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新札幌市史 第1巻 通史1
(中期)
中
期 およそ四万五〇〇〇年前から三万年前の時期をあてた。,この扇状地礫層の下底に泥炭層がみられるが、これは扇状地礫層の堆積前、つまり、前期の終末か
中
期の初頭には,古豊平
川
の沖積平野の一部は低湿帯として、そこに泥炭を形成していたと考えられる。,当時の札幌扇状地(市内
中
央部)は海におおわれた形跡はないが、海の上昇に対応し河
川
勾配が緩やかになったので,そして火山の
中
心部には大きな陥没地帯(現支笏湖)が形成されたり、周辺地域には新しい軽石流の台地が生まれた /
中
期
新札幌市史 第2巻 通史2
(新川開削)
新
川
開削 島判官が銭函への途
中
で歌棄で佐々木弥吉に黒松内山道の仕込みをさせていること、余市越山道などの,見積りをしていること、雪
中
に銭函道の整備をしていることなどは、本府建設のための準備事業として、本府建設前,それによるとすでに一里余ができ、九月
中
に竣工の予定であった。,三年
中
、この新
川
は、本府地から現在の麻生の北部で琴似
川
と合流する辺までが開削された。,四年
中
にはこの新
川
開削は行われなかったようである。 / 新
川
開削
新札幌市史 第3巻 通史3
(中正会)
中
正会 選挙にあたっては、まず
中
正会が名乗りをあげた。,
中
正会は「会員相互の交誼を厚ふし札幌区に起る総ての公共問題は
中
正不偏に之を解決し努めて一区の発展を図り,出来得る限りの至情を表する」(北タイ 明39・1・28)ことを目的に、祭典区第十区(大通以北線路内創成
川
以西各町,
中
正会では、満場一致で議員の予選を行うことが決議された(北タイ 明40・2・5)。,ところが、
中
正会に対抗して候補者を出す団体が後を絶たなかったため、選挙戦は激しいものとなった。 /
中
正会
新札幌市史 第1巻 通史1
(テシオ川からイシカリ川へ)
『近藤重蔵遺書』の
中
にある『天塩
川
筋図』および『石狩
川
筋図』が、この時の麤(そ)図にあたるものと思われる,『天塩
川
筋図』は、十月二日の「
川
ノ惣名テシウ」に始まり、十月十日の「ノカナン」にいたるテシオ
川
の支流、,
中
洲、両岸の状況、集落等を記している。,続く『石狩
川
筋図』の方は、テシオ
川
からシオカリ峠を越えてイシカリ
川
へ出てからで、十月十二日の「タナシ山高凡十丈,深山幽谷数十里ノ間、是迄人跡無之処へ雪野ニ宿り山越仕、アムタレト申大難所ニテ破船覆溺ニ及ヒ、御朱印迄モ水
中
ニ / テシオ
川
からイシカリ
川
へ
新札幌市史 第3巻 通史3
(軽川市街)
軽
川
市街 軽
川
市街は札幌、小樽の
中
間に位置し、石狩へ連絡する交通の要衝に当たっていた。,明治十三年十一月に開通した幌内鉄道に軽
川
停車場が十四年十一月に置かれて以来、小市街が形成され、さらに二十一年,『札幌郡調』はこの軽
川
市街の三十四年頃の状況につき、以下のように記述している。,日露戦争後の不況の
中
での市街再建は困難が多かったようであるが、漸次旧観に倍するまでのめざましい復興を遂,村役場、小学校、郵便局、巡査駐在所、医院、其他北海道造林株式会社、神社、寺院等ハ市街
中
ニ散在…… / 軽
川
市街
新札幌市史 第1巻 通史1
(蝦中の要喉)
蝦
中
の要喉 翌四年、第二次の調査が行われる。,このあと千歳越をし箱館出帆が八月十九日、途
中
シラオイで藩主の訃報に接し、急ぎ十月二日江戸にもどった。,弘化元年(一八四四)水戸藩主徳
川
斉昭が謹慎を命じられると、石
川
は主君と斉昭や水戸藩改革派の間にたって、,突然の処分が、阿部老
中
による斉昭の蝦夷地内願危険視からという流言を、石
川
の誠意で打ち消し、彼自身も蝦夷地,その
中
で、イシカリ・サッポロを〝蝦
中
ノ要喉〟と見なし、「海警ヲ初メ都テノ鎮圧都府タルヘキ形勢」と判断、 / 蝦
中
の要喉
新札幌市史 第2巻 通史2
(年中行事)
ほか 円山・鴨々
川
河畔遊散 下旬 博物館開館 下旬 5 灌仏会 旧暦四月八日 各寺院 円山の花見 上旬,・秋葉・豊
川
神社例祭 はじめ九月に金毘羅祭が行われていたが七月となる 露店・手踊 豊平神社祭典 十四・,十六日丁稚藪入 芝居・見世物繁盛 成田山境内盆踊 月寒村祭典 十五日 花相撲・競馬 水天宮祭 十五・十六日 鴨
川
神社例祭,もとは九月に金毘羅祭が行われていたが、
中
央寺境内の金毘羅、秋葉、豊
川
神社三社の例祭として七月に行うようになった,十二月も
中
旬頃より、そろそろ正月の飾りものの歳の市が創成
川
河畔に立ち並んだ。 / 年
中
行事
新札幌市史 第1巻 通史1
(田草川伝次郎)
(十月十日) 一 朝五時頃イシカリ出船
川
筋上る。船
中
にて昼弁当。トウベツより少し行日暮。,(
中
略) 一 イシカリ
川
筋左右山不見一円平地林木茂り
川
岸
川
柳一円有之。折々鮭漁小屋あり。,但船
中
にて昼食は致す。夜食は焚所無之に付不食。,此
川
筋左右とも石狩
川
同断。両
川
とも
川
中
立木流還り所々有之舟路六ケ敷。 但ブトは
川
尻之事也。,猶石狩
川
筋之ごとくなる由支配人申聞之。 (
中
略) 一 蝦夷惣人数千三百人程。 / 田草
川
伝次郎
新札幌市史 第5巻 通史5下
(中小規模企業)
中
小規模企業 表25の資本金三〇〇〇万円以上一億円未満企業三八社を
中
規模、資本金三〇〇〇万円未満企業四六社,札幌市内の主な工事は、豊平
川
東排水白石第八地下水道(四十七年)、羊ヶ丘通路盤改良(四十八年)、伏籠
川
改修,、円山動物園類人猿舎、北辰
中
学校 73
川
口建設 1,800 663,162 350 0.0 札幌地下街,ハイツ分譲マンション 80 保木建設 1,500 718,644 25,598 21.0 もみじ台南
中
部
中
学校体育館,93 安藤建設 1,000 430,730 7,364 26.0
川
下
中
学校体育館、レストランビーバー /
中
小規模企業
新札幌市史 第2巻 通史2
(豊平川の堤防)
豊平
川
の堤防 明治六年春の融雪期、雪解けに加えての霖雨で豊平
川
が増水し、四月十六日鴨々
川
水門が破損して,この時は夜
中
までの人足や官吏の働きで大事には至らなかった。,豊平
川
に関する水防工事は、四年の豊平
川
の水防棚も鴨々
川
水門もすでに「重修」(開拓使事業報告)とあるから,さらに松本は、
川
の
中
に杭を打って漁をする立ち張り網のために水防工事が水泡に帰すことをおそれて、立ち張り,その後十年、十四年の豊平
川
の堤防工事を
中
心に札幌の水防工事は進められた。 / 豊平
川
の堤防
新札幌市史 第1巻 通史1
(中嶋村の成立)
中
嶋村の成立 荒井村に比して、
中
嶋村の性格は明確である。,すなわちイシカリ在住として安政四年ホシオキに入地した
中
嶋彦左衛門は、万延元年コトニ
川
支流のケネシベツ
川
流域,(コトニ開発場)に移り、おそらく同年
中
に荒井村の南方、明治以降五ノ戸(ごのへ)と呼ばれた地に入地した。 /
中
嶋村の成立
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇発寒川扇状地)
◇発寒
川
扇状地 手稲山の南東を流れる発寒
川
は、小規模ながら豊平
川
と同様の扇状地を作り出している。,その成立は、豊平
川
のそれより古く安定し豊平
川
扇状地(いわゆる札幌面)にはない縄文時代前期の遺跡が六カ所程確認,発寒
川
の支流である
中
の
川
の流域が主体となる。 / ◇発寒
川
扇状地
新札幌市史 第2巻 通史2
(神輿の市中渡御)
神輿の市
中
渡御 遙拝所建設の許可を得た十一年六月に、神道事務局完成と併せて神輿(みこし)の市
中
渡御が,」申出もありという理由で、例祭終了後の遙拝所を
中
心とした市
中
渡御を願い出、費用は「悉皆人民ヨリ差出義ニ,すなわち石
川
正蔵の『公私諸向日誌簿』によれば、石
川
は十五、十六年に世話係(惣代)を勤めているが、十五年,は石
川
のほか工藤(梅次郎)、池田(新七)、亀田(平三郎)、刀根(孫四郎)の五人で、寄付金の募集その他の,以上、社地の市
中
移転、遙拝所の市
中
建設、神輿の区
中
渡御の一連の動向をみると、市
中
移転願は祭祀・参詣の不便 / 神輿の市
中
渡御
新札幌市史 第1巻 通史1
(音江別川期)
音江別
川
期 気候は徐々に温暖化し、それにともなって海水面も上昇してきた。,音江別
川
期のはじまりである。それはおよそ四〇万年前のことである。 ,早来層からも音江別
川
層と同じような構成の貝化石群が見いだされている。,しかし、伊達山層からは
中
鹹水―高鹹水域を好むヤマトシジミしか発見されていない。,だが、音江別
川
期も末期になると、次第に寒さを増してくる。 / 音江別
川
期
新札幌市史 第1巻 通史1
(前・中期更新世)
前・
中
期更新世 人類の起源は三〇〇万年前とか、四〇〇万年前とかいわれているが、「ひと」としての活動が,そこで、ここでは、地質や地形の特性を考慮して、一応、南を広島町の音江別
川
、西を野津幌
川
で境される、標高一二,野幌丘陵の更新世の地層は、下位(古いもの)から順に、裏の沢層・下野幌層・音江別
川
層・竹山礫層・もみじ台層,これらのうち、本章で取り上げる前期―
中
期更新世の地層は裏の沢層から竹山礫層までであり、野幌丘陵の土台を, 竹山礫層 風化の進んだ礫層 音江別
川
層 砂・シルト・砂礫層が主なもの。 / 前・
中
期更新世
新札幌市史 第1巻 通史1
(皆川周太夫)
皆
川
周太夫らは、寛政十二年八月十九日ユウフツを出発、九月十三日にトカチ
川
口オオツナイに入り、その
川
筋上流,さらに隣のムカワ
川
筋を見分して、二十八日ユウフツよりシコツ越えしてイシカリ領サッポロに出、サッポロ
川
川
筋,サル
川
口に進み、その
川
を遡ってトカチ
川
上流に出てトカチ
川
口に抜けるといった、全長一二〇里にもおよぶ道路開削,依て此
川
より石狩
川
を為登山越ニて戸勝
川
え牛馬ニて運送仕、戸勝
川
を海岸え下ケ候はゞシコツ通ヨリも里数も近,(郷土資料 今井村上氷鉋村
中
氷鉋村塩崎村五千石領主松平信濃守忠明ニ関スル文書) このように、皆
川
計画 / 皆
川
周太夫
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ川の地図)
この図版・写真等は、著作権の保護期間
中
であるか、著作権の確認が済んでいないため掲載しておりません。 ,
川
へ流れ込んだ場所がツイシカリ
川
の
中
流域の支流「ヌフルテツ」(ヌプロチペ=現野津幌
川
)および「フシコベツ,この図版・写真等は、著作権の保護期間
中
であるか、著作権の確認が済んでいないため掲載しておりません。 ,ほど精密ではないが、サッポロ
川
が「トイヒラ」の少し下流で二つに分流し、途
中
アシシヘツ
川
と合流してツイシカリ,その時の往復日記である『陸奥日記』や、道
中
の名勝旧跡や目に触れた珍しい風物等を絵で添えた『模地数里』によれば / イシカリ
川
の地図
新札幌市史 第1巻 通史1
(旧琴似川の遺跡群)
旧琴似
川
の遺跡群 札幌市内においても旧琴似
川
流域で、擦文時代の竪穴住居跡が集
中
してみつかっている。,、円山・宮の森方面の山から流れてくる河
川
(ケネウシペツ
川
など)を現在の
中
央競馬場北側付近であわせ、札幌北高等学校付近,をへて、麻生町にいたり、篠路町でフシコサッポロ
川
に合流していた河
川
である。,また、旧琴似
川
の上流部にあたる札幌扇状地上(標高二五~三〇メートル)、真駒内から藤野にかけての豊平
川
の,図-1 旧琴似
川
流域の竪穴住居跡分布図 それでは、今までに発掘調査された遺跡を
中
心に札幌市内の / 旧琴似
川
の遺跡群
新札幌市史 第5巻 通史5上
(広がりの中で)
広がりの
中
で 社会との接点では、市民に対するキリスト教の影響として戦後のキリスト教主義学校の存在も見逃,当初は小
中
学校を開設、のちに高等学校を加えた。,この一端が市の
中
心部に起こった会堂をめぐる景観の変化である。,大通公園・北一条通と創成
川
が交差する市の
中
心部には、明治三十年代後半から昭和初期(一九〇〇年代後半~一九三,いずれも大通・創成
川
に面し独特の画題となっていた光景であったが、姿を消した。 / 広がりの
中
で
新札幌市史 第2巻 通史2
(市中の商い惣高調)
市
中
の商い惣高調 明治五年十月の戸口調査に次いで、翌六年一月から六月十五日までの市
中
商い高調べが行われた,しかし木村万平、伊坂市郎右衛門、宮辺長七、木村伝六、石
川
正蔵そして建築請負の水原寅蔵らの売上については,貸座敷業では、連之助が一二八八円三〇銭、
中
川
良助が四二三二円五七銭、田
中
重兵衛が七五四円五五銭を売上げている,藤田らは小
川
の名儀で旅籠を営み、一二七円六〇銭の売上があった。,建築請負人では、
中
川
源左衛門は四二七一円一九銭、福原亀吉は一二三〇円、大岡助右衛門は五〇〇〇円、土木請負 / 市
中
の商い惣高調
新札幌市史 第3巻 通史3
(石狩川最下流域の農業)
石狩
川
最下流域の農業 一般に大河
川
の最下流部は、河
川
の氾濫をコントロールする治水技術が未熟であったために,北上
川
でも信濃
川
でも、最下流部の農業地帯としての安定化は、治水が完備され水田開発が進む昭和期に入ってからなのである,札幌の農業も石狩
川
の最下流域に展開したわけであるから、石狩
川
の上・
中
流域のように水田開発
中
心の方向を採,屯田兵制度をもとに山鼻や琴似、新琴似、篠路の開発が進んでくるが、当然そこでの農業形態は畑作生産を
中
心に / 石狩
川
最下流域の農業
新札幌市史 第4巻 通史4
(中正会と東方和合会)
中
正会は第十祭典区(大通以北鉄道以南、創成
川
以西)を地区とし会の目的は、 会員相互の交誼を厚ふし、札幌区,に起る総ての公共問題は
中
正不偏に之を解決し努めて一〔十カ〕区の発展を図り、且会員
中
天災若くは疾病其他の,これらをもとに戦後、地区・住民活動の核となる
中
心母体として
中
正会も創設されたとみられる。,同会は創成
川
以東の祭典第七区を地区とし、初見は明治四十五年であるが、「古くより……一勢力を形造り区政其他,日露戦争が開戦となった明治三十八年二月に創成
川
以東各町の婦人たちにより、出征軍人遺家族救護の目的で東方婦人講 /
中
正会と東方和合会
新札幌市史 第2巻 通史2
(下手稲村と軽川の発展)
移され、三カ村の行政の
中
心地となった。,下手稲村の
中
でも軽
川
(手稲区本町)は、十四年十月二十五日に幌内鉄道の簡易停車場が設置され、市街地の形成,三十一年に軽
川
に郵便局の設置を求めた陳情文によると、「軽
川
地方の住民は農業家のみにあらずして、全く諸種,の住民多く」、「石狩港並に附近の村落は、冬春積雪の候は凡て物貨は我が軽
川
に運送し来り」、軽
川
には戸数二八一戸,を
中
心とした下手稲村は大きな発展をむかえていった。 / 下手稲村と軽
川
の発展
新札幌市史 第1巻 通史1
(ハッサム川の利用)
なお、小休所・番屋はハッサム
川
(現琴似発寒
川
)のそばに建てられたが、このハッサム
川
はイシカリに向かう舟運,前者の時、玉虫左太夫はハッサム
川
の船運に関して、「此度通行セシニ大木縦横ニ倒レ
川
道ヲ塞グ、……能ク是ヲ,事実、ハッサム
川
の
川
さらいは実施され、このことは、松浦武四郎「丁巳日誌」にも記載されている。,文久二年(一八六二)に記された、今井宣徳『蝦夷客
中
日記』には、「此所(ハッサム)在住五軒あり、諸荷物運漕,は皆此
川
(ハッサム
川
)を登すと云」とあり、ハッサム
川
の利用がさかんに行われ、在住地への物資の輸送に便宜 / ハッサム
川
の利用
新札幌市史 第1巻 通史1
(中期の土器)
中
期の土器 縄文時代
中
期は、前期からひき続いて温暖な気候のもとに安定した生活が展開された。,道央部の石狩低地帯を
中
心としては、円筒上層式土器に後続する余市式土器が分布する。,文様は口縁部に集
中
し、押し引き文や刺突文、沈線文などが多い。,そのほか
中
期の前半から
中
葉にかけて、神居式、多寄式、シュブノツナイ式など平底で押型文を特徴とする土器が,、上
川
を
中
心とする道央から道北地方に分布するが、その文化内容はまだよくわかっていない。 /
中
期の土器
新札幌市史 第1巻 通史1
(豊平川扇状地の遺跡)
豊平
川
扇状地の遺跡 縄文時代前期の土器が発見される遺跡も平岸地区(豊平
川
扇状地のいわゆる平岸面を含む,)を
中
心に、三カ所確認されている。 / 豊平
川
扇状地の遺跡
新札幌市史 第1巻 通史1
(徳川斉昭の内願)
徳
川
斉昭の内願 老
中
家臣にとどまらず、多くの藩が蝦夷地に関心をそそぎ始めた。,本節はそうした動向の
中
で、イシカリ・サッポロがどのようにとらえられていったかを、まず水戸藩の場合からうかがうことにする,九代水戸藩主徳
川
斉昭は弘化元年(一八四四)幕府から藩主の退任と謹慎を命じられ、その座を一三歳の子に譲るが,斉昭にいわせると水戸藩は奥州羽州の押(おさ)えとして、徳
川
家康から位置づけられ、蝦夷地が水戸藩の領地になることは,しかし、阿部老
中
は斉昭との協調の絆をたたぬよう配慮し、箱館奉行の設置や人選、蝦夷地の警衛見込等について / 徳
川
斉昭の内願
新札幌市史 第1巻 通史1
(本海道(中央大道)の設定)
本海道(
中
央大道)の設定 幕府の第二次直轄をうけ、蝦夷地の開発と経営のために、新道の切開と整備が計画,その最初のプランが提示されたのは、安政二年(一八五四)四月十一日で、箱館奉行の堀利熙から老
中
へ提出された,それによると、箱館──鷲ノ木──オシャマンベ──ユウフツ──チトセ
川
──イシカリ
川
──テシオ
川
──エサシ,──アバシリをたどる、「本海道(
中
央大道)」の設定を具申している。 / 本海道(
中
央大道)の設定
新札幌市史 第4巻 通史4
(日中戦争下の美術)
海軍協会 昭13. 6.23~27 三越 在満郷軍慰問献画展 昭13.6.29~7.2 三越 長谷
川
三雄従軍戦蹟展,陸軍美術展 北海道新聞,陸軍美術協会 昭19. 8.10~20 丸井 陸軍少年兵召募ポスター展示会 旭
川
師団,ここでは洋画は向井潤吉「甦民」、小磯良平「南京
中
華門の戦闘」など、日本画では小早
川
秋聲「日本刀」などが,また北海道美術報国会旭
川
支部および旭
川
師団報道部がすすめた「撃ちてし止まむ」聖戦美術展覧会に能勢は、十八年,旭
川
師団では画題を提供するために実戦さながらの戦闘演習を実施した。 / 日
中
戦争下の美術
新札幌市史 第1巻 通史1
(徳川家康の黒印状)
徳
川
家康の黒印状 慶広は秀吉の死亡した翌年の慶長四年(一五九九)十一月七日、時に氏を松前と改め、大坂,写真-1 徳
川
家康の黒印状(北海道史 第一) 定 一 自諸国松前へ出入之者共、志摩守不相断而,における船役徴収権を前提としながら、さらに和人のアイヌとの直売買を禁じている点、松前藩の商場知行制の進む
中
での / 徳
川
家康の黒印状
新札幌市史 第2巻 通史2
(市中商業地の景況)
市
中
商業地の景況 [注: 文
中
の屋号は、〓で表示されています。,5年
中
の所有者名は『地価創定請書』と大村耕太郎資料『戸籍番号帳 全』、職業は『市
中
商惣高』により推定した,それで芝居小屋は借金のために石
川
正蔵の手に渡った。石
川
は一時安津満座として経営した。,創成
川
を挟んで東二、三丁目通が交通の主流になっていた。,しかも開拓使工作所の南地区には、南一、二条東三丁目に請負人
中
川
源左衛門の作業場、南四条西一丁目に請負人大岡助右衛門 / 市
中
商業地の景況
新札幌市史 第2巻 通史2
(住民構成(市中と村))
これからすると、市
中
と村を合わせた現在の札幌市域の人口が三〇〇〇人に達したのは、五年
中
のようである。,たとえば市
中
へは、本府下で商業活動を行う商人や本府作りに欠かせない土木工事関係者や諸職人等を入れ、一方市
中
,開墾掛が作成した四年三月から六月にかけて札幌市
中
へ移住した移民の戸籍簿というべきものに『市
中
人別申出綴,一方道外では、秋田、青森、新潟、岩手、石
川
、富山、福井といったごとく東北と北陸地方に集
中
していることがわかる,その他 *19 小 計 57 道外 秋田 14 青森 13 新潟 13 岩手 7 石
川
5 富山 5 / 住民構成(市
中
と村)
新札幌市史 第1巻 通史1
(古豊平川にまつわる泥炭地)
古豊平
川
にまつわる泥炭地 古豊平
川
の氾らん原堆積物をおおっていくつかの小規模な泥炭地が発達している。,条東一六丁目までの幅〇・六~一キロメートルの範囲、②北区北二三条西五丁目から東区北四九条東一〇丁目を結ぶ線を
中
心,とした幅〇・八~一キロメートルの範囲、③
中
央区桑園駅西側付近から武蔵女子短大付近までの幅〇・五キロメートル,しばしば砂土や流木などをはさみ、河
川
の氾らんをこうむった状況がみられる。 / 古豊平
川
にまつわる泥炭地
新札幌市史 第1巻 通史1
(長谷川儀三郎の役割)
長谷
川
儀三郎の役割 ここで長谷
川
儀三郎の役割が、改めて注目されてくる。,この
中
の一つが、イシカリ場所に関することではないかと推測される。,異例と思われる程の長期滞在で、これも長谷
川
儀三郎や、同じくスッツ詰であった下役の岡田錠次郎らに、イシカリ,範正のサイドに立ったのが長谷
川
儀三郎で、範正は三月十二日にも儀三郎とオシャマンベで会い、ここでも「石狩之義 / 長谷
川
儀三郎の役割
新札幌市史 第5巻 通史5下
(中央卸売市場の動向)
中
央卸売市場の動向 昭和四十年の札幌市の人口を五八万人と推定して開設された
中
央卸売市場は、その後の人口増加,実際に
中
央卸売市場取扱状況をみても、表20が示すとおり、少なくとも五十年代なかばまでは青果物、水産物ともに,これについては札幌市内だけでなく地方、すなわち余市、小樽、室蘭、苫小牧、芦別、赤平、旭
川
、留萌などへ分荷,に依存していた(札幌
中
央卸売市場二十五年史・水産編 昭61)。,また将来の取扱量の増大を見越し、四十七年には豊平
川
以東一円を供給区域とする東部市場の建設計画がたてられ /
中
央卸売市場の動向
新札幌市史 第1巻 通史1
(松浦武四郎のイシカリ川筋探検)
五月
中
旬にソウヤに到着、それよりカラフトに渡り、七月十九日ソウヤに帰着した。,河口を出発してから、
川
筋に沿って遡る途
中
の自然景観やアイヌの人家の有無等は、表9のとおりである。,ワッカヲイ 水
中
朽木の根幹多い。春より夏にかけてアイヌに朽木等取らす。 テン子ン 蘆芦多し。蘆に洲をなし,途
中
流れ込んだユウバリ
川
は、出水により流木が多く、硫黄の気が多かった。,明けて八月二十二日、千歳よりビビまでは山
中
を歩行し、ビビよりは小船で
川
を下り、ユウフツの運上屋に到着している / 松浦武四郎のイシカリ
川
筋探検
新札幌市史 第5巻 通史5下
(医療従事者の集中と社会問題)
医療従事者の集
中
と社会問題 厚生省の「昭和六十年までに最小限人口一〇万対一五〇人の医師を確保」(昭45,その結果、表24に示したように、都市化による人口集
中
が著しい札幌市内の医師数は、常勤、非常勤を合計して,平成八年末の北海道は一八七・〇人だが、札幌市は二五七・八人、旭
川
市は、昭和四十八年の「無医大県」解消政策,による国立旭
川
医科大学の開設が反映して道内最高の三〇三・二人となった。,八年末の道内医師の施設従事者総数は一万二七九人でそのうち、札幌の医師四三八一人(四三パーセント)、旭
川
市一 / 医療従事者の集
中
と社会問題
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌本府建設の中止方針)
札幌本府建設の
中
止方針 岩村は札幌着任後の執務の方針として東久世長官へ数項目について書き送っている。,ほかに官禄の相場のことと地域による割増のこと等々である(三年三月二十六日付東久世長官宛岩村判官書簡 犀
川
会資料,(同前) 今まではこの二条をもとに、島判官の計画は
中
止されて、この三年
中
は継続事業だけが細々と続けられたということになっている,しかし実態は後述の通り、三年
中
も島判官の計画に沿って新規の建設事業が進められた。,むしろ当然のことだが、官舎役宅の建設などの土木工事は、雪
中
の島判官在任
中
より多く行われている。 / 札幌本府建設の
中
止方針
新札幌市史 第1巻 通史1
(中田儀右衛門・福玉仙吉ほか)
中
田儀右衛門・福玉仙吉ほか 一般に上手稲村の祖とされている
中
田儀右衛門は、岩手郡薮
川
村の出身で、万延元年,しかし、『地価創定請書』(明治十一年)によれば、
中
田への現住土地の割渡しは宅地・耕地とも慶応三年となっている,すなわち
中
田は慶応三年以降移動していないことになる。,これはたとえば明治五年二月に手稲村設置に関連する文書で、のちの上手稲村辺りを「発寒村貫属(旧片倉家家
中
),さらに江戸深
川
の出で、島義勇の従者となって島と共に札幌入りしたと記されていることの多い福玉仙吉は、明治元年三月 /
中
田儀右衛門・福玉仙吉ほか
新札幌市史 第2巻 通史2
(市中移転問題と遙拝所の建立)
市
中
移転問題と遙拝所の建立 九年九月、大貫宮司は開拓使あて、神官通勤・一般参詣の困難等を理由に、「社地,ヲ当市
中
適宜ノ場所へ換移シ、壮麗ナル社殿を建築」することを願い、計費については円山村往還から社頭までの,雪
中
は遙拝殿で祭典を行いたい等と申し出た。 ,の
中
川
源左衛門の寄贈をうけて現在の頓宮の地(
中
央区南二条東三丁目)に完成した。,区民の
中
にこのような動きのあったことを示すものといえよう。 / 市
中
移転問題と遙拝所の建立
新札幌市史 第2巻 通史2
(農産の中心・札幌)
農産の
中
心・札幌 『開拓使事業報告』第三編(物産―陸産)は、札幌郡の農事起源等を紹介して次のように記,記事
中
の開墾年代等には考証の余地はあるが、諸村農事の輪郭はわかる。,その
中
で起源をみると、琴似、発寒、下手稲、篠路の各村はイシカリ在住制に基づき、札幌村は御手作場制によって,その自然条件をみても、比較的高燥の地(月寒、上手稲)、いちぢるしい低湿地(篠路)、河
川
の沿岸(上白石),その
中
で旧開二村の
中
では札幌村が、新開村の
中
では円山村が相対的に安定した姿を示している。 / 農産の
中
心・札幌
新札幌市史 第1巻 通史1
(音江別川層の動・植物化石群)
音江別
川
層の動・植物化石群 音江別
川
層からは多量の貝化石や二、三の哺乳動物化石、植物遺体・花粉化石などが,哺乳動物化石は基底礫層と
中
部の砂層との二層準から発見された。 ,とされ、東洋ゾウとともに日本の
中
期更新世を代表する化石象である。,
中
部砂層の化石は野牛の頭蓋骨の一部と右角の化石である。,最上部のシルト層
中
の泥炭の花粉組成は、トウヒ属・モミ属が優勢で、前半に比較して寒冷になってきたことを示 / 音江別
川
層の動・植物化石群
新札幌市史 第5巻 通史5下
(市域の小・中学校配置の特徴)
の小学校数は一〇六校、
中
学校が四七校であった。,同年四月には、福岡・
川
崎市とともに政令指定都市になっており、日本有数の都市となっていた。,札幌の都市化に対応する小・
中
学校の配置の特徴は、次の三点である。 ,そのため、すでに三十年代後半から
中
心部において児童・生徒数の減少がはじまっており、
中
央区で小・
中
学校の,各学校ではPTAを
中
心に反対運動を起こし、市議会への陳情などを行った。 / 市域の小・
中
学校配置の特徴
新札幌市史 第5巻 通史5下
(五二中学区制への移行)
五二
中
学区制への移行 昭和五十六年七月、道教委は五十三年の改善案を白紙撤回する形で、新たな改革案を発表,これは学習指導要領が五十五年度
中
学入学生から改訂されたことも関係がある。,五十六年度当時、札幌市立定時制課程は、定時制のみの札幌星園高等学校と、新
川
、平岸、啓北商業におかれていた / 五二
中
学区制への移行
新札幌市史 第4巻 通史4
(「夜間中等学校」の開設)
」ことを目的として、札幌第二
中
学校内に開校した(菅原亮芳 昭和戦前期「夜間
中
学」史試論 1)。,服部の「夜学校附設論」は、大正十一年二月に開催された全道
中
等学校長会議での「家庭ノ事情ニ依リ
中
等学校ニ,入学シ得サル者ニ対シ
中
等教育ヲ受ケシムル方法如何」という諮問に対して、「地方ノ必要ニヨリテ夜間
中
等学校,男子部は札幌第二
中
学校をはじめとして、室蘭、釧路、小樽、函館、旭
川
、名寄の各
中
学校と根室商業学校に、また,昭和戦前期の札幌には
中
等学校程度の夜学校として、これらの二校に加えて、札幌遠友夜学校
中
等部(明27開校 / 「夜間
中
等学校」の開設
新札幌市史 第5巻 通史5上
(医療界の統制解除と札幌集中化)
医療界の統制解除と札幌集
中
化 敗戦後、医師の復員が始まると、市立札幌病院において北海道樺太官公立病院長会議,が開かれ、官公立病院への医師一カ所集
中
を防ぐため医師の適正配置を図った。,表36、表37は、十五年から四十七年の医療従事者の推移と道内他都市(函館市・小樽市・旭
川
市)との比較(,旭
川
市は人口増に比べ医師の増加率が低く下降傾向を示し、逆に函館市は医師の増加が人口増加率より良好にあり,表-37 医師数の札幌・函館・小樽・旭
川
・北海道比較 地域等 年 札幌市 函館市 小樽市 旭
川
市 / 医療界の統制解除と札幌集
中
化
新札幌市史 第5巻 通史5下
(中学校生徒数のピークから生徒数減へ)
六十二年三月開校の篠路西
中
学校と新
川
西
中
学校(六十二年四月現在の
中
学校配置と通学区域は図2の③のとおり,篠路
中
学校では平成元年に篠路西
中
学校が分離し、学級数は一六になったものの、翌年には二〇、さらに二三、二六,同年度の札幌市内において学級数が多かった
中
学校は、清田
中
学校、平岡
中
学校などの二七、厚別
中
学校の二八などであったが,そのため、七年三月に、あいの里東
中
学校が開校した(十一年十一月現在の
中
学校配置と通学区域は図2の④のとおり,また屯田地区の屯田
中
央
中
学校も、二年度から二四から二七学級で推移し、十六年度現在で二六学級である。 /
中
学校生徒数のピークから生徒数減へ
新札幌市史 第3巻 通史3
(北海道庁立第二札幌中学校の設立と「中等学校設立期成会」の活動)
北海道庁立第二札幌
中
学校の設立と「
中
等学校設立期成会」の活動 明治三十二年二月、「
中
学校令」
中
改正(,
中
学校の設置に関しては、「
中
学校令」
中
改正では「北海道及府県ニ於テハ土地ノ状況ニ応シ一箇以上ノ
中
学校ヲ,これは当時の北海道の
中
学校が、公立では札幌
中
学校(明28)のほかに、函館
中
学校(明28)、小樽
中
学校(,明35)、上
川
中
学校(明36)の三校、私立では北海
中
学校(明38)のみであったように学校数自体が少ないこともあって,それによると、札幌区には「庁立
中
学校以外私立北海
中
学校ありと雖も
中
等教育の機関未だ足れりとせず殊に
中
学校 / 北海道庁立第二札幌
中
学校の設立と「
中
等学校設立期成会」の活動
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇サクシュコトニ川遺跡(K三九遺跡、北区北一七条西一三丁目 図4))
遺跡で、旧琴似
川
の一支流のサクシュコトニ
川
沿いに立地する。,第一文化層からは、擦文
中
期後半から後期前半の大型甕、須恵器の大甕と焼土が一カ所みつかっている。,・壼、土製支脚、土製紡錘車、土製玉、土製羽口、金属製品、骨製銛先などの人工遺物と同時に、サケ科魚類を
中
心,この図版・写真等は、著作権の保護期間
中
であるか、 著作権の確認が済んでいないため掲載しておりません。,図-4 サクシュコトニ
川
遺跡遺構分布図(第Ⅱ文化層) / ◇サクシュコトニ
川
遺跡(K三九遺跡、北区北一七条西一三丁目 図4)
新札幌市史 第2巻 通史2
(工事請負人と諸職人の募集)
この
中
川
組は函館での開拓使の諸工事にもかかわっている。,
中
川
源左衛門は工事請負人として多くの大工などの職人を東京などで募集し、自分の配下である大岡助右衛門を
中
心,なお、『札幌区史』には
中
川
源左衛門の話をもとにして、西村権監事と共に函館から雪の
中
を旅して、途
中
野宿をして,しかし
中
川
組が四年
中
から札幌の建設に関係していたことは、
中
川
源左衛門が東京で大工職人等を募集している書類,工事の仕方は開拓使の書類から推測すると、
中
川
が諸工事を請け負い、その見積などは
中
川
で行い、その工事を諸職人
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