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新札幌市史 第1巻 通史1
(衰退の要因)
衰退の要因 以上のように、上・下サッポロ、ハッサム、ナイホ、シノロの
コタン
をみてくると、いずれも衰退,強制移住がはなはだしく、アイヌの社会基盤や家族生活がこわされ、経済的・生活的に疲弊していったことなどが、
コタン
,
コタン
の衰退には、強制移住があったことを先に指摘したが、安政三年の人別帳には、他場所に編入された次の札幌市域,の
コタン
出身者がみられる。
新札幌市史 第1巻 通史1
(下サッポロ)
また必ずしも、
コタン
の存在とは合致していない。 ,いまそれをもとに、安政四年における札幌の旧場所・
コタン
をみてみよう。 ,これらの数値も実態とみなしがたい点もあるが、しかし、かつては相当数の居住をみた
コタン
であった可能性が高
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地紀行)
江戸出立からイシカリを経てカラフトに渡り、堀らの巡回中はクシュン
コタン
に逗留、のちオホーツク海岸から太平洋岸,ただ主要な関心はカラフトにあったろうから、クシュン
コタン
来航のロシア人、アイヌやオロッコの風俗等は詳細
新札幌市史 第6巻 史料編1
(〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕)
〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕 巳第三番 辰 シヤ
コタン
ヒクニ フルヒラ 石カリ ヨイチ 人別
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの詰役)
そのうちイシカリは当初シャ
コタン
、ビクニ、フルビラ、ヨイチ、オショロ、タカシマ、オタルナイ、イシカリ、,ただしシャ
コタン
は、三年に除外されスッツ詰の持場割とされる。,一 イシカリ詰 [持場シヤ
コタン
領よりマシケ領迄]水野一郎右衛門右之場所大船繫泊宜、殊ニ追々在住之もの
新札幌市史 第1巻 通史1
(十二場所論)
上ユウハリと下ユウハリの間、両岸山のせまる所に「カムイ
コタン
」を表示し、川口からここまで川に朱線を入れてあるから,そして「石カリ番人、一年一ト来ル」と説明がついているところをみると、このカムイ
コタン
は現在の旭川市周辺
新札幌市史 第3巻 通史3
(円山村選定の理由)
このアイヌ実業補習学校の入学者は全道各地の
コタン
から募集することを想定していた。,札幌区は他の二区と比較して中央部に位置し、距離的にも各
コタン
からの入学者を受け入れやすい条件を備えていた
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリアイヌの流散)
しかし場所請負制下の収奪と抑圧により、人口は減少し
コタン
も消滅に近い状態であった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(勝右衛門のその後)
そこで、今度は千島のうちシ
コタン
島とその属島を再開発するよう水戸藩にもちかける。
新札幌市史 第1巻 通史1
(村垣範正)
シャ
コタン
半島を越えて日本海岸を北上してきた村垣の眼に映ったイシカリの光景は「是迄の海岸とは大いに違い
新札幌市史 第1巻 通史1
(定山の温泉開発)
清太郎と共同経営した瀬川伊兵衛(荒屋孫兵衛)は、ハリウスの隣のカムイ
コタン
に漁場を有しており、定山自身
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地絵図)
実際図上では、イシカリ川上流のカムイ
コタン
より上に「惣守護可置所」の印を、またイシカリ川口には「石カリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(第二次直轄とイシカリ)
第二次直轄となり、イシカリには調役以下の詰合役人が派遣されるようになるが、特にイシカリ詰の調役は、シャ
コタン
新札幌市史 第3巻 通史3
(内務省の反対)
これがアイヌ民族の青少年を
コタン
の生活から切り離し、民族の文化の否定のうえに成り立ち、それを加速していったことはいうまでもない
新札幌市史 第2巻 通史2
(函泊事件)
十八世紀半ば)して以来の一根拠地であり、かつ箱館裁判所北蝦夷地詰の公議所が置かれている久春古丹(クシュン
コタン
新札幌市史 第1巻 通史1
(寛政十年蝦夷地調査)
同年五月二十五日に福山を出立し、それより乙部、熊石、セタナイ、スッツ、イソヤ、フルウ、シャ
コタン
を経て
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ見聞)
このあと日本海岸を北上しカラフトに渡り、東海岸はタライカ、西海岸はホロ
コタン
まで調査した。
新札幌市史 第1巻 通史1
(北地調査の必要)
北地調査の必要 アメリカ、ロシア両艦隊の開国要求、そしてロシア兵のクシュン
コタン
占拠と国境談判は、幕府
新札幌市史 第1巻 通史1
(新漁場の割渡し)
ホリカモイ、ワッカオイ、上トウヤウシ、ハナンクル、ヒトヱ、ツイシカリ、他 孫兵衛 松前・荒谷 カムイ
コタン
,、源治、惣兵衛) 利右衛門 松前 マクンベツ、安政6年吉五郎返上の網も引きつぐ 金兵衛 カムイ
コタン
新札幌市史 第1巻 通史1
(東北からの目)
たとえば嘉永六年九月一日、カラフトのクシュン
コタン
にロシア兵が上陸した時の様子を盛岡藩の三戸代官所に勤
新札幌市史 第1巻 通史1
(ナイホとシノロ)
おそらくナイホ同様に漁場・
コタン
は消滅し、廃墟と化していたのであろう。
新札幌市史 第1巻 通史1
(ロシアの南下)
一七五九)松前藩がアッケシでオムシャを行った時、エトロフ島より集まったアイヌより、千島の北方クルムセ
コタン
新札幌市史 第1巻 通史1
(カラフト・千島襲撃事件)
さらに、クシュン
コタン
の運上屋を襲い、食糧等を略奪、運上屋、倉庫、弁天社を焼き、アイヌの子供のみ釈放して
新札幌市史 第1巻 通史1
(カラフトへの足場)
カラフトへの足場 プチャーチンによる開港と国境画定要求、ネヴェリスキーのクシュン
コタン
占拠以来、急展開
新札幌市史 第1巻 通史1
(武四郎の新道構想)
ツイシカリよりは石狩川を川なりに遡上して、カムイ
コタン
、チュウベツブトを経てアイベツ川に転じ、峠を越して
新札幌市史 第1巻 通史1
(水野一郎右衛門の在住への降格)
当時、カラフトを旅行していた浪人、牛丸謙二郎の『樺太久春古丹道中日記(くしゅん
こたん
どうちゅうにっき)
新札幌市史 第2巻 通史2
(アイヌの聚落と戸口)
場所は発寒・琴似川中流域左岸)のみで、「シノロ」・「ナイホ」ともに漁場・
コタン
は消滅し、廃墟と化していたのであろうとされていた,(市史 第一巻四編六章アイヌ社会と
コタン
の変貌参照)。
新札幌市史 第4巻 通史4
(アイヌ民族とバチェラー)
その第一の事例が、昭和二年に余市アイヌの違星北斗が詠んだ「五十年/伝道されし/此の
コタン
/見るべきものの
新札幌市史 第2巻 通史2
(岩倉とパークス)
他方岩倉は、八月十三日パークスと会談、政府見込を尋ねられて、改めて、「唐太[クシュン
コタン
シラヌシ]両所
新札幌市史 第1巻 通史1
(箱館開港と箱館奉行の設置)
しかもその国書中には、蝦夷地における国境画定の要求があったが、八月三十日には、カラフト南端の要衝クシュン
コタン
新札幌市史 第1巻 通史1
(検分の成果と影響)
2、国境約定の猶予、その間に本蝦夷地固めとホロ
コタン
以北の徳化。,経界 1、松前家が介抱撫育したところを国域とみなす(東フヌフ、西ホロ
コタン
だが国境の地形に不適)。,2、トツソ、
コタン
ウトルを北陲の藩籬とする(天然の堺疆)。
新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌でのアイヌ民族の足跡)
有珠
コタン
の向井山雄は明治三十八年、函館区谷地頭のアイヌ小学校から創成高等小学校に編入し(札幌市立創成小学校学籍簿
新札幌市史 第1巻 通史1
(調査の目的と行程)
クシュン
コタン
を占拠したロシア兵を撤退させ現地を復旧すること、そしてロシア側から強く求められた国境画定
新札幌市史 第1巻 通史1
(アイヌ支配の構造)
表をみる限りでも、「役土人」には、乙名(大きな
コタン
の場合、惣乙名を置いている)、脇乙名、小使といった,「役土人」のおもな仕事は、各場所(
コタン
にほぼ一致)を代表し、統率するものであったので、勤番所や請負人
新札幌市史 第4巻 通史4
(北海道庁主催「北海道アイヌ手工芸品展覧会」)
昭和初年の経済不況を境にして、アイヌ民族が賃労働などで生活の糧を得るために、それまでの
コタン
から都市へ
新札幌市史 第4巻 通史4
(出版社の出現)
北方文化の主潮 昭16 河野広道著 北方出版社 北方文化史序説 昭17 高倉新一郎著 北方出版社
コタン
新札幌市史 第1巻 通史1
(鈴木尚太郎と山県璣)
鈴木、山県はイシカリをあとにして六月十三日クシュン
コタン
に渡り、鈴木は東海岸をマアヌイ、トツソまで北上
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦夷地での活躍)
閏四月十八日、クナシリ場所請負人柏屋藤野喜兵衛の持船長者丸に便乗して箱館を出発、東蝦夷地沿岸を巡行して、シ
コタン
新札幌市史 第1巻 通史1
(改革まで)
でハッサムに四年間在勤した亀谷丑太郎の回想によれば、六月二日阿部屋から場所を引き継ぎ、その布告をシャ
コタン
新札幌市史 第3巻 通史3
(創立の契機としての「近文アイヌ給与地問題」)
近文には師団司令部予定地に隣接して
コタン
があり、三十年の調査では四〇戸一八七人のアイヌ民族が生活していた
新札幌市史 第6巻 史料編1
(解題)
このうち、人別帳の写しの存在する地域は、北蝦夷地をはじめ、東蝦夷地はネモロから山越内、西蝦夷地はシヤ
コタン
新札幌市史 第1巻 通史1
(北方未来考)
本朝六十六ケ国壱岐、対馬之二島を入て、六十八ケ国なれば、松前蝦夷西ハカラフト東ハシ
コタン
等北ハ千島より
新札幌市史 第1巻 通史1
(弘前藩の関心)
まず注目されるのは嘉永六年十月、カラフトのクシュン
コタン
にロシア兵上陸の風聞を得ての対応。
新札幌市史 第4巻 通史4
(『北方文芸』創刊)
の特徴」、田上義也「北海道と建築に関して」などの論文が載り、牧屋善三の寄稿「歴史と文学」、更科源蔵「
コタン
新札幌市史 第1巻 通史1
(動員されるアイヌ)
このため、復領まもない文政中頃、『近世蝦夷人物誌』によれば、イシカリ川のカムイ
コタン
より下流の十三場所
新札幌市史 第3巻 通史3
(興業としてのイオマンテの挙行)
にアイヌ民族の外見上顕著な慣習を禁止する施策の一環として廃止を布達しているが(同前)、その後の各地の
コタン
新札幌市史 第1巻 通史1
(平山謙二郎と一瀬紀一郎)
ると記されており、さらに同日記巻二の巻末には、堀井鉄次郎が加わり四人が、六月二十三日カラフトのクシュン
コタン
新札幌市史 第1巻 通史1
(新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)
通信 運送と通信 人足役 運上屋 本陣 本陣経営の転変 第六章 アイヌ社会と
コタン
, 人別帳にみる人口構成 人口の減少 松浦武四郎の総括 アイヌへの種痘 第三節
コタン
,トシキランの死 二 ハッサムとコモンタ ハッサム コモンタ 三
コタン
新札幌市史 第2巻 通史2
(西地諸郡からの物資調達)
『積丹郡諸調』では、「シヤ
コタン
御場所請負中取扱調書上」中に、「辰年」の備米として九二石とある(積丹町史
新札幌市史 第1巻 通史1
(十三場所の変遷と請負人)
下国岡右衛門 蠣崎三弥 松前監物 土屋丹下 佐藤権左衛門 領主 領主 (今は上地) 〔運上金はカムイ
コタン
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