• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 117件
辞書ファセット
/ 3ページ
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ場所の新道)

イシカリ場所の新道 先の箱館奉行の計画にそい、西海岸でも安政三、四年に各地で新道の切開がおこなわれるようになった,この時に、イシカリ場所請負人の阿部屋に、(一)・(二)の着工を命じたことがわかる。   / イシカリ場所の新道
新札幌市史 第6巻 史料編1 (〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕)

〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕 巳第三番 辰 シヤコタン ヒクニ フルヒラ 石カリ ヨイチ 人別 / 〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地見回りとイシカリ場所)

蝦夷地見回りとイシカリ場所 ロシア船による襲撃事件の一方、文化四年五月十八日、異国船(のちに米国船と / 蝦夷地見回りとイシカリ場所
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリは「不宜場所」)

には、「此場所支配人、土人ノ取扱ヒ以ノ外、不宜場所第一ト云フベシ、ヨリテカク仰渡サルト見ヘタリ」と、イシカリ,このような弊害は、イシカリ場所に限らず他場所にもかなりみられ、場所請負制の構造自体からくる弊害であることはもちろんである,しかし、特にイシカリ場所が尖鋭的にあらわれており、この解決は場所請負制の廃止―イシカリ改革に、またなければならなかった,ここには直接、イシカリ場所についてはふれていないが、ここでいう「流弊」とはイシカリ廻浦の直後だけに、暗,にイシカリ場所のことをさしているとみてよいだろう。
新札幌市史 第1巻 通史1 (疱瘡の犠牲)

疱瘡の犠牲 このような漁場労働の集約的利用に可能な一大村落をなしていたイシカリ場所が、ひとたび疱瘡の,イシカリ場所では、文化十四年二月から疱瘡が流行しはじめ、請負人側でも一同が心配し、医師を派遣するなど手当,『蝦夷地御用見合書面類』(阿部家文書)の文政元年三月六日付「西蝦夷地イシカリ場所疱瘡流行ニ付御内意奉伺候書付,」によれば、同十四年春より同年十一月までに、イシカリ場所総人別二一三〇余人のうち、疱瘡による死亡者が、,写真-3 「蝦夷地御用見合書面類」二十二項 文化14年、イシカリ場所に疱瘡が流行し、多くのアイヌが死亡
新札幌市史 第1巻 通史1 (玉虫左太夫の建言)

その中でもイシカリ場所は、イシカリ改革が政治日程にのぼっており、阿部屋のアイヌへの「撫育」に関し厳重な,この申渡しは、各場所の役人・請負人などへ出されたもので、イシカリ場所に限定されたものではない。,しかし、イシカリ場所にて申渡しが出されたとみてまちがいはない。,賄賂についてもイシカリ場所がもっとも横行しており、そのために調役水野一郎右衛門が、在住に降格されるほどであった,それゆえ、申渡しは各場所あてになっているものの、直接的にはイシカリ場所の状況をきびしく指弾したものといえる
新札幌市史 第1巻 通史1 (口絵)

イシカリ川之図 28cm×120cm 札幌市立藻岩北小学校(学校郷土博物館)蔵  本図は、イシカリ,場所の請負人で有名な阿部屋村山家ゆかりの絵図で、札幌市立藻岩北小学校に寄贈されたものである。  ,阿部屋は、寛政11年(1799)松前藩直支配の手付けとしてイシカリ場所の秋味請負を任されたのを手始めに,、イシカリ場所の権益を拡大していった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (動員されるアイヌ)

動員されるアイヌ 松前藩復領直後のイシカリ場所は、疱瘡流行で多くの働き手を失った直後であり、かつ不漁,この時期におけるイシカリ場所での大きな変化は、鮭の漁獲高増大をねらって投入された出稼和人労働力と、漁業,このような、イシカリ場所での漁業の大規模化は、一度に大量の労働力を必要とし、アイヌの老若男女の別なく請負人,そこで運上屋ではその対策として、イシカリ場所の人別帳に入っていない上流域のアイヌを使役の対象にするため,さらに、イシカリ場所外からのアイヌ労働力の動員は、ユウフツ場所のアイヌのみではなかった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (移住の自由)

安政五年四月十三日、阿部屋伝治郎にイシカリ場所請負の差免を令し出稼人となることを命じ、この日から一漁場経営者,松前人としての市民権を持っていたが、安政四年奉行所の意向に添い、蝦夷地永住を願い出たり、イシカリ場所に,発令 被命者 内容 経歴 阿部屋伝次郎 請負差免、出稼申付(漁場割渡) 人馬継立差配はこれまで通り イシカリ,場所請負人 山田文右衛門 出稼はこれまで通り 見世(店)開設(サツホロ辺) イシカリ場所出稼(浜、川,場所出稼(浜) 吉五郎 稼方はこれまで通り 梶浦屋五三郎の名代 イシカリ場所出稼(浜) 『村山家資料
新札幌市史 第1巻 通史1 (鮭漁の発展と変わる漁法)

阿部屋のイシカリ場所経営は、前述したごとく疱瘡の流行による人口の激減といった事態が生じ、文政元年(一八一八,折りからイシカリ場所は、不漁が続き、同三年二月には、急場をしのぐために栖原茂八が運上金の未納分などを肩代,その後も阿部屋のイシカリ場所請負は継続され、天保九年(一八三八)より七カ年、さらに弘化二年(一八四五),表-2 イシカリ場所鮭年平均漁獲高 (文化12~安政3年) 年 年平均漁獲高 石数 文化12~文政4,、丸木船七〇艘がイシカリ場所にあったと記している(蝦夷誌 函図)。
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所請負へ)

これによれば、イシカリ場所夏商の運上金は二八六両と指荷の品々で、一二場所のうち大黒屋が三場所を、残り九場所,表5は、宝暦八年より飛驒屋が山請負を返上する明和六年(一七六九)の前年までの、飛驒屋のイシカリ場所における,この表をみた限りでは、飛驒屋が夏商の請負を通してどれだけの利益があがっていたか、またイシカリ場所夏商全体,しかし、大黒屋や工藤忠左衛門といった名目上の請負人に肩代わりする形で事実上は、イシカリ場所夏商の幾分かの,表-5 イシカリ場所夏商運上金・仕入金高(宝暦8~明和5年) 年 運上金 仕入金 備考 宝暦8年 172
新札幌市史 第6巻 史料編1 (口絵)

水府御用状之写 94頁参照 石狩御用留一 109頁参照                    イシカリ,場所人別帳(松浦一雄氏蔵) この図版・写真等は、著作権の保護期間中であるか、 著作権の確認が,イシカリ場所人別帳が収められている松浦武四郎の野帳 301頁参照(1) この図版・写真等は、著作権,イシカリ場所人別帳が収められている松浦武四郎の野帳 301頁参照(2)                      
新札幌市史 第1巻 通史1 (請負方式の変化)

請負方式の変化 文化四年(一八〇七)の西蝦夷地の直轄以降、イシカリ場所の経営は、東蝦夷地のように請負制,次に示す『蝦夷地御用見合書面類』は、直轄直後のイシカリ場所の状況をよく伝えていると思われる。,村山伝兵衛イシカリ場所之内トクヒラ、ハッシャフ、上ツイシカリ、下ユウハリ、シマヽフ右五ケ所夏漁場幷秋味漁,このように、イシカリ場所のうちトクヒラ、ハッサム、上ツイシカリ、下ユウバリ、シママップの五場所ということは,それが、文政元年、イシカリ場所の阿部屋の一括請負となり、夏商の運上金は六七八両永一七五文となったのである
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎の総括)

松浦武四郎の総括 阿部屋の経営下における、イシカリ場所のアイヌの実態を総括したとみてよいのが、松浦武四郎,これは安政四年九月ころに書かれたもので、蝦夷地全体のアイヌ問題を総括したものであるが、その中でイシカリ,場所についてふれる点が特に多い。,武四郎は以上の四点につき、詳細に具体例をあげて報告し奉行の善処をもとめ、イシカリ場所については、「先以見及候処
新札幌市史 第1巻 通史1 (交通路の大系)

交通路の大系 当時のイシカリ場所における主要な交通路は、先にみた(一)サッポロ越新道のほかに、(二),・イシカリ、イシカリ・アツタ間はそれぞれ一日行程で、途中フンベム(モ)イには小休所があり、オタルナイ・イシカリ,場所の境界となるオタルナイ川には渡船があった。
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

解題 「イシカリ場所人別帳」は、蝦夷地随一の鮭の生産高をあげてきた、いわゆるイシカリ十三場所内で直接生産,国立史料館蔵、松浦一雄氏寄託史料)の中にあるもので、今回松浦家の了解のもとに札幌市史にもっとも関係の深いイシカリ,イシカリ場所の人別帳の内容は、イシカリからはじまって、ハツシヤフ、下サツホロ、上サツホロ、上ツイシカリ,さらに、イシカリ場所に限って他場所のそれと異なる特色は、ただ人別帳を写し取っただけでなしに、武四郎自ら,されていた人びとが、実際は石狩川上・中流域の出身者がほとんどであったことも武四郎の調査で明らかとなり、イシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (人口の減少)

人口の減少 松前藩が領地を返還された時期のイシカリ場所は、疱瘡の流行によって人口が激減した直後であった,イシカリ場所のアイヌの人口の推移を第一次直轄時から復領期を経て第二次直轄直後まで通してみたのが表8である,表-8 イシカリ場所アイヌの人口(文化4~安政元年) 年 人口 典拠文献 文化4 (1807) 2,285,際、人別帳に入れられ、雇にとられるのを拒否して、トカチ方面へ逃れた例も紹介されているところをみると、イシカリ,同じ著者の『東西蝦夷山川地理取調日誌』には、イシカリ場所の番人の妻妾にむりやりされた事例が三二例も確認
新札幌市史 第1巻 通史1 (詰合役人の役割)

さてつぎに、水野一郎右衛門等が詰合となった頃のイシカリ場所は、どのような状況であったのかを、簡単にみておくことにしよう,イシカリ場所は一三カ場所よりなり、主に鮭の豊庫として世上にしられていた。,しかし一方では、この殷賑を支えたアイヌの労働力に対する阿部屋の苛酷・非道ぶりは目に余り、イシカリ場所は
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリアイヌの流散)

イシカリアイヌの流散 イシカリ場所を支えたのは豊富な鮭であったが、さらにそれ以上に実はアイヌの人々の,第二次直轄になり、イシカリ場所が廃止され直捌となった要因には、場所請負人である阿部屋(村山家)の非道な
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎と蝦夷地)

松浦武四郎が、はじめてイシカリ場所を訪れたのは、弘化三年であったが、それより二年前、蝦夷地へ渡ろうとし,弘化三年一月二日、松浦武四郎はカラフトに渡るために江戸を出発するが、このカラフト探検の帰途、イシカリ場所
新札幌市史 第1巻 通史1 (熊野屋菊池忠右衛門)

この秋味跡買添船というのは、イシカリ場所の一年間の商のうち、夏商、秋味、秋味跡買、秋味跡買添船、鱒といった,イシカリ場所での権利を失った熊野屋は、天明二年(一七八二)、イワナイ場所を許可されるが(蝦夷地一件 新北海道史
新札幌市史 第2巻 通史2 ([◇巻構成])

 *第一巻 通史一     第一編 札幌の自然史     第二編 先史の札幌     第三編 イシカリ,場所の成立     第四編 イシカリの改革とサッポロ  *第二巻 通史二     第五編 札幌本府
新札幌市史 第3巻 通史3 ([◇巻構成])

 *第一巻 通史一     第一編 札幌の自然史     第二編 先史の札幌     第三編 イシカリ,場所の成立     第四編 イシカリの改革とサッポロ  *第二巻 通史二     第五編 札幌本府
新札幌市史 第1巻 通史1 (士分の雇農民)

これら農産物のほとんどが自家消費であり、ごく一部がイシカリ場所内で売買消費され、場所外に商品として移輸出,そしてイシカリ場所内で和人が消費する主食農産物の大半は、前代と同様移入に頼り、改革を経て定着した漁間農業
新札幌市史 第4巻 通史4 (◇巻構成(*は既刊))

*第一巻 通史一     第一編 札幌の自然史     第二編 先史の札幌     第三編 イシカリ,場所の成立     第四編 イシカリの改革とサッポロ  *第二巻 通史二     第五編 札幌本府
新札幌市史 第8巻2 年表・索引編 (◇巻構成)

◇巻構成 第1巻 通史1  第1編 札幌の自然史  第2編 先史の札幌  第3編 イシカリ場所
新札幌市史 第1巻 通史1 (串原正峯)

当時場所請負制下で不正な交易に苦しめられていたアイヌ救済を目的に、蝦夷地のうち重要地点を選んで行われ、イシカリ,場所では同四年にイシカリ川の鮭について行われた。,イシカリ場所での御救交易の状況については、同年ソウヤ場所のそれに参加した串原正峯の『夷諺俗話』がわずかに
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政三年の人別帳)

イシカリ場所において、人別帳が残っているのは安政三年(一八五六)以降である。,表-1 安政3年 イシカリ場所アイヌ人別帳 場所 軒数 男 女 男女計 トクヒタ 58軒 119人 108
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎の批判)

イシカリ場所は、支配人のアイヌへの対応が、「以(もって)ノ外不宜場所第一」(入北記)とされ、また阿部屋,『丁巳日誌』がイシカリ場所のアイヌ問題に関し、ことさら詳密で余すことなく実態をついているのも、右記の事情
新札幌市史 第1巻 通史1 (「しやつほろ」夏商)

この請負証文は、おそらくイシカリ場所に関して発見されているもっとも古いものと思われる。,当時飛驒屋がイシカリ場所の下請にどの程度関わっていたのかは明確ではないが、前述した明和三年の飛驒屋関係,阿部屋が、一二人いるイシカリ場所の知行主のうち、南条安右衛門とのみ請負契約を結んだのは、いかなる理由からなのかまったく
新札幌市史 第5巻 通史5上 (◇巻構成(*は既刊))

通史一(平元)      第一編 札幌の自然史      第二編 先史の札幌      第三編 イシカリ,場所の成立      第四編 イシカリの改革とサッポロ    *第二巻 通史二(平3)      
新札幌市史 第1巻 通史1 (箱館奉行への対捍)

しかしその中でも、イシカリ場所の阿部屋をはじめ西蝦夷地に集中的にそれがみられ、次の安政四年十月二十一日,[イシカリ場所請負人伝二郎代]吉右衛門 其方共儀、請負場所土人之中達者向、運上屋元浜下ケいたし置ニ依
新札幌市史 第1巻 通史1 (長谷川儀三郎の役割)

この中の一つが、イシカリ場所に関することではないかと推測される。,異例と思われる程の長期滞在で、これも長谷川儀三郎や、同じくスッツ詰であった下役の岡田錠次郎らに、イシカリ,場所の様子を聞きただし、イシカリ改革のプランを練ったとみられる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの内国化)

イシカリ場所のアイヌはアツタ場所にもオタルナイ場所にも出かける。,ユウフツ場所からは多くのアイヌがイシカリ場所に毎年やって来た。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (◇巻構成(*は既刊))

    第一編 札幌の自然史   第九編 大都市への成長     第二編 先史の札幌     第三編 イシカリ,場所の成立 *第五巻 通史五(下)(平17)     第四編 イシカリの改革とサッポロ   第十編 現代
新札幌市史 第1巻 通史1 (第三回訴願と収拾)

しかし、イシカリ・ユウフツのそれぞれの請負人をみてみると、二回目の訴願の時イシカリ場所の請負人だった米屋孫兵衛,の請負人であり、反対に二回目の訴願の時ユウフツ場所の請負人だった阿部屋伝兵衛が、三回目の訴願の際にはイシカリ,場所の請負人であったというごとく、アイヌ間の紛争よりは、請負人の利害にからんでいたことは明らかである。,蝦夷地、ことにイシカリ場所の産物のおもな生産者であるアイヌの漁業権が、幕府の直轄を契機に無視されたひとつの
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

アイヌ政策史』、菊地勇夫「場所請負制下の和人とアイヌ」『宮城歴史科学研究』第二七号、『村山家資料』、『イシカリ,場所人別帳』(新札幌市史 第六巻)、玉虫左太夫『入北記』、「石狩土人申渡」(道文)、後藤蔵吉「蝦夷日記
新札幌市史 第1巻 通史1 (請負体質の弛緩)

文化年間末からイシカリ場所で疱瘡が大流行しアイヌ人口は急減、これに不漁が追いうちをかけ経営窮迫し、栖原屋,その後家運は回復し、安政四年(一八五七)のイシカリ場所では大きな収益をあげているから、経済上の行き詰まりをきたしていたとは,阿部屋は天保三年以来番人を勤めあげた円吉を、嘉永五年支配人に抜擢しイシカリ場所をきりもりさせた。,イシカリ場所請負制廃止の要因を、ここにのみ求めるわけにはいかないだろう。
新札幌市史 第1巻 通史1 (南部屋浅間嘉右衛門)

イシカリ場所との関わりはきわめて短い。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリほか二場所借用運動)

同年七月、水戸藩領大津浜(現茨城県北茨城市)の鈴木兵七は、蝦夷地のうちイシカリ場所ほか二場所の借用を水戸藩,松前藩側がイシカリ場所等について難色を示すと、原はそれに代わるユウフツ、オショロ、タカシマ三場所の借用,それをみても、運上金が一〇〇〇両をこえる優良場所が少ないなかで、天保十四年に水戸藩が借用候補場所としてあげたイシカリ,場所は一〇〇〇両、カラフト場所は一六〇〇両というごとく、有望場所のみをあげていたことが知られる。  ,これらの人びとは、イシカリ場所に何らかの関係を持ったがために願主として名をつらねたのであろう。
新札幌市史 第1巻 通史1 (構成と内容)

イシカリ場所は、右記の本蝦夷部に収録されている。,東海参譚」(東寗元稹)、「蝦夷巡礼筆記」(高橋寛光)、「蝦夷地見聞録」、「安政元年巡見記」などの諸書より、イシカリ,場所の関係記事が引載されている。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (林木の保護)

林木の保護 かつてイシカリ場所で盛行した木材搬出を安政期にみることはできない。,写真-6 イシカリの木材利用を提言した上申書と、 その筆者林弥六(佐倉藩士)の署名  イシカリ,場所の住人で木材を必要とする時は、役所に願い出て鑑札を受け、伐木後に役銭を納めた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所運営の手抜き)

阿部屋のイシカリ場所運営は閉鎖的で、和人の漁業進出を極力排除し、幕吏や諸藩士の場所内通行を快く思わなかったから,それだけイシカリ場所の世話方が行き届いていなかったことになろう。,イシカリ場所の不行届は、場所が広く内陸部にひろがり、産業は秋にのみ片寄っており、経営が困難なうえに、請負人
新札幌市史 第1巻 通史1 (その他の産物)

その他の産物 イシカリ場所は、産物のうちもっとも比重をしめたのが、鮭であったが、このほか魚類では、鱒,これら軽物の値段は、イシカリ場所の請負人阿部屋が文政五年(一八二二)、定式値段を定めている。
新札幌市史 第1巻 通史1 (水野一郎右衛門の在住への降格)

堀利熙の内状の中に、「石狩大不出来之儀ニ付、風聞書二冊来ル」とあり、堀利熙のルートの配下のものが、独自にイシカリ,場所の内状を調査しており、その報告が二冊の「風聞書」であったとみられる。,それと同時に、イシカリ場所では着々とイシカリ改革の準備がすすめられており、この処置はイシカリ改革へのつよい
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌへの種痘)

アイヌへの種痘 なおイシカリ場所では、文化十四年(一八一七)から翌文政元年にかけ疱瘡が大流行し、多数
新札幌市史 第1巻 通史1 (改革の要因)

「西地石狩場所改革仕候儀申上候書付」(新札幌市史 第六巻)によると、イシカリ場所では「土人撫育筋等エ心
新札幌市史 第1巻 通史1 (網漁法の導入と塩引鮭)

ところで、この網がイシカリ場所で使用されるにいたった経緯を伝えるような伝承が、イザリ・ムイザリ事件の顚末,をはじめとして東蝦夷地太平洋岸で使用されていた網が、すでに蝦夷地直轄以前からアイヌによって、また請負人によってイシカリ,場所へ伝えられたことは充分考えられる。,、イシカリ川上流域や支流域居住のアイヌの秋味場への労働力の集約的な使われ方となってあらわれ、あるいはイシカリ,場所外のアイヌの集約的労働をも期待するにいたった。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政六年の人別帳)

中川は次の慶応元年の人別帳にもみられるように、イシカリ場所の場所名ではなく、イシカリ役所及び改会所の出張所
新札幌市史 第1巻 通史1 (新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)

場所   第六章 イシカリ場所の展開と漁業権紛争…440   第一節 イシカリ場所の展開…440,場所…519   第一節 復領後の藩政とイシカリ場所…519     一 復領後の蝦夷地政策        ,復領の申渡し 知行と勤番 アイヌ支配の構造     二 復領下のイシカリ場所経営        鮭漁,イシカリほか二場所借用運動     二 松浦武四郎の探検とイシカリ場所        松浦武四郎と,場所の新道        本海道(中央大道)の設定 松浦武四郎の調査 イシカリ場所の新道     
/ 3ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました