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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロの検分)

イシカリ・サッポロの検分 安政期に水戸藩がイシカリ・サッポロを領地としたり、藩の事業として直接開拓にあたることはなかったが,大津浜グループがイシカリの鮭漁業に着手した年、その実態をたしかめ藩としての対応を考えるための実地検分である,イシカリ・サッポロに来たのは生田目弥之介(なまためやのすけ)という人。,まず奉行所で勝右衛門の発令にかかわった組頭河津三郎太郎に会い事情を聞き、イシカリ詰責任者荒井金助宛の書状,鮭漁期の十月七―十二日をイシカリ滞在とし、大津浜グループの漁業の実態をつかもうとしたのである。 / イシカリ・サッポロの検分
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロと水戸藩)

イシカリ・サッポロと水戸藩 諸藩が一斉に蝦夷地調査を始める安政三年、斉昭は逆に内願はもとより警衛開拓,その結果、安政期にイシカリ・サッポロと水戸藩はどのように結びついていくのだろうか。  ,表-2 安政期 イシカリ・サッポロと水戸藩のかかわり 事項 内容 参照個所 (1)人材を送る 水戸藩の,考えに同調する人材が蝦夷地に送りこまれ、イシカリ・サッポロを往来。松浦武四郎がその代表。,アイヌ差配権、イシカリ浜及び下流での鮭漁経営、イシカリの初代浜名主、同湊案内役。 第4章2節(1) / イシカリ・サッポロと水戸藩
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロ調査)

にイシカリに立寄ってからさらに石狩川をさかのぼり、千歳川に転じてチトセを経由、ユウフツに出て江差にもどっている,箱館出立後五月にイシカリに立寄り、ここから石狩川をさかのぼり、途中雨竜川に移ってルルモッペへ出る内陸コース,をたどって北蝦夷地へ向かっているが、この途次イシカリを発してから石狩川流域よりサッポロ近傍を再び検分している,を検分、さらに上川よりイシカリへ一旦帰着後、閏五月堀箱館奉行と共にゼニバコよりハッサムに入ってサッポロ,近傍を視察し、イシカリにもどっている。   / サッポロ調査
新札幌市史 第1巻 通史1 (下サッポロ)

下サッポロ 石狩十三場所のうち、現在の札幌市域に存在したのは、ハッサム・上サッポロ・下サッポロ・シノロ・ナイホ,下サッポロは、人別帳に五軒二六人の記載があるも、当時は一軒もなかった。,一時的にせよクウチンコレは、下サッポロに居住したようだ。,人別帳に記載のあるうち、四軒までが上川メムの出身ないし居住者で、いずれもイシカリ場所の支配人などにより,なお下サッポロの位置は、伏籠川の下流域で、フシコサッホロとも呼ばれていた。 / 下サッポロ
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロの開発)

サッポロの開発 場所請負制下の札幌市域は、シノロ・上サッポロ・下サッポロ・ナエボ・ハッサムなど、イシカリ,いわば、イシカリ場所に付属した存在で、河川流域の〝点〟としてしか存在していなかった。,他の一つは、慶応二年に設置されたイシカリ御手作場である(第八章参照)。,これまで、主として海路、内陸は河川によっていたサッポロの交通は、安政四年に日本海側と太平洋側とをむすんで / サッポロの開発
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロ村の誕生)

サッポロ村の誕生 維新の変革により徳川幕府は倒壊し、明治新政府が成立した。,そして七月十二日に大友亀太郎も箱館裁判所附属に任じられ、引き続いてイシカリ御手作場の取扱いに従事する。,この大友が附属に就任したと同じ七月に、イシカリ御手作場も新しい展開を見せている。,イシカリ御手作場に隣接するシノロにおいても荒井金助による荒井村が建設され、金助が名主、百姓代の村役人を,従来漠然と広大なイシカリの地に包括され、またフシコサッポロ川その他の石狩川支流域を総称してきた広いサッポロ / サッポロ村の誕生
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロ大府への展望)

ツイシカリはイシカリより一〇里石狩川をさかのぼり、豊平川(旧サッポロ川)の石狩川への注ぎ口で、しばしば,ルピヤンケならびにサッポロの乙名モニヲマにも再三ただした上で、竹内、堀、村垣の三箱館奉行に対して、サッポロ,余按(あん)ずるに、此辺(サッポロ)に府を立まほしく思ふ。,に比定し、それのみならず、そのサッポロをめぐるイシカリならびにその外縁地域をもって、畿内の瀬戸内にのぞむ,武四郎の蝦夷地経営方法の行きつくところ、サッポロを中核とするイシカリ地域を、単に交通の要地とか北蝦夷地 / サッポロ大府への展望
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ川の地図)

イシカリ川の地図 ところで、サッポロ川がツイシカリ川に流れ込むように流路を変えたことを証明する地図が,川名の記入は欠くがイシカリ川を遡ると、下流から順にハッサム川、フシコサッポロ川、サッポロ川、エベツ川が,分流してフシコサッポロ川(旧サッポロ川)とサッポロ川(旧ツイシカリ川)となり、サッポロブトで、かたやツイシカリブト,(サッポロブト)でイシカリ川と合流している。,このため、新しくサッポロ川本流となったサッポロ川と、旧サッポロ川(フシコサッポロ川)とそれにイシカリ川 / イシカリ川の地図
新札幌市史 第1巻 通史1 (大友亀太郎のサッポロ選定)

大友亀太郎のサッポロ選定 サッポロ村という呼称は維新変革以前には見られないが、これはイシカリ御手作場,当時はもっぱら大友亀太郎扱いのイシカリ(石狩)御手作場もしくは開墾場と称せられていた。,バラトプトついでサッポロプトの地があった。,バラトプトにはハッサム川が、サッポロプトにはフシコサッポロ川、シノロ川やコトニ川などが合流して注いでいた,の上流の左岸地域を大友はイシカリ御手作場の地と選定したのであった。 / 大友亀太郎のサッポロ選定
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ役所の評価)

イシカリ役所の評価 イシカリ役所は、これまでみてきたように、イシカリ改革あるいはクシュンナイのイシカリ,この結果、イシカリの繁栄やサッポロの開発をもたらすなど、明治以降につながる基礎をきずいたといえよう。,またこの基礎の存在により、特にサッポロには本府が設置され、移民の招募がおこなわれたといえる。,以上の点で、イシカリ役所の存在と施策は、札幌市史にとり重要な意義をもち、高い評価を下すことができるのである / イシカリ役所の評価
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ見聞)

イシカリ見聞 一行は安政四年三月七日郷里を出発、四月八日箱館に到着した。,いわゆる千歳越を往復して内陸を調査し、イシカリの位置をさらに確かめようと、八月四日イシカリ着、翌日この,イシカリの平原、特にサッポロ周辺をどのように見立てるか、石川と成石ではやや趣を異にしたわけである。,また、この紀行からイシカリ近辺の交通事情を知ることができる。,日本海岸を往来する船便、川口の渡し舟、千歳越の丸木舟や通行屋、新開の道路等、サッポロへの足音が、この頃 / イシカリ見聞
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの機能)

イシカリの機能 武四郎はしばしばイシカリをもって、枢要の地と称している。,これをみると枢要の地イシカリとは、石狩川河口の運上所や勤番所を中心としたイシカリの集落地域のみを指すのではなく,さらに安政四年にはゼニバコ、トイヒラ、チトセを経てユウフツに達する、いわゆるサッポロ越新道も完成し、加,えていま一つとして構想されているサッポロ越大新道においても、その全道程のほぼ中間に位置し、かつこの大新道,、イシカリの重要性はますます増大されていくのである。 / イシカリの機能
新札幌市史 第1巻 通史1 (上サッポロとモニヲマ)

上サッポロとモニヲマ 上サッポロは、人別帳に二〇軒、七九人の記載があるも、当時は一軒しかなかった。,石狩場所サッポロなる処の小使役を勤けるモニヲマといへるは当年三十七歳、妻はクスリモンといへるがありしも,イシカリ運上屋には細工小屋があり、モニヲマは当時ここで使役されていた。 / 上サッポロとモニヲマ
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ建府との関係)

イシカリ建府との関係 善光寺・西本願寺がともに、サッポロ・ハッサムに寺院建立の指定をうけたのは、蝦夷地総鎮守社,の建立と同様に、イシカリ建府の設定とつよく関係をもっている。,西本願寺の場合、まだ無人に近い状態のところを、特に「土地引立之ため」を理由にされているのは、サッポロ・ハッサム,にイシカリの本府をおくことが、企図されていたためである。,イシカリには、慶応二年(一八六七)二月に、改会所の通詞役であった玉川啓吉宅に、箱館御坊付イシカリ道場が / イシカリ建府との関係
新札幌市史 第1巻 通史1 (第二次直轄とイシカリ)

第二次直轄とイシカリ 第二次直轄となり、イシカリには調役以下の詰合役人が派遣されるようになるが、特に,イシカリ詰の調役は、シャコタン(積丹)からアツタ(厚田)までをイシカリ持場として担当することになった。,第二次直轄となり、イシカリ・サッポロに最も大きな変化をもたらしたのは、安政五年(一八五八)に実施された,イシカリ改革にともない、イシカリ詰の勤番所はイシカリ役所と称されるようになった。,金助はシノロに農場を開き(荒井村と称された)、この時期、イシカリ・サッポロの発展に最も寄与した人物といえよう / 第二次直轄とイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ要害論)

イシカリ要害論 イシカリ川を下った近藤重蔵は、復命書にあたる蝦夷地取調書を見る限りイシカリ付近の奥深,触れているが、イシカリの将来を見通した、いわゆる「イシカリ要害論」であった。,第三には、サッポロの西テンゴ山の辺。,この「テンゴ山」に相当する山がどこの山であるか比定するのは困難であるが、サッポロの西とはっきり言っていることからおそらく,サッポロ周辺のオタルナイとの間にある山のことだろうか。   / イシカリ要害論
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ場所の新道)

イシカリでも、(一)イシカリ・アツタ間、(二)イシカリ・ツイシカリ間、(三)銭箱・ユウフツ間、以上三本,一 イシカリよりツイシカリ迄新道之儀、是又請書出ス。同様申渡ス。,この時に、イシカリ場所請負人の阿部屋に、(一)・(二)の着工を命じたことがわかる。  ,その間、ハッサム・サッポロ・シママップ(島松)・千歳を経由し、非常に重要な幹線道路でサッポロ越新道、あるいは,写真-1 ツイシカリ番家(西蝦夷図巻より) / イシカリ場所の新道
新札幌市史 第1巻 通史1 (金助赴任時のイシカリ)

金助赴任時のイシカリ この当時のまず第一の問題は、何度もふれてきたようにイシカリ改革の問題であった。,この安政四年二月に大竹慎十郎・長坂与一郎がイシカリに入地以降、四年中には一七人程の在住が、イシカリに続々,と入地あるいはイシカリ詰を申し渡されている。,第三には、銭箱から千歳にむかうサッポロ越新道の開削であった。,イシカリには、当時、以上の四点の主な問題が存在していた。 / 金助赴任時のイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (海防論とイシカリ)

次に武四郎の『海防策』から、イシカリについてどう考えていたのかみてみよう。,その場合イシカリよりハママシケへの通行は、ツイシカリよりルルモッペ(留萌)への道路を開削するがよいだろう,イシカリ川筋の上サッポロ、下サッポロ、カバト、ユウバリ辺のアイヌのなかには、この通路を知っている者もいるので,④イシカリ詰の勤番が小人数なので、人員増加した方がよいだろう。  ,軍艦造営の拠点をイシカリに据えたのは、近藤重蔵のイシカリ要害論に影響されたのだろうか。 / 海防論とイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎のイシカリ川筋探検)

サツポロ 右の方枝川。巾12~13間。川上沼の由。アイヌの小屋多しと聞く。,サツポロ、上サツポロ番屋。 ベケレトシカ アイヌ住む。川巾広く両岸雑樹多し。,ツイシカリ イシカリより9里半。枝川秋味1000石上る。20年程前、上より引移る。,を順に記してゆくと、①トクヒラ、②ハッサム(ハツシヤフ)、③サッポロ、④上サッポロ、⑤ビトイ(シノロ),武四郎と同行のアイヌたちは、イシカリ川河口より九里半遡ったツイシカリでまず一泊したらしい。 / 松浦武四郎のイシカリ川筋探検
新札幌市史 第1巻 通史1 (最上徳内のイシカリ探検)

最上徳内のイシカリ探検 東寗元稹の記述から、たまたま最上徳内の行動の一端が知られるわけであるが、公式記録,この時の最上徳内のイシカリ探検について詳細を知ることはできないが、のちに松浦武四郎が記しているところによれば,、トウベツのみならずサッポロのハッサム辺にまで足を踏み入れていたらしい。 / 最上徳内のイシカリ探検
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地見回りとイシカリ場所)

が頻繁に往来するようになり、イシカリを通行する人々も多くなった。  ,江差、オタスツ、オタルナイを見回り、イシカリには九月一日「夕七半時」に到着した。,請 通 宮本屋弥八 47 図合船 1 123 惣 サンシラマ 脇 ウシヤテク 小 アンラマシテ 上サッポロ,それよりソウヤまで行き、任務を果たし、帰途は、イシカリまで戻り、イシカリ川よりシコツ越え道を通って東海岸,へ抜けたが、近藤重蔵のみは、テシオ川を遡り、それよりイシカリ川上流に出て、イシカリ川を下るコースをとった / 蝦夷地見回りとイシカリ場所
新札幌市史 第1巻 通史1 (豊平川の誕生)

豊平川の誕生 前述したように、イシカリ川は、記録にあらわれはじめると同時に洪水をくり返しおこしていることも,川を遡ってツイシカリ川のところで、近年サッポロ川本流がツイシカリ川に切り替わったことを目撃し、次のように,右近年迄は小川に御座候処、四、五年以前大水にてサツポロ川上に切所出来其後ツイシカリ水深船通路自由の川に,、サッポロ川とエベツ川との間を北流し、イシカリ川に流れ込む小川であったらしい。,いずれにせよツイシカリ川が一九世紀のはじめにサッポロ川の本流となり、それまでのサッポロ川はフシコサッポロ
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政四年の調査)

〈サッポロプト〉サッポロ川筋については、川口が閉されて遡上できないので聞書によるとして、サッポロ川口より,下サッポロ・ナイボの両川とツイシカリ川の両方へ水は落ちるという。,これをサッポロ側ではモエレペツトウと称す由。,またナエボという村跡があり、そこより落ちる水は皆サッポロの方へ当時は流れる。,ツイシカリ川側の落ち口の傍らに昔下ツイシカリの小屋があったと聞くが、今は跡形もない。
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政五年の調査)

これより下流ツイシカリ川(旧サッポロ川)川筋を聞くに、川まではおよそ七、八里、直線では二里ばかりでツイシカリ,この川筋はすべて下サッポロ、一名フシコサッポロへ落ちる由。,イシカリよりゼニバコに来たって止宿。,コトニ川幅五、六間、これがフシコサッポロといい、また下サッポロともいう川筋のことで、昔は人家があったというが,以上のように、松浦武四郎は四回の踏査の過程で六度にわたり、イシカリから特にサッポロの地域を検分し、また
新札幌市史 第1巻 通史1 (番所の管轄・地域)

カバタ  ②シノロ、下カバタ  ③ナイホ、上川  ④(ユウバリ)上ユウバリ、下ユウバリ  ⑤上ツイシカリ,、サッポロ、下ツイシカリ  これらから判断すると四つの番所のうち、(一)中川は上・下カバト、シノロの,サッポロは旧場所の上サッポロ、下サッポロのように上・下がみられなくなっている。,この上・下サッポロのうち、どちらが退転したか不明であるが、サッポロと上・下ツイシカリが一ブロックとなっている,しかも上川には場所がおかれていず、石狩川上流域のアイヌは、以前はみなトクビタ、シノロ、上・下サッポロなどの
新札幌市史 第1巻 通史1 (弘化三年の調査)

弘化三年の調査 武四郎は上記六回の蝦夷地調査のうち、イシカリに立ち寄り、そこを拠点にサッポロの地域を,〈サッポロ〉ハッサムよりさらに一八町上って右にサッポロに至る。,サッポロ番屋の運上金四六両、別段上乗金二両二分、差荷物代四両。,また上サッポロ番屋は運上金三五両永五〇文という。  〈ビトイ〉さらに上るとビトイ着。,〈ツイシカリ〉サッポロより七里でツイシカリに至る。
新札幌市史 第1巻 通史1 (エンカルシベの山霊)

エンカルシベの山霊 サッポロ山麓の指定に関し、松浦武四郎の提言もこれ以前にあったであろうが、武四郎はこの,菊池大蔵の願書をうけ、「今般石狩領分字サッポロ山麓の辺え、東西蝦夷総鎮守御造営に相成候由承り候に付、右地所,川猟又は樵等にサッポロ川等へ罷越候者有之節は、此山霊の神酒木幣を献じ祈り申候に神威著敷由申、妄に此山に,イシカリに「東西蝦夷地総鎮守」の設立が企図されたのは、荒井金助がイシカリに本府をおき、将来は日本の〝北京,すなわち、イシカリが蝦夷地の中心となり、蝦夷地の本府をこのイシカリに設置するもので、これに対応した総鎮守社
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政三年の調査)

〈サッポロプト〉サッポロ川、今称するフシコサッポロ川の注ぎ口でサッポロの入口、川幅九間で深い。,上サッポロはその運上金三六両永五〇文、乙名クウチンコロ、小使モリキツが支配する。,このフシコサッポロ川の川筋を聞くに、川口より一里半ほどで二股、左をナイボ川と呼び、夷人多く乙名ニシトンレ,〈ツイシカリプト〉ツイシカリ川(旧サッポロ川、後の豊平川)の川口で川幅およそ七間、遅流で深い。,これより先は一路サッポロ岳に至り、その辺に温泉あり、さらにウス領に越えるという。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (衰退の要因)

これにはたとえば享和元年、二年(一八〇一、二)ころ、サッポロ川(豊平川)の流路が変わり、それまでフシコサッポロ,さらにこのころより阿部屋がイシカリ十三場所を一括して請負うことになり、アイヌの使役や強制移住がはなはだしく,元サッポロの出身者には、イカシトシ(トクヒラ小使)、ニツル(上ツイシカリ)、イタクリキン・チウエンレシユ,)、イバンケ(上ツイシカリ小使、元サッポロ)、ハッサムとするのはシツタクウエン(トクヒラ)、ウワンテ(,下ツイシカリ)、以上の四名がいた。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所の変遷と請負人)

十三場所の変遷と請負人 イシカリの夏商場所である、いわゆる「イシカリ十三場所」は、天明期以降になると,表-6 イシカリ十三場所・知行主・請負人・運上金変遷表 比定場所 ナイホ 下サツポロ シノロ 上サツポロ,サツポロ チイカルシ ナイホウ ハツシャブ トマヽエ 小林甫左衛門 目谷才右衛門 高橋善六 南条安右衛門,十三ヶ所〕 下シノロ 上サツポロ 上シノロ 下サッポロ ハツサフ シツカリ 小林安左衛門 目谷才右衛門,上サッポロ・下サッポロについては、おそらく場所が近接しているため、地名の交錯、上・下の混同、誤記が少なからずあったとみるべきだろう
新札幌市史 第1巻 通史1 (『岡本氏自伝』中の荒井の意見)

『岡本氏自伝』中の荒井の意見 岡本監輔については次節で述べるが、その『岡本氏自伝』中、文久三年にイシカリ,これではまずオタルナイが良港とされ、サッポロが非常に重要視され、イシカリについてはまったく言及されていない,するようにかなり後、すなわち札幌が北海道の首都として定着した後に記されたものであり、また荒井が本当にサッポロ,少なくとも当時のサッポロは、道路の発達を考慮に入れても、ツイシカリのような要衝と考えるのは無理のようである
新札幌市史 第1巻 通史1 (交通路の大系)

交通路の大系 当時のイシカリ場所における主要な交通路は、先にみた(一)サッポロ越新道のほかに、(二),銭箱──イシカリ──アツタを海岸づたいにむすぶ浜中道(はまなかどう)、(三)千歳──ツイシカリ──イシカリ,図-2 イシカリ、サッポロの交通路(施設の位置は推定) 写真-5 ビトエの現在の風景(北区篠路,)  (二)の銭箱・イシカリ、イシカリ・アツタ間はそれぞれ一日行程で、途中フンベム(モ)イには小休所,(三)の千歳・ツイシカリ、ツイシカリ・イシカリ間は、上下により時間差がおおきく異なるものの、ほぼ一日行程
新札幌市史 第1巻 通史1 (幕末の変転)

幕末の変転 サッポロには、慶応二年(一八六六)以降、大友亀太郎の指導する御手作場が開かれ(第八章参照,)、イシカリ役所ではこの統轄をなし、これまでの在住の開拓地、荒井金助が開いたシノロの荒井村などと共に、,イシカリ・サッポロの開拓が徐々に進行していく。,この間の情勢や経過につき、箱館奉行から布達類が廻文され、イシカリ役所にも届いていたことが、大友亀太郎文書,京都・江戸でくりひろげられていた局面の推移を、イシカリの役人たちもかたずをのんで注視していたに違いない
新札幌市史 第1巻 通史1 (新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)

松浦武四郎のイシカリ川筋探検 海防論とイシカリ   第四編 イシカリの改革とサッポロ 第一章 イシカリ, サッポロの開発と評価        サッポロの開発 イシカリアイヌの流散 この時期の評価   第二節,イシカリ出稼所        出稼所の設置 城六郎の北地出張   第四節 サッポロへの寺社建立計画,と水戸藩 イシカリ・サッポロの検分        安政の大獄     二 佐賀藩        ,改革と第二次直轄        深き見込みの場所 イシカリの内国化   第五章 サッポロ越新道…
新札幌市史 第1巻 通史1 (寛文期の史料から)

寛文期の史料から イシカリ川とその支流に広がるサッポロ地域の状況が、記録に登場してくるのは、寛文九年,両史料ともに、イシカリにはいたっていないため聞き書きではあるが、総合すると当時のイシカリ、サッポロ地域,⑤イシカリ川河口から一里ほどのぼって「はつしやふ」(ハッサム)があり、さらに二里のぼったサッポロにはアイヌ,サッポロの枝川に縦横半里ほどの沼がある。,さらにその上流には、サッポロがあって、乙名のチクニシがおり、家も一四、五軒ほどある。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (玉虫左太夫)

玉虫は堀奉行らとともに二回イシカリ・サッポロに足を入れることになる。,がいかにイシカリ・サッポロを重視していたかわかる。,さらに、カラフトからの帰途、太平洋岸を回りユウフツから千歳を経て再びイシカリ・サッポロの調査を重ねる。,二度にわたるイシカリ・サッポロ調査で彼は特異な活動を行う。,それは玉虫がいだいたイシカリ・サッポロ観にもあらわれている。これは彼だけの独創ではない。
新札幌市史 第1巻 通史1 (新道の開削工事)

新道の開削工事 サッポロ越新道の開削に関し、安政五年五月に阿部屋伝二郎からイシカリ役所に提出された伺,しかし、イシカリ改革により請負を差免されたため、新道切開の継続工事はどのようにしたらよいのかという伺であった,これに対しイシカリ役所では、「新道之儀ハ手入等致し候ニ不及候事」と答え、以後はイシカリ役所により完成させることになる,ところで、村山家資料中にはサッポロ越新道に関係する史料は伝えられておらず、工事の経費、出役人数、里程、,さらひ、ハツシヤフ・ホシホキ御在住御役宅御普請、新道切開見廻、壱里塚境杭建テ之事」とあり、「新道切開」はサッポロ
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム道)

ハッサム道 サッポロ越新道がいつどのように計画され、また工事に着手されたのか不明な点が多いが、新道はまず,ハッサム在住の第一陣は、安政四年二月二十八日頃にイシカリ入りし、雪どけを待って間もなくハッサムに入植したとみられる,六月以降に着手されたサッポロ越新道は、これをもとに着工されたであろう。  ,堀利熙の一行は、この後六月一日までイシカリに滞在し、二日にアツタへ向け出発することになるが、一日に重要,このうち②は、サッポロ越新道のことで、新道開削が阿部屋に命じられたものであろう。
新札幌市史 第1巻 通史1 (目的としくみ)

前者はこの年イシカリ・サッポロに足を入れなかったから、五老中家のうち最も早くイシカリ・サッポロを調査したのは,翌四年は五藩の全メンバーがイシカリ・サッポロに来たが、その数はすくなくとも二五人をかぞえ、往復二度来た,これに前年の延べ九人を加えると、イシカリ・サッポロをこの二年間に往来した老中家臣は実に四八人以上にのぼった,表-1 老中家臣の調査状況 老中 藩 調査者 調査期間 (北地滞在日) イシカリ、   サッポロ滞在日
新札幌市史 第1巻 通史1 (林木の保護)

林木の保護 かつてイシカリ場所で盛行した木材搬出を安政期にみることはできない。,しかし、請負人は場所内で必要な資材をサッポロ山(現藻岩山一帯か)、ハッサム山(現手稲山か)、ヌフル山(,安政三年七月、箱館奉行所は伐木制限を打ち出し、イシカリ役所の許可なしに木を切るのを禁じた。,すなわち、サッポロ等六カ所で榀(しな)を、またサッポロ等四カ所で椛(白樺)を、さらに桑、朴(ほう)、槐,写真-6 イシカリの木材利用を提言した上申書と、 その筆者林弥六(佐倉藩士)の署名  イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (善光寺)

以下、ここではサッポロ・ハッサム関係についてのみ、みることにしよう。  ,この三カ所は、スッツ・ヨイチに一軒、ソウヤに一軒、そしてイシカリ領のうち、サッポロ・ハッサムに一軒であった,これらは漁場として殷賑をきわめており、ソウヤ及びサッポロ・ハッサムは、布教・寺院維持には不適と判断したからである,サッポロ・ハッサムの一カ寺は、安政六年八月にはハッサムに位置がきまり、円照山真如院法性寺と山号・寺号も,しかし、ハッサムは在住がわずかに居住するばかりの地で、実際にはハッサムでの建立にはいたらず、この八月にイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (その他の系路)

札幌市域では、ハッサムより御手作場にむかうシャクシコトニ道、御手作場からシノロへいたる道、大友堀にそいサッポロ,また計画道では、前述したアブタからサッポロを経、テシオにむかう蝦夷地の縦断道があり、さらにツイシカリから
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム番所)

当時、イシカリでは出稼人・職人・商人も増え、家作がさかんとなっており、建築材にあてられたと思われる。,材木はハッサム・イシカリ川を流送しておこなわれていた。,また第四には、サッポロ越新道の管理・取締りもあったと思われる。,さらに第五には、アイヌの「撫育」もあり、ハッサム・サッポロ・ツイシカリのアイヌが管轄範囲で、人別帳もここを,しかし、サッポロ番所が漁時限りなので、丑太郎はサッポロ番所から詰切りのハッサム番所に変更になったと思われる
新札幌市史 第2巻 通史2 ([◇巻構成])

 *第一巻 通史一     第一編 札幌の自然史     第二編 先史の札幌     第三編 イシカリ,場所の成立     第四編 イシカリの改革とサッポロ  *第二巻 通史二     第五編 札幌本府
新札幌市史 第1巻 通史1 (村垣範正の廻浦)

村垣範正の廻浦 以上のイシカリ改革の発表がなされてから間もなく、村垣範正が廻浦でイシカリ入りをした。,範正が金助ヘイシカリ改革発表後のイシカリの様子を種々たずね、その返答を両奉行に書き送っている。,この夜は在住の空宅で一泊し、二十九日はサッポロ越新道を検分しながら千歳へと戻っている。,この時は直接にイシカリへはおもむかなかったが、東蝦夷地・カラフトの廻浦をおえ、八月五日に改めてイシカリ,ワッカオイ在住の畠山万吉・天野伝左衛門の畑地・役宅、五十嵐勝右衛門の漁場を検分し、六日はホシオキの在住、サッポロ
新札幌市史 第3巻 通史3 ([◇巻構成])

 *第一巻 通史一     第一編 札幌の自然史     第二編 先史の札幌     第三編 イシカリ,場所の成立     第四編 イシカリの改革とサッポロ  *第二巻 通史二     第五編 札幌本府
新札幌市史 第4巻 通史4 (◇巻構成(*は既刊))

*第一巻 通史一     第一編 札幌の自然史     第二編 先史の札幌     第三編 イシカリ,場所の成立     第四編 イシカリの改革とサッポロ  *第二巻 通史二     第五編 札幌本府
新札幌市史 第1巻 通史1 (戸石永之丞の調査)

その途次、イシカリ・サッポロを通り、「蝦夷地開墾等の見込有之由にて江戸表より罷下り、イシカリ領ハシサブ,サッポロの記事が在住にしぼられていることに象徴されるように、二人の関心は警衛問題をのぞけば、蝦夷地開墾,さらに幕府や他藩からの摂取もおこたらず、視野を拡大する中でイシカリ・サッポロの所在が浮かび上がってきたといえる,そうした中でイシカリ・サッポロの情報も増強されたろうが、それを象徴するような重要な活躍をしたのが玉虫左太夫
新札幌市史 第1巻 通史1 (番所の設置)

番所の前身となったのは阿部屋の番家で、安政二年二月の段階ではツイシカリ・ハッサム・サッポロ・オソウシ・コトニ・ユウバリ・チュクヘツブト,特にツイシカリの番家はイシカリ・イザリブト(漁太)間の中継地で休泊所をかね、桁間一七間半、梁間五間半の,中川トツク・ユウバリ・サッポロ・ハッサムなど一一カ所の番所名を、史料からひろうことができる。  ,石狩場所改革方取計之義申上候書付」(市史六七頁)によると、たとえばトクヒタ・ワッカオイ番所では、船改の儀をおこなうこととされ、サッポロ,のために、特に上川チクヘツ(同心、中西清三)、中川トツク(勤番人)、ユウバリ(同心、広田八十五郎)、サッポロ
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