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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (上ツイシカリアイヌの離散)

上ツイシカリアイヌの離散 シレマウカの本拠地である上ツイシカリの場合、もっとも大きな影響を受けている,東蝦夷地内のウライ没収以降文化十年(一八一三)までの間に、シレマウカとその一族が上ツイシカリを去ったため,、「上ツイシカリ蝦夷人住居不仕不残他場所住居仕候」(由来記)というごとく、無人と化している。,『由来記』に記された文化十年十一月付の上ツイシカリ通詞幸吉以下三名の報告は、次のようにそのありさまを伝,其後人別御取調之節上ツイシカリ人数ニ相成候。   / 上ツイシカリアイヌの離散
新札幌市史 第1巻 通史1 (交通路の大系)

のほかに、(二)銭箱──イシカリ──アツタを海岸づたいにむすぶ浜中道(はまなかどう)、(三)千歳──ツイシカリ,ここにはツイシカリに通行屋、札沼線石狩鉄橋の札幌市側の付近にビトエの小休所も設けられていた。,(三)の千歳・ツイシカリ、ツイシカリ・イシカリ間は、上下により時間差がおおきく異なるものの、ほぼ一日行程,で、ツイシカリには通行屋が設置されていた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (第二回訴願)

その間に上ツイシカリのシレマウカ夫妻も次第に年老いて言語も自由にならないほどとなり、おまけに子供が若年,その結果、同年十一月付の上ツイシカリ通詞幸吉、下ユウバリ通詞定右衛門、トクヒラ通詞万右衛門の調査した限,①上ツイシカリの知行主松前勇馬(天明末~寛政初年の『西蝦夷地分間』では、上ツイシカリの知行主は松前貢、,、ハッサム、トウベツブト方面に離散してしまい、上ツイシカリは無人と化している。  ,上ツイシカリ、シママップ、トクヒラ五場所の通詞たちは、連名でイシカリ詰合平島長左衛門宛に、シレマウカの
新札幌市史 第6巻 史料編1 (〔イシカリ場所人別帳(松浦武四郎)〕)

石カリ ヨイチ 人別  イシカリ之内   〔トクヒタ惣乙名〕   〔ハツシヤフ乙名〕   〔下サツホロ,乙名〕   〔上サツホロ乙名〕   〔上ツイシカリ乙名〕   〔下ツイシカリ乙名〕   〔上カハタ,乙名〕   〔下カハタ乙名〕   〔上ユウハリ乙名〕   〔下ユウハリ乙名〕   〔シマヽツフ
新札幌市史 第1巻 通史1 (第一回訴願)

シレマウカ以外に漁業権を没収された、下ツイシカリのレタリカウクも、同年閏六月二十三日付で下ツイシカリの,一方、下ツイシカリのレタリカウクの訴願に対しても、ユウフツ場所惣乙名オツカシレはじめ「役土人」と支配人,下ツイシカリの乙名レタリカウク、親の代よりイザリの干鮭場へ出漁(親戚関係)。,閏6.23下ツイシカリのレタリカウク、閏6.-上ユウバリのアンラマシテ・カシュウシも出漁を嘆顧。,11-上ツイシカリ通詞幸吉らウライ事件顚末について調査報告す(上ツイシカリの主要産物の干鮭は、シレマウカ
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政四年の調査)

これらの後ろは直ちにツイシカリ川筋に当たるという。  〈ビトイ〉右の方に少し浜があり、鮭曳場。,〈ツイシカリ〉ここの番屋は当年三月に焼失したそうで、ユウフツ出稼小屋に止宿する。,下サッポロ・ナイボの両川とツイシカリ川の両方へ水は落ちるという。,ツイシカリ川側の落ち口の傍らに昔下ツイシカリの小屋があったと聞くが、今は跡形もない。,翌二十日、このツイシカリを発し、上川に向かい、閏五月二十二日イシカリへ一行は帰着し、翌日ゼニバコで堀箱館奉行
新札幌市史 第1巻 通史1 (集約化されるアイヌ労働)

①上ツイシカリアイヌの人別  文化十年(一八一三)、上ツイシカリの通詞幸吉以下三人が、上ツイシカリの,この上ツイシカリは、東蝦夷地が直轄になって以来、上ツイシカリの惣乙名(そうおとな)シレマウカが所有する,ところが、上ツイシカリの人別に入っていた二六戸、一〇五人というのは、もとテシオ場所のアイヌで、上ツイシカリ,しかしこの場合、上ツイシカリの人別に入れたことで請負人は、上ツイシカリの名を使った利権を継続できることになる,同じ『土人由来記』に、ツイシカリ場所を上と下に分けた時、知行主の家格の上、下で決めたとあり、ただ交易相手
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ川の地図)

イシカリ川の地図 ところで、サッポロ川がツイシカリ川に流れ込むように流路を変えたことを証明する地図が,分流してフシコサッポロ川(旧サッポロ川)とサッポロ川(旧ツイシカリ川)となり、サッポロブトで、かたやツイシカリブト,」(ハシウシペッ=現厚別川)付近であり、そのツイシカリ川の上流には沼があるように描かれている。,この沼が後世ツイシカリメムと呼ばれた沼だろう。  ,で二つに分流し、途中アシシヘツ川と合流してツイシカリ川に流れ、ツイシカリでイシカリ川に合流している。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリアイヌの入会権)

上ツイシカリの惣乙名シレマウカ、下ツイシカリの乙名レタリカウク、上ユウバリのアンラマシテ、同カシュウシ,上ツイシカリの惣乙名シレマウカは、『由来記』によれば、元来は千歳アイヌ系であるという。,なぜ上ツイシカリの惣乙名になったかは不明である。,その際、ムイザリアイヌの財宝を償いとして差し出したが、それでは足りず上ツイシカリのシレマウカの祖父に頼,同じイシカリ場所のうち下ツイシカリの乙名レタリカウクの場合も、やはり父親の代からイザリの干鮭場への出漁権
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎のイシカリ川筋探検)

ツイシカリ イシカリより9里半。枝川秋味1000石上る。20年程前、上より引移る。,、⑦上ツイシカリ、⑧上カバタ、⑨下カバタ、⑩ユウバリ、⑪下ユウバリ、⑫シママップ(シユママツプ)の一二,いま一カ所ツイシカリ場所は、もともとシノツ(スノツ)にあったが、二〇年ばかり以前に当時のツイシカリ川河口,武四郎と同行のアイヌたちは、イシカリ川河口より九里半遡ったツイシカリでまず一泊したらしい。,ツイシカリより六里でシママップに着いた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (弘化三年の調査)

イシカリ場所に属するアイヌの人たちは、二九年前の人別では二八三〇余人であったのが、現在八八四人と三分の一以下に,〈ツイシカリ〉サッポロより七里でツイシカリに至る。,ツイシカリはここより石狩川を一里上った所に元来あったそうであるが、二〇年ばかり前に現在地に移動したものであると,ツイシカリ番屋の運上金は金五五両、別差荷物代金二両、下ツイシカリ番屋の運上金三七両、別差荷物代三両二分,そして翌二十日ツイシカリを立って、シノツ、エベツプトを経て、江別川(千歳川)に入り、シママップ、チトセ
新札幌市史 第1巻 通史1 (番所の管轄・地域)

①(中川)上カバタ、下カバタ  ②シノロ、下カバタ  ③ナイホ、上川  ④(ユウバリ)上ユウバリ,、下ユウバリ  ⑤上ツイシカリ、サッポロ、下ツイシカリ  これらから判断すると四つの番所のうち、(,一)中川は上・下カバト、シノロの石狩川中流域、(二)ユウバリは上・下ユウバリの夕張川流域となる。,サッポロは旧場所の上サッポロ、下サッポロのように上・下がみられなくなっている。,この上・下サッポロのうち、どちらが退転したか不明であるが、サッポロと上・下ツイシカリが一ブロックとなっている
新札幌市史 第1巻 通史1 (衰退の要因)

衰退の要因 以上のように、上・下サッポロ、ハッサム、ナイホ、シノロのコタンをみてくると、いずれも衰退,〇一、二)ころ、サッポロ川(豊平川)の流路が変わり、それまでフシコサッポロ川に注ぎこんでいたものが、ツイシカリ,元サッポロの出身者には、イカシトシ(トクヒラ小使)、ニツル(上ツイシカリ)、イタクリキン・チウエンレシユ,じく他場所に編入されてはいるが、家の所在地につきサッポロとするのは、サンキツ(トクヒラ)、イバンケ(上ツイシカリ,小使、元サッポロ)、ハッサムとするのはシツタクウエン(トクヒラ)、ウワンテ(下ツイシカリ)、以上の四名
新札幌市史 第1巻 通史1 (阿部屋のその後)

慶応年間に入り、ツイシカリ辺の引場を次々他人に貸し、同四年(明治元年)自ら経営したのは大網二、小網一三,佐藤と入会)、上トウヤウシ、ハナンクル、ヒトヱ(常太郎と入会)、ポンヒトヱ、タンネヤウシ、トママタイ、ツイシカリ,下向、ツイシカリのポンヘケレ、ツイシカリ前浜、ツイシカリ上向 ?,周吉 下トウヤウシ下 2 金兵衛 上トウヤウシ 2 ☆ 三太郎 下ヘケレトシカ、上サツホロ 2 ☆,1 源吉 下ハナンクル 1 源次ともあり 新蔵 下ハナンクル 1 石五郎 下ハナンクル 1 藤吉
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政五年の調査)

三、四丁下ると夷人小屋三、四軒あり。,これより下流ツイシカリ川(旧サッポロ川)川筋を聞くに、川まではおよそ七、八里、直線では二里ばかりでツイシカリ,二〇丁余下るとツイシカリメムという水溜りがあり、少し行くとツキシャフプト、ついでポロアシュシベツプトがありこの,さらに本川を下ってノッポロプト、ホロナイ、オサフシを経てツイシカリプトに達すという。  ,六月十九日トイヒラを出発し、ツイシカリ川に沿いツキシャプ、モツキシャプ、アシュウシベツを経て、ついでシュママップ
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所の人口把握)

)   一一人   ヤエチキリコ ⑧トマヽエ(下ツイシカリ)   二八人   セリホクノ ⑨トイヒラ(,  五九人   コミトリ ⑩シマヽリフ(シママップ)   二四人   モムアイノ ⑪トイシカリ(上ツイシカリ,10 10 31 20 11 106 * * 下ツイシカリ 28 8 25 15 10 記入,三倍以上の増加場所は、下ユウバリ(六倍)、シノロ、上ツイシカリ、上ユウバリ、上カバタで、減少したのはハッサム,(下ツイシカリと下ユウバリと違いがあるが、同一請負人の場所という捉え方でいうと、下ユウバリが正しい)をまとめ
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政三年の調査)

このイシカリ勤番所には、箱館奉行所の調役並、下役、雇医師、同心、足軽の各一人の計五人の幕吏が勤番している,源はツイシカリ川筋と並び来るという。右手の本川をシノロ川という。,〈ツイシカリプト〉ツイシカリ川(旧サッポロ川、後の豊平川)の川口で川幅およそ七間、遅流で深い。,本川を少し上ると上ツイシカリで、番屋一棟(梁三間、桁五間)、板蔵一棟がある。,翌九日、一行はツイシカリを発し、シノツ、エベツプトを経て石狩川をさらにさかのぼり、雨竜川に転じてルルモッペ
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政三年の人別帳)

ここには、トクヒタ以下の十三カ場所の人別が一軒ごとに記されており、そして各場所の末尾に総軒数、男女数と,男 女 男女計 トクヒタ 58軒 119人 108人 227人 ハツシヤフ 5 11 10 21 下サツホロ,5 14 12 26 上サツホロ 20 29 50 79 上ツイシカリ 6 10 11 21 下ツイシカリ,2 7 6 13 上カハタ 24 46 55 101 下カハタ 10 15 16 31 上ユウハリ,7 12 11 23 下ユウハリ 14 28 21 49 シママツフ 3 6 7 13 シノロ 9 17
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ場所の新道)

イシカリでも、(一)イシカリ・アツタ間、(二)イシカリ・ツイシカリ間、(三)銭箱・ユウフツ間、以上三本,一 イシカリよりツイシカリ迄新道之儀、是又請書出ス。同様申渡ス。,(安政三年)五月九日に、山道検分のためにイシカリを出発し、石狩・雨竜・恵岱別川をさかのぼり、信砂川を下って,写真-1 ツイシカリ番家(西蝦夷図巻より)
新札幌市史 第1巻 通史1 (鮭漁の発展と変わる漁法)

その漁法のはじまりは、文政二年(一八一九)からとされ、松前藩復領期の最終段階にはイシカリ川の河口よりツイシカリ,⑯ホントマヽタイ  (ユウフツ) 1 (1) ⑦上トヤウウシ  (ユウフツ) 2 (1) ⑰ツイシカリ,下向  (ユウフツ) 2 (1) ⑧ハナンクル  (ユウフツ) 1 (1) ⑱ツイシカリ前浜, (ユウフツ) 1 (1) ⑨サツホロフト   1   ⑲ツイシカリ上向  (ユウフツ) 1,11  ⑥ヲタヒリ 4  ⑦サツホロフト 2  ⑧ツイシカリフト 1 計8ヵ所 51 『村山家資料』
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所の変遷と請負人)

ハツサム 下ツイシカリ 1 『西蝦夷地場所地名産物方程控』 天明六年 〔石狩拾弐ヶ所〕 モマフシ,ハツシヤフ 下ツイシカリ 小林丈三郎 目谷才右衛門 高橋平蔵 南条安右衛門 酒井周蔵 松前(崎)三太夫,両 古二〇両 4 ツイシカリ シマアウフ 下ユウバリ 上ユウバリ 上カバタ・下カバタ トエヒラ トクヒラ,御上場所     5 ツイシカリ シママフ 下ユウハリ 上ユウハリ 上カワタ,(記入なし) (記入なし)     6 カミツイシカリ シマヽフ 下ユウバリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (調査の概要)

蠣崎左兵衛 165 80 81 ハッシャフ 酒井伊兵衛 57 37 20 シママッフ 下国 脇 75,45 30 ツイシカリ 松崎多門 93 48 45 ツイシカリ 松前彦三郎 110 58 52 合計,石狩 [海路六七町引込候間、勤番所有之、松前若狭守家来上役壱人下役両人相詰候。,また、「津石狩川」のところで、「四、五年以前大水にてサツポロ川上に切所出来、其後ツイシカリ水深、船通路自由,の川に罷成候由」と、サッポロ川の本流が四、五年前にツイシカリ川に切替わったという、きわめて重要なことを
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所請負漁業の終末)

浪高の時、小網で川に追網) 浜(シュップ) 1 1 大網、出稼役3割 ホリカモイ 2 1 3 以下 ,オタヒリ 4 4 ハナンクル 1 1 2 サツホロフト 2 2 ヒトエ 1 1 2 以下 ,ヒトエ扱い、出稼役2割 ポンヒトエ 1 1 2 トエビリ 1 1 2 タンネヤウシ 1 1 2 以下 ,ツイシカリ前浜扱い、出稼役2割 ポントママタイ 1 1 2 トママタイ 1 1 2 ツイシカリ前浜,1 1 1 3 ツイシカリ下向 2 1 3 ツイシカリ上向 1 1 2 ホリカモイ 1 1 2
新札幌市史 第1巻 通史1 (諸施設)

これは、阿部屋の管轄する地域内の諸施設を示したものであるが、イシカリ川河口の元小家のあるところからツイシカリフト,このことは、この時期の最終段階においては、漁場労働がイシカリ川のツイシカリフトより下流域に集中し、このため,上流・中流域のアイヌは下流域に設けられた雇小家に宿泊させられる結果となったようである。,2、蝦夷雇小家1 (計5棟) (ユウフツ出稼) 居小家1、板蔵1、茅蔵2、蝦夷雇小家1 (計5棟) ツイシカリフト
新札幌市史 第1巻 通史1 (番所の設置)

番所の前身となったのは阿部屋の番家で、安政二年二月の段階ではツイシカリ・ハッサム・サッポロ・オソウシ・コトニ・ユウバリ・チュクヘツブト,特にツイシカリの番家はイシカリ・イザリブト(漁太)間の中継地で休泊所をかね、桁間一七間半、梁間五間半の,いまのところ、マクンヘツ・トクヒタ・ホリカモイ・ワッカオイ・ヒトエ・ツイシカリ・上トウヤウシ・上川チクヘツ・,たとえばトクヒタ・ワッカオイ番所では、船改の儀をおこなうこととされ、サッポロ番所は漁時限りに、ハッサム・ツイシカリ・,同 信沢順之丞 足軽  万延元年(一八六〇)八月の永住出稼一同への申渡請書によると、イシカリ川を下り
新札幌市史 第1巻 通史1 (請負方式の変化)

村山伝兵衛イシカリ場所之内トクヒラ、ハッシャフ、上ツイシカリ、下ユウハリ、シマヽフ右五ケ所夏漁場幷秋味漁,このように、イシカリ場所のうちトクヒラ、ハッサム、上ツイシカリ、下ユウバリ、シママップの五場所ということは,京極屋嘉兵衛 70 佐々木屋嘉兵衛 70 シノロ 筑前屋清右衛門 50 筑前屋清左衛門 50 上ツイシカリ,米屋孫兵衛 60 米屋孫兵衛 50 阿部屋 * 下ツイシカリ 直次郎 50 畑屋七左衛門 50,夏商では、文化四年では請負人の米屋孫兵衛が、トクヒラ、ハッサム、上ツイシカリ、シママップの計四場所を運上金二五五両
新札幌市史 第1巻 通史1 (ウライの没収と出漁禁止)

上ツイシカリ通詞に、「ウラエ共弐ツ御取揚ニ相成候ては、末々渇命ニも及可申」(由来記)と訴えたが、幕府の,一方、シレマウカのウライ以外の、下ツイシカリのレタリカウク、上ユウバリのアンラマシテ、同じくカシュウシ,レタリカウクは、直轄以後「干鮭取揚候事不相成趣被仰付」(由来記)、アンラマシテ以下も同様にウライを没収
新札幌市史 第1巻 通史1 (ナイホとシノロ)

ハツシヤフ 乙名 コモンタ コモンタ 小使 リカンクル イソウクテ 下サツホロ,サツホロ 乙名 シリコフツネ シリコフツネ 小使 モニヲマ サンナイ 上ツイシカリ,乙名 イクヲカアエノ イクウクアエノ 小使 イバンケ イハンケ 下ツイシカリ,上カハタ 乙名 セツカウシ セツカウシ 小使 イエラムナ イソチユウ 下カハタ,ユウハリ 乙名 サンケハロ アフンテコル 小使 シイレンカ ヤウタルコル 下ユウハリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (元禄御国絵図)

一方、イシカリ川に沿っては、「をしよろこつ」、「ついしかり」、「かばた」、「めいぶつ」、「夕別」の地名,が並び、「ついしかり」付近には、現在の千歳川が合流している。,「しやつほろ」以下の地名は、西蝦夷地に入れられているのに対し、「いへちまた」以下東海岸へ抜けるルートにある
新札幌市史 第1巻 通史1 (十二場所論)

下サツホロ 五リ   ナイホウ 上サツホロ 七リ   下ツイシカリ 八リ 上ツイシカリ   上ユウバリ, 十五リ 下ユウバリ 十六リ   シマウフ 廿三リ 上カバタ 廿一リ   下カバタ 九リ シノロ 七十,『路程全図』に位置づけられた十二場所をみると、いずれもイシカリ川沿いにあり、川口に一番近いのが下サッポロ,その上流に下ユウハリからトタヒラまでの六場所が所在すると考えたようだから、千歳越ルートの解釈とともに、,情報内容は対外関係が中心で、加えて一円上地にともなう松前藩の動き、警衛着手のための下調べが当面のテーマ
新札幌市史 第1巻 通史1 (武四郎の新道構想)

この特命に応じた武四郎は、その調査の結果、以下のような策を上申しているのである(札幌越大新道申上書)。,をたどってマッカリを通り、羊蹄山と尻別岳の間を抜け、キモベツ川をさかのぼって現在の中山峠付近を越え、豊平川を下って,トイヒラを通過してツイシカリに達する。,ツイシカリよりは石狩川を川なりに遡上して、カムイコタン、チュウベツブトを経てアイベツ川に転じ、峠を越して,テシオ川を下り、さらにナヨロ川からサンル川をたどってホロナイ川上流に出て、そして北海岸(オホーツク沿岸
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロ大府への展望)

武四郎はイシカリの地域のあり方について、その『西蝦夷日誌』において以下のように論じている。,ツイシカリはイシカリより一〇里石狩川をさかのぼり、豊平川(旧サッポロ川)の石狩川への注ぎ口で、しばしば,しかしなおイシカリ地域の重要性を認識していた武四郎は、さらに「其辺を探索」し、ついに「ツイシカリ川(豊平川,)三里を上り、札縨・樋平(トヒヒラ)の辺りぞ大府を置の地なるべし」と確信し、なおそれをツイシカリの乙名
新札幌市史 第1巻 通史1 (十三場所の出産物)

表2は、文化六年の場合であるが、十三場所中金納が六場所、納入なしが二場所、品物で納めたのがハッサム、下ユウバリ,、上カバタ、下カバタの四場所であり、トクヒラについては、差荷物の内訳が示されていない。,鯡切込2斗入1樽、防風漬2樽、数子10貫目、身欠鯡2,500入1本 上サッポロ 差荷物(7両2分) 下サッポロ,差荷物(5両) シノロ 差荷物(5両2分) 上ツイシカリ 差荷物(2両) 下ツイシカリ 差荷物(金納,) 上ユウバリ 差荷物(なし) 下ユウバリ 干鮭3束、鮭鮓2斗入2樽、身欠4,800、魚油2斗入2樽、
新札幌市史 第1巻 通史1 (武藤勘蔵)

其たび/\に蚤の如き虫、股、膝頭の下、足の甲まで一面真黒にたかり、むさき事かぎりなし。,一行は、六年前の串原正峯らとほぼ同じルートを通っているが、宿泊はいずれも船中で、トイシカリ(ツイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (新漁場の割渡し)

31町)、ホリカモイ、ワッカオイ、モシンレフ、トウヤウシ、ハナンクル、ヒトヱ、トヱビリ、タンネヤウシ、ツイシカリ,、他 山田家 松前 浜中(8町)、ホリカモイ、ワッカオイ、上トウヤウシ、ハナンクル、ヒトヱ、ツイシカリ,上の国 ゼニバコ サツポロフト 八右衛門 サツポロフトの内シノロ 七兵衛 箱館 オシヨロ 下ヘケレトッカ,三太郎 アサリ 下ヘケレトッカ 弥(五)右衛門 ヒツシツカ 上へケレトツカ 安政5年のみか?,安政5年勝右衛門引場 鶴蔵 箱館七重浜 フシコヘツ 近郎 トウヤウシ 市助 イワナイ ツイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (第三回訴願と収拾)

そこで、惣乙名シリコノエは、三度目の訴願を今度は松前藩の支配の下ですることとなった。  ,以上のような内容の、いわば「覚書」を上ツイシカリ惣乙名シリコノエ、小使サエラフニとそれにユウフツ惣乙名,解決の糸口をみてみるならば、上ツイシカリの惣乙名シレマウカの妻が千歳出身であり、老女となって一人残されているものを
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

イシカリ場所の人別帳の内容は、イシカリからはじまって、ハツシヤフ、下サツホロ、上サツホロ、上ツイシカリ,、下ツイシカリ、上カハタ、下カハタ、上ユウハリ、下ユウハリ、シマヽフ、シノロ、ナイホウの順に、各場所の,たとえば、下ユウハリのイコレキについてでは、「トミハセ父也 元ウラシナイ 今トミハセ家也」とあるのがそれである
新札幌市史 第1巻 通史1 (井上貫流一行)

イシカリ・ユウフツ間全部の日記を紹介することは非常に長くなるので割愛するが、ツイシカリ、エベツブト付近,のみせしめなれハ右の荷物を不残川へ打込みすへしと各いかり侍れハ、舟頭ともひれふし手を合せ何卒御免なし下されと,(後略)  一行は、先発隊三人で八月二十六日にイシカリを立ち、ツイシカリに到着したが、前年田草川伝次郎,ツイシカリの乙名の家では、米を焚いてアイヌにも分け与えたりして昼食をとり、逆にコクワの実をご馳走になったりしている,「チフ」までの二里半は歩行し、「チフ」からユウフツまで五里は舟で下っている。
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム巡検)

巡検後、ハッサム・イシカリ川を下り、イシカリに到着する。,翌二十八日にハッサムに入り、再び地所見分した後、ハッサム川を下ってイシカリ川に出、そこから上流をさかのぼり,ツイシカリにて宿泊している。,二十九日はまたイシカリ川を下ってイシカリに戻っている。
新札幌市史 第1巻 通史1 (磯谷則吉)

シロツ(ママ)川を下ル。早き事矢のことし。壱里半計にしてオサツトウに至る。周廻凡五里計もあるへし。,思ひきや蝦夷の旅の五月やみあやめも    しらぬうらきねせんニハ 五日夜の明日を待て船を下す。,ちょうどこの時期に、サッポロ川本流の流れがツイシカリ川へ切り替わっていることも考え合わせると、トヨヒラ,道沿道状況 地名 アイヌ戸数 会所・番屋・支配人等 交通・地理的状況 勇武津 7~8戸 会所詰合河西祐助以下3,小流合す シマヽツプ あり 小流合す、シコツ川に途中ユウバリ川合流、5~6里 上流にユウバリ ツイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (玉虫左太夫『入北記』(カラフトへ向かう))

小使 イハンケ  下ツイシカリ 乙名 ルヒヤンケ         小使 イカシトノト  上カハタ,、大川ヘ出テ屋形船乗リ移リ四里半余モ溯リ、ツイシカリ迄至ラレテ投宿ス)。,ツイシカリヨリユウフツ迄二十一里余ト云フ。  ,夫ヨリ前路ヘ戻リ、又ツイシカリヘ来リ(番屋ニテ)午飯ヲ喫ス。,代タリキン 上ツイシカリ 同 イクウクアヱノ 下ツイシカリ 乙名 ルヒヤンケ 代イコリキナ 上カハタ
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所請負へ)

さらに同四年には、同二年に山請負の権利が一時飛驒屋にもどった時の貸付金、すなわち幕府払下米代一三〇〇両,ところで飛驒屋は、イシカリ山請負のかたわら、イシカリの夏商の下請を行っていた形跡がある。,支配人 1 松前 伝蔵 上ユウバリ 20両 上々〓3束、上油3樽、あつし5枚、大くし貝 大黒屋 2 下国,26 油2樽、〓3束、くし貝3束、たら4束、身欠5,000本、あつし5枚 11 松崎 多門 下ツイシカリ,24 油2樽、あつし大10枚、〓2束、干鱈2束、くし貝5束 12 松前 藤兵衛 上ツイシカリ 20
新札幌市史 第1巻 通史1 (村垣範正の廻浦)

村垣範正はこの後、二十七日に千歳川を下り、その夜はツイシカリの通行屋に宿泊し、翌二十八日にイシカリ・ハッサム
新札幌市史 第1巻 通史1 (夷境の一都会)

北海道大学附属図書館蔵  これらの史料によると、一行がイシカリに向け千歳の宿を出立するのは七月六日、丸木舟で千歳川を下り,イシカリ川に出て、この日はツイシカリに泊まる。,翌七日は雨の中イシカリ川を下って浜に着き、一泊して翌八日にアツタへ向け出立する。
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム番所)

③ 発寒川より(ママ)茨戸より石狩川を下る。,⑤ 亀谷は下駄をはきて熊狩し、常に熊・狼・鷲等を打ち取りたり。其皮は石狩へ送りたりといふ。  ,さらに第五には、アイヌの「撫育」もあり、ハッサム・サッポロ・ツイシカリのアイヌが管轄範囲で、人別帳もここを,ハッサム詰の森下梅吉は慶応四(明治元)年十月十三日に、大友亀太郎(織之助)へ農夫が鮭を捕獲することに、,後任のうちの一人がさきの森下梅吉であろう。
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ支配の構造)

 ウシヤレンカ 脇 ホロヘンケ 小 ルンメ 乙 イカエテノ(56歳) 小 カ子クシ(57歳) 下サッポロ,イツトセ 脇 ケミアント 小 シヤヒセ 乙 イシレミユ(57歳) 小 イシヨラニ(33歳) 上ツイシカリ,シレマウカ 脇 レハカシ 小 ウエトカン 乙 イクヲカアエノ(34歳) 小 イハンケ(38歳) 下ツイシカリ,カンヘイ 脇 エカリアイノ 小 マウカクシ 乙 セツカウシ(27歳) 小 イエラムテ(45歳) 下カバタ,その内容は、幕府直轄時代のそれと同様であったらしいが、時代が下るにしたがって次第に、御用状・人馬継立、
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロの検分)

『水戸藩御規式帳』(万延元年)の御用部屋留附の項に「列、下勘」とあるから、列座、勘定方下役だったのだろう,ツイシカリからエベツブトにかけてのこうした調査は、箱館奉行の思惑と示唆が背後にあったと思われる。  ,水戸の到着日は明らかでないが、十一月下旬にはもどり、直ちに復命がなされた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所運営の手抜き)

また、箱館奉行所雇松浦武四郎は上川からの帰途ツイシカリ通行屋に一泊を申し出たが、元小家から連絡がないので,やむなく武四郎は近くのアイヌから夕食用の魚を恵んでもらい、下流のヒトエ小休所まで下って泊った。
新札幌市史 第2巻 通史2 (兵部省支配の変転)

公私之為無此上事と相考、後来之為にも訖度手本を相残し置度儀と尽力も仕候」、それ故「決て開拓にて十分手を下し,の兵部省支配の外に、九月五日付をもって太政官は、石狩国の内の浜益郡・厚田郡(忍路コッ)・札幌郡の内(ツイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1 (玉虫左太夫)

文政六年(一八二三)玉虫伸茂の五男として生まれた左太夫は弘化三年(一八四六)江戸へ出奔、縁あって林大学頭の下僕,まず場所請負制下でアイヌがどのような状態におかれているか具体例をあげて堀奉行に上申した。,ツイシカリ─エベツ方面の洪水防止と湿地改良のため千歳川へ排水路を掘り、イシカリ川の分水路を開削し築堤を
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