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新札幌市史 第2巻 通史2
(山鼻村の成立と伏見の開拓)
山鼻村の成立と
伏見
の開拓 山鼻村は豊平村と並び、七年五月十日に村設置の伺が松本十郎大判官から黒田清隆次官,『移民履歴調』では触れられていないが、山鼻村の移住の最初は、四年に
伏見
に移住した佐藤三郎右衛門、三蔵の,両人は山形県西田川郡鶴岡町(現鶴岡市)出身で、三蔵は三年に円山へ移住した山形移民に従い来札し、四年に
伏見
,
伏見
はこのようにして形成されたので、集落としてもまとまりをもつ〝模範村〟とされた。,なお、
伏見
の移住の動向と部落の形成は、『
伏見
史稿』に詳細である。 / 山鼻村の成立と
伏見
の開拓
新札幌市史 第2巻 通史2
(兵村の副戸長設置)
ニテ行届兼候」という理由で総代、副総代の設置を申請し、その結果、総代には屯田兵荒木進之助、副総代には
伏見
,副総代は十年十二月に鈴木運治にかわるが、彼も
伏見
の居住者である。,副総代は
伏見
の居住者から出す原則がたてられたようであり、この原則は総代人制にも踏襲されている。,人数では圧倒的に屯田兵が多かったにもかかわらず、あえて
伏見
に一員を割りあてていることは、新旧の居住者の
新札幌市史 第4巻 通史4
(行幸)
市制施行後大正十二年久邇宮、十五年高松宮、
伏見
宮、閑院宮、昭和三年秩父宮、
伏見
宮、四年高松宮、六年閑院宮,、七年澄宮、八年閑院宮、東
伏見
宮、
伏見
宮、九年北白川宮、梨本宮、十年竹田宮、朝香宮、
伏見
宮と、年々札幌
新札幌市史 第2巻 通史2
(葬儀の慣行)
つぎに、集落を主体とした場合として山鼻村の
伏見
地区について述べたい。,
伏見
地区は二十四年に人口増加し、かつ集落の「秩序成るに及び」、葬儀の際の各自救済方を次の文面で契約した,六、会葬者は妄りに忌家にて飲食の饗を受けざる事」(
伏見
史稿)。 ,しかしこの風俗も急速にすたれたらしく、『
伏見
史稿』(大正十四年発行)では、もはやその意味が不明のまま解説
新札幌市史 第3巻 通史3
(地域女性団体)
一方、藻岩村字
伏見
の
伏見
主婦会の歴史はさらにさかのぼる。,その設立は定かではないが、『
伏見
史稿』(永田康治 大15)によれば、明治二十年代にすでに藻岩山の三十三観音像
新札幌市史 第2巻 通史2
(庚申講)
庚申講の一つは
伏見
で、明治十二年に戸主の会を設けて親睦をはかろうとしたが、他の一人が移住前に同講に加入,軸を持って来ていたので、「依て信向(ママ)を基礎とし庚申の日を以て各戸交互に会合し親睦を計るべし」(
伏見
史稿
新札幌市史 第1巻 通史1
(山麓緩斜面・崖錐)
いっぽう、藻岩山北東麓の界川・旭ケ丘・
伏見
、同南麓の市民スキー場~藻岩下や北の沢・中の沢・南の沢などの
新札幌市史 第5巻 通史5下
(市内の神社)
これらの多くは戦前期に神社創設が公的に認可され社格をもっており、県社の三吉神社、郷社の豊平・
伏見
稲荷・,昭46 昭57 昭58 諏訪神社 東区北12東1 明15 村社 9月12日 昭41 昭 8 昭57
伏見
稲荷神社,中央区
伏見
2 明17 郷社 9月 9日 昭61 昭61 昭62・10 札幌村神社 東区北16東14
新札幌市史 第2巻 通史2
(代表的な総代人たち)
永田長蔵は明治九年に山形県東田川郡十六合村(いざあいむら)(現余目町)から一七歳の時、父弥右衛門に従い
伏見
,山鼻村の初期の総代人はすべて
伏見
から選ばれており、屯田兵村から出されていない。,兵村からの選出以降も定員のうち一人に限り、もう一人は兵村以外の農民を代表して
伏見
地区に譲っていたようである,永田長蔵は何期重ねて総代人となったか不明だが、『
伏見
史稿』は十六年から三十一年まで部落代表の総代をつとめたといい
新札幌市史 第4巻 通史4
(養狐)
村山養狐場 円山南10の6 国際養狐場 中野三次郎 第二学校裏 中田養狐場 南11の28
伏見
養狐場,小林鈕之助 藻岩
伏見
阿部養狐場 阿部政身
伏見
台 長谷川養狐場
伏見
台 能中養狐場 円山510
新札幌市史 第2巻 通史2
(檀家の区域)
また山形県出身者の多い
伏見
地区では、「禅宗最も多く真宗真言宗之に次ぐ。,(中略)小教院(中央寺)の建設さるるや此信仰最も多数を占むるに至りぬ」(
伏見
史稿)と、檀家の移動のあったことを
新札幌市史 第4巻 通史4
(水道敷設工事の開始)
その後六月二十四日、山鼻
伏見
台で起工式が行われた(北タイ 昭9・6・24、25)。
新札幌市史 第3巻 通史3
(青年会から官製の青年団へ)
また藻岩村
伏見
では、若衆連時代には春秋の「篭洗」において、「力石俵扱ひ臼担ぎ棒押角力脛押首引き等極めて,することとなり、「篭洗」は廃止になり、夜学が開設されるなど、青年会は自主的に「修養と勉学」の組織となってゆく(
伏見
史稿
新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌の諸神社)
また藻岩の
伏見
稲荷神社では、明治四十四年十月十七日に琴似村十二軒より
伏見
への遷座祭が執り行われた(北タイ,
伏見
の地域に則して神社信仰の変遷を考えると、明治十六年旧暦八月に、永田長蔵ら有志が山神として「柾葺板圍,明治四年札幌神社の円山に遷さるゝや、上田万平外円山
伏見
の有志等計りて崇敬講を起し、毎月一日十五日神社に,(
伏見
史稿) 札幌神社の崇敬講の消滅に取って代わって地域の信仰の対象となるのが、明治四十四年に遷座
新札幌市史 第4巻 通史4
(地区自治の諸相)
藻岩村の
伏見
では、戸主会が設けられて地区の自治、親睦、相互扶助、宗教行事の執行などが行われていた。,、事業などを決め、道路の改修、入退営兵の歓送迎、善行者の表彰、講演会・祝賀会の開催などを行っている(
伏見
史稿,
伏見
には明治二十四年頃に「契約」という冠婚葬祭の扶助組織(大正十四年に四〇余戸の会員)もつくられていた
新札幌市史 第2巻 通史2
(就学の問題)
例を四年に移住の開始された
伏見
地区にとれば、七年の時点では通学はおろか自習するものもないと記され、十四年秋,冬期間に自習を行う夜学会が青年達によって設けられ、学校へ入学する者の出たのは実に十七年が最初であった(
伏見
史稿
新札幌市史 第3巻 通史3
(藻岩村の農業と朝市)
大正七年に円山と
伏見
・山鼻の生産者を糾合した藻岩村蔬菜組合が創設されたが、十二年の組合員は四二〇人に達
新札幌市史 第4巻 通史4
(稲荷神社)
札幌神社があり、村内の円山地区は札幌神社の氏子という意識が強く稲荷神社とは疎遠であり、稲荷神社は当初には
伏見
地区,大正十一年に
伏見
が山鼻の第一四祭典区に加入したことにより、九月九日の例祭は第一四祭典区で実行することとなる
新札幌市史 第5巻 通史5上
(土地区画整理事業の展開)
しかし札幌市がはじめて直接手がけることになった
伏見
地区土地区画整理事業や戦争中に事業認可された西郊地区土地区画整理事業,S32~39 44 354,423 真駒内北 S47~48 2 18,000 小計 211 札幌市
伏見
新札幌市史 第2巻 通史2
(大師講・太子講)
このほか伊勢講、観音講(
伏見
)、古峰講(琴似)などの講が記録されている。
新札幌市史 第1巻 通史1
(旧幕軍の蝦夷島占拠)
旧幕軍の蝦夷島占拠 明治元年(一八六八)正月に鳥羽・
伏見
の戦に敗れた旧幕府勢力に対し、新政府はなお徹底的
新札幌市史 第2巻 通史2
(山の神碑)
また山鼻村の
伏見
地区では、十六年八月に住民四人ほどが図って山神に祀るべく寄付をつのって小祠を建て、以来旧暦
新札幌市史 第4巻 通史4
(上水道敷設計画)
発電水路と共用し、本設計の導水路は水槽に起り導水渠及破圧池を経て、札幌市西南市郡界藻岩山麓に沿ひ山鼻村字
伏見
新札幌市史 第1巻 通史1
(サッポロ大府への展望)
他日此札幌に府を置玉はゞ、石狩は不日にして大坂の繁昌を得べく、十里を溯(さかのぼ)り津石狩は
伏見
に等しき,左候はゞ石狩を大坂とし、津石狩を
伏見
と見、川筋三里を上り爰(ここ)に府を定め、銭箱・小樽をして尼崎・西宮
新札幌市史 第2巻 通史2
(【主要参考文献・史料】)
北海道旅行記』、『北海道農場調査』、『東北帝国大学農科大学農場成績調』、『簾舞沿革志考』、『円山百年史』、『
伏見
史稿
新札幌市史 第2巻 通史2
(維新政権の成立)
、王政復古宣言のその日に慶喜に辞官と納地を命ずることを決すると共に、慶応四年一月三日に起こった鳥羽・
伏見
新札幌市史 第4巻 通史4
(戦時下の警察)
中島公園、豊平、北十条、山鼻、北一条東、苗穂駅前、白石、御幸通、南九条、北十七条、桑園、北円山、南円山、
伏見
,しかし応召徴用による欠員の慢性化により定員を満たすことはむずかしく、前述の
伏見
派出所、東月寒駐在所に警官
新札幌市史 第3巻 通史3
(藻岩村の成立)
すなわち、大字山鼻村には
伏見
、上山鼻、四号ノ沢、五号ノ沢、八号ノ沢、石山通、白川の七部、大字円山村には
新札幌市史 第1巻 通史1
(後藤寿一の分布調査)
南一六条西一四丁目(磨製石斧)、⑥円山三丁目(厚手土器)、⑦円山一丁目(擦文土器)、⑧円山段丘(黒曜石片)、⑨
伏見
新札幌市史 第2巻 通史2
(寺院等と行事)
なおこの三十三観音設置について、『
伏見
史稿』によれば、岩村道庁長官が藻岩山登山道改良方策として大谷新善光寺住職
新札幌市史 第5巻 通史5上
(高等学校の再編成)
しかしこれも一部の学校で行われたに過ぎず、札幌市では
伏見
高等学校に工業科と商業科がおかれただけであった,また定時制については普通課程が西高・南高・星園高などに、実業系の課程が
伏見
・星園・創成工業・創成商業などに
新札幌市史 第2巻 通史2
(【主要参考文献・史料】)
主要参考文献・史料】 『開拓使日誌』、『開拓使事業報告』、『札幌県布令全書』、『札幌県勧業課年報』、『
伏見
史稿
新札幌市史 第3巻 通史3
(【主要参考文献・史料】)
日本赤十字社篤志看護婦人会会報』一二・一三号、日本キリスト教婦人矯風会編『婦人新報』一九・三七・七八号、永田康治『
伏見
史稿
新札幌市史 第4巻 通史4
(【主要参考文献・史料】)
』(昭11)、『篠路村史』、『手稲町誌』、『円山百年史』、『豊平町史』、『簾舞沿革史考』(大4)、『
伏見
史稿
新札幌市史 第3巻 通史3
(大正四年大正大礼と国家神道)
各神社の大典奉祝はさまざまであり、藻岩の
伏見
稲荷神社では札幌区役所他一六カ町村役場員の植樹奉告祭が行われ
新札幌市史 第5巻 通史5上
(教会数の増加)
*石鎚本教 敬神、崇敬、神道豊上教会 *神道大和教 札幌扶桑、島稲荷教会 *実行教
伏見
教会
新札幌市史 第5巻 通史5下
(大谷・本願寺派と札幌別院)
施設では北海道東本願寺青少年研修センター(中央区
伏見
町五)が、親鸞聖人誕生八〇〇年、立教開宗七〇〇年、
新札幌市史 第2巻 通史2
(集落等の成立と神社の創立)
神社創立年の記されているものをまとめると、上手稲神社(明治五年)、白石神社(同)、中の島神社(十年)、
伏見
稲荷神社
新札幌市史 第3巻 通史3
(大正四年全道青年会連合大会)
琴似村青年会 琴似第三帝国同志会 新琴似青年会 琴似村新川青年会 藻岩村 円山青年会 藻岩村
伏見
青年会
新札幌市史 第5巻 通史5上
(札幌の地域婦人会)
幌西婦人会は、市電西線から
伏見
にかけての新興住宅地帯約四〇〇〇世帯に親睦・協力を呼びかけ、三十一年発足
新札幌市史 第4巻 通史4
(円山町の札幌市合併)
この頃、
伏見
でも大正園が山鼻花園街住宅地を分譲している。
新札幌市史 第5巻 通史5上
(賑わう昭和三十年代の祭り)
「新しいところとして円山市場、桑園地区、北七条通、北二十二条通(今までは北十九条通まで)、東札幌駅、
伏見
地区第二国道
新札幌市史 第3巻 通史3
(【主要参考文献・史料】)
ノ状況 大正十二年一月調』、『烈々布会館史料』、『篠路烈々布百年』、中村美彦『篠路歌舞伎ノート』、『
伏見
史稿
新札幌市史 第5巻 通史5下
(登校拒否(不登校))
六年九月一日には、新琴似小学校内に北陽中学校分教室が開設され、十年十月二十二日からは
伏見
小学校にも置かれた
新札幌市史 第4巻 通史4
(神道系宗教結社)
同 富士山祈禱所 円山南3-5 神田勝男 8人 同 白龍祈禱所 円山46 生駒トメ 3人 同
伏見
祈禱所
新札幌市史 第5巻 通史5上
(卸売市場の創設)
ちなみに円山朝市では山鼻、
伏見
方面の生産者の出荷も含め、一日の取扱高が平均二〇〇〇貫を超えたという(道新
新札幌市史 第4巻 通史4
(真宗の動向)
なお社会事業では、新善光寺にて大正十四年十月五日に札幌養老院を
伏見
に開設している。
新札幌市史 第4巻 通史4
(区から部へ)
藻岩村は大字円山村に五条通、一条通、神社通、滝ノ沢、界川、
伏見
の六部、大字山鼻村に上山鼻、四号沢、五号沢
新札幌市史 第2巻 通史2
(神社等の増加)
. 9
伏見
稲荷神社 山鼻村 明治19 明治31. 3 新琴似神社 琴似村 明治
新札幌市史 第4巻 通史4
(札幌都市計画街路)
中島橋東詰 広路 5 大学雁来通 北15条西5丁目 札幌村大字雁来村 55m 広路 6
伏見
公園通
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