機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 63件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 2ページ
新札幌市史 第2巻 通史2
(上手稲村と西野の開拓)
上手稲村
と西野の開拓 この時期
上手稲村
は、西部地域の現在の西野、福井、平和の諸地域の開拓が進展していった /
上手稲村
と西野の開拓
新札幌市史 第3巻 通史3
(手稲村の概況)
手稲村の概況 手稲村は明治三十五年四月一日に
上手稲村
、下手稲村、山口村の三村を合わせて二級町村制が施行,四十二年の戸数・人口は
上手稲村
が二三八戸一三七六人、下手稲村が二八二戸一六七五人、山口村が九七戸六二一人,
上手稲村
と山口村が純農村であったのに対し、下手稲村には停車場、村役場がある軽川に市街が開けており、前田農場,行政区域は七部に分かれていたが、大字
上手稲村
は上手稲・西野、大字下手稲村は軽川・三樽別・下手稲星置、大字山口村
新札幌市史 第1巻 通史1
(中田儀右衛門・福玉仙吉ほか)
中田儀右衛門・福玉仙吉ほか 一般に
上手稲村
の祖とされている中田儀右衛門は、岩手郡薮川村の出身で、万延元年,に道南の大野村に移住、慶応三年にハッサム村に入植、翌明治元年にのちの
上手稲村
となる地に移住し、開墾・農業,これはたとえば明治五年二月に手稲村設置に関連する文書で、のちの
上手稲村
辺りを「発寒村貫属(旧片倉家家中,このほか、『地価創定請書』
上手稲村
の項では、明治二年二月の土地割渡しとして佐々木せつ(『検地野帳』では,、島義勇の従者となって島と共に札幌入りしたと記されていることの多い福玉仙吉は、明治元年三月に、のちの
上手稲村
新札幌市史 第2巻 通史2
(学田)
また円山学校は
上手稲村
西野に払下げをうけ、小作人を入れて開墾させたが、小作料収入が教育施設の充実、村民,明治18年) 学 校 面 積 位 置 藻岩学校 60万坪 月寒村厚別(あしりべつ) 琴似学校 50
上手稲村
西野,山鼻学校 65 砥石山官林 上手稲学校 20
上手稲村
西野 円山学校 20.3148
上手稲村
西野
新札幌市史 第7巻 史料編2
(三 移住民情況調査報告)
明治一〇年調) 札幌市街 山鼻村 円山村 琴似村 発寒村 琴似発寒屯田兵村
上手稲村
, 四ケ村 篠路村 山鼻村 円山村 月寒村 豊平平岸両村 上白石白石両村
上手稲村
新札幌市史 第2巻 通史2
(元仙台藩士片倉家従者の場合)
白石村(のち白石村と上白石村に分かれる)と
上手稲村
に入植した宮城県白石の元仙台藩士片倉家従者の一行である,私立水沼製糸所 (明治7 ・11~10・10) 達崎ます 白石村 農 達崎吉左衛門 長女 佐藤りほ
上手稲村
, 農 佐藤伊格 長女 内馬場ふさ
上手稲村
農 内馬場仲良 妻 置賜県 (明治8・4~9・8),阿子島きわ
上手稲村
農 阿子島安元 妻 長谷川なを
上手稲村
農 長谷川正路 妻 福島県 (明治,8・4~9・8) 大内ふゆ
上手稲村
農 大内矩常 妻 大河内きし 上白石村 農 大河内頼綱 妻
新札幌市史 第7巻 史料編2
(三 地租創定事業)
雁来村 下手稲村 白石村 上白石村 豊平村 苗穂村 円山村
上手稲村
,下手稲村 白石村 上白石村 豊平村 苗穂村 雁来新道 円山村
上手稲村
新札幌市史 第2巻 通史2
(下手稲村の成立)
そこで手稲村を二つに割き、片倉家旧臣の地を
上手稲村
とし、サンタロベツの方は下手稲村として同村が誕生した,『札幌区市街各村之開拓ノ顚末』(明治十年)では
上手稲村
の項に、「明治七年五月村名ヲ上下ニ分ツテ[字ホシヲキ,」(ママ)ト唱フルヲ下手稲村トス]
上手稲村
ノ称名下ル」とし、下手稲村の項では「明治六年ニ至テ始テ一村落,この時下手稲村の副戸長に管野格が任命されており(市史 第七巻九四四頁)、これ以前にすでに
上手稲村
には伊東信正
新札幌市史 第2巻 通史2
(山口・広島県からの移住)
山口村ハ農業一途ニ付不向ナルモ小樽へ五里、銭箱へ壱里、札幌ニ六里ニテ日雇稼ノ者弁利之所モ有之、彼是ニテ
上手稲村
山口村,また山口村とならび
上手稲村
への移住のこともふれられている。 ,植産会社に関係をもつ山本章、玉井利之助、柏村桃作などが
上手稲村
のいまの西区西野に、五〇戸分五〇万坪の地所割渡,十七年に移住した前鼻林七・理寛寺栄蔵など八人は、十八年四月に今度は
上手稲村
の今の西野へ再移住し、広島開墾
新札幌市史 第2巻 通史2
(米穀金融)
白石・
上手稲村
民は、開拓使から前渡し給与米を得ていた。石川はそれを他へ廻して増米をはかる。
新札幌市史 第2巻 通史2
(分校・分教場等)
このほか月寒村厚別、
上手稲村
西野などにも同様の学校が設置された。
新札幌市史 第2巻 通史2
(コレラの流行)
同年十月、札幌郡
上手稲村
牧場内官舎を仮避病院とし、一八坪の伝染病室を一二七円で新築して患者を収容した(,このため急拠
上手稲村
にあった仮避病院を円山村(現大通西一九丁目)に移して八月二十五日開院して患者を収容,として九年に官舎二棟を付属伝染病室としたが、翌十年に伝染病室を札幌通(現北三条東二丁目)と前述のように
上手稲村
新札幌市史 第2巻 通史2
(副戸長の兼務)
管野格は九年二月に
上手稲村
の副戸長も兼務し(四月に辞任)、一時は三村の副戸長を兼ねた。
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌・発寒・琴似村)
当時発寒村の範囲が広く、のちの
上手稲村
まで含まれる。,
上手稲村
の中田儀右衛門、福玉仙吉などもハッサム村の住民とみることができる。
新札幌市史 第3巻 通史3
(上手稲と分村運動)
上手稲と分村運動 大字
上手稲村
はもと仙台藩の片倉家臣団により開かれたが、明治二十年以降は西野地区を中心,このように西野地区を中心に発展をしていた
上手稲村
であったが、明治四十三年に地域を二分する分村問題が発生
新札幌市史 第2巻 通史2
(新しい農業の導入)
十年に一頭曳プラウが琴似・山鼻両村へ一七台ずつ入り、同二頭曳が円山・平岸両村へ三台ずつ、
上手稲村
に二台入,十年~十四年の農具売下合計でみると、プラウの合計は札幌市街三、札幌村三、円山村七、平岸村四、
上手稲村
四
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌近傍の林相)
ヘンケハツタリベツ」ヨリ豊平川上、両側定山渓迄山林、定山渓ヨリ豊平川上筋山林 同所ヨリ白井川筋山林
上手稲村
,定山川上迄、白石村ヨリ東北平林 「アシヽベツ」ヨリ野津幌迄ノ間街道ヨリ北側 円山村ヨリ北琴似川筋平林
上手稲村
字
新札幌市史 第7巻 史料編2
(一 招募移民)
招募報告(明治四年二月二八日) 三 応募移民の一部函館到着(明治四年三月一一日) (二)白石・
上手稲村
開墾移民
新札幌市史 第2巻 通史2
(牧馬場)
九年四月
上手稲村
(ナカノ川左岸、札幌越新道北方一帯)に二〇万三四一六坪の牧場を開き、五月札幌官園の牧馬
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌製糸場の開業と工女呼戻し)
31 松本とせ 〃 〃 20 鷲木村農松本芳三郎長女 32 佐藤倫俊 3等蚕業雇 8等蚕事取扱 19
上手稲村
農,ちよ 3等雇 10等見習 10 札幌市中山口吉太郎娘 8年機織修業 42 熊沢さわの 〃 〃 10
上手稲村
元士族熊沢金次郎娘,9年1月札幌製糸場在場 43 半沢まさ 〃 〃 10
上手稲村
元士族半沢喜仙娘 8年機織修業 44,まさ 〃 〃 8 琴似屯田兵但木敬治妹 8年10月札幌製糸場養蚕修業人 59 安斉とめ 〃 〃 8
上手稲村
元士族安斉仁三郎娘,元斗南藩士琴似屯田兵県左門妹 8年10月札幌製糸場養蚕修業人 63 小島うん 6等雇 10等見習 6
上手稲村
元士族小島尚友妹
新札幌市史 第2巻 通史2
(下手稲村と軽川の発展)
下手稲村と軽川の発展 下手稲村は二十一年八月に、上手稲、下手稲、山口村の三カ村戸長役場が
上手稲村
より
新札幌市史 第2巻 通史2
(農産の中心・札幌)
上手稲村
ハ明治元年雑穀蔬菜ヲ種ルモ土地磽确ニシテ労費ヲ償ハス。十年桑園ヲ開キ養蚕ニ従事ス。,22.9 0.4 果樹(本) 0 0.0 1300 20.0 3729 58.3 1764.6 27.3
上手稲村
,3.
上手稲村
のみ牛の数値をあげた。 4.『開拓使事業報告』第2編より一部数値を訂正の上作成。
新札幌市史 第6巻 史料編1
(〔明治六年市在状況調〕)
日検地開始) 摘用録〔抄〕 札縨村外十一ケ村収穫高調 明治六年収穫調 〔丘珠村〕 〔
上手稲村
新札幌市史 第2巻 通史2
(鉱物の調査と試掘)
また、
上手稲村
の右股(現西区平和)では、二十八年七月に山鼻村の杉浦丑次郎が札幌鉱山を開き、金銀の採掘を
新札幌市史 第2巻 通史2
(戸長役場と戸長)
山口村は戸長役場の所在した
上手稲村
まで四里余りもあり、戸数も百余戸になったことを理由に、十八年三月に生田春正宅
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌神社崇敬講の結成)
崇敬講世話方として三一人の名があり、講中として円山村九〇人、琴似村三七人、山鼻村二六人、桑園内一一人、
上手稲村
一二人
新札幌市史 第2巻 通史2
(例祭と近傍住民)
なお『北役日誌』中の桜は、
上手稲村
民福玉仙吉の手によるものであるが、福玉は従来一般に伝えられているような
新札幌市史 第8巻1 統計編
(【人口】)
第32表 戸数・人口 (豊平村) 第33表 戸数・人口 (豊平村・町) 第34表 戸数・人口 (
上手稲村
新札幌市史 第2巻 通史2
(作物の特産化)
は桑、麦、豆、円山村は蔬菜を多く栽培し札幌市街へ販売し、琴似村は麦、豆、麻、蔬菜、発寒村は穀菜少し、
上手稲村
新札幌市史 第2巻 通史2
(神社等の増加)
. 9 創建時八幡社 上手稲神社
上手稲村
明治5 白石神社 白石村 明治5 明治30.,明治30 新川神社 下手稲村 明治30頃 十軒神明宮 篠路村 明治31.10 西野神社
上手稲村
新札幌市史 第2巻 通史2
(殖民地の設定と貸下)
二十九年六月十八日に、月寒村月寒官林が二六六万三〇〇〇坪、
上手稲村
発寒官林が一二万九二〇八坪、琴似村発寒官林
新札幌市史 第2巻 通史2
(戸長役場の設置)
・円山二カ村戸長 大堀忠八(山鼻村一一四番地) 琴似・発寒・上手稲・下手稲四カ村戸長 管野格(
上手稲村
四
新札幌市史 第3巻 通史3
(就学督励と「名誉旗」の授与)
手稲村の就学状況は『明治四十一年札幌郡手稲村勢一班』に基づくものであるが、手稲三村(
上手稲村
・下手稲村,
上手稲村
では男子八三・三三パーセントに対して女子九一・四二パーセント、下手稲村では男子五二・〇〇パーセント
新札幌市史 第4巻 通史4
(手稲村)
手稲村 手稲村は
上手稲村
、下手稲村、山口村の三大字から成り大正十年九月三日に開村五〇周年記念式が挙げられた
新札幌市史 第2巻 通史2
(戸長役場の移転と分立)
まず上手稲ほか二村の戸長役場は、これまで
上手稲村
におかれていたが、三カ村の中央に位置する下手稲村の軽川
新札幌市史 第2巻 通史2
(熊害)
7・14
上手稲村
同村小嶋儀右衛門、飼馬数頭を道路より四、五十間の草原に放牧。
新札幌市史 第2巻 通史2
(移民の出発と到着)
庚午移民は以上の四カ所に一一八戸三九四人が入植したほか、発寒村(後の
上手稲村
の地域)へも入植している。
新札幌市史 第2巻 通史2
(私立水沼製糸所製糸女生徒)
この二五人とは、札幌郡白石村の武田津(つ)や(一六歳一一カ月)、同達崎満寿(ます)(一五歳)、
上手稲村
,達崎満須 15歳 同 農 達崎吉左衛門 長女 15 佐藤理保 17歳4月 同
上手稲村
新札幌市史 第2巻 通史2
(私立病院及び開業医)
このため各地で村医設置運動がおこり、三十一年段階では札幌村外四カ村、
上手稲村
外三カ村、月寒村外二カ村に
新札幌市史 第2巻 通史2
(住宅資金と住宅事情)
四年冬白石村と
上手稲村
に移住した元仙台藩士片倉家従者の場合、特に白石村では雪中に茅葺小屋を建てて入居している
新札幌市史 第2巻 通史2
(移民の編成)
『札幌村外十一ケ村検地野帳』(明治六年、市史 第六巻)、『地価創定請書』(十二年、市史 第七巻)では
上手稲村
四番地
新札幌市史 第2巻 通史2
(就学の問題)
上手稲村
から山口村までの距離を考えると、通学の困難は相当なものであったろう。
新札幌市史 第3巻 通史3
(ブリーダー牧場の概況)
塩野谷牧場 (手稲村字
上手稲村
) 塩野谷平蔵氏の経営にして、大正二年六月米国よりホルスタイン種の優良種牛十頭
新札幌市史 第2巻 通史2
(取締を巡る紛糾)
また片倉景範が十一年十一月十七日に、上白石・白石・
上手稲村
三力村戸長となったが、これらの背景には「惣轄者
新札幌市史 第3巻 通史3
(施行地)
札幌村(旧来の札幌村、苗穂村、丘珠村、雁来村の区域) 人口四二五八人 手稲村(旧来の下手稲村、
上手稲村
新札幌市史 第4巻 通史4
(字名の設置)
手稲村は
上手稲村
、下手稲村、山口村の三大字であったが、十七年四月十日に大字を廃止し福井、平和、西野、東
新札幌市史 第2巻 通史2
(市街と村の景観)
上手稲村
戸数五、六十戸三百五、六十人余。墾田多い。
新札幌市史 第2巻 通史2
(郡区と町村)
(10625) 琴似村 2111 3748 1637 発寒村 212 314 102
上手稲村
新札幌市史 第3巻 通史3
(『少女世界』愛読者会)
嵐の一夜石狩国札幌郡
上手稲村
二四番地 菅野菊子 桐の一葉に秋の立ち初めて、降り暮らす時雨身にしむ計なり
新札幌市史 第4巻 通史4
(争議の経過)
中央区を中心とする地域、昭13町制施行円山町と改称、16・3札幌市に編入)の円山小学校が同郡手稲村大字
上手稲村
字西野
/ 2ページ