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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ場所の新道)

イシカリ場所の新道 先の箱館奉行の計画にそい、西海岸でも安政三、四年に各地で新道の切開がおこなわれるようになった,イシカリでも、(一)イシカリ・アツタ間、(二)イシカリ・ツイシカリ間、(三)銭箱・ユウフツ間、以上三本,一 イシカリよりツイシカリ迄新道之儀、是又請書出ス。同様申渡ス。,この時に、イシカリ場所請負人の阿部屋に、(一)・(二)の着工を命じたことがわかる。  ,写真-1 ツイシカリ番家(西蝦夷図巻より) / イシカリ場所の新道
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリは「不宜場所」)

イシカリは「不宜場所」 『入北記』には、「此場所支配人、土人ノ取扱ヒ以ノ外、不宜場所第一ト云フベシ、,ヨリテカク仰渡サルト見ヘタリ」と、イシカリ場所がいかに「不宜場所」であったかを、感慨をこめて指摘している,しかし、特にイシカリ場所が尖鋭的にあらわれており、この解決は場所請負制の廃止―イシカリ改革に、またなければならなかった,ここには直接、イシカリ場所についてはふれていないが、ここでいう「流弊」とはイシカリ廻浦の直後だけに、暗,にイシカリ場所のことをさしているとみてよいだろう。 / イシカリは「不宜場所」
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ「場所」と鮭)

イシカリ「場所」と鮭 イシカリ川と、その支流に位置する現在の札幌市域を包括した地域が、きわめて鮭の豊富,なかでもイシカリの鮭はよく知られていたらしく、享保二年(一七一七)の『松前蝦夷記』にも、「鮭 蝦夷地之内,このため、夏商にせよ、「生鮭」交易にせよ、従来の単なる点としての存在の「商場」から、面としての「場所」,しかしこの場合、飯料となる鮭は、アイヌの既得権として尊重され、「場所」設定時にも川口の鮭は藩主に、また / イシカリ「場所」と鮭
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地見回りとイシカリ場所)

蝦夷地見回りとイシカリ場所 ロシア船による襲撃事件の一方、文化四年五月十八日、異国船(のちに米国船と,一行の一人田草川伝次郎の『西蝦夷地日記』には、イシカリ十三場所の知行主、請負人、支配人、アイヌ人口、アイヌ,表-3 文化4年イシカリ十三場所 請負人・運上金・アイヌ人口 場所名 知行主 請負人・支配人 運上金,イシカリは、鯡(にしん)のほか鮭が中心で、秋味はすべて藩主直場所で、石高にして六五〇〇石ずつ、年々栖原屋,それよりソウヤまで行き、任務を果たし、帰途は、イシカリまで戻り、イシカリ川よりシコツ越え道を通って東海岸 / 蝦夷地見回りとイシカリ場所
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリほか二場所借用運動)

イシカリほか二場所借用運動 『北方未来考』立稿後も斉昭は、蝦夷地領有嘆願運動をくりかえした。,同年七月、水戸藩領大津浜(現茨城県北茨城市)の鈴木兵七は、蝦夷地のうちイシカリ場所ほか二場所の借用を水戸藩,松前藩側がイシカリ場所等について難色を示すと、原はそれに代わるユウフツ、オショロ、タカシマ三場所の借用,以上が、天保十四年の水戸藩によるイシカリほか二場所借用運動である。,イシカリ場所は一〇〇〇両、カラフト場所は一六〇〇両というごとく、有望場所のみをあげていたことが知られる / イシカリほか二場所借用運動
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの詰役)

そのうちイシカリは当初シャコタン、ビクニ、フルビラ、ヨイチ、オショロ、タカシマ、オタルナイ、イシカリ、,アツタ、以上の九場所を管轄し、イシカリが調役の駐在する詰場所とされた。,図-1 イシカリ持場所(○印)  イシカリが詰場所に選定されたのは、安政二年十一月に出された箱館奉行,一  イシカリ詰 [持場シヤコタン領よりマシケ領迄]水野一郎右衛門右之場所大船繫泊宜、殊ニ追々在住之もの,「東西蝦夷地場所詰正月廿八日被仰付候公辺御役方面附写」(松前箱館雑記 巻五)によると、イシカリ・アツタ / イシカリの詰役
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの内国化)

しかし、そうした歴史的方向へ確実に進行していたことをイシカリ改革は物語っている。  ,イシカリ場所のアイヌはアツタ場所にもオタルナイ場所にも出かける。,ユウフツ場所からは多くのアイヌがイシカリ場所に毎年やって来た。,イシカリのアイヌは場所請負人の支配をはなれ、イシカリ役所の管轄に入り風俗習慣まで内国化を求められる。,改革によりイシカリの異域性は音をたてて崩れだした。 / イシカリの内国化
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの開発)

イシカリの開発 北蝦夷地(カラフト)におけるロシア南進の急迫化にともなって、幕府は現地北蝦夷地での直接的,このような中にあって、西蝦夷地のイシカリは、つとに箱館奉行所においても注目するところの地であった。,このような重要な位置を占めるイシカリは、松前藩の時代より引き続き、阿部屋村山伝二郎が場所請負人として差配,していたが、その不都合な場所支配が明白になったことを契機に、安政五年(一八五八)箱館奉行所はイシカリ場所,の請負制を廃して直捌とし、いわゆるイシカリ改革を断行した(第四章参照)。   / イシカリの開発
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの機能)

イシカリの機能 武四郎はしばしばイシカリをもって、枢要の地と称している。,これをみると枢要の地イシカリとは、石狩川河口の運上所や勤番所を中心としたイシカリの集落地域のみを指すのではなく,、広義にイシカリ十三場所を含む石狩川下流地域を指していると推察される。,イシカリは西蝦夷地の海上航路において、箱館とソウヤの間のほぼ中間に位置し、またすでにユウフツとをもって,、イシカリの重要性はますます増大されていくのである。 / イシカリの機能
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ要害論)

イシカリ要害論 イシカリ川を下った近藤重蔵は、復命書にあたる蝦夷地取調書を見る限りイシカリ付近の奥深,触れているが、イシカリの将来を見通した、いわゆる「イシカリ要害論」であった。,①イシカリ川について  イシカリ川は総蝦夷地(この場合東西蝦夷地の意か)の中央にあり、かつ第一の大河,②イシカリ場所について  イシカリ場所が「蝦夷地第一ノ都会ノ地」であるといったように聞いている。,イシカリの将来を見越した、またイシカリ場所の漁業資源とそこに集まる人的資源に着目した防衛論が前面に出るあまり / イシカリ要害論
新札幌市史 第6巻 史料編1 (〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕)

〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕 巳第三番 辰 シヤコタン ヒクニ フルヒラ 石カリ ヨイチ 人別, イシカリ之内   〔トクヒタ惣乙名〕   〔ハツシヤフ乙名〕   〔下サツホロ乙名〕   ,〔上サツホロ乙名〕   〔上ツイシカリ乙名〕   〔下ツイシカリ乙名〕   〔上カハタ乙名〕 / 〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ川の地図)

一枚は文化七年『蝦夷地図』(国立史料館蔵)で、当時イシカリ場所の請負人であった阿部屋村山直之が、文化十三年,川へ流れ込んだ場所がツイシカリ川の中流域の支流「ヌフルテツ」(ヌプロチペ=現野津幌川)および「フシコベツ,本図はもともと場所請負人阿部屋に伝わるものであったので、阿部屋のイシカリ場所請負に関わる絵図であったと,川に流れ、ツイシカリでイシカリ川に合流している。,このように、一九世紀のはじめにサッポロ川の流路が変わったことは、当時イシカリ場所の請負人であった阿部屋 / イシカリ川の地図
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ改革の胎動)

イシカリ改革の胎動 イシカリ改革は、漁場を独占した場所請負人を廃止し、場所経営を箱館奉行が直接的におこなうという,たとえば、イシカリ場所内の開発の問題である。,「イシカリ改革」の史料上の初見は、『公務日記』の安政四年四月三十日条である。,廻浦途上の村垣範正は、この日イシカリの廻浦を終え、千歳に着いていた。,兼持」となっており、イシカリ「出張之見込」に対し、堀利熙の意見が具申されてきたのが、この内状であったろう / イシカリ改革の胎動
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ山請負)

イシカリ山請負 宝暦年代(一七五一~六三)以降になると、イシカリ場所の請負の形態のひとつとして、イシカリ,翌年七月二十八日付のイシカリ山伐木願書によれば、宝暦五年より八カ年間イシカリ山へ杣夫を入れ、寸甫=丸太一,飛驒屋のイシカリ山伐木に関する史料は、『武川家文書』(岐阜県下呂町教委蔵)の中に残されており、伐木場所,このうち、伐木場所についてはイシカリ山の伐木図が残されており、それについては第七章で詳述したい。  ,(純利益) 備考 イシカリ囲木寸甫 江戸・大坂登寸甫 イシカリ山方入用金 杣方当座渡金 6月9月勘定分手代貸 / イシカリ山請負
新札幌市史 第1巻 通史1 (範正のイシカリ入り)

範正のイシカリ入り 写真-2 村垣淡路守範正 (市立函館図書館蔵)  以上のイシカリ改革の計画,が問題になってきたこの折に、範正のイシカリ入りがなされたのであった。,イシカリには二十九日まで滞在し、三十日にはツイシカリを出立し、千歳に向かうのであるが、この期間中、範正,がなした事柄は、第一に在住の入植場所の選定(第七章参照)、第二に新道切開の命令(第五章参照)であった。,範正の『公務日記』は、イシカリ滞在中のことはいたって簡単で、胸中にイシカリ改革のことがあったはずなのに / 範正のイシカリ入り
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ役所の創設)

イシカリ役所の創設 イシカリ改革の実施にともない、イシカリ場所全般の行政・司法をつかさどる機関として,創設されたのがイシカリ役所であった。  ,イシカリ役所は、これまでのイシカリ詰の役人の編成をそのまま継承したものではあったが、役所の組織下に漁場,ここでは、改革後のイシカリ役所の動向をさぐってみよう。  ,これによると、旧運上屋の場所はイシカリ川の屈曲部にあたり水難の恐れがあり、地積も狭隘で不充分なために、 / イシカリ役所の創設
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリアイヌの流散)

イシカリアイヌの流散 イシカリ場所を支えたのは豊富な鮭であったが、さらにそれ以上に実はアイヌの人々の,第二次直轄になり、イシカリ場所が廃止され直捌となった要因には、場所請負人である阿部屋(村山家)の非道な,イシカリ改革以後は、イシカリ役所が改(あらため)役(会)所を通じて直接的に「撫育」を行うようになった。,また、アイヌへの優遇策を謳(うた)ったイシカリ改革であったが、この改革は同時に和人の出稼労働を招いて、,また、開墾地の拡大にしたがい、アイヌは土地を追われることとなり、かつて隆盛をほこったイシカリアイヌが、 / イシカリアイヌの流散
新札幌市史 第1巻 通史1 (海防論とイシカリ)

次に武四郎の『海防策』から、イシカリについてどう考えていたのかみてみよう。,その場合イシカリよりハママシケへの通行は、ツイシカリよりルルモッペ(留萌)への道路を開削するがよいだろう,④イシカリ詰の勤番が小人数なので、人員増加した方がよいだろう。  ,⑤イシカリ場所のアイヌの人口が減少しつづけ、三〇年もしたら絶えてしまう恐れさえある。,軍艦造営の拠点をイシカリに据えたのは、近藤重蔵のイシカリ要害論に影響されたのだろうか。 / 海防論とイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (武四郎とイシカリ改革)

武四郎とイシカリ改革 武四郎は「石狩場所人別帳に添て上る書」(燼心餘赤)にて、イシカリ場所は運上金年一,御直捌被仰付候はゞ土地も早々相開け、土人も増殖仕候と奉存候、  ここで武四郎は、アイヌの人口減少の原因は場所請負制,武四郎はイシカリ改革後のイシカリの様子を、「此度直捌に成てより移住の者も多く、僅一年の間に一すじの町家,となりしも、偏に休明の御世なるかな」と述べ、イシカリ改革の成果を「休明の御世」と讃嘆している(西蝦夷日誌,イシカリ改革の成果が実際的にどのようなものであり、武四郎はどのように評価しえたのか興味がもたれる。 / 武四郎とイシカリ改革
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ改役所の設置)

イシカリ改役所の設置 安政五年、改革による新体制のもとで、基幹産業の漁業をどう発展させていくべきか検討,新体制にそった変更なくして、イシカリ漁業の発展は望めず、イシカリ改革の成否にかかわる問題だったのである,そこで、まずイシカリ役所の下部組織としてイシカリ改役所(あらためやくしょ)を設置した。,漁業が生産基盤のイシカリでは、ほとんどの住人がこれにかかわりを持つから、アイヌの「撫育」を含め広く民生,イシカリ役所の収益とすることにあった。 / イシカリ改役所の設置
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ入津の廻船)

イシカリ入津の廻船 イシカリに毎年どのくらいの荷船が出入りしたのだろうか。,(石狩場所 札幌市街 石狩町資料)  また、佐々木勝造は「石狩入津の船は、年々六十艘、多き年は九十艘,六十艘、九十艘と云ふは真にあらず」(いずれも石狩場所 札幌市街 石狩町資料)とのこと。,イシカリ改革の年、安政五年の入津は四五艘と記録にある(市史一三四、一四一頁)。  ,とみなされるようになると、太平洋を流通ルートとする東廻り船の重要度が増し、東蝦夷地からの直䑺とともに、江戸へ向かうイシカリ / イシカリ入津の廻船
新札幌市史 第1巻 通史1 (上ツイシカリアイヌの離散)

上ツイシカリアイヌの離散 シレマウカの本拠地である上ツイシカリの場合、もっとも大きな影響を受けている,、「上ツイシカリ蝦夷人住居不仕不残他場所住居仕候」(由来記)というごとく、無人と化している。,一  家数三十七軒   上ツイシカリ場所   人数百四十八人    此住居旧来唱来 一  家数七軒,一  家数三軒     イシカリ之内ハツサフ場所   人数九人    是はシレマウカウタレニ御座候処,其後人別御取調之節上ツイシカリ人数ニ相成候。   / 上ツイシカリアイヌの離散
新札幌市史 第1巻 通史1 (第二次直轄とイシカリ)

第二次直轄とイシカリ 第二次直轄となり、イシカリには調役以下の詰合役人が派遣されるようになるが、特に,イシカリ詰の調役は、シャコタン(積丹)からアツタ(厚田)までをイシカリ持場として担当することになった。,イシカリ改革であった。,イシカリ改革は、場所請負制を廃止し、幕府・箱館奉行による直接経営(直捌(じきさばき))を行うことで、狭,イシカリ改革にともない、イシカリ詰の勤番所はイシカリ役所と称されるようになった。 / 第二次直轄とイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ通過の第一報)

イシカリ通過の第一報 調査団がイシカリに検分御用として到着するのは、目付グループ本隊が五月二十日、勘定方,イシカリについては、オタルナイより船路七里余とし、 イシカリ  運上家幷勤番所、蝦夷家有之。,フルヒラより弐拾壱里半余 イシカリ川 五六町川路を下り、海岸草生の場所出離、海岸随ひ、一里余にて,シユウツ  [イシカリアツタ]境 と報じている。  ,此所より船路イシカリ境迄、シユマヽフともふす処え四里、都合凡拾六里程にてイシカリ川へ出る。 / イシカリ通過の第一報
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリへの情報伝達)

イシカリへの情報伝達 ところで変転する中央での政治的動向は、蝦夷地イシカリにおいても為政者側には詳細,それは箱館奉行所を通じてイシカリ役所にもたらされ、さらにイシカリ役所から管内の詰合や在住に至るまで廻状,このような中にあって、明治元年四月十二日に蝦夷地統轄の箱館裁判所が設置され、その達書が閏四月二十二日にイシカリ,詰調役樋野恵助よりイシカリの在住の面々にも廻状をもって伝達された。,引き続き箱館裁判所権判事井上石見と同岡本監輔の連名による、杉浦旧箱館奉行あての次のような書付が、イシカリ / イシカリへの情報伝達
新札幌市史 第1巻 通史1 (幕府の崩壊とイシカリ在住)

幕府の崩壊とイシカリ在住 おそらく安政五、六年ころに最多数に達したイシカリ在住は、その後漸減し、明治元年八月現在,このうち中村はヤウスバに入地したとされているが、実態は兼定役代すなわち行政官として、主としてイシカリ役所,荒井好太郎も本拠をシノロにおきながらも、やはりイシカリ役所に出仕していたとみられるが、荒井については、,他の八人については、若干居住場所の不明のものもあるが、大友を除きすべて沿海地域にあり、ハッサムなど山麓地域,際、それへの任用に関する文書で渡辺鼎斎、畠山万吉の二人が現身分を在住と記されており、この二人が最後のイシカリ / 幕府の崩壊とイシカリ在住
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロと水戸藩)

、イシカリの話題が水戸市中でささやかれたことがあったのだろう。,第三は大津浜グループ(第四章第二節参照)をイシカリに送り込んだこと。,しかし、それが場所請負人としてではなく、あくまでも出稼名目だったこと、しかも、もっと生産力の高い場所を,アイヌ差配権、イシカリ浜及び下流での鮭漁経営、イシカリの初代浜名主、同湊案内役。 第4章2節(1),イシカリ滞在は安政5年10月7日から12日まで。 第3章2節(1) / イシカリ・サッポロと水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎のイシカリ川筋探検)

ツイシカリ イシカリより9里半。枝川秋味1000石上る。20年程前、上より引移る。,松浦武四郎『再航蝦夷日誌』より作成  イシカリ十三場所のうち、川筋の、あるいは枝川上流の運上屋・番屋,いま一カ所ツイシカリ場所は、もともとシノツ(スノツ)にあったが、二〇年ばかり以前に当時のツイシカリ川河口,復領後からのイシカリとユウフツ場所間の取り決めによる相互の出稼が恒常化していたのであろう。  ,武四郎がその著作で、イシカリ場所の運上金、産物、人口の減少について詳しく触れたことは前述したので、くり / 松浦武四郎のイシカリ川筋探検
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリアイヌの入会権)

イシカリアイヌの入会権 かたや千歳アイヌのイシカリ川筋での漁、かたやイシカリ川筋のアイヌの千歳川筋での,上ツイシカリの惣乙名シレマウカ、下ツイシカリの乙名レタリカウク、上ユウバリのアンラマシテ、同カシュウシ,上ツイシカリの惣乙名シレマウカは、『由来記』によれば、元来は千歳アイヌ系であるという。,なぜ上ツイシカリの惣乙名になったかは不明である。,同じイシカリ場所のうち下ツイシカリの乙名レタリカウクの場合も、やはり父親の代からイザリの干鮭場への出漁権 / イシカリアイヌの入会権
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ御用達と問屋の出店)

イシカリ御用達と問屋の出店 イシカリ改革により出稼人の急増をみるが、その多くは資力に乏しく、有力商人,一つはイシカリ直捌用達の任命である。,写真-11 御用達万屋の記録  もう一つは、イシカリ問屋(船宿扱)の開設である。,利兵衛は前イシカリ場所請負人の一族で、すでに出店(本陣)をイシカリに持っていたが、あとの二者は翌安政六年出店,こうして改革後の流通機能は、イシカリ役所の強い統制のもとで発展していくのである。 / イシカリ御用達と問屋の出店
新札幌市史 第1巻 通史1 (テシオ川からイシカリ川へ)

テシオ川からイシカリ川へ 近藤重蔵ら一行は、九月二日イシカリを立ってリシリ島目指して北上した。,をあきらめたこと、②西地の山越道にテシオ越え、シャクマ越えがあるが、帰路確認のこと、③西地警固の者の配置場所,ソウヤよりの帰路は、近藤重蔵は一行の二人と別れ上下五人とともにテシオ川を遡り、イシカリ川上流へ出るコース,続く『石狩川筋図』の方は、テシオ川からシオカリ峠を越えてイシカリ川へ出てからで、十月十二日の「タナシ山高凡十丈,チュクベツ番屋から下流については、残念ながら図面は欠くが、のちの記録に「イシカリ河原ヨリ深山幽谷数十里 / テシオ川からイシカリ川へ
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロの検分)

イシカリ・サッポロの検分 安政期に水戸藩がイシカリ・サッポロを領地としたり、藩の事業として直接開拓にあたることはなかったが,大津浜グループがイシカリの鮭漁業に着手した年、その実態をたしかめ藩としての対応を考えるための実地検分である,イシカリ・サッポロに来たのは生田目弥之介(なまためやのすけ)という人。,鮭漁期の十月七―十二日をイシカリ滞在とし、大津浜グループの漁業の実態をつかもうとしたのである。,生田目の調査は、ほかにイシカリにおける従来の場所請負のあり方、アイヌの動向など地域全般に関心をはらい、 / イシカリ・サッポロの検分
新札幌市史 第1巻 通史1 (紛争後のイシカリの首長)

紛争後のイシカリの首長 紛争後のイシカリの総大将ハウカセの動向についてはわからないが、その後なおしばらく,蝦夷出合の節かるへか手を出し、蝦夷の頭を押してしはらく指置、手をはなし、のき申候」とあり、カルヘカがイシカリ,なお、庄屋のような役のもの一三人とあるが、それはイシカリ場所の各首長なのだろうか、享保二年(一七一七),イシカリの「またべ」もこの時期、これに比される頭人と見られていたわけであるが、松前藩士の商場知行地が蝦夷地,川流域のアイヌはペニウンクルとシュムクル派に属し、ペニウンクルは上流の人の意で、近文・ドロカワのイシカリ / 紛争後のイシカリの首長
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所請負へ)

以上は、イシカリ山請負の営業の結果、藩との財政上の関係から、ついには藩主直場所の請負へと変化していった,ところで飛驒屋は、イシカリ山請負のかたわら、イシカリの夏商の下請を行っていた形跡がある。,、イシカリ場所に「地頭」(知行主)一二人がいて、それら「地頭」から支配を請負う形で大黒屋と工藤忠左衛門,これによれば、イシカリ場所夏商の運上金は二八六両と指荷の品々で、一二場所のうち大黒屋が三場所を、残り九場所,この表をみた限りでは、飛驒屋が夏商の請負を通してどれだけの利益があがっていたか、またイシカリ場所夏商全体 / 場所請負へ
新札幌市史 第1巻 通史1 (十二場所論)

十二場所論 小野寺が入手したイシカリ情報の中で特異なのは十二場所論だろう。,彼は『北遊紀聞』で、イシカリに「十二ケ所」の「川漁場」があるとし、次の地名をあげる。,下サツホロ 五リ   ナイホウ 上サツホロ 七リ   下ツイシカリ 八リ 上ツイシカリ   上ユウバリ,『路程全図』に位置づけられた十二場所をみると、いずれもイシカリ川沿いにあり、川口に一番近いのが下サッポロ,小野寺のイシカリ内陸部の理解は充分でなかったとみられる。 / 十二場所論
新札幌市史 第1巻 通史1 (直場所の経営費)

直場所の経営費 クシュンナイを中心とするカラフト直場所経営の手足となって動いたイシカリ役所は、当然多額,これは全体の七三・六パーセントにものぼり、箱館奉行所の名で行われたクシュンナイ直場所経営は、事実上イシカリ,この投資の財源に果たしたイシカリの役割はまことに大きい。,まず、安政五年の準備段階で二二五一両余がイシカリ役所から支出された。,イシカリ改革(場所請負人廃止、直捌制導入)による収納金の処理がどうなされたか、従来いろいろ伝えられてきた / 直場所の経営費
新札幌市史 第1巻 通史1 (深き見込みの場所)

深き見込みの場所 阿部―堀田政権のもとで進められた蝦夷地上地による第二次幕府直轄政策は、イシカリを大,イシカリを幕府直轄地としただけでなく、「受負人と申は領主同様」で「場所の義は領分と唱」(生田目氏日記),えさえした場所請負制を廃止し、イシカリ方式とも言えそうな、幕府による特殊な支配体制をしいた。  ,外交的、経済的要因をはらみつつ、イシカリ改革はこの政治課題に挑戦したとみていい。  ,なかんずくイシカリの位置づけが強く認識されるにいたったことはまちがいない。 / 深き見込みの場所
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所の出産物)

表-2 イシカリ十三場所出産物(文化6年) 場所名 差荷物 トクヒラ 差荷物 ハッサム 魚油2斗入1樽,差荷物(2両) 下ツイシカリ 差荷物(金納) 上ユウバリ 差荷物(なし) 下ユウバリ 干鮭3束、鮭鮓,十三場所のアイヌたちは、イシカリ場所外まで鯡漁の出稼に行かされ、その漁獲物は十三場所の出産とされた。,此人数凡二千有余人(中略)イシカリ十三ケ所夷人モ早春鯡取ニ同処へ集リ候儀ニテ」とあって、十三場所のアイヌ,このようなイシカリ十三場所外、つまり他場所へのアイヌの労働力の使用は、まさにこの時期から頻繁にみられる / 十三場所の出産物
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所と夏商)

イシカリの場合、場所内をいくつかに区切ってその場所内に居住するアイヌとの交易権を藩士に与えていたことは,しかも、この記録のつづきには、イシカリ川の「下川」より「はうかせ在所迄二日程」の距離があり、「御船商仕候節先年,まず第一に夏場所の知行主が藩主以下一三人いて、のちに「イシカリ十三場所」といいならわされる初源的かたちがみられる,第三に、夏商にイシカリ川へ入る船は、五〇〇~二〇〇石積の船一六艘で、六月に来て七月に帰る。,このように、元文年代には、イシカリ十三場所の知行主たちは、いずれも運上金を設定してのいわゆる夏商の請負形式 / 十三場所と夏商
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所の変遷と請負人)

十三場所の変遷と請負人 イシカリの夏商場所である、いわゆる「イシカリ十三場所」は、天明期以降になると,表-6 イシカリ十三場所・知行主・請負人・運上金変遷表 比定場所 ナイホ 下サツポロ シノロ 上サツポロ,表6にあげた史料のごとく、イシカリの場所数を「イシカリ十三ケ所」というようにくくって記述するようになったのは,このように、イシカリの夏商場所の記述のしかたからみても、夏商場所は、享保年代以後、藩士の知行主一二家の,一二場所と、藩主の直場所とからなる、いわゆる「イシカリ十三場所」が記録の上からも定着したとみることができよう / 十三場所の変遷と請負人
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所の人口把握)

十三場所の人口把握 イシカリ十三場所の人口、それも各場所ごとに把握されるようになったのは、いつ頃からであろうか,サッポロ)の四一人の順となっており、イシカリ十三場所(下ユウバリを欠くが)として把握される人員は、全部,表-3 イシカリ十三場所戸口表(天明6~文化7年) 場所名 天明6(1786) 天明末~ 寛政初年,三倍以上の増加場所は、下ユウバリ(六倍)、シノロ、上ツイシカリ、上ユウバリ、上カバタで、減少したのはハッサム,(下ツイシカリと下ユウバリと違いがあるが、同一請負人の場所という捉え方でいうと、下ユウバリが正しい)をまとめ / 十三場所の人口把握
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所運営の手抜き)

阿部屋のイシカリ場所運営は閉鎖的で、和人の漁業進出を極力排除し、幕吏や諸藩士の場所内通行を快く思わなかったから,イシカリからソウヤ方面へ旅する人が陸路によると、翌日の宿はアツタだが、旅人はそこで両場所の応接の差を身,それだけイシカリ場所の世話方が行き届いていなかったことになろう。,イシカリ場所の不行届は、場所が広く内陸部にひろがり、産業は秋にのみ片寄っており、経営が困難なうえに、請負人,その結果は村垣奉行をして「イシカリ持の新道甚麁にして不宜」(公務日記)と嘆かせ、阿部屋の場所世話方手抜 / 場所運営の手抜き
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所請負漁業の終末)

場所請負漁業の終末 イシカリ改革は漁業のあり方を直接変革しようとするものでなかったとはいえ、イシカリ,② 秋、イシカリで鮭漁をする。 ③ イシカリアイヌが生産した干鮭の集荷をする。  ,表-4 イシカリ場所の鮭漁場と引網数 網主漁場 阿部屋 山田家 アイヌ 計 備考 浜(川口西) 1,1 3 ツイシカリ下向 2 1 3 ツイシカリ上向 1 1 2 ホリカモイ 1 1 2 引網計,表-5 阿部屋のイシカリ漁業経営(収支額と割合) 年内訳 嘉永5年 安政4年 イシカリ改革 安政5年 / 場所請負漁業の終末
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住入地場所の選定)

させる場所の決定についても、箱館奉行がかなり関与したものとみられる。,これからすると、イシカリ役所の意向を奉行が検分して承認するという手続きがとられたようである。  ,ここではハッサムが在住入地場所として適地とされているほか、イシカリ河口辺が入地不適地とされている点が注目,これからみると、土地選定の条件の第一は、いうまでもなくイシカリ平野の持つ位置の重要性であるが、その中で,以上のような理由から、サッポロ・ハッサム山麓に在住入地場所が内定されたが、具体的な場所としてはハリウス / 在住入地場所の選定
新札幌市史 第1巻 通史1 (動員されるアイヌ)

このため、イシカリ運上屋から遠く離れたイシカリ川上流から、あるいは漁事の乏しい他場所(たとえばユウフツ,、イシカリ十三場所の人別帳に入れたと伝えている。  ,これらのことから推測するに、イシカリ十三場所外のイシカリ川上流・中流域からのアイヌの労働力の河口付近への,さらに、イシカリ場所外からのアイヌ労働力の動員は、ユウフツ場所のアイヌのみではなかった。,嘉永五年(一八五二)の『村山家資料』によれば、他場所からイシカリ場所に動員されたアイヌは男女合わせて二六九人
新札幌市史 第1巻 通史1 (第二回訴願)

、少しばかりの場所役として干鮭を差し出しても構わないので、ウライの回復を願いたいというもので、上ツイシカリ,、すなわち上ツイシカリのシレマウカのウライ所有場所から産出するものであって、東蝦夷地の直轄によって没収,このような報告書を踏まえて、同年十二月には、イシカリ十三場所内の米屋孫兵衛請負のハッサム、下ユウバリ、,上ツイシカリ、シママップ、トクヒラ五場所の通詞たちは、連名でイシカリ詰合平島長左衛門宛に、シレマウカの,しかも、ウライ復活の条件として、ユウフツ場所請負人阿部屋と、イシカリ場所のうち五場所請負人の米屋と双方
新札幌市史 第1巻 通史1 (集約化されるアイヌ労働)

集約化されるアイヌ労働 前述したごとく、この時期のイシカリ十三場所における人口数を見た限りでも、人口把握,①上ツイシカリアイヌの人別  文化十年(一八一三)、上ツイシカリの通詞幸吉以下三人が、上ツイシカリの,この上ツイシカリは、東蝦夷地が直轄になって以来、上ツイシカリの惣乙名(そうおとな)シレマウカが所有する,ところが、上ツイシカリの人別に入っていた二六戸、一〇五人というのは、もとテシオ場所のアイヌで、上ツイシカリ,近藤重蔵の前掲史料に、「他場所ノ夷人飢渇等ノ時イシカリヘマイリ永住仕候者モ有之。
新札幌市史 第1巻 通史1 (移住の自由)

移住の自由 イシカリ改革は長年の場所請負制を廃止し、それに代わる直捌を柱とした箱館奉行による土地住人,安政五年四月十三日、阿部屋伝治郎にイシカリ場所請負の差免を令し出稼人となることを命じ、この日から一漁場経営者,恵比寿屋はかつてイシカリ十三場所の内カバト、ユウバリ等を請負ったことがあり、当時は西蝦夷地のオタルナイ,松前人としての市民権を持っていたが、安政四年奉行所の意向に添い、蝦夷地永住を願い出たり、イシカリ場所に,イシカリ場所出稼(浜、川) ユウフツ、サル、アッケシ 場所請負人 恵比寿屋半兵衛 小休所取建 見世
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手船の商場)

異国へつながりのあるアイヌが居住する、生産力豊かな奥地の商場は、藩主の御手船の商場で、西蝦夷地はイシカリ,イシカリ場所の開設の時期については、記載する記録が見出されていないが、テシオ場所より早い年次ではないかと,だが、この絵図には「ゑぞおほく有」の記入はあるが、イシカリ川流域の地名の記載はなく、「そうや」についても,ただ、イシカリアイヌは早くから津軽まで出向いており、したがって松前へも出入のあったことは考えられる。,その後和人地と蝦夷地を区別し、アイヌが和人地に来ることを禁じてからは、松前藩の御手船が「いしかり」へ来
新札幌市史 第1巻 通史1 (詰役の更迭)

詰役の更迭 安政三年も末になると、イシカリ詰となる在住たちも続々と箱館に到着し、イシカリの開発構想がうち,左十郎はやはり、イシカリ詰足軽の左一郎の兄であった。,左十郎のイシカリ詰は疑問としておきたい。,ここであげられている詰役の場所は、一郎右衛門のイシカリ、甚之助のルルモッヘをはじめとして、イワナイ・ソウヤ・シャリ・エトロフ,のちにみるように、イシカリ場所では請負人から詰役人への賄賂も横行していた。
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