
・ソウヤ・カラフ
ト
の三カ所に減,天保九年(一八三八)の『蝦夷情実』(函図)によれば、
イシカリ
、ソウヤ、カラフ
ト
の西蝦夷地の勤番人数は四二人,越年手当も、オタスツが一六〇~一七〇両くらい、
イシカリ
が五五~六〇両くらい
と
決まっており、
イシカリ
勤番所,このような松前藩士による勤番は、安政二年(一八五五)に幕府直轄
と
なるまで継続され、安政二年の
イシカリ
勤番,おそらく最後の
イシカリ
勤番であろう。 / 知行
と
勤番
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