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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第3巻 通史3 (馬車・人力車・自転車)

馬車・人力車・自転車 馬車鉄道以外に主に市内の輸送にかかわる輸送機関は、馬車(冬は主に馬橇)、人力車,、自転車がある。,これらの特に人的輸送を行う乗物については、その安全性が重要視される。,そのため警察署では乗物の安全を図る目的で、それぞれの車体検査を年に何回か実施している(明治三十三年以降多数,写真-4 馬車・自転車・人力車(停車場通) / 馬車・人力車・自転車
新札幌市史 第3巻 通史3 (馬車(馬橇)と人力車)

馬車(馬橇)と人力車 明治三十九年には、馬車は乗用馬車三台、荷馬車一七三台、馬橇は乗用は不明だが、馬輓荷橇一五三台,、人力車一人乗二六四台、二人乗一〇七台、乗用人力橇一人乗二二五台、二人乗九五台であった(札幌区状態一班,大正十一年には、馬車は乗用馬車一九台、荷馬車七四一台、馬橇は乗用は五〇台、馬輓荷橇四九五台、人力荷橇五二五,〇台、一人乗人力車は四六六台、一人乗の乗用人力橇は四六六台である(札幌市統計一班 大12刊)。  ,馬車の馭者や人力車夫は、不正運賃請求で新聞記事となっている(例えば道毎日 明33・2・23)。 / 馬車(馬橇)と人力車
新札幌市史 第5巻 通史5下 (動力車札幌地本分裂と全動労の結成)

動力車札幌地本分裂と全動労の結成 戦後、特に総評傘下の労動組合内部では、国政レベルの選挙を中心に政党支持,昭和四十八年(一九七三)の暮れ、官公労交通ストの一翼を担ってきた動労(動力車労働組合)で、翌年に控えた,札幌地本の反本部派組合員は三月二十八日、札幌の北専会館で全国鉄動力車札幌地方労組(一九〇〇人)結成大会,さらに三月三十一日、全国三八地区の反本部派組合員による地方・地区組合などにより全動労(全国鉄動力車労働組合連合会,社会党は当選二八人中二〇人(新議席数六二)、民社党が五人中四人(同一〇)が労組出身で、定数四の北海道地方区 / 動力車札幌地本分裂と全動労の結成
新札幌市史 第2巻 通史2 (水車器械所)

水車器械所 水車器械所は五年二月、器械方頭取として招かれたアメリカ人N・W・ホルトが担当し、七月建築,しかし元車の馬力が充分でなく、機械五種を漸次設置する必要を生じ、木鉄製三〇馬力元車一個を模造した。,また梯子を架し、木囲堀より材木を直ちに楼上に曳き揚げるため三馬力元車一個を増設し、八年三月に竣工を見るに,さらに柾挽器鉄製一〇馬力元車を模造し、その装置のため二階を増築している。  ,たまたま黒田長官が来札しこの現状を見て、幾人かの人夫を使って厚氷を伐り、流したところ流水は平常のように / 水車器械所
新札幌市史 第5巻 通史5下 (山車行列と露店)

山車行列と露店 昭和四十年にトラックによる神輿渡御と分離した山車行列は、同年の場合、十五日に五台の山車,だが、「伝統の山車の復活を願う本府祭典区の人たちが平成六年三月に引き取り、約二年をかけて修復した」という,表-3 現在の山車 祭典区名 建造年 山車人形 1 第1本府 明治末期、平成8年改修復銘 日本武尊,平成三年に、「暴力団排除による規制で、前年より二百八十四店少ない、四百九十八店が『暴力追放』と書かれた,札幌まつり期間中の人出は毎年、数十万人となっており、このところ会期が近接したYOSAKOIソーラン祭りに / 山車行列と露店
新札幌市史 第3巻 通史3 (馬鉄から電車へ)

馬鉄から電車へ 明治期の札幌にとって、人の足として、また荷物の運搬に重要な役割を果たしていたのが馬であった,札幌で馬車鉄道の端緒となったのは石山での軟石採掘で、明治三十七年に助川貞次郎、藪惣七、福井正之、高瀬金太郎,の四人が各一万円ずつ出資して札幌石材馬車鉄道合資会社を設立した。,人を乗せる客馬車は一二人乗りで、料金は一区三銭、一日三往復となっていた。,すでに札幌区内の電力の消費量は目ざましく、大正二年には電灯の普及だけでも八五〇〇戸に達していた。 / 馬鉄から電車へ
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌茨戸間の馬車鉄道)

札幌茨戸間の馬車鉄道 明治四十一年二月三日、石狩町大字生振村村会議員鳥羽熊三郎ほか一四人が、北五条西一丁目,その後四十二年十一月に発起人総代人の七条良実が上京し、関係各省へ認可速成を陳情し(北タイ 明42・11,役員は取締役社長安達力三郎、取締役兼支配人七条良実、取締役高橋宗吉、安孫子庄七、近藤新太郎、監査役村田不二三,十月二十六日には軌道工事も竣工し(北タイ 明43・10・28)、その後茨戸停車場の建設、同停車場付近への,写真-3 札北馬鉄株式会社札幌停車場(北6東1辺) / 札幌茨戸間の馬車鉄道
新札幌市史 第4巻 通史4 (時局産業の労働力不足)

時局産業の労働力不足 図10は、戦時期の賃金である。,人の労働者が自転車で買い出しに来た業者と賃金が折り合うと契約するという。,鉱山では、炭坑一万五〇〇〇人、金属鉱山五三〇〇人の需要が予想され、労働力確保に向けて道庁、札幌鉄道局、,十三年十二月には札幌駅に毎日一五〇輛の貨車が到着し、駅は滞貨の洪水と化し、第一高等小学校生徒が荷役のボランティア,このような状況に対して、労務動員政策も強力に実施されることになるのである。 / 時局産業の労働力不足
新札幌市史 第4巻 通史4 (総力戦の底辺)

総力戦の底辺 前期にこうした明るい話題もあったのだが、その後はむしろ暗いできごとの続く時期となった。,この制度は市民一人一人を市役所が直接管理し、国政の方針を市役所が仲介して市民一人一人に伝達し、その方針,舗装道路はごく一部分で、大半は砂利さえ敷かれないぬかるみ道で、馬車が主な運搬手段であった当時だから、春,市役所では失業対策事業を進め、細民調査を行い、保導委員制度を充実させるなど対応にあたったが、一地方都市の力だけで,写真-3 紙芝居を見る子供たち(昭和11年頃)  総力戦体制が組まれ、物も人も思想も統制された中 / 総力戦の底辺
新札幌市史 第4巻 通史4 (在郷軍人会)

在郷軍人会 この会の満州事変に対する反応は素早かった。,国防」と題する講演が行われ、事変の際の日本軍の行動は「あく迄も自衛権の発動から出た正当防衛」である旨が力説,札幌市在郷軍人聯合会では「時局の重大性に鑑み」、八年十月二十二日、市内在住の補充兵六〇〇〇人を「召集」,在郷軍人会の活動は、年を重ねるにしたがって大規模化された(帝国在郷軍人会三十年史)。,十一年の陸軍特別大演習はそれに拍車を掛けるものだった。 / 在郷軍人会
新札幌市史 第5巻 通史5下 (若年労働力の不足)

若年労働力の不足 昭和三十四年(一九五九)になると景気も好転期に入り高度経済成長が始まった。,に進学した四二四人(四パーセント)を合計すると一九六一人で、四人のうち一人強の生徒が職についていた。,三十九年の札幌職業安定所(札幌市・江別市・千歳町管轄)には求職者の四倍の男子三六〇〇人(機械、電気、自動車整備,)、女子二二〇五人(バス会社・ゴム・食品工場、商店)の求人が殺到し、道外からも六五二人の求人があったものの,人口・労働力の動態調査)。 / 若年労働力の不足
新札幌市史 第4巻 通史4 (職人から労働者へ)

表-1 札幌職業別人員 大正9年 昭和5年 男 女 男 女 農業 1,414人 609人 1,287,人 419人 水産 100 19 84 6 鉱業 204 7 115 2 工業 11,544 1,996,この工場は札幌最大の工場で、六年六月の職工数は、女工七八〇人(うち寄宿舎二八三人)、男工二七〇人であった,馬鉄は電車に変わり、タクシー・トラック運転手が出現した。,職人、車夫、馬力業者は時代遅れの存在とみられるようになり、いままでよりも差別が強まった。 / 職人から労働者へ
新札幌市史 第2巻 通史2 (日赤及び篤志看護婦人会の活動)

医師四人、看護婦人二一人(永山臨時第七師団司令官夫人永山トメ、軍医正山上兼善夫人山上千代、蔵田ヒサ、石野,三月五日、永山トメを除いた二〇人は家族や北海女学校生徒、北海禁酒会青年会の奏する音楽に送られて札幌停車場,一行は人力車で日赤道支部までパレードを行った。  ,その資格は、二〇歳以上三〇歳以下、身体健康、単独にして家計の累なき者、高等小以上あるいは同等の学力のある,しかし、実際には志願者が少なかったり、志願しても学力がおよばなかったり定員に満たなかったため、卒業後一 / 日赤及び篤志看護婦人会の活動
新札幌市史 第5巻 通史5下 (らい予防法廃止と「人間性の回復」)

画期的なプロミンが開発(昭18)され、同薬は昭和二十二年以降配給となり治療効果を発揮し、発病力と感染力,らい学会関係者に変化が現れ始めたのは、四十九年、多数の医師が海外のハンセン病協力事業へ派遣され、日本の,平中忠信・北海道らい協会理事(現道ハンセン病協力会)によると、五十五年ころは道内出身者一二二人の患者が,多くは少年少女の頃に入所したため、故郷の家族・友人との関係が途絶している人がほとんどで、故郷の様子や思,戦前は貨車に乗せられて巡査が引率し、戦後は道庁の係官に引率されて入所していた。 / らい予防法廃止と「人間性の回復」
新札幌市史 第3巻 通史3 (左側通行)

左側通行 札幌区内の人口は、大正九年の国勢調査の段階で一〇万二四三〇人と明らかにされた。,それより二年前開催の道博の観覧者数は五〇日間で一四二万人余、一日平均二万八〇〇〇人もの人出があったことになる,それに札幌駅と中島公園間等に電車が開通し、さらに人力車、馬車が往来し、札幌警察署でも交通取締上なんらかの,まず大正十年一月一日を期して、人力車・橇・馬車屋に対して左側通行の励行を通達するとともに、夜間通行に際,六月一日当日、札幌警察署では車に乗ってメガホンで道行く人びとに左側通行を宣伝するとともに、区内四二カ所
新札幌市史 第3巻 通史3 (愛国婦人会)

明35年 人 人 人 人 831人 36 1,116 37 625 4,446 38 333,人 987人 1,320人 小樽区 225 488 713 札 幌 225 759 989 小 樽 58,道支部では、三十七年十二月、さらに事業強化のために全道各地に幹事部を置き、支庁長を顧問に、その夫人や有力者,また停車中の列車の凱旋兵士へは、音楽隊が演奏するとともに、愛国婦人会道支部、札幌区幹事部、札幌郡幹事部,なお、当日の売上金のうち六〇〇円の剰余金から札幌区の傷病兵一五人、戦死者遺族三六人の五一人のうち三〇戸 / 愛国婦人会
新札幌市史 第4巻 通史4 (陸軍特別大演習)

作戦は南北両軍を想定し、これに参加した兵士将校等は二万五〇〇〇人とも三万五〇〇〇人とも報じられた。,千歳方面ニ向フ前進ヲ掩護セシメ主力ハ江別厚別及北広島附近ニ下車シタル後北海道鉄道ニ沿フ地区ヲ千歳ニ向ヒ,進出並爾後ノ作戦ヲ容易ナラシメ主力ハ追分附近ニ下車シタル後室蘭本線ニ沿フ地区ヲ栗山ニ向ヒ前進シ敵主力ヲ,演習に参加した兵士等二万五〇〇〇人と軍馬三〇〇〇頭が札幌に集結し、一三機編隊の航空機のほか多数の車輌も,越える人々が集まった。
新札幌市史 第4巻 通史4 (その他の市内交通)

しかし大正三年七條良実が、自動車販売並びに自動車株式会社の設立を計画し、翌四年四月から二台の自動車を運転,六年には菊川自動車商会が、新式二〇馬力車を札幌神社祭典に当て込み、二〇分間一円五〇銭などで運転した。,そのため八年末に設立された宝来自動車株式会社に車両を譲渡した。,をさらに受け継いだのが葛岡喜代太郎で、苦労の後立て直したといわれている(北海道ハイタク二〇年の歩み 社団法人北海道乗用自動車協会,ハイヤー、タクシー業界の統合は、ガソリンの戦時統制によるところが大きいが、燃料の統制が進むと燃料のいらない人力車
新札幌市史 第4巻 通史4 (主要な大規模工場)

機関車・車輌の修繕が主であったが、昭和に入って客車・貨車などの車輌の製作が本格化し、昭和元年の車輌修繕数,大正十一年の工場人員は一三六九人、その後漸減し昭和六年から十年まで一〇〇〇人を割るが、戦時体制に入り増員, 大13・11・14)、青年会・在郷軍人会も工場を単位に創設となっている。,明治四十二年に苗穂に設置した製材工場の汽罐設備、機械据付けのために鍛冶場を併置していたが、大正十五年に動力を,蒸気から電力に転換して以来、受注量が増えていた。
新札幌市史 第3巻 通史3 (鉄道院札幌工場の成立)

一方、道内産業の発達は著しく、これに鉄道輸送力が追いつかずに各駅には滞貨が累増した。,しかし北海道における鉄道輸送力の問題は、新規車輌の投入のみでは解決されず、本格的な車輌修繕工場が必要であった,かくして鉄道院札幌工場は四十二年十二月八日、札幌村大字苗穂に設立され、岩見沢工場から木工職四三人を転勤,また三年末に手宮工場を廃止してその職工二六〇人を移すことになり、従業員数は官吏も含めて七一三人となった,官吏・技師・医師を含む従業員数は大正五年に一〇九〇人、十一年には一三六九人に達した。  
新札幌市史 第4巻 通史4 (電気局の除雪)

,除雪車・除雪人夫  13 同上  9,584.24 6.251 1~3月1m625,4~12,月4m625,除雪車・除雪人夫6,142人  14 同上 39,626.52 6.754 1~3月4m996,,4~12月1m758,除雪車・除雪人夫11,545人,馬橇3,623台  15 同上 15,541.87,5.172 1~3月4m199,4~12月0m973,除雪車・除雪人夫3,095人,馬橇503台  ,同上 - - 排雪車・沿線公区民・各中等学校其ノ他ノ協力奉仕 『札幌市事務報告』(昭和2年度~20年度
新札幌市史 第2巻 通史2 (同業組合の勃興)

同業組合の勃興 一万六〇〇〇人の人口を抱えるまでに成長した札幌区には、明治二十年代商工業に従事する人,、洋服裁縫組合、蹄鉄工組合、古物商組合、畳職工組合、家根屋職組合、人力車営業人組合、菓子商組合、青物乾物商組合,、車夫馬丁家僕懇親会、湯屋組合、薬種商組合、馬車貨物運搬組合、柾工組合、材木商組合、旅人宿営業組合、下宿屋組合,、鍼灸営業組合、雑穀商組合、家屋建築組合、荒物乾物商組合、薬業組合、繭糸仲買商組合、車製造者組合、番頭連懇親会,ところで、「小使」、「車夫馬丁家僕」といった当時どちらかといえば社会の底辺に位置すると目されがちな職業
新札幌市史 第3巻 通史3 (消防態勢と防火)

大正初め頃までは蒸気ポンプが主流であったが、大正三年にはガソリンポンプが、また十年には発動機ポンプや自動車ポンプ,が導入され、いよいよ自動車ポンプの時代を迎えて、近代消防の機動力を有するようになった。  ,同組合では、四十五年二月に火災予防聯合会を発会させ、より強力な組織づくりをするとともに、講演会を各地で,また、定期的に各戸を巡回し火防検査を行うとともに、七年からは「火防は家庭婦人から」を合言葉に火防婦人会,を各組合の中に組織し、家庭婦人をも火災防止の大きな担い手に組み込んでいった。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (金属工業)

表7に職工数二〇人以上の金属・機械工場を掲げた。,表-7 工場一覧・金属・機械工業(職工数20人以上,昭和24年9月) 工場名 住所 建築面積   (,坪) 職工数  (人) 馬力数 (馬力) 田井自動車工業(株) 南8西11 710 105 57,北6西5 760 87 40 運輸工業(株) 北9西14 256 52 37 トヨタ自動車修理工場,株) 苗穂町40 293 31 15 北海道特殊機械製造(株) 北1東4 453 24 7 国益保道車(
新札幌市史 第8巻1 統計編 (総説)

交通機関は,札幌とその他の地域を結ぶ鉄道,市内の連絡機関となる人力車・馬車や馬鉄・電車・バス,そして個人的交通機関,となる自転車や自家用車などがある。,札幌石材馬車鉄道合資会社は,1910年(明43)から当時の札幌区内に馬車鉄道を開通させ,11年札幌市街鉄道株式会社,それには,人力車・荷車や馬車・牛車,それの冬季用である人力橇や馬橇,そして現在にまでつながる自転車・自動車,日本麻糸厚別製線工場の開業,25年の増大は酪聯厚別仮工場のバター出荷,26年の減少はその製線工場の閉鎖と酪聯の主力を
新札幌市史 第5巻 通史5上 (市労連「お祭り争議」)

北海道神宮例祭の十五日午前六時交渉が決裂し、電車・バス乗務拒否指令により出庫を阻止するため市労連傘下組合員,がピケを張る車庫に警官隊が出動し、市内の交通網は終日大混乱となった(資料北海道労働運動史 昭33-37,市側が申請した道地労委調停により、支給済み夏期手当に一五〇〇円上積みなどで妥結し、電車・バスは十六日から,正常運行に戻ったが、六月二十日、札幌中央署は威力業務妨害の疑いで組合員五人を逮捕し、さらに九月十八日、,市は解雇一二人を含む四二人の行政処分を発令した(札幌市職二十年史)。
新札幌市史 第2巻 通史2 (演習と出征)

二十四年頃からは、新聞を通して演習の実況が一般の人びとに詳細に伝えられたばかりでなく、一般市民の演習見学,協力の模様が伝えられるようになった。  ,三月十七日、陸軍将校の予餞会が開かれたのを皮切りに、札幌区内では出征兵士の予餞会が「会津人」、「長野県人,屯田将校の出発は四月四日で、新聞によれば、「札幌停車場前は正(まさ)しく人の黒山の築くものゝ如く嘗てなきの,人気と湧くが如きの喝采を以て見送られたり」と、停車場はじまって以来の賑やかさであったとある。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (神輿渡御)

65以下は「列外隊」となり、合計で七四六人に及んでいた。,この後に山車行列が続くのであるから、総勢で一二〇〇人から一三〇〇人に及ぶ大行列となる。,表-2 神輿渡御行列順と人員数 組 職係名 人員 1 先導車 正副渡御部長 3 2 万灯 金棒笛太鼓,18 先祓 浄衣2 2 19 社名旗 白丁1 1 20 猿田彦 胡床持1・白丁1 2 21 先乗童子 人力車,2万灯は金棒八人の女性と笛・太鼓一三人のお囃子(はやし)隊である。  
新札幌市史 第5巻 通史5下 (場外馬券売り場問題)

場外馬券売り場問題 昭和三十年代なかば以降、経済界の好況とレジャーブームによって馬券の売上高と入場人員,五十年六月には五〇億円の巨費を投じてスタンドや付属施設の大改修が行われたが、駐車場の増設はされなかったため,しかし建設予定地の南六条西五丁目は暴力団事務所が密集する地区だったことから、地元の薄野地区暴力追放運動推進協議会等,が「暴力団の資金源を助長し、違法駐車など環境が悪化する」と強く反対し、道は代替地のめども立たないまま計画,さらには平成八年、公営オートレースを行っている群馬県伊勢崎市が南三条西四丁目のアルシュビルに場外車券場
新札幌市史 第3巻 通史3 (豊平月寒馬鉄計画)

豊平月寒馬鉄計画 明治四十四年一月、札幌区安達力三郎他六人より、豊平橋を起点とし、月寒坂下に至る馬車鉄道敷設
新札幌市史 第4巻 通史4 (細民調査)

保導委員は、自らが担当する区域内の全世帯を対象として、その生計状態から「要保護者」の実態の割り出しに努力した,その結果、細民の居住区域は甲種が一二カ所、五七世帯、一八六人、乙種が一五六世帯、五三五人の合わせて二一三世帯,五七世帯中もっとも多いのが日雇、次に屑拾い、職工、警火番、袋貼で、あとは人力車夫、附添婦等となっている,全国的に、これらの細民の人びとに対し生活状態を等級別にみた「方面力ード」からくる「カード階級」という熟語,表-28 甲種職業別 職種 人数 日雇 13人 屑拾い 5 人力車夫 1 警火番 2 職工 3
新札幌市史 第5巻 通史5上 (道路整備の重点化)

この制度は、前年度の道路維持修理費の三分の一以内を自動車や荷馬車の所有者に賦課するもので、初年度は三〇〇,それによれば、市の許容将来人口は、一人あたりの占有面積を中心部と周辺部でそれぞれ三〇平方メートル、二六五平方,メートルと仮定すれば、八〇万七〇〇〇人と推定され、近郊町村を合併すれば一〇〇万人を超える収容能力がある,水道事業は、二十九年度から総予算八億四〇〇〇万円(初年度はそのうち一億三〇〇〇万円)を投じて給水能力を,同計画は、全額起債で総額八億四〇〇〇万円を投じて給水能力を現行の三倍増とするもので、元利償還のために水道料金
新札幌市史 第4巻 通史4 (戦時下の札幌祭)

戦時下の札幌祭 札幌祭は昭和に入っても人気を集めていたが、戦時下になるにしたがい祭にも戦争の暗い影を,各駐輦所には出征軍人家族席を設置して特別参拝をはかり、代表者が玉串を奉奠するようにし、神酒も遠慮するようにとの,この中には神輿渡御に対して電車の停止、「電車その他の乗物に乗車の方は全部下車奉拝するやうにせられること,十七年になると「極力消費を排す」の方針の許で一切の電飾、提灯、アーチなどを廃止している。,二十年になると再び神輿渡御は中止されるが、十九年の場合、曲馬団、猿芝居などの見世物小屋がいまだ立っており人気
新札幌市史 第4巻 通史4 (余暇・娯楽)

世界大戦前後からの民力涵養運動の一環として、民衆講座や民衆娯楽講演会などが道庁や札幌市主催で開催され、,官側が、市民生活の余暇・娯楽面にまで関心のみならず、いかにしたら生産能力を維持増加できるか、民衆教化といった,札幌警察署では、これら「狸ブラ」の人びとの著しい増加から、交通安全上自動車、自転車の乗り入れ自粛を呼び,表-11札幌市交通調査(大正13年11月) 地点 最多時間帯の通行人 諸車一日の交通量 狸小路,2.諸車の内訳は,自転車7割強,荷馬車1割3分,他は電車,手車,荷車,自動車,人力車,乗用馬車,乳母車等
新札幌市史 第4巻 通史4 (都市の条件)

札幌駅に到着した罹災者は五〇〇〇人を越え、内二一七二人が下車したという。,さらにラジオ放送の開始は東京と同時的に情報文化を享受できる条件をととのえ、映画、出版の普及もそれに拍車を,中でも上下水道敷設は必須の都市条件と目され、札幌ではこれに豊平川の水利権と水力発電事業、それに電車公営化,強化、市街地から人糞を運び化学肥料の使用をおさえ、多量の労働力を市街地家庭主婦に求める、きわめて集約的,な人力と馬力を組み合わせた生産体系をこの期に確立した。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (除雪事業の拡大)

実行主体は北海道庁特別建設事務所で札幌市は人力と貨物自動車による排雪を分担した。,進駐軍からスノーローダー一台と大型貨物自動車七台も出動した。,して、進駐軍が四日から市内幹線の除雪に乗り出し、電撃的な指令の豊水、中央、本府の各連合公区から三〇〇人の,一方交通事業所による市電沿線の除雪は戦争中同様、除雪車と沿線住民、中学生の労力奉仕で行われた。,三十五年の主要事業一〇年計画では、三一両の除雪車両で約二九六キロメートルの除雪を、除雪関係車両四二両として
新札幌市史 第3巻 通史3 (新札幌市史 第三巻 通史三/総目次)

 各種の団体と運動        戊申詔書 貯金組合と納税組合        「戦後経営」と「民力涵養,人力車・自転車        馬車・人力車・自転車 馬車(馬橇)と人力車        軽川石狩間,の馬車輸送 自転車の普及     四 輸送路の整備と飛行機の登場        札幌茨戸間の運河 ,第一節 文学活動…764     一 短詩型文学        俳句結社の増加と運動の本格化 有力俳人,       大挙伝道の展開 大挙伝道と教勢の伸張        自給と協同     三 新しい伝道の勢力
新札幌市史 第2巻 通史2 (ケプロンの進言)

それによれば北海道の首都となる札幌は無尽の水力に恵まれているので、この水力を利用して「車師、鋳物師、大工等,現状ニ就テ観レバ、器械ヲ用ヒテ人工ヲ補益スルハ枢要ナラザルガ如シト雖トモ、熟々時勢ノ変遷ヲ考フルニ、器械力,夫レ国ヲ利スルヤ、果シテ人工ヲ増シ、国用ヲシテ余リアラシムルニ在ラバ、器械力ヲ措テ他ニ求ムベキモノナシ,是ヲ以テ、人ノ筋力ノ価、他ノ諸動力ヨリモ廉ニシテ、路ヲ走ルノ駄馬ト其力ヲ競フノ間ハ、永久開化ノ基ヲ起スヲ,第二、随意ニ水力ヲ使用シ得ルナリ。第三、許多ノ人民ヲ保ツベキ豊饒ナル耕地ノ中央ニ位スルナリ。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (六〇年安保阻止運動)

日本の自衛力強化と日米経済協力を柱としたものであり、革新勢力は、同条約は軍事同盟の性格を持ち、日本の軍国主義化,4・24 中央創成小学校で安保批准阻止大演説会後、車両市中パレード 4・26 新安保批准阻止全道総決起大会五,、市内各地で職場大会後抗議集会一万五〇〇〇人 6・4 第一七次統一行動として市内二万人の抗議集会、街頭,デモ、国鉄札幌駅中心に列車運行不可能になる 6・11 米国大統領・アイゼンハワー訪日阻止行動、新安保粉砕道民大会,岸内閣即時退陣要求大集会・樺美智子国民葬に道央各地からも参加、自転車パレードも合流し、集会後デモを行う
新札幌市史 第5巻 通史5上 (従量制の実施から無料化へ)

スタートさせ、二〇リットル入り石油缶一杯(一〇キログラム)に「札幌市塵芥処理券」(一〇円)を貼り、回収車に,排出量 年次 市年間収集量 (t) 市域実施率 (%) 平均排出量 年1世帯当り (kg) 1人1,塵芥焼却場建設(じんかいしょうきゃくじょうけんせつ)を計画し、四十六年完成を目標に、発寒に一日焼却能力一五,一方では営業用廃棄物が問題視され、中心部の人口ドーナツ化現象により市街地周辺に新興住宅地が広がり、一般住宅向,に清掃指導車一二台、埋め立て用ブルドーザー二台、昆虫駆除車など機動力・人員増強も行われた(道新 昭47
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『札幌市建設五年計画』の策定)

例えば昭和六十年の総人口は一四五万人とし、工業出荷額は四十一年の一三〇〇億円に対し昭和六十年には三五〇〇,分を含め六〇二二億円余となり、道路等輸送施設の整備、用地造成及び住宅建設、水道及び下水道等の整備、電力・ガス,北海道新聞では、それぞれの項目を解説する際、総てを公社公団や民間などに期待している電力・ガス供給施設以外,に、中心部に集中暖房、スポーツ施設を拡充、小中学校86校を新増設、トレードセンターを建設/商圏拡大に力こぶ,札幌留萌線~篠路駅,道道昇格要望 札幌留萌線~篠路駅改良・舗装 月寒停車場線 36号線~月寒駅,
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌紡織所)

札幌紡織所 開拓使は生糸、織物を移輸出産業の一つとしてその開発に力を入れた。,そして生繭一〇六石余を買い上げ工女一二人を東京から募り、はじめて繰車を運転した。,そこに東京赤羽工作分局で製作した富岡製糸場模造の繰具二四座、六馬力蒸気機関及びイタリア製新型火汽二器、,工女二七人を青山試験場から移し繰業を開始した。,七月雨竜通製糸場に六馬力タービン水車を据え付け、前年の木製繰糸器械に取り付けた。
新札幌市史 第4巻 通史4 (地域振興と住民組織)

当初は桑園駅の開設に尽力したようであるが、その後は北大植物園の開放と公園化、小学校の新設、電気軌道の延長,発会式にて発表された「宣言書」によれば、学校、上下水道、架橋、電車延長などの公共、生活関連施設の整備を,五、札幌停車場の位置を北部に移転するを其筋に請願する事。,八、街路の通行は人馬車とも左側通行を励行する事。,のために大正十一年十月の市会議員選挙にて(二級は三日、一級は五日に実施)、「鉄北及愛市の念を有する適当の人物
新札幌市史 第2巻 通史2 (北海道電灯会社)

職工は一〇人、電力は火力発電、一〇〇馬力一個、三五馬力二個を備え、点灯の地点は札幌停車場より西三丁目通中島遊園地
新札幌市史 第5巻 通史5下 (環境政策へ)

そして新たに「環境低負荷型社会の構築」のなかに「地球環境保全に向けた取組」を設け、「札幌も地球市民の一人として,地球環境の保全に向けて積極的に取り組むことが求められている」として国際的な環境保全の取組に協力または参加,防止として大気、音振動、ダイオキシン類などの有害化学物質問題への対応、交通公害対策の推進として低公害車・,指定低公害車の普及、低公害車等購入資金融資あっせん制度、中央卸売市場構内運搬車の低公害化、アイドリングストップ,がる環境問題への取り組み、環境保全意識の醸成と環境負荷低減に向けた活動の促進、環境保全に関する国際協力を
新札幌市史 第4巻 通史4 (失業救済事業)

これにより、道路改良工事一日失業者一八四人、電車軌道工事一日失業者一一〇人、下水・側溝工事一日失業者一二二人,道路建設   6 札幌市 56,046 電車軌道新設,下水道側溝,道路改良   6 白石村 11,340,道路新設   7 札幌市 121,785 (応)道路改良,砕石・玉石砕石,砂利採取,電車軌道新設,下水道側溝,の改正にともなって、職業紹介事業も、従来のような失業救済または防止というよりは、戦時遂行のための生産力の,増強に向かって、労働力の調整に力点が置かれることとなり、そのためこの事業は国の行政に移管されることになった
新札幌市史 第3巻 通史3 (市街化の大字豊平村)

市街化の大字豊平村 大字豊平村は、三十三年の戸数五〇五戸、人口は二三七七人であり、農地も三五八町二反,(水田一一町五反、畑三四六町七反)を数えていた(戸数・人口は「北海道戸口表」、農地は「豊平村平岸村月寒村沿革大略,生活ノ度タル至テ低ク上九十六戸、中百四十三戸、下二百三十九戸」(豊平町史資料三)とされ、零細商店や職人、,物品販売業(32年 三五、33年 三七)、製造業(一六、一九)、土木請負業(二、一)、旅人業(四、五),、木賃宿一、下宿屋一、鍛冶工場八、馬具職三、菓子製造業二、大工職六、石工三、人力車乗合馬車業二、馬車追業一一
新札幌市史 第5巻 通史5上 (第九軍団の進駐)

五日朝七時過ぎ、偵察部隊・MP・設営部隊・付属工兵隊から成る先遣兵力がまず上陸、次いで主力部隊がHアワー,日本側の協力はあらゆる面で完全であり十月五日十八時(午後六時)までに、八二四九人、車両一〇〇三台、三一六九,日本人は従順で協力的であった」(証言 北海道戦後史)。  ,手稲追分まで出迎え、先導役をつとめた札幌署のある警部は、「地面が揺れ動くほどのごう音をとどろかせ、重装備の車両群,〇人となっていた。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (組織の分裂と再編成)

また官公労では、四十一年、全道庁・全市連・町村連三者協議体(一三四単組)を母体に四万九〇〇〇人の自治労道本部,かつて官公労で最大の組織人員を擁し、激しい労働運動とたび重なる処分撤回闘争を展開した国鉄や郵政の組合には,札幌では四月、全逓を脱退した一〇四人が全郵政札幌郵政局支部、六月には同じく五二人が全郵政札幌中央郵便局支部,さらに国鉄労組(国労)と動力車労組(動労=昭26機関車労組として結成)に加え、四十三年新たに同盟系の鉄道労組,四十五年春闘総決起集会では、大通西八丁目広場に営業車五〇〇台を出動させるなど(札幌の労働運動)高度成長下
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌神社祭典)

ちなみに祭り当日に小樽駅、手宮駅から乗車し札幌に来たものは、それぞれ一六九三人、四一三人であった(北タイ,かくして年番を先頭として、各祭典区代表委員、人力車金棒、神楽囃子、烏帽子狩衣揃えの祭典区の人々、神輿、,山車などなどの行列が、三日間にわたり祭典区を練り歩いた。,祭りを盛り上げ祭典区の人々が趣向を凝らす山車は、大正七年に一二区すべてが出揃うが、四十四年段階のものは,が出たもので、今の山車は四十年に高砂楼主が新潟市の佐々木弥忠太といふ人から買って来たので、始めの人形は
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