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新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ見聞)
イシカリ
見聞 一行は安政四年三月七日郷里を出発、四月八日箱館に到着した。,そこからクロマツナイ越してイソヤに出、オタルナイを経て、五月九日
イシカリ
にはじめて来て一泊。,いわゆる千歳越を往復して内陸を調査し、
イシカリ
の位置をさらに確かめようと、八月四日
イシカリ
着、翌日この,次に、成石は
イシカリ
川およびその支流での鮭漁が始まる時期の様子を書き伝えてくれた。,また、この紀行から
イシカリ
近辺の交通事情を知ることができる。 /
イシカリ
見聞
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの詰役)
イシカリ
の詰役 安政二年(一八五五)に蝦夷地の第二次直轄が実施されるに及び、箱館奉行では松前藩の在勤制度,日本海沿岸の西蝦夷地は、はじめスッツ・
イシカリ
・ルルモッヘ(留萌)の三カ所の持場(詰)割とされた(後に,そのうち
イシカリ
は当初シャコタン、ビクニ、フルビラ、ヨイチ、オショロ、タカシマ、オタルナイ、
イシカリ
、,アツタ、以上の九場所を管轄し、
イシカリ
が調役の駐在する詰場所とされた。,図-1
イシカリ
持場所(○印)
イシカリ
が詰場所に選定されたのは、安政二年十一月に出された箱館奉行 /
イシカリ
の詰役
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ要害論)
イシカリ
要害論
イシカリ
川を下った近藤重蔵は、復命書にあたる蝦夷地取調書を見る限り
イシカリ
付近の奥深,触れているが、
イシカリ
の将来を見通した、いわゆる「
イシカリ
要害論」であった。,①
イシカリ
川について
イシカリ
川は総蝦夷地(この場合東西蝦夷地の意か)の中央にあり、かつ第一の大河,②
イシカリ
場所について
イシカリ
場所が「蝦夷地第一ノ都会ノ地」であるといったように聞いている。,
イシカリ
の将来を見越した、また
イシカリ
場所の漁業資源とそこに集まる人的資源に着目した防衛論が前面に出るあまり /
イシカリ
要害論
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの繁栄)
イシカリ
の繁栄
イシカリ
改革以降、出稼人が大幅に増加し、越年もするようになった。,それらにともない商人・職人もふえ、
イシカリ
に町家がたちならび、町並みも形成され町役も任命されるようになった,荒井金助は、
イシカリ
に本府を建設し、将来は〝北京〟にしようとする壮大なプランをもっていたので、移民の奨励,この金助のプラン及び箱館奉行の政策により、
イシカリ
に永住人も次第にふえ、
イシカリ
が繁栄してくる様子は、,
イシカリ
に町・市中が成立するにしたがい、市中の取締りのために、万延元年(一八六〇)六月に、定役渡辺五郎一 /
イシカリ
の繁栄
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの機能)
イシカリ
の機能 武四郎はしばしば
イシカリ
をもって、枢要の地と称している。,これをみると枢要の地
イシカリ
とは、石狩川河口の運上所や勤番所を中心とした
イシカリ
の集落地域のみを指すのではなく,、広義に
イシカリ
十三場所を含む石狩川下流地域を指していると推察される。,
イシカリ
は西蝦夷地の海上航路において、箱館とソウヤの間のほぼ中間に位置し、またすでにユウフツとをもって,、
イシカリ
の重要性はますます増大されていくのである。 /
イシカリ
の機能
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの開発)
イシカリ
の開発 北蝦夷地(カラフト)におけるロシア南進の急迫化にともなって、幕府は現地北蝦夷地での直接的,このような中にあって、西蝦夷地の
イシカリ
は、つとに箱館奉行所においても注目するところの地であった。,同所之儀ハ東西通路も有之、蝦夷地第一之地勢ニテ、抑厚き見込も有之」(諸伺書類)と記されているように、
イシカリ
,このような重要な位置を占める
イシカリ
は、松前藩の時代より引き続き、阿部屋村山伝二郎が場所請負人として差配,の請負制を廃して直捌とし、いわゆる
イシカリ
改革を断行した(第四章参照)。 /
イシカリ
の開発
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ山請負)
イシカリ
山請負 宝暦年代(一七五一~六三)以降になると、
イシカリ
場所の請負の形態のひとつとして、
イシカリ
,のち東蝦夷地サル・クスリ・アッケシおよび西蝦夷地
イシカリ
・ユウバリ・テシオ等の蝦夷檜山を開き、次第に利益,飛驒屋が、
イシカリ
山に杣夫(そまふ)を移すようになったのは、宝暦二年(一七五二)からのようで、アッケシ,翌年七月二十八日付の
イシカリ
山伐木願書によれば、宝暦五年より八カ年間
イシカリ
山へ杣夫を入れ、寸甫=丸太一,(純利益) 備考
イシカリ
囲木寸甫 江戸・大坂登寸甫
イシカリ
山方入用金 杣方当座渡金 6月9月勘定分手代貸 /
イシカリ
山請負
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの内国化)
しかし、そうした歴史的方向へ確実に進行していたことを
イシカリ
改革は物語っている。 ,
イシカリ
場所のアイヌはアツタ場所にもオタルナイ場所にも出かける。,ユウフツ場所からは多くのアイヌが
イシカリ
場所に毎年やって来た。,
イシカリ
のアイヌは場所請負人の支配をはなれ、
イシカリ
役所の管轄に入り風俗習慣まで内国化を求められる。,改革により
イシカリ
の異域性は音をたてて崩れだした。 /
イシカリ
の内国化
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ川の地図)
イシカリ
川の地図 ところで、サッポロ川がツ
イシカリ
川に流れ込むように流路を変えたことを証明する地図が,
イシカリ
川に合流している。,川)となり、サッポロブトで、かたやツ
イシカリ
ブトでそれぞれ
イシカリ
川と合流している。,(2)『
イシカリ
川之図』 本図は、写真5のごとく
イシカリ
川の河口から上流域サンケシにいたる流域を横長,川に流れ、ツ
イシカリ
で
イシカリ
川に合流している。 /
イシカリ
川の地図
新札幌市史 第1巻 通史1
(海防論とイシカリ)
海防論と
イシカリ
寛政年間(一七八九~一八〇〇)以降、ロシア、イギリスなど外国船の来航が頻繁となり、,次に武四郎の『海防策』から、
イシカリ
についてどう考えていたのかみてみよう。,その場合
イシカリ
よりハママシケへの通行は、ツ
イシカリ
よりルルモッペ(留萌)への道路を開削するがよいだろう,④
イシカリ
詰の勤番が小人数なので、人員増加した方がよいだろう。 ,軍艦造営の拠点を
イシカリ
に据えたのは、近藤重蔵の
イシカリ
要害論に影響されたのだろうか。 / 海防論と
イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(範正のイシカリ入り)
範正の
イシカリ
入り 写真-2 村垣淡路守範正 (市立函館図書館蔵) 以上の
イシカリ
改革の計画,が問題になってきたこの折に、範正の
イシカリ
入りがなされたのであった。,
イシカリ
には二十九日まで滞在し、三十日にはツ
イシカリ
を出立し、千歳に向かうのであるが、この期間中、範正,範正の『公務日記』は、
イシカリ
滞在中のことはいたって簡単で、胸中に
イシカリ
改革のことがあったはずなのに,すでに、
イシカリ
改革の既定路線ができあがっていたためであろうか。 / 範正の
イシカリ
入り
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ役所の評価)
イシカリ
役所の評価
イシカリ
役所は、これまでみてきたように、
イシカリ
改革あるいはクシュンナイの
イシカリ
,この結果、
イシカリ
の繁栄やサッポロの開発をもたらすなど、明治以降につながる基礎をきずいたといえよう。,以上の点で、
イシカリ
役所の存在と施策は、札幌市史にとり重要な意義をもち、高い評価を下すことができるのである /
イシカリ
役所の評価
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ場所の新道)
イシカリ
場所の新道 先の箱館奉行の計画にそい、西海岸でも安政三、四年に各地で新道の切開がおこなわれるようになった,
イシカリ
でも、(一)
イシカリ
・アツタ間、(二)
イシカリ
・ツ
イシカリ
間、(三)銭箱・ユウフツ間、以上三本,一
イシカリ
よりツ
イシカリ
迄新道之儀、是又請書出ス。同様申渡ス。,この時に、
イシカリ
場所請負人の阿部屋に、(一)・(二)の着工を命じたことがわかる。 ,写真-1 ツ
イシカリ
番家(西蝦夷図巻より) /
イシカリ
場所の新道
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ改革の胎動)
イシカリ
改革の胎動
イシカリ
改革は、漁場を独占した場所請負人を廃止し、場所経営を箱館奉行が直接的におこなうという,たとえば、
イシカリ
場所内の開発の問題である。,「
イシカリ
改革」の史料上の初見は、『公務日記』の安政四年四月三十日条である。,廻浦途上の村垣範正は、この日
イシカリ
の廻浦を終え、千歳に着いていた。,兼持」となっており、
イシカリ
「出張之見込」に対し、堀利熙の意見が具申されてきたのが、この内状であったろう /
イシカリ
改革の胎動
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ役所の創設)
イシカリ
役所の創設
イシカリ
改革の実施にともない、
イシカリ
場所全般の行政・司法をつかさどる機関として,創設されたのが
イシカリ
役所であった。 ,
イシカリ
役所は、これまでの
イシカリ
詰の役人の編成をそのまま継承したものではあったが、役所の組織下に漁場,ここでは、改革後の
イシカリ
役所の動向をさぐってみよう。 ,
イシカリ
改革の実施にともない、第一に手がけられたのは、建物の移管である。 /
イシカリ
役所の創設
新札幌市史 第1巻 通史1
(第二次直轄とイシカリ)
第二次直轄と
イシカリ
第二次直轄となり、
イシカリ
には調役以下の詰合役人が派遣されるようになるが、特に,
イシカリ
詰の調役は、シャコタン(積丹)からアツタ(厚田)までを
イシカリ
持場として担当することになった。,
イシカリ
建府論(第十章参照)が構想される理由もここにあった。 ,
イシカリ
改革であった。,
イシカリ
改革にともない、
イシカリ
詰の勤番所は
イシカリ
役所と称されるようになった。 / 第二次直轄と
イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ通過の第一報)
イシカリ
通過の第一報 調査団が
イシカリ
に検分御用として到着するのは、目付グループ本隊が五月二十日、勘定方,
イシカリ
については、オタルナイより船路七里余とし、
イシカリ
運上家幷勤番所、蝦夷家有之。,フルヒラより弐拾壱里半余
イシカリ
川 五六町川路を下り、海岸草生の場所出離、海岸随ひ、一里余にて,シユウツ [
イシカリ
アツタ]境 と報じている。 ,此所より船路
イシカリ
境迄、シユマヽフともふす処え四里、都合凡拾六里程にて
イシカリ
川へ出る。 /
イシカリ
通過の第一報
新札幌市史 第1巻 通史1
(金助赴任時のイシカリ)
金助赴任時の
イシカリ
この当時のまず第一の問題は、何度もふれてきたように
イシカリ
改革の問題であった。,金助も
イシカリ
に関する調書を作成しており、この実現にむけてまい進するところであった。,この安政四年二月に大竹慎十郎・長坂与一郎が
イシカリ
に入地以降、四年中には一七人程の在住が、
イシカリ
に続々,と入地あるいは
イシカリ
詰を申し渡されている。,
イシカリ
には、当時、以上の四点の主な問題が存在していた。 / 金助赴任時の
イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリアイヌの流散)
イシカリ
アイヌの流散
イシカリ
場所を支えたのは豊富な鮭であったが、さらにそれ以上に実はアイヌの人々の,第二次直轄になり、
イシカリ
場所が廃止され直捌となった要因には、場所請負人である阿部屋(村山家)の非道な,
イシカリ
改革以後は、
イシカリ
役所が改(あらため)役(会)所を通じて直接的に「撫育」を行うようになった。,また、アイヌへの優遇策を謳(うた)った
イシカリ
改革であったが、この改革は同時に和人の出稼労働を招いて、,また、開墾地の拡大にしたがい、アイヌは土地を追われることとなり、かつて隆盛をほこった
イシカリ
アイヌが、 /
イシカリ
アイヌの流散
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ建府との関係)
イシカリ
建府との関係 善光寺・西本願寺がともに、サッポロ・ハッサムに寺院建立の指定をうけたのは、蝦夷地総鎮守社,の建立と同様に、
イシカリ
建府の設定とつよく関係をもっている。,場合、まだ無人に近い状態のところを、特に「土地引立之ため」を理由にされているのは、サッポロ・ハッサムに
イシカリ
,またあわせて、
イシカリ
開発のことが期待されていた。 ,
イシカリ
には、慶応二年(一八六七)二月に、改会所の通詞役であった玉川啓吉宅に、箱館御坊付
イシカリ
道場が /
イシカリ
建府との関係
新札幌市史 第1巻 通史1
(武四郎とイシカリ改革)
武四郎と
イシカリ
改革 武四郎は「石狩場所人別帳に添て上る書」(燼心餘赤)にて、
イシカリ
場所は運上金年一,武四郎は
イシカリ
改革後の
イシカリ
の様子を、「此度直捌に成てより移住の者も多く、僅一年の間に一すじの町家,となりしも、偏に休明の御世なるかな」と述べ、
イシカリ
改革の成果を「休明の御世」と讃嘆している(西蝦夷日誌,
イシカリ
改革の成果が実際的にどのようなものであり、武四郎はどのように評価しえたのか興味がもたれる。 / 武四郎と
イシカリ
改革
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ入津の廻船)
イシカリ
入津の廻船
イシカリ
に毎年どのくらいの荷船が出入りしたのだろうか。,
イシカリ
改革の年、安政五年の入津は四五艘と記録にある(市史一三四、一四一頁)。 ,とみなされるようになると、太平洋を流通ルートとする東廻り船の重要度が増し、東蝦夷地からの直䑺とともに、江戸へ向かう
イシカリ
/
イシカリ
入津の廻船
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ改役所の設置)
イシカリ
改役所の設置 安政五年、改革による新体制のもとで、基幹産業の漁業をどう発展させていくべきか検討,直接改革しない方針をとったが、場所請負制を廃止し直捌制を導入するからには、新体制にそった変更なくして、
イシカリ
,漁業の発展は望めず、
イシカリ
改革の成否にかかわる問題だったのである。 ,そこで、まず
イシカリ
役所の下部組織として
イシカリ
改役所(あらためやくしょ)を設置した。,
イシカリ
役所の収益とすることにあった。 /
イシカリ
改役所の設置
新札幌市史 第1巻 通史1
(荒井金助のイシカリ到着)
荒井金助の
イシカリ
到着
イシカリ
詰の首班が水野一郎右衛門、長谷川儀三郎という変則体制も、新たに荒井金助,『公務日記』によれば、金助は六月十四日に箱館に着き、さっそく
イシカリ
詰を申し渡されている。,範正からは、当然、
イシカリ
改革のことも種々、言い含められていたことであろう。,しかし、今回は急ぐ旅であり、箱館から
イシカリ
へは一〇日もあれば充分なので、金助は七月初旬には
イシカリ
入,ちなみに、
イシカリ
から箱館への用状は、一〇日程の日数を要した。 / 荒井金助の
イシカリ
到着
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリは「不宜場所」)
イシカリ
は「不宜場所」 『入北記』には、「此場所支配人、土人ノ取扱ヒ以ノ外、不宜場所第一ト云フベシ、,ヨリテカク仰渡サルト見ヘタリ」と、
イシカリ
場所がいかに「不宜場所」であったかを、感慨をこめて指摘している,しかし、特に
イシカリ
場所が尖鋭的にあらわれており、この解決は場所請負制の廃止―
イシカリ
改革に、またなければならなかった,ここには直接、
イシカリ
場所についてはふれていないが、ここでいう「流弊」とは
イシカリ
廻浦の直後だけに、暗,に
イシカリ
場所のことをさしているとみてよいだろう。 /
イシカリ
は「不宜場所」
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリへの情報伝達)
イシカリ
への情報伝達 ところで変転する中央での政治的動向は、蝦夷地
イシカリ
においても為政者側には詳細,それは箱館奉行所を通じて
イシカリ
役所にもたらされ、さらに
イシカリ
役所から管内の詰合や在住に至るまで廻状,このような中にあって、明治元年四月十二日に蝦夷地統轄の箱館裁判所が設置され、その達書が閏四月二十二日に
イシカリ
,詰調役樋野恵助より
イシカリ
の在住の面々にも廻状をもって伝達された。,引き続き箱館裁判所権判事井上石見と同岡本監輔の連名による、杉浦旧箱館奉行あての次のような書付が、
イシカリ
/
イシカリ
への情報伝達
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリアイヌの入会権)
イシカリ
アイヌの入会権 かたや千歳アイヌの
イシカリ
川筋での漁、かたや
イシカリ
川筋のアイヌの千歳川筋での,上ツ
イシカリ
の惣乙名シレマウカ、下ツ
イシカリ
の乙名レタリカウク、上ユウバリのアンラマシテ、同カシュウシ,上ツ
イシカリ
の惣乙名シレマウカは、『由来記』によれば、元来は千歳アイヌ系であるという。,なぜ上ツ
イシカリ
の惣乙名になったかは不明である。,同じ
イシカリ
場所のうち下ツ
イシカリ
の乙名レタリカウクの場合も、やはり父親の代からイザリの干鮭場への出漁権 /
イシカリ
アイヌの入会権
新札幌市史 第1巻 通史1
(東寗元稹のみたイシカリ)
東寗元稹のみた
イシカリ
遠山、村垣一行は、同年八月江戸に帰って復命し、これにより西蝦夷地の直轄は確定,
イシカリ
[夷百軒余、運上屋十一軒]蝦夷地秋味大猟の所、三、四十年以前には、十二はひ程有しが、近来不猟と,
イシカリ
川、大河にて、千石余の船も岸によつて繫ぐ。水上静にて水底は急流也。碇を下す事あたはず。,このように、
イシカリ
にはアイヌの家が一〇〇軒ほど、運上屋が一一軒あって、秋味漁もかつては一〇〇〇石積一二艘分,早発石狩河、沂河水、最子員中流相別、至当別、付帰舟以贈」から察するに、最上徳内が一行と別れてトウベツなど、
イシカリ
/ 東寗元稹のみた
イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(上ツイシカリアイヌの離散)
上ツ
イシカリ
アイヌの離散 シレマウカの本拠地である上ツ
イシカリ
の場合、もっとも大きな影響を受けている,東蝦夷地内のウライ没収以降文化十年(一八一三)までの間に、シレマウカとその一族が上ツ
イシカリ
を去ったため,、「上ツ
イシカリ
蝦夷人住居不仕不残他場所住居仕候」(由来記)というごとく、無人と化している。,『由来記』に記された文化十年十一月付の上ツ
イシカリ
通詞幸吉以下三名の報告は、次のようにそのありさまを伝,其後人別御取調之節上ツ
イシカリ
人数ニ相成候。 / 上ツ
イシカリ
アイヌの離散
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ「場所」と鮭)
イシカリ
「場所」と鮭
イシカリ
川と、その支流に位置する現在の札幌市域を包括した地域が、きわめて鮭の豊富,なかでも
イシカリ
の鮭はよく知られていたらしく、享保二年(一七一七)の『松前蝦夷記』にも、「鮭 蝦夷地之内 /
イシカリ
「場所」と鮭
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ在住の入地)
イシカリ
在住の入地 第七・八章でのべたように、在住制あるいは大友亀太郎を担当者とした御手作場設置等によって,ハッサム村は、安政四年(一八五七)二月に箱館奉行によって
イシカリ
在住入地の中心地と位置づけられたことに /
イシカリ
在住の入地
新札幌市史 第1巻 通史1
(紛争後のイシカリの首長)
紛争後の
イシカリ
の首長 紛争後の
イシカリ
の総大将ハウカセの動向についてはわからないが、その後なおしばらく,蝦夷出合の節かるへか手を出し、蝦夷の頭を押してしはらく指置、手をはなし、のき申候」とあり、カルヘカが
イシカリ
,なお、庄屋のような役のもの一三人とあるが、それは
イシカリ
場所の各首長なのだろうか、享保二年(一七一七),
イシカリ
の「またべ」もこの時期、これに比される頭人と見られていたわけであるが、松前藩士の商場知行地が蝦夷地,川流域のアイヌはペニウンクルとシュムクル派に属し、ペニウンクルは上流の人の意で、近文・ドロカワの
イシカリ
/ 紛争後の
イシカリ
の首長
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ・サッポロの検分)
イシカリ
・サッポロの検分 安政期に水戸藩が
イシカリ
・サッポロを領地としたり、藩の事業として直接開拓にあたることはなかったが,大津浜グループが
イシカリ
の鮭漁業に着手した年、その実態をたしかめ藩としての対応を考えるための実地検分である,
イシカリ
・サッポロに来たのは生田目弥之介(なまためやのすけ)という人。,まず奉行所で勝右衛門の発令にかかわった組頭河津三郎太郎に会い事情を聞き、
イシカリ
詰責任者荒井金助宛の書状,鮭漁期の十月七―十二日を
イシカリ
滞在とし、大津浜グループの漁業の実態をつかもうとしたのである。 /
イシカリ
・サッポロの検分
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ御用達と問屋の出店)
イシカリ
御用達と問屋の出店
イシカリ
改革により出稼人の急増をみるが、その多くは資力に乏しく、有力商人,一つは
イシカリ
直捌用達の任命である。,写真-11 御用達万屋の記録 もう一つは、
イシカリ
問屋(船宿扱)の開設である。,利兵衛は前
イシカリ
場所請負人の一族で、すでに出店(本陣)を
イシカリ
に持っていたが、あとの二者は翌安政六年出店,こうして改革後の流通機能は、
イシカリ
役所の強い統制のもとで発展していくのである。 /
イシカリ
御用達と問屋の出店
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ・サッポロと水戸藩)
その結果、安政期に
イシカリ
・サッポロと水戸藩はどのように結びついていくのだろうか。 ,、
イシカリ
の話題が水戸市中でささやかれたことがあったのだろう。,第三は大津浜グループ(第四章第二節参照)を
イシカリ
に送り込んだこと。,アイヌ差配権、
イシカリ
浜及び下流での鮭漁経営、
イシカリ
の初代浜名主、同湊案内役。 第4章2節(1),
イシカリ
滞在は安政5年10月7日から12日まで。 第3章2節(1) /
イシカリ
・サッポロと水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1
(テシオ川からイシカリ川へ)
テシオ川から
イシカリ
川へ 近藤重蔵ら一行は、九月二日
イシカリ
を立ってリシリ島目指して北上した。,ソウヤよりの帰路は、近藤重蔵は一行の二人と別れ上下五人とともにテシオ川を遡り、
イシカリ
川上流へ出るコース,続く『石狩川筋図』の方は、テシオ川からシオカリ峠を越えて
イシカリ
川へ出てからで、十月十二日の「タナシ山高凡十丈,チュクベツ番屋から下流については、残念ながら図面は欠くが、のちの記録に「
イシカリ
河原ヨリ深山幽谷数十里 / テシオ川から
イシカリ
川へ
新札幌市史 第1巻 通史1
(幕府の崩壊とイシカリ在住)
幕府の崩壊と
イシカリ
在住 おそらく安政五、六年ころに最多数に達した
イシカリ
在住は、その後漸減し、明治元年八月現在,このうち中村はヤウスバに入地したとされているが、実態は兼定役代すなわち行政官として、主として
イシカリ
役所,荒井好太郎も本拠をシノロにおきながらも、やはり
イシカリ
役所に出仕していたとみられるが、荒井については、,際、それへの任用に関する文書で渡辺鼎斎、畠山万吉の二人が現身分を在住と記されており、この二人が最後の
イシカリ
/ 幕府の崩壊と
イシカリ
在住
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地見回りとイシカリ場所)
蝦夷地見回りと
イシカリ
場所 ロシア船による襲撃事件の一方、文化四年五月十八日、異国船(のちに米国船と,が頻繁に往来するようになり、
イシカリ
を通行する人々も多くなった。 ,江差、オタスツ、オタルナイを見回り、
イシカリ
には九月一日「夕七半時」に到着した。,それよりソウヤまで行き、任務を果たし、帰途は、
イシカリ
まで戻り、
イシカリ
川よりシコツ越え道を通って東海岸,へ抜けたが、近藤重蔵のみは、テシオ川を遡り、それより
イシカリ
川上流に出て、
イシカリ
川を下るコースをとった / 蝦夷地見回りと
イシカリ
場所
新札幌市史 第1巻 通史1
(松浦武四郎のイシカリ川筋探検)
トクヒラ
イシカリ
より2丁程。,ツ
イシカリ
イシカリ
より9里半。枝川秋味1000石上る。20年程前、上より引移る。,いま一カ所ツ
イシカリ
場所は、もともとシノツ(スノツ)にあったが、二〇年ばかり以前に当時のツ
イシカリ
川河口,武四郎と同行のアイヌたちは、
イシカリ
川河口より九里半遡ったツ
イシカリ
でまず一泊したらしい。,ツ
イシカリ
より先は、エベツブト(イベツブト)で
イシカリ
川本流と分かれ、支流の千歳川に入った。 / 松浦武四郎の
イシカリ
川筋探検
新札幌市史 第5巻 通史5上
(『あかだも』『いしかり』)
『あかだも』『
いしかり
』 『凍土』より早い昭和二十八年一月、札幌アララギ歌会の編集により『羊蹄』休刊,『
いしかり
』の創刊は三十一年一月。 / 『あかだも』『
いしかり
』
新札幌市史 第1巻 通史1
(最上徳内のイシカリ探検)
最上徳内の
イシカリ
探検 東寗元稹の記述から、たまたま最上徳内の行動の一端が知られるわけであるが、公式記録,この時の最上徳内の
イシカリ
探検について詳細を知ることはできないが、のちに松浦武四郎が記しているところによれば / 最上徳内の
イシカリ
探検
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリほか二場所借用運動)
イシカリ
ほか二場所借用運動 『北方未来考』立稿後も斉昭は、蝦夷地領有嘆願運動をくりかえした。,同年七月、水戸藩領大津浜(現茨城県北茨城市)の鈴木兵七は、蝦夷地のうち
イシカリ
場所ほか二場所の借用を水戸藩,原のカラフトはじめ
イシカリ
、ソウヤ・リシリ計三場所借用の依頼を聞いて驚いた山田は、勝手掛家老蠣崎将監、,松前藩側が
イシカリ
場所等について難色を示すと、原はそれに代わるユウフツ、オショロ、タカシマ三場所の借用,以上が、天保十四年の水戸藩による
イシカリ
ほか二場所借用運動である。 /
イシカリ
ほか二場所借用運動
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ開拓と荒井村の性格)
イシカリ
開拓と荒井村の性格 以上みてきたように、荒井村は荒井金助が自費で開いた村であるが、幕吏の自費開墾,ここで問題の整理として、この時期
イシカリ
の農業開拓の状況等についてまとめてみたい。,まず
イシカリ
役所直轄地内の在住は、盛期で二〇人以上入地したが、官の期待とははるかに遠い成果しかあげることができなかった /
イシカリ
開拓と荒井村の性格
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ赴任に際しての諸条件提示)
イシカリ
赴任に際しての諸条件提示 次に第二の書類は『石狩出張ニ付奉願上候』と表記されたもので、ここでは,①大友と共に
イシカリ
開拓取扱として発令された関定吉が依願免となり、「私壱人ニテ取扱、万一手違等モ有之候,②
イシカリ
へ到着次第直ちに地所を見分して普請に取りかかるため、黒鍬七、八人を箱館より引き連れて行きたいが,役所買上品を渡すこと、また来年以降の入用品は、
イシカリ
において越後その他に注文すべきとの奉行所の回答である,④大友が
イシカリ
へ赴き御手作場の選定・造成を開始するに当たり必要な測量機器のうち、小方儀ならびに分度、 /
イシカリ
赴任に際しての諸条件提示
新札幌市史 第6巻 史料編1
(〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕)
〔
イシカリ
場所人別帳(松浦武四郎)〕 巳第三番 辰 シヤコタン ヒクニ フルヒラ 石カリ ヨイチ 人別,
イシカリ
之内 〔トクヒタ惣乙名〕 〔ハツシヤフ乙名〕 〔下サツホロ乙名〕 ,〔上サツホロ乙名〕 〔上ツ
イシカリ
乙名〕 〔下ツ
イシカリ
乙名〕 〔上カハタ乙名〕 / 〔
イシカリ
場所人別帳(松浦武四郎)〕
新札幌市史 第1巻 通史1
(交通路の大系)
銭箱──
イシカリ
──アツタを海岸づたいにむすぶ浜中道(はまなかどう)、(三)千歳──ツ
イシカリ
──
イシカリ
,) (二)の銭箱・
イシカリ
、
イシカリ
・アツタ間はそれぞれ一日行程で、途中フンベム(モ)イには小休所,があり、オタルナイ・
イシカリ
場所の境界となるオタルナイ川には渡船があった。,(三)の千歳・ツ
イシカリ
、ツ
イシカリ
・
イシカリ
間は、上下により時間差がおおきく異なるものの、ほぼ一日行程,で、ツ
イシカリ
には通行屋が設置されていた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(村垣範正の廻浦)
村垣範正の廻浦 以上の
イシカリ
改革の発表がなされてから間もなく、村垣範正が廻浦で
イシカリ
入りをした。,範正が金助ヘ
イシカリ
改革発表後の
イシカリ
の様子を種々たずね、その返答を両奉行に書き送っている。,このようにみてくると、
イシカリ
改革の発表も
イシカリ
では平静にうけとめられ、予想したほどの動揺もみられなかったらしい,村垣範正はこの後、二十七日に千歳川を下り、その夜はツ
イシカリ
の通行屋に宿泊し、翌二十八日に
イシカリ
・ハッサム,この時は直接に
イシカリ
へはおもむかなかったが、東蝦夷地・カラフトの廻浦をおえ、八月五日に改めて
イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(荒井金助の事蹟)
さらには、
イシカリ
建府論の提唱と実践である。,金助の
イシカリ
建府論に関しては第一〇章であつかうが、金助はこの構想をもとに、積極的に
イシカリ
の町づくりと,、金助の施策活動もその一環としてみる必要があるものの、困難な
イシカリ
改革の前夜に、
イシカリ
詰の調役として,また、金助の子弟の多くも
イシカリ
に関係をもっていた。,甥の井上斧太郎も、安政七年頃に
イシカリ
在住となり、
イシカリ
の開拓に尽力する。
新札幌市史 第1巻 通史1
(動員されるアイヌ)
このため、
イシカリ
運上屋から遠く離れた
イシカリ
川上流から、あるいは漁事の乏しい他場所(たとえばユウフツ,第二に、「元〇〇ノ者」というごとく記載された
イシカリ
川上流・中流域出身者は、多くが
イシカリ
川河口に集住,これらのことから推測するに、
イシカリ
十三場所外の
イシカリ
川上流・中流域からのアイヌの労働力の河口付近への,ユウフツアイヌの
イシカリ
への出稼は、
イシカリ
アイヌのユウフツ領千歳川への出稼と同様、第六章で触れたように,この結果、ユウフツアイヌが
イシカリ
川をはじめ西蝦夷地へ出稼して得た鮭にせよ、鯡にせよ、荷物も一切
イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(第二回訴願)
第二回訴願 こののちも
イシカリ
川の不漁は、なかなか回復しなかった。,のため
イシカリ
の運上屋の「介抱」を受ける始末となっていた。 ,①上ツ
イシカリ
の知行主松前勇馬(天明末~寛政初年の『西蝦夷地分間』では、上ツ
イシカリ
の知行主は松前貢、,④上ツ
イシカリ
のアイヌは、ウライ没収以後、
イシカリ
川筋の長びく不漁によって、住人のほとんどが今ではイザリブト,上ツ
イシカリ
、シママップ、トクヒラ五場所の通詞たちは、連名で
イシカリ
詰合平島長左衛門宛に、シレマウカの
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