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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌの使役)

アイヌの使役 松浦武四郎は七月六日に、ユウバリ調査行の途次、ベツカイ(茨戸付近)にて休憩する。,その折、石狩川の上流より七人ほどのアイヌが一艘の丸木船で下ってきたが、「是等はトイヒラえ新道開発の為に,また工事の労働力も、武四郎の『丁巳日誌』が伝えるように、アイヌの労働力に依存していた。,当時、和人は漁業の出稼者しかいなく、他に労働力が求められなかったこともあるが、アイヌが請負人により最も / アイヌの使役
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌへの種痘)

アイヌへの種痘 なおイシカリ場所では、文化十四年(一八一七)から翌文政元年にかけ疱瘡が大流行し、多数,のアイヌが死亡した。,しかし医師は、和人の治療にあたるのみで、アイヌへの施療はみられなかった。,この点においても、アイヌへの「撫育」政策は不備なものであった。 / アイヌへの種痘
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ政策の変化)

アイヌ政策の変化 第二次直轄となり幕府及び箱館奉行は、以上の理由にもとづきアイヌの「撫育」の政策を積極的,にとりくみ、また場所請負人のアイヌへの対応に監視の目を向けるようになった。,① アイヌの労働及び賃米・撫育品は、詰合役人が許可・管理。  ,② 支配人・番人が、アイヌ女性を妾となすことを禁止。  ③ アイヌ男女の結婚の奨励。  ,衰退・疲弊したアイヌの保護をめざすものであった。 / アイヌ政策の変化
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ社会の形成)

アイヌ社会の形成 英雄ユーカラのテーマの時代は擦文期後半のアイヌ社会で、その成立期は一四世紀以降、近世以前,呼ばれる地上の家屋となり、カマドが消え炉となり、食物は炉にかけ鉄鍋ですべての食物を煮炊きするのが近世アイヌ,本州との、加えて沿海州との交易の拡大はアイヌの狩猟、漁撈、採集の生活を強化し、一面もたらされたアイヌにとっての,したがって中世のアイヌ社会は擦文文化期と異なる新たなもの、すなわち、アイヌ民族社会の形成期であった。,この民族形成過程の中でアイヌ民族の叙事詩「ユーカラ」がつくられてきたものと思われる。 / アイヌ社会の形成
新札幌市史 第1巻 通史1 (動員されるアイヌ)

動員されるアイヌ 松前藩復領直後のイシカリ場所は、疱瘡流行で多くの働き手を失った直後であり、かつ不漁,そして、アイヌの榀網に代わって糸網が使用され、アイヌのそれとは比較にならない漁獲高をあげていた。  ,すなわち、アイヌの雇への大量動員である。,ユウフツアイヌのイシカリへの出稼は、イシカリアイヌのユウフツ領千歳川への出稼と同様、第六章で触れたように,さらに、イシカリ場所外からのアイヌ労働力の動員は、ユウフツ場所のアイヌのみではなかった。 / 動員されるアイヌ
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ支配の構造)

アイヌ支配の構造 勤番所に配置された勤番は、藩士が年々交代で勤務についた。,その任務のおもなうち、場所請負人の監視とともに請負人がアイヌを使役する当然の代償として行ってきたアイヌ,⑤役付きでないアイヌのうち独身の者がいたら、アイヌの三役が世話をし、縁組させること。  ,⑨運上屋の者や船方の者へ、アイヌ女性と心安くしてはならないときつく申渡してあるが、もしアイヌ女性と密通,これら申渡しは、すべてアイヌ語でなされたことはいうまでもない。 / アイヌ支配の構造
新札幌市史 第1巻 通史1 (北方領土問題とアイヌ)

この領土問題の中で、アイヌの向背が重要な位置をしめていた。,当時、日本ではアイヌを日本の付属民と認識し、アイヌが居住する地域を日本領土と考えていたからである。,それは逆に、アイヌがロシア側に好意をよせることは、アイヌ居住地域がロシア領土にかたむくことを意味していた,アイヌの「撫育」が必要とされたもう一つのおおきな理由は、場所請負制によるアイヌ民族の衰退、アイヌ社会の,そのためにアイヌの人口は大幅に減少し、アイヌ社会の存立基盤も危機的状況をむかえていた。 / 北方領土問題とアイヌ
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌとの距離関係)

アイヌとの距離関係 道南西部の縄文時代人を一括すると、前述したとおり男性四例、女性一〇例が計測可能であった,頭骨の計測値にもとづいたペンローズの形態距離では、男性は四例中一例のみが本州縄文人よりもアイヌに近いのに,対して、女性は一〇例中八例までがアイヌに近いという結果であった。,ただ、すくなくとも、近世アイヌ的な特徴の一部は、すでに縄文時代にその萌芽がみられる、と結論しても大過はないであろう / アイヌとの距離関係
新札幌市史 第5巻 通史5下 (「全国アイヌ語る会」)

「全国アイヌ語る会」 四十八年一月二十一日、札幌市内で「全国アイヌ語る会」が初めて開催された。,札幌在住のアイヌ民族による実行委員会(砂沢ビッキ代表)が「アイヌウタリが地域や組織を越えて話し合い、われわれの,また、三月三日には、「アイヌ解放の夕べ」(結城庄司代表)も札幌で開催されるなど、アイヌ民族問題を巡って,そのような機運の中、札幌でアイヌ民族の若者たちによる月刊新聞『アヌタリアイヌ―我ら人間』(アヌタリアイヌ,刊行会)が、「アイヌとは何か、自分がアイヌであるとはどういうことか、自分たち自身でアイヌ問題を考え解決 / 「全国アイヌ語る会」
新札幌市史 第2巻 通史2 (アイヌの聚落と戸口)

アイヌの聚落と戸口 札幌に開拓使の本府を建設しようとした明治初年の段階において、アイヌの人びとの聚落,もともとアイヌの聚落と漁場とは一致していたわけでなく、幕末のアイヌの多くは石狩川筋で漁業に従事し、自己,次に明治初年の文献から、アイヌの聚落と戸口のおおよそを再現してみよう。,堀が偕楽園の官邸を過ぎ数百歩行くとアイヌの家二、三軒がある聚落に出た。,に際し開拓使が把握したアイヌの戸口は表7のごとくで、樺太から九年に移住した対雁アイヌを除くと戸数わずかに / アイヌの聚落と戸口
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリアイヌの流散)

イシカリアイヌの流散 イシカリ場所を支えたのは豊富な鮭であったが、さらにそれ以上に実はアイヌの人々の,鮭はアイヌにとり石狩川の自然の恵みであり、貴重な食料源であると同時に交易品であった。,食料、日常品など主要なものは、漁場の労働か交易に依存する状況となり、アイヌ社会の生活基盤が失われつつあった,逆にアイヌの労働者の排除を惹起する結果となった。,また、開墾地の拡大にしたがい、アイヌは土地を追われることとなり、かつて隆盛をほこったイシカリアイヌが、 / イシカリアイヌの流散
新札幌市史 第2巻 通史2 (本府建設とアイヌ労働)

本府建設とアイヌ労働 明治初年の札幌は、幕末においてイシカリ役所と箱館奉行所あるいは各場所詰役人間の,本府建設をひかえて近隣のアイヌ労働力の確保が必要とされたからであろうか。,この場合、馬の牽送はアイヌの人びとが携わっていた(各所往復 函図)。  ,この場合、雇い入れる側とアイヌ間で言語不通によるトラブルも発生している。,アイヌの労働力を抜きにしては不可能であった(上川見聞奇談)。 / 本府建設とアイヌ労働
新札幌市史 第5巻 通史5下 (アイヌ新法制定へ始動)

アイヌ新法制定へ始動 アイヌ民族問題を根本的に打開していくためには、従来の法律を廃止して新法を制定しなければならないといった,昭和四十九年一月十九日社会党アイヌ民族特別委員会(川村清一委員長)では、アイヌ民族政策を発表し、「旧土人保護法,五十九年三月五日、道ウタリ協会で「アイヌ民族に関する法律(案)」がまとまり、同年五月二十七日札幌市内で,これ以後、同協会ではアイヌ新法制定特別委員会を開催、「アイヌ民族に関する法律案」を早急に実現するように,新法」制定実現などを目指し会員の団結・協力を確認、『アイヌ史』編纂事業の七カ年計画を開始することを決定 / アイヌ新法制定へ始動
新札幌市史 第1巻 通史1 (〝アイヌの父〟武四郎)

〝アイヌの父〟武四郎 武四郎はモニヲマ・コモンタなどのよき相談相手であり、彼らの窮状を救っているように,、アイヌの人々からの信頼もあつく、友情にみちた深い交流をおこなっていた。,武四郎の活動がひときわ輝いているのも、それだけアイヌが暗い状況におかれていたからであった。,また武四郎のヒューマンな活動が、その後充分に継承されず、アイヌに対する民族的な差別が解決されなかったからである,われわれは近代に入り、〝アイヌの父〟バチュラーをもつが、幕末における〝アイヌの父〟松浦武四郎ともども、 / 〝アイヌの父〟武四郎
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ酷使と私曲)

アイヌ酷使と私曲 改革の要因として三つ目に「土人撫育筋等懈怠致し、剰(あまつさえ)私曲の儀不少」をあげている,私曲はアイヌの「撫育」だけでなく、前述の二要因にもかかわるのだろうが、特にアイヌとの対応で問題となることが,四年もたてば幕府直轄は中止になり、イシカリの地はまた松前藩の支配に戻るから、奉行所の言に耳をかさぬようアイヌ / アイヌ酷使と私曲
新札幌市史 第5巻 通史5下 (民族教育とアイヌ史編纂)

民族教育とアイヌ史編纂 アイヌ民族に対する誤解・偏見・差別観をまず解いていくといった基本的なことから,いてアイヌ民族に対する誤った歴史認識や民族観をなくすような運動を行った(道新 昭49・11・4)。,道ウタリ協会では、これまで既存のアイヌ民族関係出版物は多いもののアイヌ民族にとって不満が多かったことから,アイヌ民族自身の手で『アイヌ史』の編纂を計画し、北海道民生部に補助金を要請してきた。,こうして編纂がすすめられた結果、道ウタリ協会アイヌ史編集委員会では、六十三年度から刊行開始し、『アイヌ / 民族教育とアイヌ史編纂
新札幌市史 第4巻 通史4 (アイヌ民族とバチェラー)

アイヌ民族とバチェラー バチェラーはその札幌での活動に対して、「アイヌの父」(北タイ 昭15・12・,アイヌ民族自身はバチェラーをどのように評価していたのであろうか。,開催された「第一回全道アイヌ青年大会」の議事である。,この近文アイヌの自らの生存を賭けた運動に対して、バチェラーは「決してアイヌ自身の心からなる策動ではあるまい,余市アイヌの違星北斗が「『強いもの!』 / アイヌ民族とバチェラー
新札幌市史 第2巻 通史2 (仮学校とアイヌ教育)

仮学校とアイヌ教育 アイヌ教育は五年三月、北海道開拓に必要な人材を養成するために、東京芝増上寺境内に,同年六月、黒田次官の上書によってアイヌ一〇〇人余を上京させて教育することとなり、まず三五人を札幌をはじめ,札幌から選ばれて上京したアイヌは、札幌村の伊吾、六三郎、六三郎妻とら、琴似村の又一郎(又一に同じ)、発寒村,表-9 明治5年開拓使仮学校生および農業現術生(札幌・石狩・夕張郡) 名 前 アイヌ名 年齢 行 先,このような機運に動かされ、九年十二月、開拓使はアイヌ教育に関して、「旧土人教化ノ儀ニ付テハ是迄毎々相達候通 / 仮学校とアイヌ教育
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリアイヌの入会権)

イシカリアイヌの入会権 かたや千歳アイヌのイシカリ川筋での漁、かたやイシカリ川筋のアイヌの千歳川筋での,それでは具体的に、イシカリ川筋のアイヌが千歳川筋に有したそれは、どのような経緯で成立したのだろうか。,上ツイシカリの惣乙名シレマウカは、『由来記』によれば、元来は千歳アイヌ系であるという。,へ干鮭(アイヌの越年食糧)取りに行くことを誘われた。,これらは、すべて千歳川筋アイヌとの入会漁業であった。 / イシカリアイヌの入会権
新札幌市史 第5巻 通史5下 (アイヌ新法制定を目指して)

アイヌ新法制定を目指して 「アイヌ新法」制定を政府に要請してから六年が経過し、政府の一〇省庁による検討委員会,憲政史上初のアイヌ民族の「国会議員」が誕生したことになり、「アイヌ新法」早期制定に大きな弾みと考えられた,ここには、アイヌ民族が北海道に先住した独自の文化を持つ民族であること、アイヌ文化の振興や人権擁護のため,「新しい施策の展開」では、「アイヌに関する総合的かつ実践的な研究の推進」、「アイヌ語をも含むアイヌ文化,九年五月八日「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」通称「アイヌ / アイヌ新法制定を目指して
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ起源論と日本人種論)

アイヌ起源論と日本人種論 ここで一つ注意しなければならないことは、アイヌ説、非アイヌ説で始まった日本,であったが、その後、渡来説にしろ移行説にしろ、その焦点は現代日本人の起源の問題にのみ絞られるようになり、アイヌ,昭和の初めに北海道大学の教授に就任した児玉作左衛門は、教室の主テーマをアイヌの人類学的研究に定め、アイヌ,道内各地の墳墓から発掘されたアイヌ骨格は膨大な数となり、アイヌ頭骨の基本的データが蓄積され、アイヌの形質,彼らはアイヌを含めた日本人種論を展開しており、日本列島の人類形成史に北海道が果たす役割は今後ますます大 / アイヌ起源論と日本人種論
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ文化のルーツ)

アイヌ文化のルーツ 結局、アイヌ文化は擦文文化とオホーツク文化が接触・融合するなかで、両文化の各種要素,がみられた続縄文時代後期の札幌市K一三五遺跡の生活跡をみるかぎりでは、少なくとも道央部ではこの時期までアイヌ / アイヌ文化のルーツ
新札幌市史 第2巻 通史2 (アイヌの「解放」と救恤)

アイヌの「解放」と救恤 明治維新後の北海道におけるアイヌの存在は、前時代において境界画定による、北方,における日露外交の危機が去ったことと、それにアイヌにかわる日本人労働者を容易に獲得することが可能となったこと,したがって、開拓使のアイヌへの対応も、北海道の開拓を円滑に進行するために行われ、その第一がアイヌに対する,そして一旦は用達としてそれまでの村役人的な仕事を続行させ、アイヌへの「介抱」・「撫育」(アイヌへの酷使,これによって、請負人が行ってきたアイヌへの「介抱」・「撫育」等も当然開拓使の手に移った。 / アイヌの「解放」と救恤
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌でのアイヌ民族の足跡)

札幌でのアイヌ民族の足跡 本巻が対象とする時期(明32~大10)、現在の札幌市域に生活していたアイヌ,しかし、この時期の札幌にはアイヌ民族が生活していたのである。,設立した「土人基督教徒女子塾」(アイヌ・ガールズ・ホーム)にもアイヌ民族の少女が入学していた(道毎日 ,「アイヌ施療病室」はアイヌ民族の医療機関として、二十五年にバチェラーが布教活動の一環として設立し、聖公会,このようにアイヌ民族の生活形態は三類型に区分できるが、ほかにも札幌区の和人男性と結婚した石狩アイヌの女性 / 札幌でのアイヌ民族の足跡
新札幌市史 第1巻 通史1 (集約化されるアイヌ労働)

集約化されるアイヌ労働 前述したごとく、この時期のイシカリ十三場所における人口数を見た限りでも、人口把握,ところで、人口把握のあり方が、果たしてアイヌの当時の生活実態を反映したものだったろうか。,①上ツイシカリアイヌの人別  文化十年(一八一三)、上ツイシカリの通詞幸吉以下三人が、上ツイシカリの,ところが、上ツイシカリの人別に入っていた二六戸、一〇五人というのは、もとテシオ場所のアイヌで、上ツイシカリ,このような、イシカリ場所内のアイヌの鯡漁への出稼は、川口のアイヌの場合は以前から行われていたようであるが / 集約化されるアイヌ労働
新札幌市史 第1巻 通史1 (縄文人から近世アイヌへ)

縄文人から近世アイヌへ これらの結果を総合すれば、道南西部の続縄文時代恵山期の人々は、いちじるしい多様性,を示しながらも、全体としてみれば、縄文人から近世道南アイヌへの形態に移行していく過程にある、と考えて良,人骨を発掘しているが、その研究結果によれば、縄文晩期から時代とともに頭骨が徐々に繊細化し、しだいに近世アイヌ / 縄文人から近世アイヌへ
新札幌市史 第3巻 通史3 (アイヌ小学校の修学旅行)

アイヌ小学校の修学旅行 明治四十三年九月、「北海道旧土人保護法」に基づいて特設された第二伏古尋常小学校,このように当時の札幌は、アイヌ民族の生徒たちの目には、その生活や文化と対立する「近代化」の象徴と映っていた,札幌はアイヌ民族の「同化」を促す役割を間接的に果たしていたといえよう。,ここに自らの生活と文化を捨てさせ、脱アイヌへの道筋をつけようとする修学旅行の意図が端的に表現されている / アイヌ小学校の修学旅行
新札幌市史 第4巻 通史4 (アイヌ民族自身の主体的活動)

アイヌ民族自身の主体的活動 昭和戦前期の札幌は北海道のなかで、一定の政治的・社会的位置を占めていた。,それに着目したアイヌ民族はこの時期、札幌で自らの信念に基づく主体的な活動を展開した。  ,この演説会は近文アイヌの砂澤市太郎らが行ったもので、北海道アイヌ協会の機関誌『蝦夷の光』第二号には「堂々札都,また、昭和九年九月には砂澤と同じく近文アイヌの川村才登が、札幌市内の中等学校や小学校で「亡びゆくアイヌ,川村はこれに対して、「アイヌ風俗として八十年も昔のみすぼらしい挿絵のみ記されて、内地ではアイヌに対して / アイヌ民族自身の主体的活動
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ乙名へ農具の支給)

アイヌ乙名へ農具の支給 六月一日には、堀利熙からトクヒタほか一四場所のアイヌの乙名へ、鍬が一挺ずつ支給,これはアイヌへ農業奨励のためであったが、請負人・支配人代に対する申渡しは、以下のとおりであった。   ,得其意漁業差障不相成様繰合遣シ、雑穀作方等教導いたすべし、尤小前土人共も追々耕作筋手馴候様仕向遣ス(石狩土人申渡)  アイヌ / アイヌ乙名へ農具の支給
新札幌市史 第5巻 通史5上 (札幌市民として・アイヌ民族として)

札幌市民として・アイヌ民族として アイヌ民族問題が北海道のみならず、日本における「先住民族問題」として,戦後二〇年を経ても何ら戦前と変わらず、「開拓」の陰に隠されてきたアイヌ民族の現状をいみじくも伝えたのは,、一人のアイヌ民族女性の言葉であった。  ,それに際して、アイヌ民族の一女性から「アイヌを忘れないで 北海道百年におもう」といった投稿が新聞に寄せられた,アイヌ民族が札幌市民として、「民族の誇り」をもって暮らせるために、アイヌ民族が社会の中で不利な立場に置 / 札幌市民として・アイヌ民族として
新札幌市史 第5巻 通史5下 (アイヌ文化の継承・保存を求めて)

アイヌ文化の継承・保存を求めて 九年七月一日施行の「アイヌ文化振興法」に基づいて「(財)アイヌ文化振興,一方、道ウタリ協会札幌支部では、三年十二月二十六日、「アイヌ新法」制定運動と並行して、市が策定中の四年度,からの「新五年計画」にアイヌ民族の歴史と文化を学び伝える(仮称)「アイヌ教育文化センター」の建設についての,市市民局生活文化部アイヌ施策課資料)。,同施設は、アイヌ文化とのふれあいを通して市民交流を促進するとともにアイヌ民族の歴史や文化を学び伝統文化 / アイヌ文化の継承・保存を求めて
新札幌市史 第3巻 通史3 (「主唱者」とアイヌ民族との関連)

「主唱者」とアイヌ民族との関連 同会創立の「主唱者」はいったい誰であろうか。,次にこれら九人が「主唱者」となった理由を、アイヌ民族との関わりから検討してみよう。,給与地問題」ではアイヌ民族を支援した。,加藤は第五帝国議会に単独で「北海道土人保護法案」を提出したように、以前からアイヌ問題への関心が高かった,立場で、アイヌ民族との関わりを有するだけではなく、当時のアイヌ民族の境遇に対して一定の「理解」を示していた / 「主唱者」とアイヌ民族との関連
新札幌市史 第4巻 通史4 (ジョン・バチェラーと「アイヌ保護学園」)

ジョン・バチェラーと「アイヌ保護学園」 周知のように、ジョン・バチェラーはイギリス聖公会(CMS)の,宣教師として、明治初期からアイヌ民族へのキリスト教の布教活動に従事しながら、アイヌ研究にも深く関わり、,『蝦夷今昔物語』(明16)、『蝦和英三対辞書』(明22)、『アイヌ炉辺物語』(明27)などの著書を出版,、イギリス聖公会の宣教師を辞職するとともに、北海道庁内務部社会課の「北海道土人教育事務嘱託」に転じ、アイヌ,同学園は大正九年に自ら組織し、アイヌ民族の中等学校への進学希望者に対する経済的援助を目的とする「アイヌ / ジョン・バチェラーと「アイヌ保護学園」
新札幌市史 第3巻 通史3 (創立の契機としての「近文アイヌ給与地問題」)

こうした当時のアイヌ民族の状況を象徴する事件が、いわゆる「近文アイヌ給与地問題」である。,らが近文アイヌへの給与予定地に目を付け、北海道庁へ同地の払い下げを画策したりするなど、アイヌ民族を追放,これに対して、近文アイヌの川上コヌサアイヌや小樽アイヌの天川恵三郎らは、前年施行された「北海道旧土人保護法,創立の直接的な契機は「近文アイヌ給与地問題」であったといってよい。,の川上コヌサアイヌが招請されたことは、これを裏付けるものである。 / 創立の契機としての「近文アイヌ給与地問題」
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海道庁主催「北海道アイヌ手工芸品展覧会」)

北海道庁主催「北海道アイヌ手工芸品展覧会」 「北海道アイヌ手工芸品展覧会」は北海道庁学務部社会課が、,・佐上信一であった(北海道庁学務部 北海道アイヌ手工芸品展覧会開催状況)。,展覧会はこうしたアイヌ民族の経済的自立策の一環として開催されたのである。  ,「北海道アイヌ手工芸品展覧会開催要項」によれば、この展覧会への出品資格は「北海道在住ノアイヌ人」に限定,するとともに、出品申込書には「右ハ北海道アイヌ人〔氏名記入欄〕ニ於テ製作シタルコトヲ証明ス」という、アイヌ / 北海道庁主催「北海道アイヌ手工芸品展覧会」
新札幌市史 第3巻 通史3 (アイヌ実業補習学校の円山村設立計画)

アイヌ実業補習学校の円山村設立計画 札幌区の西に隣接する円山村にアイヌ実業補習学校を設立する計画が具体化,調査結果は明らかになっていないが、これによってアイヌ実業補習学校を円山村に設立する方向で活動を開始したと,当日は藤井民治郎が「開会ノ主意」を述べ、中西六三郎が「土人ニ対スル法律ノ効果」、関場不二彦が「アイヌノ,この演説会は札幌区民に対して、アイヌ民族の現状と同会の活動趣旨の理解に加えて、運営資金を確保する目的で / アイヌ実業補習学校の円山村設立計画
新札幌市史 第4巻 通史4 (「アイヌ学院」の設立と「旧土人奨学資金給与規程」の制定)

「アイヌ学院」の設立と「旧土人奨学資金給与規程」の制定 昭和戦前期の札幌には、「バチェラー学園」と同様,に全国的な中等学校への進学ブームを背景として、アイヌ民族を対象とする中等教育機関が設立された。,それは昭和四年に開校した「アイヌ学院」である。,同学院はアイヌ民族の「優良児童を選抜して中等教育を施す」施設で、経営者は「町田博士」である(樽新 昭4,山村はアイヌ民族の自力更正団体である十勝旭明社から推薦を受けていた(樽新 昭4・3・21夕)。   / 「アイヌ学院」の設立と「旧土人奨学資金給与規程」の制定
新札幌市史 第1巻 通史1 (上ツイシカリアイヌの離散)

上ツイシカリアイヌの離散 シレマウカの本拠地である上ツイシカリの場合、もっとも大きな影響を受けている / 上ツイシカリアイヌの離散
新札幌市史 第5巻 通史5下 (民族の歴史と文化を学ぶ)

道内各地からアイヌ文化に関心を持つ約六〇人が集まり、アイヌ文化に親しみ、学ぶ場を作ろうという目的で、機関誌,五十九年一月には、「アイヌ古式舞踊」が国の重要無形民俗文化財指定を受けるなど、アイヌ文化の評価が高まる,また同年八月には、昭和初期から北大医学部に標本として保管されてきたアイヌ人骨一〇〇四体の「アイヌ納骨堂,六十年東京地裁上告の「アイヌ女性肖像権訴訟」はアイヌ民族の人権復権運動の象徴的運動ともなった(昭63・,アイヌ民族の歴史と文化を学ぶことから「アイヌ新法」制定運動への大きなうねりとなった。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (民族としての復権をめざして)

三月十三日、正式に社団法人北海道アイヌ協会(以下アイヌ協会と略)として認可された(北海道ウタリ協会 50,ところで、アイヌ協会の定款(昭21・3・26登記)によれば、総則で「本会ハ社団法人北海道アイヌ協会ト称,特に、二十二年十二月付の「北海道アイヌ民族所有農地ニ関スル嘆願」では、「請願ノ要旨」として「北海道アイヌ,アイヌ協会総会記録 同前 北海道アイヌ協会・北海道ウタリ協会活動史編)といった理由から「北海道ウタリ協会,これについては、北海道ウタリ協会『アイヌ史 北海道アイヌ協会・北海道ウタリ協会活動史編』に詳しいので参照
新札幌市史 第5巻 通史5下 (札幌市議会への陳情運動)

第51号 アイヌ民族に関する法律制定等の要請方に関する陳情(昭和63・12・14採択) 第52号 アイヌ,協議機関設置に関する陳情(平成3・5・1審議未了廃案) 第55号 アイヌ民族の歴史、文化の紹介及びアイヌ,陳情を提出した札幌支部長は、「札幌市は独自のアイヌ民族対策を」持つべきであり、「札幌在住のアイヌ人口が,アイヌ民族対策を行う責務がある」といったコメントも寄せた(道新 昭63・2・10)。,こうして十二月、札幌市市議会で「アイヌ新法」制定意見書が採択された。
新札幌市史 第1巻 通史1 (改役所の設置)

アイヌ漁場は、元来、アイヌの冬季の食料源・交易物としてアイヌの漁場権を認めて成立し、和人の進出から保護,、アイヌ漁場はやがて場所請負の漁場に組み入れられ、漁場経営も請負人のもとに掌握され、アイヌは他の漁場同様,に労働者にすぎなくなり、アイヌ漁場も名目だけのものとなる。,写真-2 明治初年のアイヌ漁場の風景(北海道大学附属図書館蔵)  次に、アイヌの労働雇用の問題では、,以上のアイヌ漁場、労働雇用、軽物交易などにみられるように、イシカリ改革によりアイヌはこれまでの場所請負人
新札幌市史 第1巻 通史1 (続縄文時代人)

この時期になると、人骨の形質に近世アイヌ的特徴が一段と明瞭に表われてくるようである。  ,に近いもの、道央・道東北アイヌに近いもの、モヨロ貝塚人に近いもの、あるいは本州縄文時代人に近いものが認,しかし平均的には、近世アイヌ、なかでも道南アイヌに比較的近い、と結論されている。  ,、とくに道南アイヌの頭骨と親近性が強いことを示していた。,よりも明らかにアイヌに近い、という結果であった。  
新札幌市史 第5巻 通史5下 (「国際先住民年」)

「国際先住民年」 平成元年(一九八九)三月十三~十五日、道ウタリ協会主催の第一回「アイヌ民族文化祭」,「ヌヤン・ヌカラン・ピラサレヤン」(聞きなさい・見なさい・広げなさい)をサブタイトルに、古式舞踊、アイヌ,「民族文化」を誇りをもって受け継ぎ、継承する運動の輪は、「アイヌらしさの復権」でもあった。,札幌支部でも、アイヌ民族文化を中心に行事が開催された。,六年四月、市市民局市民生活部にウタリ担当主幹が設置された(十年度からアイヌ施策担当課)。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (市立学校教員アンケート調査)

連携して、昭和五十九年六月十八~七月十六日にかけて市内の市立幼稚園、小、中、高校の全教職員を対象に「アイヌ,アイヌ民族に対する正しい認識を探り、あわせて今後の教育研修や副読本作りなどに役立てていく目的で、教育機関,数年前に札幌市内の小学校、高校における教師のアイヌ差別授業問題が一つのきっかけとなり、市教委と同支部で,四八項目に絞られた設問は、アイヌ民族に関する学習経験の問いかけから始まり、和人による差別があるかどうか,、教師自身がアイヌ差別の体験があるか、など核心に触れる重たい設問も並んでいた。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (「単一民族国家」発言と抗議運動)

「単一民族国家」発言と抗議運動 「アイヌ新法」制定運動が進行している最中の六十一年九月二十二日、中曽根首相,さらに十月十七日、衆議院本会議で陳謝・釈明にからみ、日本は「単一民族国家」と発言したことから、アイヌ民族,道ウタリ協会も「アイヌ民族の存在を無視し、抹殺するもの」と強く反発、抗議行動へと発展した。,このような首相発言は、「アイヌ新法」の議論を高め活発化を招いた。,新法制定を考える全道集会」が札幌市内で開催され、約三〇〇人のアイヌ民族と和人がアイヌ民族の未来や新法制定
新札幌市史 第1巻 通史1 (蜂起の起因)

蜂起の起因 この蜂起は、アイヌ民族内のメナシウンクル(東方衆)に属するシャクシャインを首長とするシベチャリ,さらに松前藩の商場知行制によって、アイヌの取引が知行主の商場内に限定され、しかも米など取引の数量を減らす,不等価交換が行われ、かつ鷹場、金掘などによりアイヌの漁猟圏が荒らされ、さらに鷹用の餌犬の飼育などの、労力,の負担を課せられることに対する積年のアイヌの不満も重なり、また私欲による和人のアイヌへの煽動もあって、,アイヌ間の紛争が、反和人、反松前藩への戦いへと変化していったものである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎のイシカリ川筋探検)

トウヤウシ 上トウヤウシ アイヌ仮屋を建て漁をす。川巾少し狭く水勢甚しい。 ハンナンコウ アイヌ小屋,アイヌ首長1人、平アイヌ5~6軒。昔より漁猟多し。李の木多し。ハツシャフ番屋。,アイヌの小屋多しと聞く。首長、平アイヌの小屋5~6軒。サツポロ、上サツポロ番屋。,トンビ アイヌ住居し、川にて漁猟す。 カマヤウシ アイヌ住居し、漁猟す。,川上沼。アイヌ仮小屋で漁猟す。川巾120間程。両岸柳、桑多し。 タン子ヤウシ アイヌ住す。
新札幌市史 第2巻 通史2 (移住の契機)

この条約の締結に端を発したのが、すなわち樺太アイヌの日本領土内への移住である。,条約付録では、先住者(主としてアイヌ)に対し特に次のように規定していた。,このような政府の強引な再移住策に、樺太アイヌは強い抵抗を示した。,紋別地方に樺太アイヌのための漁場設置を提案したが受け入れられなかった(石狩十勝両河記行)。,再移住強行は、樺太アイヌの人びとに少なからぬショックを与えたことはいうまでもない。
新札幌市史 第3巻 通史3 (創立の目的と「救育」の論理)

創立の目的と「救育」の論理 同会は、初等教育課程を修了したアイヌ民族の青少年を対象に、「工芸、技術、,「北海道旧土人保護法」では、アイヌ小学校という初等教育機関の設立のみを規定している。,それでは、同会はどのような立場からアイヌ民族の教育を考えたのであろうか。それを探ってみよう。,北海道旧土人タル『アイヌ』モ日本国民ノ一部ナリ。,『アイヌ』ヲ教ヘヨ。『アイヌ』ヲ導ケヨ。
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