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新札幌市史 第3巻 通史3
(庁舎と位置)
庁舎と
位置
新発足した札幌区の要となる区役所庁舎は、財政的にも場所的にも区制施行と同時に独自の建物を,同年十一月十一日区役所
位置
を「北三条東一丁目一番地」とする告示を出し引越しすることにより、三年余の支庁仮住,区役所は苦心の末入手した北三条東一丁目の土地を九月いっぱいで立ち退くことになり、北五条西三丁目番外地への
位置
変更 / 庁舎と
位置
新札幌市史 第1巻 通史1
(札幌の研究史的位置)
札幌の研究史的
位置
札幌を中心とする地域の考古学研究史は、北海道の考古学発達史のなかでも、特に重要な,
位置
を占める。 / 札幌の研究史的
位置
新札幌市史 第1巻 通史1
(札幌市の地質学的位置)
札幌市の地質学的
位置
北海道の地図をみると、日本海側の石狩湾から太平洋岸の苫小牧に至る、ほぼ南北に広,札幌市はこの石狩低地帯の西側、つまり、地質学的には西部北海道の東北縁部に
位置
しているのである。 / 札幌市の地質学的
位置
新札幌市史 第5巻 通史5上
(『北海道文学』と『位置』)
『北海道文学』と『
位置
』 昭和三十七年に研究と評論を中心とする雑誌が相次いで刊行された。,十一月創刊の『
位置
』は藤女子大学内「
位置
」の会発行。 / 『北海道文学』と『
位置
』
新札幌市史 第2巻 通史2
(市(町)会所・区務所の位置と名称)
市(町)会所・区務所の
位置
と名称 その後町会所は現在の南二条西二丁目にあった町長屋の一棟に移されるが,場所を「現時〓乾物店の所」としているが、明治四十三年の『札幌区商工新地図』(札幌歴史地図 明治編)の同
位置
/ 市(町)会所・区務所の
位置
と名称
新札幌市史 第3巻 通史3
(北海道における札幌の位置)
北海道における札幌の
位置
大正九年(一九二〇)にわが国初の国勢調査が行われた。,ところで道都としての札幌は、経済的にはどのような
位置
にあったのだろうか。 / 北海道における札幌の
位置
新札幌市史 第3巻 通史3
(道内における札幌の教会の位置)
道内における札幌の教会の
位置
二十世紀に入る前年、明治三十三年(一九〇〇)十月に、札幌在住のアメリカンボード / 道内における札幌の教会の
位置
新札幌市史 第3巻 通史3
(町村役場)
表-8 区制期の町村長 町村役場の
位置
と庁舎は発足時に戸長役場をそのまま引継ぎ、のちに変更せざるを,明治四十三年豊平、藻岩などの町村の一部を札幌区に編入したので、その役場
位置
が札幌区内になってしまったのも,しようとしたが、道庁はこれを許さず、移転先を二転三転させた結果、大字月寒村三二番地―一へ新庁舎を建て
位置
変更,琴似村でも役場
位置
の変更をめぐる紛争が続いた。,二級村になって「村役場の
位置
は琴似村にして、新琴似、篠路へは距離遠く一方に偏在の傾向あるより、新琴似へ
新札幌市史 第5巻 通史5下
(区制をめぐる議論)
同委員会は、区の名称変更(幌北区を北区に、北栄区を東区に、藻南区を南区に、琴似区を西区に)、豊平区役所の
位置
,豊平区役所の
位置
は、四十二年十一月の市の「区制施行及び庁舎新築に関する基本構想」では月寒運動広場(旧月寒競輪場跡,四十五年十二月の「指定都市に関する調査特別委員会」への説明で、五区制案を七区制案に変更し、その中で豊平区役所の
位置
,四十六年九月の前記条例案は豊平区役所の
位置
を平岸四七七番地の一としていた。,四十七年三月市議会第一回定例会に平岸での豊平区役所庁舎設計料を含む予算案を提出、十五日可決され、豊平区役所の
位置
問題
新札幌市史 第3巻 通史3
(分村問題)
この問題の背景には村役場の
位置
をめぐる問題もあった。,すなわち当時の所在地は現在の琴似二条七丁目(現西区役所所在地)にあり、村の南端に偏した
位置
となっており,三十九年の二級町村制の施行の際に、役場
位置
については将来協議することとされ、四十五年四月にいたり、札幌支庁,から八軒の
位置
指定がなされた。,大正五年に村役場の
位置
を移転することにより解決がはかられたが決裂し、再び分村問題へと発展していった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇T四六五遺跡(豊平区羊ヶ丘一番地他))
早期後半に
位置
する微隆起線文・撚糸文・絡条体圧痕文が複合施文される土器で、最末期に
位置
する不整撚糸文を
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇T二一〇遺跡(豊平区西岡五条一三丁目))
月寒川左岸段丘上に
位置
し、標高は一三三~一三九メートルである。,縄文時代早期最末期に
位置
する、不整撚糸文を特徴とする丸底に近い鉢型土器も共に得られた。
新札幌市史 第4巻 通史4
(桑園駅などの設置)
桑園駅などの設置 鉄道敷設法が施行されると、その後の運動は札沼線の分岐点や設置駅の
位置
などについての,一つは分岐点となる
位置
について、鉄道会議通過直後の大正十二年一月九日、分岐点として桑園駅を新設する運動,そして十三年駅
位置
は、札幌競馬場で競馬開催されるときに臨時の乗降場が設置される場所に決定し(北タイ 大
新札幌市史 第4巻 通史4
(本龍鉱山、豊富鉱山、豊宏鉱山)
位置
は定山渓西南方面を虻田街道に沿い一三キロメートルのところという。,豊富鉱山は、薄別川の上流薄別温泉から約四キロメートルに
位置
し、昭和二十年頃までは国蔵鉱山と呼ばれていた,豊宏鉱山は、定山渓から小樽方面へ六キロメートルほどのところに
位置
する、金・銀・銅・鉛・亜鉛鉱山である。
新札幌市史 第2巻 通史2
(都市景観に関するもの)
薄野遊廓は設置当時市街地に隣接した
位置
にあった。,狸小路の私娼は薄野遊廓よりも市街地の中心部に
位置
したため、より大きな批判が出される。,狸小路については、薄野遊廓よりも市街地の中心部に
位置
していたこともあり、被い隠すという意識よりも、市街地外,そして二十年代後半には一部をゴミ捨て場としたり、さらに植樹地として
位置
付けられ、樹種の選定まで記事に出
新札幌市史 第1巻 通史1
(八幡宮の勧請)
また
位置
は、イシカリ領字サッポロ山麓で、地所一二〇間、社林一五町を願い出ている。,ただし、この
位置
の指定はすでにこれ以前に箱館奉行からなされていたようである。
新札幌市史 第1巻 通史1
(集落)
いの微高地上に立地し、それらは直線距離で五〇〇メートル前後の間隙がある部分もあるが、多くの場合対岸に
位置
,⑤ 住居相互の距離は地形、前代の窪みの
位置
によって違ってくるが、原則として住居の一辺と等しいか一辺の二倍,⑥ もっとも好適と考えられる
位置
に住居はまず作られ、次第に劣悪な条件の地に移っていく。,遺跡(一七軒)についても、出土遺物から明確な年代を確定できる住居跡は少ないものの、住居の規模・かまどの
位置
新札幌市史 第2巻 通史2
(三県分置の布告)
二十五日太政官が裁可を仰ぐという正常な法的手順を経て、十五年二月二十八日「函館札幌根室三県管轄区画并県庁
位置
左,函館県 県庁
位置
渡島国亀田郡函館 管轄 渡島国 一円 後志国ノ内八郡 磯谷郡 歌棄郡 ,寿都郡 太櫓郡 瀬棚郡 久遠郡 奥尻郡 島牧郡 胆振国ノ内 山越郡 札幌県 県庁
位置
石狩国札幌郡札幌,幌別郡 勇払郡 白老郡 千歳郡 北見国ノ内四郡 宗谷郡 枝幸郡 利尻郡 礼文郡 根室県 県庁
位置
新札幌市史 第1巻 通史1
(清田台地)
支笏軽石流は、焼山とその東南約四・五キロメートルの
位置
にある白旗山(標高三二一メートル)山塊との鞍部(,~四〇メートル、同三度以下)、南郷一八丁目白樺団地~市営バス白石営業所(同三〇~二五メートル)などが
位置
新札幌市史 第4巻 通史4
(市域)
オからクにかけての一帯は豊平町と隣接し、ク・コ辺が東端に
位置
する。 ,
位置
は北緯四三度三分(昭和二年より四分と標示)東経一四一度二一分で、その市役所
位置
は「札幌市北一条西二丁目一番地,ここは明治四十二年八月十日区役所
位置
としたところで(札幌区告示五六号 明42・8・10)、以後新庁舎移転,まで継承したから、区役所から通して二七年八カ月余ここに
位置
したことになる。,表-1 市設水準点 標石設置
位置
No.
新札幌市史 第5巻 通史5下
(新庁舎建設)
「基本構想」は、①新庁舎の
位置
は北一条西二丁目とする、②交通の便利、官公署との連絡の便利、もと本庁舎の,これをもとに市は、十二月市議会第四回定例会に「札幌市役所の
位置
を変更する条例案」を提案した。,市議会は十五日に「庁舎の
位置
に関する議案審査特別委員会」を設置し、翌四十三年一月三十日、自民、社会、新政
新札幌市史 第2巻 通史2
(後期二兵村)
当時、札幌郡篠路村に属する土地が大半だったからで、ここが札幌四兵村の最北部に
位置
し、二十二年の入地をもって,を固めていた江別、野幌兵村を分離したことになるが、これはあくまでも陸軍大隊編成基準によることで、その
位置
,図-1 新琴似・篠路屯田兵村の
位置
明治29年版五万分の一地形図「札幌」(部分 国土地理院), 篠路兵村の中隊本部と北海道庁の距離は約八・二キロメートルで、四兵村中で最も遠くに
位置
している。
新札幌市史 第4巻 通史4
(都市計画街路の変更)
そのずれた白石駅通と交差する地点を終点とした白石六条通も終点
位置
を変更することになったのである(公文雑纂,琴似地区では、桑園琴似通(二等大路第五号)、琴似雁来通(二等大路第一七号)の
位置
の一部変更である。,、白石六条通(前出)、東札幌駅前通(二等大路第二二号)、東札幌駅裏通(二等大路第二三号)については、
位置
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇T四六四遺跡(豊平区羊ヶ丘一番地他))
月寒川の支流、ラウネナイ川右岸段丘上に
位置
し、標高六二~六七メートルである。
新札幌市史 第1巻 通史1
(市内の土器)
これらの遺跡から出土した土器は、すべて後葉から終末に
位置
づけられる。,他の遺跡出土の土器は、T二一〇遺跡出土の土器より古く
位置
することが確実視されているが、それぞれの遺跡間
新札幌市史 第1巻 通史1
(この時期の評価)
第二に、サッポロ越新道が開かれ、札幌が交通上の要衝の
位置
をしめることになったことである。,第三に、イシカリ建府論の形成と確立がみられ、その中でもとりわけ札幌の
位置
付けが、有力視されてきたことである
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇N一九九遺跡(西区西野二条八丁目))
◇N一九九遺跡(西区西野二条八丁目) 手稲山腹に源流を持ち扇状地の西側を流れる中の川右岸に
位置
する。
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇T一五一遺跡(豊平区東月寒五条一三丁目))
豊平区東月寒五条一三丁目) 月寒川とラウネナイ川の合流点の、標高三六~三九メートルの東に面する段丘上に
位置
新札幌市史 第1巻 通史1
(待たれる資料の発見)
しかし、同じ石狩低地帯に
位置
する江別市や千歳市からは、かなりまとまった数の古人骨が発見されているので、
新札幌市史 第3巻 通史3
(都市の醜景と遊廓の機能)
への遊廓再建は行政上問題ないが、「区住民の一人として観るときは移転すべき必要は確かに之を認む、現在の
位置
,は市街のやや中央に位し併も公園の通路なれば、区の体裁上
位置
変更の必要を免れしむ」という意識をもっていた,しかし、薄野遊廓が区市街地の中央に
位置
を占めるようになったことで、その跡地の利用についてもすでに考慮しようとしていたことがうかがわれる
新札幌市史 第1巻 通史1
(滝野丘陵)
つまり焼山―白旗山山塊の背後にある丘陵地で、駒岡地区・自衛隊月寒演習場・滝野自然公園などが
位置
するところである
新札幌市史 第1巻 通史1
(石狩海岸砂丘)
石狩海水浴場はこの砂丘列の北東端に
位置
しているのである。
新札幌市史 第3巻 通史3
(札幌茨戸間の運河)
札幌茨戸間の運河 札幌茨戸間の輸送は、小樽石狩を経て札幌への物資輸送路として常に重要な
位置
付けを与えられていた
新札幌市史 第5巻 通史5上
(公・民の労働者教育)
勤労青年学級は事実上、年齢層を絞った労働者教育であり、少なくとも高度経済成長期までは、社会教育の中で重要な
位置
,その軸に
位置
づいてきたのは、小・中学校ならびに高等学校の教職員組合および四十年代に入ると大学教職員組合
新札幌市史 第1巻 通史1
(下サッポロ)
これらの場所は、漁場の創設場所であり、
位置
も河川流路の変転により一定してはいなかった。,なお下サッポロの
位置
は、伏籠川の下流域で、フシコサッホロとも呼ばれていた。
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの機能)
イシカリは西蝦夷地の海上航路において、箱館とソウヤの間のほぼ中間に
位置
し、またすでにユウフツとをもって,越新道も完成し、加えていま一つとして構想されているサッポロ越大新道においても、その全道程のほぼ中間に
位置
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ「場所」と鮭)
イシカリ「場所」と鮭 イシカリ川と、その支流に
位置
する現在の札幌市域を包括した地域が、きわめて鮭の豊富,干鮭の多くとれる地域は、夏商の主産物として家臣へ給与されていたし、一方の「生鮭」は、藩主の利権として
位置
新札幌市史 第2巻 通史2
(町区画を示す図)
『新撰北海道史』第三巻では、同図の建物の
位置
をいくつか修正して「札幌草創図」として掲載し、四年末の状態,されていること、第四に大通以南の民家にその所有者または住民と思われる人名が記載されていること、第五に民家の
位置
新札幌市史 第2巻 通史2
(管理共用施設)
管理共用施設 新琴似の中隊本部は兵屋とともに入地の前年、すなわち明治十九年に建築されたと考えられ、その
位置
,土台替等により多少のずれはあったとしても、建築当初の
位置
や方向を大きく変えていないと思われる。,その
位置
は現在の屯田小学校の敷地で北区屯田七条六丁目、中隊長等の官舎はその北側にあった。,学校は練兵場の北側に
位置
し、二十三年六月長永簡易小学校の名で開設、「翌二十四年私立と為り、海南尋常高等小学校
新札幌市史 第2巻 通史2
(西村権監事七カ条伺の札幌本府)
実態として島判官在任中に決定した
位置
とどれだけ変更したのか不明である。,同じ
位置
を示した可能性が大きい。,しかし当時の円山とは、現在の三角山を指すこともあるので、この
位置
について一考を要するかもしれない。
新札幌市史 第5巻 通史5下
(札幌市における高等専門学校成立前史)
は五十二年七月、「北海道発展計画」に、国立釧路医科大学・国立函館複合大学とともに、国立芸術大学新設を
位置
,市においても、五十一年十一月に策定した「新札幌市長期総合計画」のなかで芸術大学の設置促進を
位置
づけていた
新札幌市史 第3巻 通史3
(遊廓の移転)
醜景である薄野遊廓は、市街地の発展で区の中心部に
位置
してしまったために、以前のように樹木などで封じ込めようとするのではなく,しかしこの薄野遊廓のあった場所とその周辺の飲食店街を含めた歓楽街としての
位置
付けは大きく変わらず、現在
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇S三五四遺跡(白石区本通一丁目南一四))
◇S三五四遺跡(白石区本通一丁目南一四) 望月寒川右岸の標高二五メートル前後の段丘上に
位置
する。
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇S一五三遺跡(白石区厚別東三条二丁目))
◇S一五三遺跡(白石区厚別東三条二丁目) 野津幌川右岸の標高二七メートル前後の段丘上に
位置
する。
新札幌市史 第2巻 通史2
(市中移住民の草小屋の可能性)
札幌区劃図』、『戸籍番号帳 全』、『地価創定請書』などを突き合わせると、『地価創定請書』にある地所の
位置
,と『札幌区劃図』に記載されている
位置
と合わない場合が出てくる。
新札幌市史 第4巻 通史4
(都市計画風致地区)
豊平川上、10藻岩山、11札幌神社、12発寒川、13新川公園通、14やちだも公園通、以上一四カ所である(
位置
新札幌市史 第1巻 通史1
(厚別台地)
北星学園大学(同七〇~三〇メートル、同三度以下)と続く台地、白石区の上野幌―青葉町―ひばりが丘、厚別中央などが
位置
新札幌市史 第1巻 通史1
(耕地)
つぎに村の
位置
であるが、一番浜田と二番鈴木の間にある「イナリ」が、発寒神社のあった場所(現春日公園および,この場合、鉄道が太線で入っているので、
位置
関係がよく分かるし、整然と区画された発寒屯田兵村と対照的に、
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇手稲遺跡(N一遺跡 西区手稲前田五二四―一九))
石狩町との境に存在する紅葉山砂丘の南端近くの、海抜標高約一〇メートルに
位置
する。
新札幌市史 第2巻 通史2
(本府建設と寺院)
また札幌は、本府として本道の行政の中心と
位置
づけられたため、札幌およびその周辺に各宗派の基幹的な寺院が
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