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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム道)

ハッサム在住地へいたるハッサム道として、最初に開かれたようである。  ,ハッサム在住の第一陣は、安政四年二月二十八日頃にイシカリ入りし、雪どけを待って間もなくハッサムに入植したとみられる,これにあわせ、銭箱からハッサムへの道路が開かれるのである。,この年閏五月二十四日に、堀利熙の奉行廻浦に随行してハッサムを検分した玉虫左太夫の『入北記』によると、ハッサム,フシコベツブトと呼ばれたハッサム在住地へのハッサム道は、阿部屋に命じて開削されたとみられる。 / ハッサム道
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム巡検)

ハッサム巡検 一行は閏五月二十三日に銭箱に一泊し、翌二十四日はイシカリ直行組とハッサム巡検組の二手にわかれた,が入植していたハッサムの在住地のことなどを、詳しく記述している。,巡検後、ハッサム・イシカリ川を下り、イシカリに到着する。,二十七日は再びハッサム在住の地所見分のためにイシカリを出発し、この日は銭箱に宿泊する。,翌二十八日にハッサムに入り、再び地所見分した後、ハッサム川を下ってイシカリ川に出、そこから上流をさかのぼり / ハッサム巡検
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム番所)

ハッサム番所 足軽の亀谷丑太郎は、四年間にわたりハッサム番所詰をつとめていたことが、先の『荒井金助事蹟材料,いまそれをもとに、ハッサム番所の役割を考えてみることにしよう。,材木はハッサム・イシカリ川を流送しておこなわれていた。,しかし、ハッサム近在にはアイヌも少なく、またこの時期には軽物交易物も減少していた。,第三に、これは関連事項にはあらわれないが、ハッサム番所の役割には、ハッサム在住の世話があったとみてよい / ハッサム番所
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム村の変質)

ハッサム村の変質 ここで問題となるのは、前掲大友文書の山岡出府に続いて「同人取開候場所幷御手作場とも,すなわち山岡は、ハッサム村において自分の「取開候場所」と共に、御手作場も管理していた。,とすれば、山岡が退去に際して開墾地を差し出すことにより、これまでのハッサム在住開墾地はすべて御手作場となり,すなわち慶応三年以降、ハッサム村は在住村から御手作場(ただし大友を担当者として開始された大規模のものではない / ハッサム村の変質
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム村の農民)

ハッサム村の農民 明治三年九月二日にこの地を通過した東久世開拓長官は、「一村落也。,さらに明治元年のオタルナイ騒動の主要人物の一人として「先年山岡精次郎家来ニ相成江戸エ行立帰ル」と注記された,おそらく山岡が引き連れて来た農夫の一人と思われる。,表-1 明治2年中までのハッサム村農民(明治6年居住者) 加籍・土地 割渡年月 氏名 明治6年における,発寒小紋太はもとハッサム乙名のコモンタであり、この六人の中には、開拓使設置以前からここに居住していたものも / ハッサム村の農民
新札幌市史 第1巻 通史1 (銭箱よりハッサムへ)

銭箱よりハッサムへ 武四郎は六月十七日に銭箱通行屋を出発する。,当時、ここには永島玄造・中島彦左衛門・中川金之助・葛山幸三郎が入植していたが、湿地も多く地積が狭隘なため,追分の由来は、右は本道、左はハッサム在住地へ至る二叉(さ)路になっていたからである。,また、ホンハツシヤフ(中の川)を渡ると、山岡精次郎・秋庭熊蔵の在住地があった。,写真-3 東西蝦夷山川地理取調図(部分) / 銭箱よりハッサムへ
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサムよりシユママツフへ)

ハッサムよりシユママツフへ 武四郎は再び本道に出で、ハツシヤフ(発寒川)を渡る。,舟はあいにく対岸にあり、同行のハッサムのタケアニは馬にて対岸に渡り、丸木船を廻送してきた。,まだ渡守等もおらず、通行屋は無人であったが、シコツのハレタク、定山渓の温泉帰りの和人二人、案内のハッサム,のハレテレキ等が一諸となり、「心も大にいさみ、夜もすがら四方山(よもやま)の事を話し明しぬ」ということであった / ハッサムよりシユママツフへ
新札幌市史 第1巻 通史1 (善光寺)

以下、ここではサッポロ・ハッサム関係についてのみ、みることにしよう。  ,この三カ所は、スッツ・ヨイチに一軒、ソウヤに一軒、そしてイシカリ領のうち、サッポロ・ハッサムに一軒であった,これらは漁場として殷賑をきわめており、ソウヤ及びサッポロ・ハッサムは、布教・寺院維持には不適と判断したからである,サッポロ・ハッサムの一カ寺は、安政六年八月にはハッサムに位置がきまり、円照山真如院法性寺と山号・寺号も,しかし、ハッサムは在住がわずかに居住するばかりの地で、実際にはハッサムでの建立にはいたらず、この八月に
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政四年の調査)

さらに屈曲一里ばかり上にトイヒラがあり、小屋一棟、夷人等の漁場の由、今般の新道切開の口で、ここへハッサム,し、上川に向かい、閏五月二十二日イシカリへ一行は帰着し、翌日ゼニバコで堀箱館奉行と落ち合い、二十四日ハッサム,〈ハッサム〉ゼニバコを出て雑木山の細道をたどり、オタルナイ・イシカリ両領の境目のホシオキ、さらにテイネノタフ,を経て平坦地に入り、ポンハッサム、フシコハッサムを過ぎて夷家村に着く。,それよりハッサムに出て舟でハッサム川を下り、イシカリに帰着した。
新札幌市史 第1巻 通史1 (山岡精次郎の退去と農民)

山岡精次郎の退去と農民 すなわち、これに関してこれまではたとえば『札幌新聞』第六号(明治十三年六月),のように、山岡などがこの村に農民を移し開墾等に着手したが「慶応三(ママ)年任満ちて帰るに及で移民も亦散乱,まず記述整理の都合上やや煩雑にはなるが、従来まちまちであった山岡の退去年月を確定しておきたい。,すなわち山岡は慶応二年十月早々にハッサムを出立、退去したといえる。,山岡がハッサム最後の在住であったことはまず動かし難いから、そうなれば扶助の道を断たれた農民も四散するのが / 山岡精次郎の退去と農民
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政五年の調査)

ついでポロコトニ、ヨウコシベツなる川を経てハッサムに至る。  ,〈ハッサム〉川幅七、八間で小舟で渡る。川端に高札を立つ。,チライオツに追分があり、右は本道、左はハッサムの夷家村に通ず。,左を行くと大屋文右衛門、大竹慎十郎、永田休蔵、弓気多内匠の在住四軒並び、ついでポンハッサムにも山田常蔵,ハッサム川に粗朶橋が架設されている。
新札幌市史 第1巻 通史1 (生活)

サンタルベツ、すなわちのちの手稲富岡付近としたのは、銭箱からの区切りと共に、ホシオキ、ハッサム在住地両方,『東本願寺北海道開教百年史』では、願乗寺法恵(西本願寺末)がハッサムに掛所を建設すべく安政中に土地の貸下,蝦夷地中央四方平面之地ニテ地之利宜処……調役・同下役・同心等追々在住引越ニ相成」(箱館蝦夷地エ御出張所取立一件)云々と、ハッサム,に小寺庵室を取建てたい旨箱館奉行に願い出たが、奉行はスッツ・ヨイチのうち一軒、イシカリ領内サッポロ・ハッサム,同六年にはハッサム建立分は「円昭山真如院」の山号寺号も定められたが、実現はしなかったようである(御用留
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住入地場所の選定)

この在住入植地の中心として位置づけられた「サツホロ、アツサフ山麓」の中心はハッサム川流域であった。,このハッサム川については、安政三年五月に松浦武四郎は「ハツシヤフ川巾凡七間、遅流にして深し」(竹四郎廻浦日記,ここではハッサムが在住入地場所として適地とされているほか、イシカリ河口辺が入地不適地とされている点が注目,以上のような理由から、サッポロ・ハッサム山麓に在住入地場所が内定されたが、具体的な場所としてはハリウス,、ホシオキ、ハッサム、それとホシオキに入地した中嶋彦左衛門、中川金之助の「開発場」としてのコトニである
新札幌市史 第1巻 通史1 (小休所の建設)

小休所の建設 銭箱・トヨヒラ間は歩くと一日行程で、その中間にあたるハッサム(ベツカウスとも呼ばれた),イシカリ改革の折、恵比須屋(岡田)半兵衛に、「其方義セニハコよりトヨヒラへ之山道昼所手前へ小休所取建、,ここでいわれている「小休所」は、ハッサムの小休所のことである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住の移動)

小普請 阿部兵庫支配 安政 4.3.16 安政 4.閏5.5 ハッサム 万延1.12現 北蝦夷地在住,1.4槍術教授方兼務 軽部豊三 安政 5.5.27 ハッサム 万延1.5現 イシカリ在住 元治,さらに秋山繁太郎については、『荒井金助事蹟材料』ほかの史料で、ハッサム在住の秋山姓は吉郎と鉄三郎二人であり,大竹の三人がハッサム、葛山がハリウス、金子がヤウスバで、山麓地域の在住が圧倒的に多い。,またハッサム入地者の中心となっていたとみられる山岡精次郎は、慶応二年十月のおそらく初旬に退去したが、これが
新札幌市史 第1巻 通史1 (新道の再整備)

ここには同じく、「川普請土人拾五人の酒」の項もあり、この「川普請」はハッサム川の「川さらい」とみられる,田中家史料は、安政六年以降の史料に限られるので、ここにみられるハッサム道、ハッサム川の普請は、この安政六年度,ここには、「チトセ山道乙部越山道之儀も追々切開出来」と述べられているので、チトセ山道(サッポロ越新道),と乙部越山道の工事が最も遅れていたことを示している。
新札幌市史 第1巻 通史1 (慶応元年の人別帳)

また、ハッサム・中川・上川・ユウバリの四地域の総計もみられる(表2)。,表-2 慶応元年 イシカリアイヌ人別帳 場所 軒数 男 女 男女計 ハツサム 28軒 49人 49人,ところで、四カ地域に番所が設置されるのは安政五年十一月以降である(村山家資料 新札幌市史 第六巻)。,サッポロ番所の勤番人は足軽亀谷丑太郎となっているが、丑太郎は後にハッサム番所の担当となる。,これはサッポロ番所はおかれず、ハッサム番所に変更になったためである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (中田儀右衛門・福玉仙吉ほか)

上手稲村の祖とされている中田儀右衛門は、岩手郡薮川村の出身で、万延元年に道南の大野村に移住、慶応三年にハッサム,で、のちの上手稲村辺りを「発寒村貫属(旧片倉家家中)繰入之場所」(地理諸留)と記しているように、当時ハッサム,したがって中田の場合も、入植地がその時点でハッサム村であり、その地が後年手稲村になり、さらに上手稲村となったにすぎないという,また『札幌郡調』には、イシカリ役所の足軽亀谷丑太郎が、ハッサム番所詰となり、「今ノ手稲村の橋上」に農地,以上のように、ハッサム村などには多くの開拓民が出入りした。
新札幌市史 第1巻 通史1 (耕地)

図-1 発寒村地図(明治7年10月)  これによれば、ハッサム川はこの地域では幾本かに分れて流れ,また一番浜田から五番八重樫までは、四番笹布(万延元年)を除いて安政中に土地割渡しを受けており、ハッサム,なお昭和に入って作成された簡易な『発寒在住配置図』では、五番八重樫のあたりが「山岡様」、四番笹布源吉の,『検地野帳』に記載されている明治六年現在の総農家数が二〇戸であることからみても、開拓使設置直前のハッサム,おそらくハッサム村形成時には、たとえば川岸の自然堤防など、耕作しやすい土地を選んで開墾が始まった結果であろう
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ在住の入地)

さらにハッサム村、中嶋村等は在住制によって成立した村であることから、記述の必要上、第七章と多少重複する,ハッサム村は、安政四年(一八五七)二月に箱館奉行によってイシカリ在住入地の中心地と位置づけられたことに,同年から翌五年にかけて同地のリーダー格とされる山岡精次郎をはじめ、秋山繁太郎(吉郎)、同鉄三郎、大竹慎十郎,今のところ山岡精次郎、永田久蔵、秋山繁太郎などの例が知られているが(第七章参照)、他の在住の多くも招募,なお、ハッサム村の在住数は、文久二年(一八六二)六月には「五軒」に減少している(今井宣徳 蝦夷客中日記
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ建府との関係)

イシカリ建府との関係 善光寺・西本願寺がともに、サッポロ・ハッサムに寺院建立の指定をうけたのは、蝦夷地総鎮守社,西本願寺の場合、まだ無人に近い状態のところを、特に「土地引立之ため」を理由にされているのは、サッポロ・ハッサム,仏光寺や増上寺(善光寺の本山)が、明治二年に北海道の〝分領〟を得たのも、以上の背景によっている。
新札幌市史 第1巻 通史1 (堀利熙の再訪)

そのうち、ハッサム在住地とサッポロ越新道の視察について、玉虫左太夫の『入北記』が、その様子を伝えている,それによると、堀利熙は九月九日夜に、ハッサム在住の新宅に着きここで宿泊し、翌十日に視察をおこなった。,畑地二、三丁歩モ開ケ、川岸ニハ土手ヲ築キ其景色目ヲ驚カス程ナリ」と、ハッサムの在住地の開発がすすんでいる,などによるアイヌへの非道も報告されていたようで、二十一日には、テシオ請負人栖原六右衛門と共に、イシカリの村山(
新札幌市史 第1巻 通史1 (弘化三年の調査)

イシカリ場所は阿部屋村山伝次郎の請負で、その運上金二二五〇両、夏場秋味金一〇〇〇両、差荷物代上乗金三九両一歩,〈ハッサム〉八月十九日にイシカリ運上屋を丸木舟で発して石狩川をさかのぼり、二里三二町余でハッサムに至る,ハッサム番屋の運上金は金四〇両、別段金一〇両、差荷物代金四両という。  ,〈サッポロ〉ハッサムよりさらに一八町上って右にサッポロに至る。,土地肥沃で大豆、隠元豆、南瓜、茄子、大根、稗、呱吧芋等を、耕作禁制のため奥の山でひそかに栽培しているが
新札幌市史 第1巻 通史1 (吉田茂八)

再び『荒井金助事蹟材料』の亀谷丑太郎の聞き取り調査によると、茂八は丑太郎がハッサム番所に勤番していた安政五年,また茂八は猟師を業としたというが、ハッサム番所では軽物交易の皮革類を収集しており、そのために丑太郎によりとりたてられ,吉田茂八は福山(松前)の出身で、明治元年(一八六八)七月に、大友織之助(亀太郎)扱いのサッポロ(察歩路
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロ調査)

に石狩川に沿いサッポロを検分、さらに上川よりイシカリへ一旦帰着後、閏五月堀箱館奉行と共にゼニバコよりハッサム,四回目は安政五年(戊午)の東西蝦夷地を縦横に巡った大踏査行で、今回は厳冬の中をウスより中山峠付近を越え,、豊平川を下降しマコマナイを経て二月にサッポロの地に入り、トイヒラ、コトニ、ハッサム、フシコを通過して,ゼニバコに抜け、さらに東西蝦夷地巡回後、六月に再びゼニバコよりホシオキ、ハッサム、コトニ、トイヒラ、チキシャブ,しかもそれらは、石狩川沿いのコース、ゼニバコよりテイネ山麓側より入るコース、豊平川を下ってきてのサッポロ
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場の地所選定)

ついで同二十七日にイシカリを発してハツサムに赴き、そこにある番所を受け取って宿泊、同二十九日より御手作場,の地所選定にとりかかったが、その折案内したのは当時シノロにおいて開墾に従事していた早山清太郎であったという,そのころ近辺にはすでにハッサムに山岡精次郎、シノロに荒井金助らによる開墾地があった。  ,タ人足ノ通セサル処ニシテ草木繁茂シ、故ニ木ヲ伐リ草ヲ苅、道ヲ開鑿シ始テ人馬ヲ通ツル迠、星ヲ視月ヲ眺テ山野
新札幌市史 第1巻 通史1 (産業)

産業 農業については一部すでに第七章で述べたように、文久二年(一八六二)に山岡が水稲を試作したが、成功,中でも漁業(鮭漁)については、官もそれを認めており、村山家資料中の「石狩場所改革方取計之儀申上候書附」,また、河野常吉資料中の『石狩場所請負人村山家記録』中に、在住畠山万吉(安政五年発令、ワッカオイ)から「,さらに、イシカリその他で必要な木材は、ハッサム川上流でも伐採されたので、伐木労働にも従事したと思われる,熊吉(鈴木)が借船賃弐分の、また源吉(笹布)が川船二艘代金として一五両の支払いを大友から受けており、ハッサム
新札幌市史 第1巻 通史1 (新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)

へ ハッサムよりシュママツフへ     三 トヨヒラ通行屋        通行屋の建設 通行屋の整備,小休所とハッサム川        小休所の建設 ハッサム川の利用   第三節 定山渓ルートと温泉開発,とコモンタ        ハッサム コモンタ     三 コタンの衰退        ナイホとシノロ,村…956     一 ハッサム村の成立        イシカリ在住の入地 ハッサム村の成立     ,二 ハッサム村の農民と農地        ハッサム村の農民 農民の入地と移動 山岡精次郎の退去と農民
新札幌市史 第1巻 通史1 (幕府の崩壊とイシカリ在住)

その後漸減し、明治元年八月現在で中村兼太郎、荒井好太郎、永嶋玄造、同芳之助、井上斧太郎、渡辺鼎斎、畠山万吉,他の八人については、若干居住場所の不明のものもあるが、大友を除きすべて沿海地域にあり、ハッサムなど山麓地域,がいくつかみられるが、その宛先記載順序はすべて永嶋玄造(オタルナイ川)、同芳之助(同)、井上斧太郎、渡辺鼎斎、畠山万吉,第二には、同文書中、慶応二年に退去したハッサム在住の山岡精次郎の差し出した「同人幷取開候場所幷御手作場,そして明治二年七月、すなわち開拓使の設置された際、それへの任用に関する文書で渡辺鼎斎、畠山万吉の二人が
新札幌市史 第1巻 通史1 (大友亀太郎のサッポロ選定)

大友は慶応二年の四月二十七日にハッサムに入り、そこの番所に宿泊して、二十九日よりいよいよ設立すべき御手作場,この時案内したのは早山清太郎であったという。  ,バラトプトにはハッサム川が、サッポロプトにはフシコサッポロ川、シノロ川やコトニ川などが合流して注いでいた,すでに安政期から在住たちが入植し、それらが招募した農民たちによって開発が進められ、ハッサム村やシノロ村
新札幌市史 第1巻 通史1 (エンカルシベの山霊)

エンカルシベの山霊 サッポロ山麓の指定に関し、松浦武四郎の提言もこれ以前にあったであろうが、武四郎はこの,の儀附愚存の程奉申上候」の申上書を、二月二十日にハッサムでしたため、村垣範正の家臣であった渡辺良弼に提出,それによると、サッポロのエンカルシベ山(現在の藻岩山)が最も適地なことを、以下のように述べている(燼心餘赤,川猟又は樵等にサッポロ川等へ罷越候者有之節は、此山霊の神酒木幣を献じ祈り申候に神威著敷由申、妄に此山に,武四郎の言によると、エンカルシベは山霊がすみ、神威がいちじるしい聖山で、アイヌの尊崇のあつい山であった / エンカルシベの山霊
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政三年の調査)

五月八日、隊長の箱館奉行所支配組頭向山源大夫、手付松浦武四郎、イシカリ詰合下役立石元三郎にイシカリ番人,〈ハッサム〉ハッサム川の注ぎ口、幅およそ七間、遅流で深い。,聞書によってこの川筋を記しておくと、川上二里一〇丁余のポンハッサムプトで二股となり、左がポンハッサム川
新札幌市史 第1巻 通史1 (産業・農民など)

ハッサム村に比較すれば、イシカリに近く、慶応二年からは、フシコサッポロ川を通じて御手作場とつながっているという,また庄内藩士山田民弥の『恵曾谷日誌』には、明治三年二月十四日の項に「シノロ人家二十八軒」と記され、さらに,さらにハッサム村と同じく明治四年の人別調では、「在来」農家が二八戸となっていて、この間の転出はないとみられる,太田長吉(三)、森山兼松(六)、小川幸吉(三)、荒田定七(一)、開田太助(三)、松田藤八(一)、早山清太郎,佐藤友治(一)、辻村忠吉(四)、種村要蔵(二)、伊勢利八(二)、岩船与助(二)、竹田藤五郎(二)、若山仁三郎
新札幌市史 第1巻 通史1 (荒井村の設置)

(荒井)金助又(早山)清太郎に命じて、運輸利便の耕地を探索せしむ。,また、岩村判官『札幌開拓記』(おそらく明治五年頃、岩村が早山から聞き取ったものと思われる。,のち松本十郎に渡り、『空語集』九二に収録された)によれば、「安政六己未年、清太郎儀琴似ハ山近く、霜早降農作,ここでも土地選定の主たる理由は、ハッサム村と同様土地の肥沃さと、主としてイシカリとの間の運輸の利便さであって,当時の地図類は見出していないが、ハッサム村と同じく、明治十四年(一八八一)の開拓使地理係『石狩国札幌郡之図
新札幌市史 第1巻 通史1 (村垣範正の廻浦)

村垣範正はこの後、二十七日に千歳川を下り、その夜はツイシカリの通行屋に宿泊し、翌二十八日にイシカリ・ハッサム,川を経由して、ハッサムの在住を巡検する。,この五日は、ワッカオイ在住の畠山万吉・天野伝左衛門の畑地・役宅、五十嵐勝右衛門の漁場を検分し、六日はホシオキ
新札幌市史 第1巻 通史1 (林木の保護)

しかし、請負人は場所内で必要な資材をサッポロ山(現藻岩山一帯か)、ハッサム山(現手稲山か)、ヌフル山(,野幌、現市東部から広島町)、シュップ山(現厚田村)等で小規模ながら伐採し、冬に雪車(そり)で川岸まで運,改革により、この方針をさらに強化、あわせて止山の制を施いた。,産出地は星置から手稲、発寒にかけての山中で、マクンベツ、トウヤウシ、ヤウスバ、シップ、ホロムイ等でも伐,荒井金助は袴のすそに鹿皮をぬいつけ、自ら紫根で染めて常用したと伝えられるが、佐渡から来てハッサムに永住
新札幌市史 第1巻 通史1 (農民の入地と移動)

農民の入地と移動 以上がこれまでに判明したハッサム村の農民名であるが、もちろんこれは安政四年(一八五七,同六年が浜田長左衛門、鈴木熊吉、青木力蔵、河野六右衛門の四人、以降慶応二年までが笹布源吉、理勘吉兵衛、森山与兵衛,の三人、慶応三年以降明治二年までが坂本令宜、山中勘之丞、石塚市太郎、成田藤吉、笠井八五郎、和田吉蔵、平山常八
新札幌市史 第1巻 通史1 (新道切開之儀申上)

新道ニハ入費も不少、殊更木立無之雪中往来差支、夏分ハ出水も有之候間、セニハコ漁場よりサツホロハツサフ山麓,、石狩運上家有之場処ハ全川口之漁場ニテ、風当強く災も有之永住ニハ不便之場処故、同処より拾里程南発作部山麓,も取掛候儀ニ有之、ヲタルナヰ領セニハコより発作部山麓通り東地千歳川迄、凡弐拾里程新道切開方ニ治定仕、西地,それゆえ、冬季の通行もかなうような陸路を切り開くというもので、ルートは銭箱からサッポロ・ハッサムの山麓,そして第二には、運上屋のあるイシカリ川口は永住に向かないのに対し、ハッサム山麓は地味・水利とも便利な地域
新札幌市史 第1巻 通史1 (農業・開拓)

まず、先述したように、安政五年にコトニの開発場で早山清太郎が稲作を行った。,またハッサムでは、文久二年に山岡が水田二町半を起こし、稲を植えたが、「水冷ニして不実」(岩村判官 札幌開拓記,における状況の若干を、紀行類によってみると、まず玉虫左太夫(忠義)の『入北記』(安政四年)九月十日には、ハッサム,ここで栗本が見分した在住の「墾地」は、ハリウス(葛山愑輔―幸三郎)、ハッサム(山岡ほか二、三人)、オタルナイ,写真-4 「山岡精次郎等移住之地」木標 (琴似町史所収)
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ川の地図)

一枚は文化七年『蝦夷地図』(国立史料館蔵)で、当時イシカリ場所の請負人であった阿部屋村山直之が、文化十三年,川名の記入は欠くがイシカリ川を遡ると、下流から順にハッサム川、フシコサッポロ川、サッポロ川、エベツ川が,しかも、ホロムイ山付近を源とするサッポロ川は、多くの支流を集めながらヌマウシの少し下流付近で二つの川に,① ハッサム川  ハッサム、同川上流域 ② 旧サッポロ川 サッポロ、ナイホウ ③ コトニ川   シノロ,作者岳丈央斎は、偶然にも以前阿部屋村山伝兵衛のもとで働いていたという福山馬形(まかど)の坂本屋九兵衛の
新札幌市史 第1巻 通史1 (土地・農民管理)

また稲作を試みているのは早山清太郎であることは確実であるが、早山は第九章第二節で述べるように中川・中嶋,おそらく早山などは、このような事情から中川らの人別に組み入れられ、その地を開発場と称したとみられる。,またこの際、最寄りのハッサム場所の管轄とせず、オタルナイとの境界にあるホシオキの開発場とした理由も明確,このほか、前述のように慶応二年十月に退去した山岡精次郎は、その際同人の開いた場所と共に御手作場を差し出,これについては、ハッサム村を事例として、第九章第一節で記述する。
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所の出産物)

表2は、文化六年の場合であるが、十三場所中金納が六場所、納入なしが二場所、品物で納めたのがハッサム、下,表-2 イシカリ十三場所出産物(文化6年) 場所名 差荷物 トクヒラ 差荷物 ハッサム 魚油2斗入1樽,元文四年(一七三九)の『蝦夷商賈聞書』では、「干鮭沢山」と、干鮭が第一であったが、天明末~寛政初年の『
新札幌市史 第1巻 通史1 (温泉の注目)

また六月にはハッサムのハレテレキの案内で、和人二人も温泉に行っていた。,さらに、文久元年七月以降に定山に譲渡したという。,いままで定山渓温泉の沿革につき、定山以前の事柄については不明の部分が多かった。,しかし、今後細部については種々検討の必要があるにせよ、ここに清太郎の談話をおくことにより、定山による温泉開発,までの経緯が、ある程度明らかになってきたといえよう(なお、早山清太郎については第九章参照)。
新札幌市史 第1巻 通史1 (農民の招募)

また、後年の記述になるが、山岡精次郎について「安政四年の頃旧幕臣山岡某が此地を移して十余戸の民を移し」,ニ命シ属吏四五名ヲ率ヒ跋渉開墾ニ着手シ農夫ヲ募リ扶助ヲ給シ」とあるが、山岡はハッサムの中心的人物であったから,次に、安政四年ハッサムに入地した秋山鉄三郎は、万延元年十二月にイシカリ役所に対し、農民の飯米に差し支えるため,またこの場合、おそらく最初は、兄で旧来からの幕臣である秋山繁太郎(吉郎、高一五〇俵)が主となり、鉄三郎,であるから、これは葛山の招募農民であろう。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (開拓使の絵師たち)

前者には「従丸山札幌眺望之図」があり、漠々たる広野の中に丸山村、市街、モレヘツ、コトニ、初覚(ハッサム
新札幌市史 第1巻 通史1 (請負方式の変化)

ところが、山田は同十二年限りで辞退したので、翌年からは阿部屋の請負になったようである。  ,このように、イシカリ場所のうちトクヒラ、ハッサム、上ツイシカリ、下ユウバリ、シママップの五場所ということは,米屋孫兵衛 100両 米屋孫兵衛 100両 阿部屋 320両* 阿部屋 但し疱瘡流行により半減 両 ハッサム,夏商では、文化四年では請負人の米屋孫兵衛が、トクヒラ、ハッサム、上ツイシカリ、シママップの計四場所を運上金二五五両,写真-2 石狩弁天社御神燈 文政12年、村山・栖原が寄進(石狩町弁天町)。
新札幌市史 第1巻 通史1 (トシキランの死)

松浦武四郎の『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』(以下『戊午日誌』と略記)によると、武四郎は中山峠をこえて,チシルイはハッサムのアイクシテの妻であった。その夜、武四郎はアイクシテのもとに泊まる。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (温泉の利用と新道)

温泉の利用と新道 武四郎は、定山渓ルートの探索をおえ、二月二十日にイシカリ入りする。,また山の方より和人弐人に、ハツシヤフのハレテレキ両人の者と、女の子一人と出来りけるが、其方等は何故に爰,、追々此頃は人も行候様成しまゝ、此和人等連行呉と云故、其案内致し行たりと申しぬ……  ハレテレキはハッサム,武四郎の温泉「発見」により、定山渓ルートがにわかに注目を集めるようになり、実際に道路の開削が試みられ、,また定山渓の地名のもとになった美泉定山による温泉開発もおこなわれるようになる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (早山清太郎)

早山清太郎 この時期、官の開拓政策によって、相当数の移民がイシカリ地方に入地した。,清太郎の生まれは白河藩の城下町に近い、白川郡米村組(山根組ともいう)の米村(よねむら)である。,この家は奈良東大寺の巨鐘鋳造にかかわり、早山(双山)の姓を賜わったとも言い伝えられる(白河風土記)。,その材木集めを清太郎が下請けし、ホシオキ川の上流やハッサム、コトニの山間に入り、伐木流送の仕事にたずさわるうちに,写真-1 早山清太郎の墓 (北区篠路龍雲寺境内) / 早山清太郎
新札幌市史 第1巻 通史1 (足軽)

丑太郎は、安政三年九月五日に山ノ上町百姓より足軽に抱(かかえ)入れとなり、御門番を勤めていた。,武川勇次郎と共にながくイシカリ詰をつとめ、ハッサムの番所詰めであった。
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