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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (円山)

円山 独立したドーム状の山体を構成する岩石は、紫蘇輝石安山岩である。 / 円山
新札幌市史 第5巻 通史5上 (円山の山神碑)

円山の山神碑 一方、円山山頂の山神碑(明5・12建立)のように霊場信仰の普及とともに再興されたものもある,円山は札幌の都市建設に必要な石材の供給源であり、明治初期には上田万平のように石材搬出で財をなした者が現,れ、山神の建立もこれらの搬出業者や石工らによって行われたが、建立の翌年には円山からの石材採掘は廃止された,しかし、大正三年五月に「桜の名所として世に知られる札幌神社の境内の植林の美しさと、天然の風致に富む円山公園,も次第に市民に親しまれることに鑑み、更に一歩を進めて円山の原始林を広く世に紹介する」(円山の歴史と自然 / 円山の山神碑
新札幌市史 第4巻 通史4 (円山町の誕生)

円山町の誕生 藻岩村では、昭和十三年二月二十六日に飯田誠一村長から村議会に対して、藻岩村を円山町と改称,なお、藻岩から円山への改称変更の件であるが、藻岩は円山、山鼻村が併合した際に採用された名称であり、「元来斯,却テ円山村ハ明治三年来歴史的ノ村名ニシテ現在村構成ノ主体モ円山ニシテ、今日ニ於テハ藻岩村トシテ通スルナク,、一般円山村ト称セラレ居候」と述べ、「歴史的ノ村名」で「村構成ノ主体」である円山に変更する趣旨が記述されている,写真-8 藻岩村・円山町の町村長 / 円山町の誕生
新札幌市史 第2巻 通史2 (円山村の野菜)

円山村の野菜 円山村の野菜がいつごろから特産化したものか明確ではないが、前述の石川の報告から十年代半,その後南一条西一〇丁目辺りで始められた円山朝市がその特産化に拍車をかけたようである。,生産されたものは『円山百年史』によると、じゃがいも、玉ねぎ、にんじん、ごぼう、キャベツ、大菜、大根、ねぎなどである / 円山村の野菜
新札幌市史 第4巻 通史4 (藻岩村・円山町)

藻岩村・円山町 藻岩村は当初は二級町村で、桜井秀夫(大12・10~15・12)、佐藤正三郎(大15・,六年七月に一級町村となってからは佐藤正三郎、飯田誠一が村長となり、十三年四月十五日より町制が施行となり円山町,一方、村民の集会施設として円山公会堂が大正十三年六月に造られ、十五年からは村会議場としても利用された。,円山公会堂はブロック造り二階建て、建坪一一〇坪で約五万円の工費を要していた。,(円山百年史)。 / 藻岩村・円山町
新札幌市史 第3巻 通史3 (円山村選定の理由)

円山村選定の理由 それではどのような理由から円山村をアイヌ実業補習学校の設立地として選定したのであろうか,小谷部が当時の北海道の各区町村のなかで、直截に円山村を選定したとは考えにくい。,円山村は副次的な存在であるといってよい。,そこで隣接する諸村に目を向け、円山村を選定したわけであるが、どのような点で円山村が条件的に優れていたのであろうか,また、実際に払い下げ可能な土地として宮内省所管の円山養樹園(現円山公園)や陸軍省所管の火薬庫地(現啓明地区 / 円山村選定の理由
新札幌市史 第4巻 通史4 (円山町の札幌市合併)

円山町の札幌市合併 藻岩村(昭13・4より円山町)は、札幌市に近接しているだけに大字円山村を中心にして,連担戸数、戸口は円山の市街地としての発展を示すものであり、円山村の人口増加はすべて市街地に集中していたといえるのである,円山百年史)。,これも円山が札幌市に通勤するサラリーマンのベッドタウン化していたことを示すものであった。,円山町と札幌市との合併は、昭和十六年四月一日に実施された。 / 円山町の札幌市合併
新札幌市史 第3巻 通史3 (「円山村独立陳情書」)

「円山村独立陳情書」 藻岩村の山鼻地区の札幌区編入後の問題となるのは、藻岩村の存立及び円山村の帰属問題,これに対して円山村では、四十二年十月に上田善七、土田金次郎を総代として「藻岩村境界変更に付大字円山村独立村,先の「陳情書」では「円山村は本道に於ける最古の村落」と歴史の古さを訴えていたが、円山村は明治三年の山形県,そのせいもあってか円山村は結束力の固いところであったといえる。,このような「一致協同」の「美風」が支えとなって、円山村の「独立」が叫ばれたといえよう。 / 「円山村独立陳情書」
新札幌市史 第2巻 通史2 (円山村の副戸長選考)

円山村の副戸長選考 開拓使の副戸長人選にあたっての態度は、平岸村の例でよくわかったが、もう一例円山村,円山村の副戸長は当初阿部仁太郎であった。,人物の選考にあたって、その頃検地のため円山村へ巡回していた権少主典高畑利宜に、「実際目撃之状及問合」をおこなった,しかしその後副戸長への昇進がないために、九年九月十八日に円山村から五人組長八人、副総代二人より副戸長拝命 / 円山村の副戸長選考
新札幌市史 第4巻 通史4 (円山町の札幌市への合併)

円山町の札幌市への合併 十五年四月に至り、札幌市、円山町の双方で合併に向けての準備がなされるようになった,札幌市では新設中学校の敷地を円山町内に求めており、また上水道の浄水池、円山公園、運動場など市の施設も町内, 札幌市円山町合併関係書類綴)。,円山町ではこの日、札幌神社にて午前十時に合併奉告祭が執行され(札幌市でも同社で午後一時に)、その後、円山小学校,円山町では十五年八月に開基七〇周年記念式が挙行されたばかりであったが、ここに円山・山鼻村、藻岩村と続いた / 円山町の札幌市への合併
新札幌市史 第5巻 通史5上 (天然記念物―藻岩山・円山)

天然記念物―藻岩山・円山 市内には円山、藻岩山の二カ所の天然記念物がある。,藻岩山と円山は、大正四年七月三日に道庁の原生天然保存林の指定を受け、八年に成立した史跡名勝天然記念物保存法,この時の指定面積は円山が五五ヘクタール、藻岩山が三五〇ヘクタールであり、野幌原始林も三二二ヘクタールが,伐採などによって指定区域は減少し、現在の指定面積は藻岩山が二八四・六八ヘクタール、円山が四三・九一ヘクタール / 天然記念物―藻岩山・円山
新札幌市史 第3巻 通史3 (アイヌ実業補習学校の円山村設立計画)

アイヌ実業補習学校の円山村設立計画 札幌区の西に隣接する円山村にアイヌ実業補習学校を設立する計画が具体化,調査結果は明らかになっていないが、これによってアイヌ実業補習学校を円山村に設立する方向で活動を開始したと,円山村設立が正式に決定されたのは、二条、辻、島田、加藤、坪井、湯本、小谷部らが出席した同年九月十四日の / アイヌ実業補習学校の円山村設立計画
新札幌市史 第4巻 通史4 (争議の経過)

争議の経過 札幌郡藻岩村(現・中央区を中心とする地域、昭13町制施行円山町と改称、16・3札幌市に編入,)の円山小学校が同郡手稲村大字上手稲村字西野(現・西区西野)に所有する学田地において、昭和初期に起きた,一方地主である藻岩村(円山町)の役場史料も若干ではあるが残されている。,明治三十九年四月、円山村と山鼻村が合併し、二級町村藻岩村が設置された。,、円山小学校が五一円三〇銭、山鼻小学校が四二円八〇銭、全村の平均は四八円八〇銭となる。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (上水道拡張の開始)

しかし昭和十六年札幌市と合併した円山町域への配水管延長二四〇〇メートルを布設する第一次配水管拡張事業が,二十三年度には円山地区の南一~北二条間西二〇~二二丁目の区間に配水管増設、二十四年度には豊平、北光、苗穂三地区,に四六〇〇メートル、円山地区の中心部に八一〇〇メートルの配水管を増設した(札幌市水道五十年史 札幌市水道局,二十五年には五カ年計画事業の一環として、円山地区他七地区に配水管を張り巡らすことになった。  ,山鼻,豊平,幌西,南円山,宮の森,菊水上町 32 山鼻,桑園,南山鼻,豊平,南円山,幌北 33 南円山
新札幌市史 第3巻 通史3 (藻岩村の農業と朝市)

大正七年に円山と伏見・山鼻の生産者を糾合した藻岩村蔬菜組合が創設されたが、十二年の組合員は四二〇人に達,円山の朝市は円山の名物であり、円山野菜は札幌区内でも評価が高かった。,大正七年に二七〇余人の生産者により円山村蔬菜組合が設置され、四月に西二五丁目通に円山蔬菜類販売所が開かれた,十一年四月には再び西二四丁目通に移転するが、戦時中の経済統制により昭和十七年四月に廃止となるまで(円山百年史
新札幌市史 第5巻 通史5上 (〔市立厚生病院〕)

〔市立厚生病院〕 二十三年に急性伝染病が終息し、円山病院の患者が減少したことから、市では同病院施設の,有効利用と慢性的不足の結核病床補充などを目的に、新病院を円山病院内に併置して同年十一月に開設、厚生病院,職員は円山病院職員が兼任した。,二十五年には棟続きの円山病院(西南側・五〇床)と厚生病院(東北側・七〇床)とを分割し、二十七年五月には,厚生病院の名称を廃止し市立札幌病院円山分院と称し、東米里診療所(昭31開設)を円山分院所属とした。
新札幌市史 第4巻 通史4 (仏道宗教結社)

宗教結社は説教所までにいたらない小規模な宗教団体であったが、十五年から十七年までの間に札幌市及び円山町,3西9 西沢禅達 400人 高野山大師教会六条結社 南6西13 本間妙田 118人 曹洞宗龍興結社 円山,157 上田守蔵 600人 経王寺円山布教所 円山182 傳 光徳 60人 日蓮宗一乗結社 円山南3-,2 今井左吉 - 日蓮宗顕信結社 円山南6-1 坂本玄善 30人 本妙法華宗円山結社事務所 円山3-2,丹波智勝 276人 浄土真宗本願寺派円山説教所 円山131 山口教圓 120戸 本門法華宗本門仏立講円山教会
新札幌市史 第3巻 通史3 (青物市場)

このほか円山村(藻岩村字円山)では、明治末年から路上で円山朝市が行われていたという。,市街地の拡大と蔬菜生産の増加により、大正七年には円山蔬菜組合(組合長上田万平)が結成され、組合を母胎に,弘く大方の諸君に告く 毎度皆様御愛用の円山独特手作りの採りたての青々生き々々した最もオイシイ畑の者山,(札幌青物共同購買所にあらず)     円山蔬菜組合 円山蔬菜類販売所(北タイ 大7・4・25),、当初円山蔬菜市場と一本化する構想もあったが、まとまらず分立したものである(小樽新聞 大7・1・23)
新札幌市史 第1巻 通史1 (琴似川扇状地)

琴似川扇状地 琴似川は荒井山スキ―場の上手に源を発して宮の森を貫流し、界川や円山川を合流して新川に注,この川で運搬された砂礫からなる円山動物園や円山競技場の緩斜面が琴似川扇状地である。
新札幌市史 第3巻 通史3 (藻岩村の成立)

藻岩村の成立 円山村と山鼻村を合わせて、明治三十九年四月一日に二級町村の藻岩村が設置された。,四十二年四月一日現在の戸数は、大字山鼻村が九〇〇戸(本村七三二戸、白川・八垂別一六八戸)、大字円山村が,人口は、大字山鼻村が三九二五人(本村三三六一人、白川・八垂別五六四人)、円山村が一〇一二人、合計で五〇,もと養樹園の建物を移設したものであったが、これにより円山が藻岩村の中心となっていく。,すなわち、大字山鼻村には伏見、上山鼻、四号ノ沢、五号ノ沢、八号ノ沢、石山通、白川の七部、大字円山村には
新札幌市史 第7巻 史料編2 (三 移住民情況調査報告)

三 移住民情況調査報告 五六 移民履歴調(明治一〇年調)  札幌市街  山鼻村  円山村  ,移住民情況調(明治一七年調)  札幌区  札幌雁来苗穂丘珠 四ケ村  篠路村  山鼻村  円山村, 篠路村  豊平村  上白石村  白石村  月寒村  平岸村  琴似村  山鼻村  円山村
新札幌市史 第4巻 通史4 (神道系宗教結社)

神道系宗教結社 表8は十五年以降に届けられた札幌市内(円山町を含む)神道系宗教結社をまとめたものであるが,13西9 後藤藤太郎 15人  同 修験道豊平御嶽堂 豊平2-3 武田ソネ 100人  同 弁天講 円山南,片山浅治 7人  同 富士山祈禱所 円山南3-5 神田勝男 8人  同 白龍祈禱所 円山46 生駒トメ,円山217 井上弥一郎 20人  同 不二藻岩布教所 円山325 権平トメ 10人 神道大教三山講社,円山15 佐藤鉄次郎 7人 天理教幌西布教所 円山34 齋藤市平 5戸  同 西札幌布教所 円山291
新札幌市史 第4巻 通史4 (養狐)

『札幌郊外・円山町・琴似・軽川・明細図』(昭13)には札幌の養狐場がほとんど記載されている。,円山では滝ノ沢、旭ヶ丘、円山第二小学校裏、山鼻では南二四条石山通附近(図1)、手稲では軽川に多い。,円山滝ノ沢 札幌旭ヶ丘養狐場 山下万平 円山町旭ヶ丘 村山養狐場   円山南10の6 国際養狐場 中野三次郎,円山西町地区の養狐業者も昭和十八年、「戦時体制と飼料不足のため」一斉に廃業した。,ただ、双子山町地区の養狐場だけは、昭和二十二年まで続いている(円山町百年史)。
新札幌市史 第4巻 通史4 (学田地の売却)

学田地の売却 円山町は昭和十五年七月二十七日、新たに「自作農創設維持奨励規程」全一七条を制定したが、,売買代金は水田を例にとると、円山町の提示価格が反当り一五三円一銭に対し、仲介役の手稲村長は一一八円八二銭,そして、この学田地の解放問題が落着した直後の十六年四月一日、円山町は札幌市に編入された。
新札幌市史 第4巻 通史4 (「郊外繁昌記」)

「郊外繁昌記」 昭和二年(一九二七)の『北海タイムス』に「郊外繁昌記」が連載され、山鼻、円山、桑園、,たとえば、当時藻岩村であった円山については、以下のように住宅ラッシュの様子を述べている(昭2・8・29,私は今年の春から、毎日のやうに円山を通ってゐるが、月毎に、日毎に新築の家屋の殖えて行くこと、実に驚くばかりである,円山四丁目の琴似街道が、つい去年の秋まで塵芥捨場(ごみすてば)であった所も、今は立派な宅地となり、道路,大通西一五、一六丁目に建設した一二〇戸の住宅団地をはじめとした宅地化が進み、それがやがて西進して藻岩村の円山
新札幌市史 第3巻 通史3 (明治四十年の公園計画方針)

明治四十年の公園計画方針 次に明治四十年に作成された中島公園と円山公園の設計方針を掲載する。,散置し公衆に不便なからしむるの方針を以て計画せり(後略) 写真-5 大正初期の中島公園 〔円山公園,〕  札幌区円山公園の設計方針 円山公園は本区の西部に位し地勢丘状を為し面積広闊にして喬木老樹蓊蔚,と繁茂し南方に円山官林西方円山又は三角山、手稲山等の高峰を控へ西方頂上の瀑布の下流は円山の麓数百間を環流,梅林となし紅白の梅樹を植栽し林下に花卉秋草等を疎植し四時の観覧に供し梅林中には若干の曲線歩道を設置し又円山入口
新札幌市史 第4巻 通史4 (昭和五年の争議)

『円山学田地小史』には、ある小作人代表の日記の一部が紹介されている。,〔昭和五年〕 十月七日 始めて総会を開き、円山学田地水田小作年貢は一反歩十円の契約なるも、米価暴落と,十月九日 斎藤銀蔵円山役場へ行き、詳細説明して嘆願書を提出。,十一月一日 役場よりの手紙により、前鼻松次郎、斎藤銀蔵、斎藤健次郎の三人円山役場へ行き、詳細願意説明。,十一月十八日 円山役場より、米納の件も納期時価換算の件も認められず、二割減の八円と決定せる旨通知あり。
新札幌市史 第4巻 通史4 (住宅の問題)

まず藻岩村大字円山村の場合、大正十三年札幌電気軌道(昭2札幌市営電車となる)が円山公園まで全通したことを,受けて、十四年四月には円山地主会(大11創立)が名称も円山振興会と改め、住宅適地の宣伝に乗り出した。,『大正十四年円山振興会寄附金芳名簿』(文資)によれば、宣伝の目的として、円山村の発達、道路の新設、各利益,この時一〇〇〇枚印刷されたポスターには、「円山十勝」として、円山の環境、交通、地代の低廉、公課金の僅少,図2は、昭和初期円山村に建てられたO家の文化住宅である。
新札幌市史 第3巻 通史3 (内務省の反対)

内務省の反対 このようにアイヌ実業補習学校の円山村設立計画は順調に進んでいた。,これに対して内務省北海道課長白仁武から、アイヌ小学校の円山村設立は「北海道旧土人保護法」に違反するという,ヲ提出スヘシ」(同前)という強硬意見も提出されたが、「衆議ニ依リ一歩ヲ譲」(同前)り、アイヌ小学校の円山村設立,この決定によって、同会のアイヌ実業補習学校の円山村設立計画も白紙撤回となった。,こうして札幌区民の理解と協力を得た「北海道旧土人救育会円山学園」構想も幻で終わった。  
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌敬神講社の設立)

これに続いて藻岩村でも、円山敬神講社が同年五月九日に発会式を挙げて設立されている。,の向上、精神の作興を図り祭典及維持に関する事業を翼賛し、併せて部落民の親睦を図るを以て目的」とし、「円山部落民全員,藻岩村の円山地区では明治二十九年に札幌神社崇敬講をつくっていたが、円山敬神講社はこれをもとに成立したものである,札幌市と円山地区が札幌神社への奉仕、祭典の実行組織として協調して両敬神講社の創設を図ったのであった。
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌区の公園経営計画)

札幌区の公園経営計画 札幌区による計画的な公園造成及び経営は、前述の円山養樹園の経営計画を発展する形,その理由は「都市ニ公園ヲ要スルハ論ヲ俟タズ」として、中島遊園地と円山公園の整備について「公園ノ如キ之レガ,その後四十年になって、東京市役所嘱託員長岡安平と助手田中真次郎に中島遊園地と円山公園の設計を依頼した(,四十二年から一部事業が着手され、円山公園内に苗圃が開設され、大通には逍遙地に適する相当の設備を加えた(,このように円山公園、中島公園、大通逍遙地は明治四十年以降順次整備されていった。
新札幌市史 第3巻 通史3 (公園の設備)

公園の設備 前述のとおり区制諸問題調査の中で、すでに円山と中島遊園地を公園候補地としていた。,また円山養樹園については、三十六年御料局に貸下を申請した(北タイ 明36・4・24)。,そして札幌区では円山の公園地の実地調査を行った(北タイ 明36・9・13、24)。,しかし十月二十二日の臨時区会で円山養樹園の借受を可決した(北タイ 明36・10・23)。
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌都市計画街路)

58間 広路 2 やちだも公園道路 円山北5条通起点 競馬場南側 55~110m 広路 3 新川公園道路,都市計画区域界 25m 1 3 8 中島通 白石2条2丁目 豊平町大字平岸村 25m 1 3 9 白石円山通,大学石山通 北7条西11丁目 西15丁目通終点 25m 1 3 13 公園通 中島公園西口 藻岩村大字円山村,5条通 月寒円山通終点 琴似山手通屈曲点 20m 2 1 4 琴似山手通 札幌神社前 都市計画区域界,豊平町大字月寒村 円山北五条通起点 20m 2 2 1 川北通 南1条東7丁目 白石国道新架橋北詰
新札幌市史 第4巻 通史4 (諸町村の幼稚園)

幼稚園 札幌市に隣接する諸町村のなかで、昭和戦前期における唯一の幼稚園は、昭和九年四月に藻岩村大字円山村,に開園した私立円山幼稚園である。
新札幌市史 第2巻 通史2 (学田)

また円山学校は上手稲村西野に払下げをうけ、小作人を入れて開墾させたが、小作料収入が教育施設の充実、村民,の負担軽減に大きく寄与したのは三十年頃からといわれる(円山百年史)。,あしりべつ) 琴似学校 50 上手稲村西野 山鼻学校 65 砥石山官林 上手稲学校 20 上手稲村西野 円山学校,円山学校は山口村にも学田にする計画があった(「札幌県学務課視察報告書」による)。
新札幌市史 第4巻 通史4 (市域の拡大と新町名付与)

次いで十六年四月一日には円山町が札幌市と合併した(昭和十六年札幌市告示第一二四号で旧字名に円山町とある,さらに十六年円山町と合併したことで、同地区に字名が付与された。,21西14 南21西15 南22西14 南22西15 南23西14 南23西15 北4西21~西30 円山町字円山,/円山 同 宮ヶ丘/滝の沢 同 円山南町 円山町字円山字山鼻の一部 伏見町 同町字山鼻の一部 山元町/,藻岩下 同 藻岩山 同町字円山字山鼻字八垂別 川沿町/北の沢 円山町字八垂別の一部 中の沢/南沢 同
新札幌市史 第2巻 通史2 (修業年限と補習科の設置)

例示すれば月寒小(三十年)、信濃小・円山小(三十一年)などである。  ,補習科の設置についても規定しているが、この時期新琴似小(二十九年)、下手稲小(三十年)、札幌女子高小・円山小
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌電気軌道会社の事業)

苗穂線(大8・5、北3西4道庁前~北3東7)、南一条線(大9・1、東2~東3頓宮前)、円山線(大10・,苗穂線(大11・12、東7~苗穂駅前)、山鼻線(大12・8、南4西4薄野交番前~南14西7行啓道路)、円山線,(大12・10、南1西17~琴似街道)、円山線(大13・5、琴似街道~円山公園)、豊平線(大13・11
新札幌市史 第4巻 通史4 (【主要参考文献・史料】)

札幌村札幌市境界変更関係書類』『白石村事務引継書』『昭和十六年白石村村会議決書及会議録』『昭和十年度藻岩村村会』、円山町,『許可認可関係書類綴』『町会関係書類』『昭和十五年町会関係書類』『昭和十五年円山町町会議録』『札幌市円山町合併関係書類綴,北海道凶荒災害誌』、『白石村誌』、『北海道拓殖功労者旌彰録』(昭11)、『篠路村史』、『手稲町誌』、『円山百年史,』、『豊平町史』、『簾舞沿革史考』(大4)、『伏見史稿』(大15)、『円山西町の沿革』(昭41)、『豊平町開町七十周年
新札幌市史 第4巻 通史4 (諸町村の道路)

昭和十六年に札幌市と合併するが、その前年の道路の様子は先の昭和十五年の地図にあるとおりで、円山町の中心部,図-7 札幌郡藻岩村大字円山道路網図(大12)三関武治資料より 表-14 諸町村の道路 町村名,年代 国道 地方費道 準地方費道 市町村道 その他 資料 円山町 大12 17町 12町27間 5,14 18町 45里30町6間 拓殖費支弁町村道 1町30間 琴似村村勢一班 昭和14年6月調 円山町昭和
新札幌市史 第3巻 通史3 (貯金組合と納税組合)

円山では貯金組合である円山惟信組合を四十四年一月に創設している。,円山ではもと三十七年一月に同様な貯金組合が組織されていた。  
新札幌市史 第4巻 通史4 (青果市場問題)

生産者が、直接市場で消費者あるいは小売商に販売するという方式は、すでに円山朝市で行われていた。,また、札幌市会議員松本菊次郎、琴似村農会は桑園市場を開設、円山朝市が閉店している午後三時から開店する方針,皆無であるのに対し、その他の市場はほぼすべて地元産が占めていること、その他の「産直的な」市場のなかでは円山朝市,30,000 合計 318,350 18,241 70,963 407,554 1.藻岩村蔬菜組合円山販売場,は通称円山朝市,あるいは円山市場。
新札幌市史 第4巻 通史4 (市街地の広がりと郵便局の新設)

大正十二年には、南一条西一八丁目辺の地主であったという薮惣七から郵便局の設置請願が出され、円山通局が開設,さらに昭和五年には円山郵便局も開設されるが(北タイ 昭5・6・22)、十年になると円山局での電信取り扱,#160; 8. 4 . 6  札幌南六条郵便局 改称 昭  5. 6 .16 円山郵便局,新設,三等局,藻岩町大字円山村円山北1-2 昭10. 7 .26 札幌南一条東郵便局 新設,三等局,,新設,三等局,円山町字円山南6-3 昭14. 1 .16 札幌逓信講習所前郵便局 新設,三等局,南7
新札幌市史 第4巻 通史4 (新庁舎)

一つは円山町が昭和十六年四月一日に札幌市と合併したため、従来の円山町役場が市役所円山出張所となり、旧町役場,しかし存続期間は一年に過ぎず、市役所機構では十七年三月三十一日をもって円山出張所が廃止された(告示三七号,ここが使用不可能となった時は、さらに円山国民学校屋内運動場へ移転することとした。
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌近傍の林相)

二等官林 円山、藻岩、本庁ヨリ西北官園外琴似川迄  鴨々水門ヨリ上、本八垂別、下豊平橋辺迄  平岸村,ヨリ精進川迄南方川筋  円山神社境内外、及円山村ヨリ琴似村界平林  篠路太ヨリ石狩川筋対雁村迄両側平林,、琴似村ヨリ西南円山ニ接ス  篠路村ヨリ花畔村ノ間  雁来村ヨリ豊平川沿岸対雁村迄平林、篠路村ヨリ東北,有珠新道筋豊平川筋湯ノ沢ヨリ定山川上迄、白石村ヨリ東北平林  「アシヽベツ」ヨリ野津幌迄ノ間街道ヨリ北側  円山村
新札幌市史 第2巻 通史2 (周辺村落との連絡路)

表-9 開拓使時代道路開削 4年 創成通円山間(南1条通),豊平川平岸村間(平岸街道),札幌元村篠路村間,対雁街道,銭函道札幌神社追分間,市街白石村間,豊平村島松村間,本願寺脇石山間 6 篠路村花畔村間 7 円山銭函間新道修繕工事,8 篠路村花畔村間 9 円山小樽間道路修繕,雨竜通篠路駅逓間道路修繕,石山新道開削(国道230号),
新札幌市史 第4巻 通史4 (八十八ヶ所)

八十八ヶ所 円山には、大正三年に弘法大師(空海)が四国八十八ヶ所を開場して一一〇〇年になるというので,、それを記念して成田山新栄寺及び藻岩村の上田万平、善七などが中心となって円山八十八ヶ所が開かれた。,円山八十八ヶ所の開眼式は五月九日に行われ、維持管理には成田山の大師報徳講があたるようになった。
新札幌市史 第7巻 史料編2 (三 地租創定事業)

札幌通   雁来村   下手稲村   白石村   上白石村   豊平村   苗穂村   円山村,雁来村   下手稲村   白石村   上白石村   豊平村   苗穂村   雁来新道   円山村
新札幌市史 第5巻 通史5上 (進駐軍の民間施設接収と破壊)

接収施設は、次々と増大し、松竹座や円山球場、総合グラウンド(昭21・5・10接収)は、米軍専用となり、,接収された個人住宅は植物園近くの伊藤豊次邸、円山の醸造業者斉藤甚之助邸、中島の西鷹二邸など市内有数の邸宅
新札幌市史 第1巻 通史1 (後藤寿一の分布調査)

)、④南一三条西一三丁目(擦文土器片・擦文文化期の竪穴住居跡)、⑤南一六条西一四丁目(磨製石斧)、⑥円山三丁目,(厚手土器)、⑦円山一丁目(擦文土器)、⑧円山段丘(黒曜石片)、⑨伏見(縄文土器、石匙)、⑩藻岩村上山鼻
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