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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (ロシアの南下)

ロシアの南下 一八世紀以降、蝦夷地から本州方面へもたらされるところの商品流通の拡大とともに、物と人、,こうした蝦夷地開拓意見の一方で、北方からの外国人、すなわちロシア人の出現は、いっそう蝦夷地の問題を刺激,幕府が、はじめてロシア人の千島への渡来について知ったのは、明和八年(一七七一)のことで、すでに三年前に,ロシア人がウルップ島にまで達していた。,ロシア人の蝦夷地渡来の情報は、仙台の工藤平助や林子平の著作を通じて、次第に伝わっていった。 / ロシアの南下
新札幌市史 第1巻 通史1 (ロシア産種子と牛の回付)

ロシア産種子と牛の回付 このような中にあって興味を引くのは、ロシア産の種子が箱館奉行所よりもたらされていることである,以上のようなロシア産種子は、蝦夷地に適合する寒冷地作物として、箱館奉行所の積極的な奨励によるものであったが / ロシア産種子と牛の回付
新札幌市史 第3巻 通史3 (ロシア革命とハリストス正教会)

ロシア革命とハリストス正教会 日本のハリストス正教会は、ニコライ大主教の死後、主教セルギイの指導の下,このような宣教の進展に再び打撃を与えたのは、ロシア革命の勃発とソビエト政権の成立であった。,ロシアの正教会が帝政ロシアの時代に与えられていた保護を失い、国家からまったく分離させられた。,このためロシア正教会との関係が充分整理されないまま、大正八年の公会では、独自の「日本ハリストス正教会憲法,ロシア革命に端を発した正教会の財政独立問題は、「信徒の信仰上に動揺を来したる如く」と言われ、またこれを / ロシア革命とハリストス正教会
新札幌市史 第2巻 通史2 (諸外国の動向)

二年十月十日にフランスの日本公務弁理職モンブラン伯は、日本政府の諮問に対し、樺太におけるロシアの状勢は,日本まで侵略する意図を持ち、これは欧州にも重大な関係を有するものゆえ、日本政府は仏・英政府に依頼して、ロシア,二年十一月九日、在日米国公使デ・ロングより、最近日本が北地に官民を派遣したのは、函館の情報によると、ロシア,それはロシアが同地に埠頭の築造を開始し、それを阻止した川島権大録ら六人を捕縛幽囚するという事件であった,アメリカに依頼した理由は、日露両国とも互いに公使の駐箚がなく直接交渉が不可能であること、アメリカはロシア
新札幌市史 第2巻 通史2 (函泊事件)

として慶応四年六月北蝦夷地(樺太)に赴任していた岡本文平(監輔)がこの日帰京し、去る明治二年六月二十四日ロシア,したがってこのロシアの行為は、わが国の北蝦夷地経営の存立を脅かす重大事件であった。,すでに幕末以来北蝦夷地においては、北上するわが国と南下するロシアとが接触し、暫定措置としての両国雑居の,その間ますますロシアは勢力を増大させ、幕府もまた新政府もその対応・解決を模索しつつあった矢先の事件であった
新札幌市史 第3巻 通史3 (開戦の報)

開戦の報 朝鮮と満州の支配権をめぐる日本とロシアの対立は、ついに戦争へともちこまれていき、日本は明治三十七年,(一九〇四)二月十日にロシアに宣戦布告を行い日露戦争に突入した。,海軍は二月九日に仁川沖で二艘のロシア艦を撃破して戦端を開いたが、開戦と勝利の報が新聞社の号外で市民に伝
新札幌市史 第1巻 通史1 (北方領土問題とアイヌ)

第二次直轄となった要因は、主にロシアとの北方領土問題であった。,それは逆に、アイヌがロシア側に好意をよせることは、アイヌ居住地域がロシア領土にかたむくことを意味していた
新札幌市史 第1巻 通史1 (カラフト・千島襲撃事件)

カラフト・千島襲撃事件 文化三年から四年にかけておこった、ロシア人のカラフト・千島襲撃事件は、文化三年九月,、ロシアの正使レザノフが、幕府に通商を求めたのに対し、幕府が半年も回答を待たせたうえに、にべもなく拒絶,使節レザノフは、憤懣やるかたなく帰国し、ロシア皇帝にカラフトの領有を具申、かつ部下のフヴォストフとダヴィドフ,この五郎治こそ、ロシアに抑留中に学んだ種痘を帰国後日本に伝えた最初の人物である。
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌産レンガ製造への模索)

開拓使札幌本庁は十一年以降、黒田長官の先導により、ロシア式校倉造建築(ログハウス)とロシア式暖炉(ペチカ,十三年十二月、ロシアから築炉士一人を一年間雇用し、ペチカ、料理かまどの築造法の伝習を受ける。,前掲の事例の一部はロシア人職工の施工とみることができる。,「営繕報告書」(工業課報告 道文七一四一)は、ロシア人職工が関与したとするペチカ、料理かまどなど次のような
新札幌市史 第3巻 通史3 (旅順海戦祝勝会)

やがて二カ月後、旅順港閉塞作戦を進めていた日本海軍が四月十三日に旅順沖でロシア東洋艦隊に遭遇して戦闘となり,、ロシア艦隊の旗艦ペトロパウロスク号は沈没し、マカロフ提督が戦死する旅順海戦の報が伝えられた。
新札幌市史 第2巻 通史2 (日本宣教の気運)

ペテルブルグに本拠を持つロシア正教会(ハリストス正教会)は、文久元年(一八六一)に来日した在函ロシア領事館付司祭
新札幌市史 第1巻 通史1 (北地調査の必要)

北地調査の必要 アメリカ、ロシア両艦隊の開国要求、そしてロシア兵のクシュンコタン占拠と国境談判は、幕府,目付でロシア応接掛の荒尾成允は嘉永六年(一八五三)十月「役々の内、掛り被仰渡、蝦夷嶋々の儀御取調相成候方
新札幌市史 第1巻 通史1 (出稼所の設置)

出稼所の設置 ロシアとの境界画定が成立しておらず、ロシア・日本双方の雑居地となっていたカラフトに、幕府及,特にクシュンナイが問題となったのは、安政四年以降、ここに住居するようになったロシア人の南下を防ぐためにも
新札幌市史 第1巻 通史1 (カラフトへの足場)

足場 プチャーチンによる開港と国境画定要求、ネヴェリスキーのクシュンコタン占拠以来、急展開をみせた対ロシア,ところが、ロシア側もこのあたりを南下の拠点として着目、安政四年クシュンナイに兵屋を建てはじめ、翌年はマアヌイ,、行わなければならなかったし、クシュンナイをめぐる日露紛争をわが国に有利に導き、国境画定へ向けての対ロシア
新札幌市史 第3巻 通史3 (社会主義者への迫害)

そのため、学芸演習会で「説話」発表をすることになった友人に依頼し、ロシアの女性革命家の話を発表してもらった,三十八年三月、庁立札幌高等女学校補習科を終えた山田ミツは、ロシアの軍艦が出没するという噂のあった利尻島
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の目的)

も松前藩が、蝦夷地対応策として何ら適切な措置をとることができないでいるうちに、文化元年(一八〇四)、ロシア,文化二年四月二日、松前藩主章広は、ロシア船が突然蝦夷地近海に出没したことにより、シャリ・ソウヤ・カラフト
新札幌市史 第1巻 通史1 (松前蝦夷御用取扱)

前述したように、寛政四年(一七九二)のロシア遣日使節アダム・ラクスマンの東蝦夷地への来航以来、ロシア人
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の目的と行程)

その派遣に至る経緯からして、直接の動機となった目的の第一はカラフト問題、すなわち対ロシア交渉である。,クシュンコタンを占拠したロシア兵を撤退させ現地を復旧すること、そしてロシア側から強く求められた国境画定
新札幌市史 第2巻 通史2 (移住の契機)

移住の契機 明治八年(一八七五)、樺太千島交換条約が日本とロシアとの間で締結され、約一世紀にわたるこの,これによって日本は、樺太全島をロシアに譲渡するとともに、千島列島全島をわが国の領土とした。,したがって、条約上の精神からすれば、樺太・千島いずれの住民もロシアか日本かの国籍選択の自由と居住地選定
新札幌市史 第3巻 通史3 (日露戦争前後のハリストス正教会)

しかしこの時期、日露戦争の勃発で、ハリストス正教会はロシアとの関係が深かったため、官憲の監視下に置かれることが,、ニコライは信徒に対して、日本にいる正教徒の義務として日本の勝利のために祈ることを勧め、自らはその間ロシア
新札幌市史 第2巻 通史2 (丸山外務大丞の樺太建議)

一 、樺太の風土は予想外に開拓に適すること 一 、ロシアの樺太経営はアジア進出の第一歩で、その後北海道,併合しようとするものだけに、樺太の開拓・経営は重大性を有すること 一 、樺太に境界を画定せば地を割きてロシア
新札幌市史 第1巻 通史1 (開拓論・国防論)

このようないきさつからまとめられたという風説考は、その内容が北辺に出没するロシア船の噂や、北方防備の緊急性,調査記録が、ロシアの蝦夷地の北辺への南下の事実を明らかにしたので、今度は国防的な見地に立った蝦夷地経営,利明は、ロシアの南下がまぎれもない事実であることから、蝦夷地開発の急務を力説し、鉱山開発、大船建造、移民,しかし、道広の姿勢に次第に失望し、おまけに道広がひそかにロシアと通じて謀叛を企てていることまで耳にし、
新札幌市史 第3巻 通史3 (勤倹貯蓄の奨励)

これは、対ロシアとの戦争を準備し、鉄道・電信・港湾・製鉄・造船部門等を充実させるために、国民一人一人が,こうして、国力の充実は対ロシアとの戦争準備に備え官民一致した形ですすめられていった。
新札幌市史 第2巻 通史2 (黒田の初期開拓画策)

黒田の初期開拓画策 開拓次官就任当初の黒田は、対ロシアの観点から北地問題に重大な関心を抱いていた。,しかし現地樺太を視察してロシアの蚕食の状を目にし、根本的な彼我の国力の懸隔を認識した。
新札幌市史 第1巻 通史1 (編纂の下命)

編纂の下命 『蝦夷志料』──『千島志料』ともよばれた──は、幕府が北方地域の領土問題についてロシアとの
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地見回りとイシカリ場所)

蝦夷地見回りとイシカリ場所 ロシア船による襲撃事件の一方、文化四年五月十八日、異国船(のちに米国船と,襲撃事件の報が江戸に達すると、これに対応して文化四年六月四日、目付遠山景晋、使番小菅正容、村上義雄に、ロシア,堀田正敦は、同年八月二日、ロシア船渡来につき蝦夷地見回りを東西に分かれて行うこととした。,西蝦夷地直轄後の警備は、前述のようにロシア人の襲撃事件もあり、弘前・盛岡・久保田・酒田藩から三〇〇〇人余,文化四年に幕吏近藤重蔵が重要視したタカシマには、同六年、幕府砲術指南役井上貫流以下八人が警備についたが、ロシア
新札幌市史 第2巻 通史2 (士族授産)

たとえば、十年ロシアにおもむいていた榎本武揚全権公使にコサック屯田の授産資料の収集を頼んだり、十二年永山武四郎,に琴似兵村の山田貞介、山鼻兵村の渡部勝太郎を同伴させ、ロシア領カムチャツカの開拓状況を視察させたりした
新札幌市史 第1巻 通史1 (幕府の倒壊)

によって管轄者は不在となり、社会的混乱と不安が高まることは必至であり、また幕末より急を告げていた樺太でのロシア
新札幌市史 第1巻 通史1 (武四郎の新道構想)

一八〇七)に西蝦夷地をも上地して、全蝦夷島を直領とした直接の契機は、千島ならびにカラフトをめぐってのロシア,そのため幕府にとって、北蝦夷地でのロシアとの直接対応、ひいては蝦夷地の防備をふまえて、口蝦夷地より奥蝦夷地
新札幌市史 第2巻 通史2 (制定の事情)

第一はロシアとの国境画定問題をかかえ、兵備の必要にせまられたことである。,屯田兵が憲兵として置かれたのはロシアへの外交配慮であったが、一面国内警衛の役割を明確に表わしたもので、
新札幌市史 第2巻 通史2 (岩倉とパークス)

またその対ロシアの姿勢は、蝦夷各地の配備は多く兵であるが樺太は移民とするように、ひたすら条理に訴えて穏便,それに全面的に同意するパークスも、日本がロシアと積極的に対峙することを否定する態度であったことが知れる
新札幌市史 第3巻 通史3 (市場の動向)

大正二年の輸出の大部分はロシア領アジアであり、具体的にはウラジオストク、ニコライエフスク、ハバロフスク,大正六年になるとロシア領アジアに加え、フィリピンが増加してくる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地紀行)

ただ主要な関心はカラフトにあったろうから、クシュンコタン来航のロシア人、アイヌやオロッコの風俗等は詳細
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎)

たまたま長崎の乙名津川文作より、蝦夷地が赤蝦夷(ロシア人)によって侵攻されるおそれあり、との風説を聞き
新札幌市史 第1巻 通史1 (近藤重蔵)

近藤重蔵 文化四年(一八〇七)、前年来のロシア船によるカラフト・千島襲撃が直轄になったばかりの西蝦夷地
新札幌市史 第2巻 通史2 (お雇い外国人の内訳)

その国籍は、アメリカ四八人(六二パーセント)、清国一三人(一七パーセント)、ロシア五人(六パーセント),表-2 開拓使お雇い外国人の職種別・国籍別表 アメリカ 清国 ロシア イギリス ドイツ オランダ フランス
新札幌市史 第2巻 通史2 (営業資金・建築資金の貸付)

石造・土蔵は一戸一二坪一八〇〇円、木造はロシア式丸太組一六坪五合を一三五円として一カ年五分の利子、五カ
新札幌市史 第2巻 通史2 (家屋改良)

黒田長官の家屋改良の熱意は、ロシア式家屋をも試みに札幌などに建築させた。,黒田長官が十一年ロシア領ウラジオストック視察の際、職工を雇って帰国し、札幌に官舎二棟と小学校一棟を建てたが
新札幌市史 第3巻 通史3 (戦意高揚)

同会のほかにもたびたび仏教演説会が開かれており、また法会、追吊会、葬儀などの場の説教でもロシア、キリスト
新札幌市史 第1巻 通史1 (山崎半蔵)

山崎半蔵 文化四年は、前年以来のロシア船の来襲により、蝦夷地の各所へ警備に赴く幕吏や藩吏の往来が盛んだった
新札幌市史 第2巻 通史2 (校舎の新・増改築)

この中には旧藻岩学校校舎のように、ロシア式丸太造りの本格的なものが工法の不適切から早々に老朽化したものもあるが
新札幌市史 第3巻 通史3 (戦争の翳り)

ロシア革命が起こると、革命の波及を避けるためにシベリアに出兵し、東部シベリアに緩衝国を作ってこれを日本,シベリア出兵により、歩兵第二五聯隊の属する第七師団は、北満から極東ロシア三州(ザバイカル・アムール・沿海州
新札幌市史 第2巻 通史2 (正教会の伝教)

『大日本正教会公会議事録』(明治十四年七月)に、函館復活教会のロシア人司祭ディミトリィの下にいた副伝教者
新札幌市史 第2巻 通史2 (写真)

田本は幕末にロシア領事館の医師ゼレンスキーに学んで写真術を習得していたのである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (この時期の評価)

以上の三点は、もちろん第二次直轄以降、ロシアとの領土・国防問題に関連し、幕府・箱館奉行により遂行された
新札幌市史 第5巻 通史5下 (さまざまな国際交流と国際交流施設の整備)

昭和五十二年からは、外国語のボランティア制を実施し、平成十四年七月には、英語、ドイツ語、ロシア語、中国語,四十五年からは英語版、六十二年からは中国語版、平成六年からはロシア語版の市政概要を、おおむね三年ごとに
新札幌市史 第1巻 通史1 (大内清右衛門の偵察)

その後、北方からロシアの勢力が南下してきて、天明・寛政年間以降とくに蝦夷地の開拓論、国防論が識者の間で,しかし、文化三(一八〇六)、四年のロシア人のカラフト、千島襲撃事件の際、水戸藩より箱館まで派遣された秋葉友衛門等
新札幌市史 第2巻 通史2 (北地使節の派遣案)

その主旨はロシアとの戦・不戦の大英断を下すべき状況下で、現地を親しく見聞して緩急違わぬ手順を樹立するための
新札幌市史 第2巻 通史2 (黒田次官の建議と開拓方針の転換)

このような施策の背景には、現地で圧倒的なロシアの体制を目にして、この大国に対応するには局地的戦術などではなく
新札幌市史 第2巻 通史2 (開拓使の設置と移住政策)

それと当時、ロシアとの雑居地となっていた樺太である。
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