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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第3巻 通史3 (円山村選定の理由)

円山村選定の理由 それではどのような理由から円山村をアイヌ実業補習学校の設立地として選定したのであろうか,小谷部が当時の北海道の各区町村のなかで、直截に円山村を選定したとは考えにくい。,円山村は副次的な存在であるといってよい。,そこで隣接する諸村に目を向け、円山村を選定したわけであるが、どのような点で円山村が条件的に優れていたのであろうか,他の村落と比較して円山村は地形が変化に富み、農業以外にも多様な実習が可能であった。 / 円山村選定の理由
新札幌市史 第2巻 通史2 (円山村の野菜)

円山村の野菜 円山村の野菜がいつごろから特産化したものか明確ではないが、前述の石川の報告から十年代半 / 円山村の野菜
新札幌市史 第3巻 通史3 (「円山村独立陳情書」)

「円山村独立陳情書」 藻岩村の山鼻地区の札幌区編入後の問題となるのは、藻岩村の存立及び円山村の帰属問題,これに対して円山村では、四十二年十月に上田善七、土田金次郎を総代として「藻岩村境界変更に付大字円山村独立村,先の「陳情書」では「円山村は本道に於ける最古の村落」と歴史の古さを訴えていたが、円山村は明治三年の山形県,そのせいもあってか円山村は結束力の固いところであったといえる。,このような「一致協同」の「美風」が支えとなって、円山村の「独立」が叫ばれたといえよう。 / 「円山村独立陳情書」
新札幌市史 第2巻 通史2 (円山村の副戸長選考)

円山村の副戸長選考 開拓使の副戸長人選にあたっての態度は、平岸村の例でよくわかったが、もう一例円山村,円山村の副戸長は当初阿部仁太郎であった。,人物の選考にあたって、その頃検地のため円山村へ巡回していた権少主典高畑利宜に、「実際目撃之状及問合」をおこなった,しかしその後副戸長への昇進がないために、九年九月十八日に円山村から五人組長八人、副総代二人より副戸長拝命 / 円山村の副戸長選考
新札幌市史 第3巻 通史3 (アイヌ実業補習学校の円山村設立計画)

アイヌ実業補習学校の円山村設立計画 札幌区の西に隣接する円山村にアイヌ実業補習学校を設立する計画が具体化,調査結果は明らかになっていないが、これによってアイヌ実業補習学校を円山村に設立する方向で活動を開始したと,円山村設立が正式に決定されたのは、二条、辻、島田、加藤、坪井、湯本、小谷部らが出席した同年九月十四日の / アイヌ実業補習学校の円山村設立計画
新札幌市史 第7巻 史料編2 (三 移住民情況調査報告)

三 移住民情況調査報告 五六 移民履歴調(明治一〇年調)  札幌市街  山鼻村  円山村  ,移住民情況調(明治一七年調)  札幌区  札幌雁来苗穂丘珠 四ケ村  篠路村  山鼻村  円山村, 篠路村  豊平村  上白石村  白石村  月寒村  平岸村  琴似村  山鼻村  円山村
新札幌市史 第3巻 通史3 (藻岩村の成立)

藻岩村の成立 円山村と山鼻村を合わせて、明治三十九年四月一日に二級町村の藻岩村が設置された。,四十二年四月一日現在の戸数は、大字山鼻村が九〇〇戸(本村七三二戸、白川・八垂別一六八戸)、大字円山村が,人口は、大字山鼻村が三九二五人(本村三三六一人、白川・八垂別五六四人)、円山村が一〇一二人、合計で五〇,これにともない円山村一三一番地(現南二西二四)に役場が移転され、四十三年六月五日に落成開庁式が行われている,すなわち、大字山鼻村には伏見、上山鼻、四号ノ沢、五号ノ沢、八号ノ沢、石山通、白川の七部、大字円山村には
新札幌市史 第3巻 通史3 (内務省の反対)

内務省の反対 このようにアイヌ実業補習学校の円山村設立計画は順調に進んでいた。,これに対して内務省北海道課長白仁武から、アイヌ小学校の円山村設立は「北海道旧土人保護法」に違反するという,ヲ提出スヘシ」(同前)という強硬意見も提出されたが、「衆議ニ依リ一歩ヲ譲」(同前)り、アイヌ小学校の円山村設立,この決定によって、同会のアイヌ実業補習学校の円山村設立計画も白紙撤回となった。
新札幌市史 第7巻 史料編2 (三 地租創定事業)

札幌通   雁来村   下手稲村   白石村   上白石村   豊平村   苗穂村   円山村,雁来村   下手稲村   白石村   上白石村   豊平村   苗穂村   雁来新道   円山村
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌神社崇敬講の結成)

札幌神社崇敬講の結成 前編七章で述べたように、円山村民を中心とした近傍住民は、札幌神社に対して地域の,(札幌神社崇敬講組合名簿 北海道神宮)  頭取として上田万平、副頭取藤森銀蔵(共に円山村)、さらに崇敬講世話方,として三一人の名があり、講中として円山村九〇人、琴似村三七人、山鼻村二六人、桑園内一一人、上手稲村一二人
新札幌市史 第6巻 史料編1 (〔明治六年市在状況調〕)

開拓使管轄石狩国札幌郡札幌町第五区戸籍表〕   〔総計〕   〔「開拓使管轄石狩国札幌郡各村戸籍表」〕   〔円山村, 平岸村(明治6年6月9日検地開始)    2 月寒村(明治6年6月13日検地開始)    3 円山村,  〔月寒村〕   〔札縨村〕   〔篠路村〕   〔琴似村〕   〔下手稲村〕   〔円山村
新札幌市史 第2巻 通史2 (副戸長の設置)

   札幌村名主 小熊善右衛門   手稲・発寒村      手稲村貫属取締 伊藤作助   琴似・円山村,この年(五年)六月に、琴似・円山村が分かれ琴似村は引き続いて坪内猪之助、円山村は阿部仁太郎となる。
新札幌市史 第4巻 通史4 (円山町の誕生)

併シテ役場所在地ノ円山村ハ連担戸数二千六百六十三戸ニ達セリ。加之(かてて)年々激増ノ趨勢ニ在リ。,却テ円山村ハ明治三年来歴史的ノ村名ニシテ現在村構成ノ主体モ円山ニシテ、今日ニ於テハ藻岩村トシテ通スルナク,、一般円山村ト称セラレ居候」と述べ、「歴史的ノ村名」で「村構成ノ主体」である円山に変更する趣旨が記述されている
新札幌市史 第2巻 通史2 (東区の状況)

円山村がそれである。円山村は明治三、四年に山形県から三七戸、岩手県から六戸が移住して開村した。,これは円山村は未開地が少なく一般の移住者の入地も僅少なことにもよるが、それ以上に郷里からの呼び寄せのネットワーク,ただ円山村の事例は稀有なものといえる。
新札幌市史 第4巻 通史4 (争議の経過)

明治三十九年四月、円山村と山鼻村が合併し、二級町村藻岩村が設置された。,この際、教育費特別会計制度ができ、大字円山村では、学田地小作料の中から一定金額を教育費に繰入れ、住民の,同年度の藻岩村の戸数は、大字円山村五五〇戸、同山鼻村二二九戸の計七七九戸であるから、一戸当りの教育費は,円山村の場合、前述のように四三八九円の特別収入があり、これは一戸当り七円九八銭という金額である。
新札幌市史 第2巻 通史2 (崇敬講の活動と性格)

講の構成も、円山村を中心とした農民がほとんどであり、さらに規則中の「農隙」云々もこれを裏付けている。,すなわち名目はともかく、同講は円山村を中心とする近辺農民が札幌神社を、地域住民の産土神社とした氏子組織
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌付近の石材の発見)

この書簡の二カ月後、札幌郊外円山村に石材が発見される。,『事業報告』第三編〔物産・礦物〕の五年三月「札幌大工職大岡助右衛門円山村石材を発見シ掘採ヲ出願ス」がそれである
新札幌市史 第4巻 通史4 (諸町村の幼稚園)

幼稚園 札幌市に隣接する諸町村のなかで、昭和戦前期における唯一の幼稚園は、昭和九年四月に藻岩村大字円山村
新札幌市史 第2巻 通史2 (移民の編成)

庚午三ノ村平八郎組(明治三年十月~四年一月)→庚午三ノ村人員(明治四年二、三月)→庚午三ノ村(円山村),→平八郎組(明治四年四、五月)→円山村人員(明治四年六、七月)→発寒村人員(明治四年七~十月)  これによると,平八郎組は発寒に入植したが、行政村の管轄では庚午三ノ村(円山村)とされた。
新札幌市史 第4巻 通史4 (円山町の札幌市合併)

円山町の札幌市合併 藻岩村(昭13・4より円山町)は、札幌市に近接しているだけに大字円山村を中心にして,たとえば円山村の戸数・人口及び市街地の連担戸数・戸口の推移をみると、表14のようになっており、人口は毎年一,連担戸数、戸口は円山の市街地としての発展を示すものであり、円山村の人口増加はすべて市街地に集中していたといえるのである,表-14 円山村の戸数・人口及び市街地の連担戸数・戸口 戸数 連担戸数 人口 連担戸口 大11 392
新札幌市史 第2巻 通史2 (例祭と近傍住民)

この後も角力・手踊奉納・献灯等の願が出されているが、十一年には直接円山村の一般村民から願が宮司あて提出,この後も円山村を中心とする近傍農民は、同社に対して産土神的な心情をもって接し、二十年代に至って同村民を
新札幌市史 第4巻 通史4 (電車路線とその延長)

西17 南 1 東 6 1哩57鎖395  哩 鎖  3哩34鎖79 円山線 南1西17 円山村畑,円山村畑18は現在の大通西28,苗穂町畑125は苗穂駅前,山鼻町畑397は南17,18西7,豊平町18
新札幌市史 第2巻 通史2 (辛未移民の編成)

③は円山村入植の予定が変更となり、花畔村に行く。組頭は四月中に一方井茂内のみとなった。,③のみ六月に円山村一方井茂内組と記すが、七月以降花畔村人員に吸収されたらしく消えている。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (救済事業)

また、白石村でも十一年備穀方法を定め、一戸大麦四斗ずつ貯蓄したり(白石村移住以来保存ノ書類 道開)、円山村,でも十八年円山村積穀規約を設置し、非常の備えとした(円山百年史)。
新札幌市史 第2巻 通史2 (作物の特産化)

は蚕、桑、麦、豆、豊平村は蔬菜少し、平岸村は蔬菜少し、月寒村は大麦、小麦、牧草、山鼻村は桑、麦、豆、円山村,しかしこの時代に円山村の蔬菜、札幌村の玉ねぎ、新琴似村、篠路村の大根が特産化している。
新札幌市史 第2巻 通史2 (移民の到着)

月寒村    四月七日到着  一四四人(一七一人)  ③陸中三番組(一方井茂内・鈴木末治組) 花畔・円山村,当初円山村の予定であったが変更になったようで、円山村には五戸のみが繰入れられた(市史 第七巻二四五頁)
新札幌市史 第2巻 通史2 (市街と周辺村落との境界)

十一年六月に山鼻村と円山村では、地理課が測量後に道路を境界としたことから、境界辺にいた二戸を山鼻村から,円山村へ送籍しなければならなくなった。
新札幌市史 第2巻 通史2 (副戸長の兼務)

副戸長の兼務 副戸長の未設置の村では、平岸・円山村のように設置を求める声が強かった。
新札幌市史 第4巻 通史4 (住宅の問題)

札幌同交 南18西9   2.3 30,000 札幌正徳 藻岩村大字円山村,まず藻岩村大字円山村の場合、大正十三年札幌電気軌道(昭2札幌市営電車となる)が円山公園まで全通したことを,『大正十四年円山振興会寄附金芳名簿』(文資)によれば、宣伝の目的として、円山村の発達、道路の新設、各利益,図2は、昭和初期円山村に建てられたO家の文化住宅である。,写真-3  軽川造林会社住宅地分譲の新聞広告(北タイ 昭3・6・2) 図-2 藻岩村大字円山村
新札幌市史 第2巻 通史2 (戸長の変遷)

一 山鼻・円山村   ①大堀忠八(十三年二月二十二日~十七年十月二十三日)   ②荒木進三郎(十七年
新札幌市史 第2巻 通史2 (戸長役場の移転と分立)

すなわち、(一)山鼻・円山村(戸長役場は山鼻村に設置)、(二)琴似・発寒村(琴似)、(三)上手稲・下手稲,山鼻・円山村の戸長役場は山鼻尋常小学校に併設されていたが、二十三年二月七日に火事で焼失する。
新札幌市史 第2巻 通史2 (移民の出発と到着)

、山形県移民は庚午一ノ村(苗穂村)に三六戸一二〇人、庚午二ノ村(丘珠村)に三〇戸九〇人、庚午三ノ村(円山村,庚午のことに由来しているが、四年五月二十五日に改称され、庚午一ノ村は苗穂村、二ノ村は丘珠村、三ノ村は円山村
新札幌市史 第3巻 通史3 (【主要参考文献・史料】)

『東区拓殖史』、「町村誌資料」『札幌の歴史』第四~七号、『藻岩村一班』(明42)、『札幌郡藻岩村大字円山村部落
新札幌市史 第2巻 通史2 (周辺村落の形成と移民)

開拓使上層部の紛糾と島義勇の転任により多くの問題を残したが、主に山形・新潟県内から募集され、苗穂・丘珠・円山村
新札幌市史 第2巻 通史2 (明治三、四年成立の村)

三村は四年五月に、苗穂・丘珠・円山村と改称になる。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (その他の村落)

中には円山村のように、明治七年から村で筆算教師荻野景範をおいて教育を始めたが、八年に開拓使から手稲教育所,に通学を命ぜられ、このため特に冬期間の通学難渋等を理由に、荻野に円山村筆算教師の発令方を村総代から願い
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌近傍の林相)

西北官園外琴似川迄  鴨々水門ヨリ上、本八垂別、下豊平橋辺迄  平岸村ヨリ精進川迄南方川筋  円山神社境内外、及円山村,有珠新道筋豊平川筋湯ノ沢ヨリ定山川上迄、白石村ヨリ東北平林  「アシヽベツ」ヨリ野津幌迄ノ間街道ヨリ北側  円山村
新札幌市史 第3巻 通史3 (藻岩村の農業と朝市)

大正七年に二七〇余人の生産者により円山村蔬菜組合が設置され、四月に西二五丁目通に円山蔬菜類販売所が開かれた
新札幌市史 第2巻 通史2 (戸長の任免と村民との対立)

たとえば高田直一郎は①山鼻・円山村、④豊平ほか四カ村、③上手稲・下手稲・山口村の戸長を歴任している。,表-10 各村戸長の変遷(明治17年~39年) ①山鼻・円山村 氏 名 任 命 退 任 高田直一郎 19,(一)山鼻・円山村戸長の高田直一郎、大堀忠八、遠藤正明の三人は山鼻兵村の屯田兵、ないしその子弟であった
新札幌市史 第4巻 通史4 (区から部へ)

藻岩村は大字円山村に五条通、一条通、神社通、滝ノ沢、界川、伏見の六部、大字山鼻村に上山鼻、四号沢、五号沢,、八号沢、石山通、白川の六部とされていたが、大正十四年に円山村の部を人口増加により第一部から第八部までと,昭和三年に部から区へ改正され、人口増加の著しい円山村は七年に一一区、十三年四月には一四区とされた。
新札幌市史 第2巻 通史2 (コレラの流行)

このため急拠上手稲村にあった仮避病院を円山村(現大通西一九丁目)に移して八月二十五日開院して患者を収容,結局この年のコレラは、円山村の避病院が十月十日に閉じられるまでに患者七人を出し、うち六人が死亡するという
新札幌市史 第2巻 通史2 (市街地の拡大)

西方は南二条から北五条が西二〇丁目付近まで広がり、南の山鼻村や西の円山村と市街を接するようになってきた
新札幌市史 第2巻 通史2 (組頭から村三役へ)

この中で指摘できることは、豊三郎組の組頭であった日田豊三郎(円山村)、徳次組の今野徳次(丘珠村)、元右衛門組
新札幌市史 第4巻 通史4 (実現しなかった軌道計画)

最後に、札幌鋼索鉄道株式会社が昭和五年十二月二十六日、円山村の円山の双子山側から頂上ヘケーブル・カー敷設
新札幌市史 第3巻 通史3 (就学督励と「名誉旗」の授与)

ここでは手稲村と円山村の両村の実態について言及しておこう。,円山村の場合は手稲村とは逆に男子が女子を上回っている。,にはそれが大幅に縮まり、男子一〇〇パーセントに対して、女子九八・七〇パーセントとなった(札幌郡藻岩村大字円山村部落状況
新札幌市史 第2巻 通史2 (農場の設置)

この中で在地の人物は土田金次郎(No.3)があるが、これは円山村の共有地として払下をうけたものである。,同 上 99,178 29,718 元老院議官 3 土田金次郎 同 上 92,597 4,300 円山村総代人,また上手稲村の西野に所在した円山村の学田は大正末期で約七〇町、小作は約三〇戸といわれ(西野用水地組合 
新札幌市史 第2巻 通史2 (農産の中心・札幌)

円山村ハ明治三年蔬菜ヲ播種シ、六年大小豆粟黍玉蜀黍ヲ播種ス。,71.4 1.0 果樹(本) 0 0.0 1200 16.0 1173 15.9 908.6 12.3 円山村,その中で旧開二村の中では札幌村が、新開村の中では円山村が相対的に安定した姿を示している。
新札幌市史 第2巻 通史2 (年中行事)

 国旗・大灯籠・大幟・山車・神輿御渡・子供手踊・素人相撲・見世物・氷店・パン屋等繁盛(市中)、神楽(円山村札幌神社,氷店繁盛 札幌共同競馬会 二・三日 中島遊園地 七夕 市中蠟燭せがむ声かまびすし 円山開村紀念祭 十五日 円山村,十四日から十六日にかけて営まれる例祭は、円山村にある神社から年に一度札幌市中への[御神幸行列」、すなわち
新札幌市史 第2巻 通史2 (学務委員と学区)

学区は当初は一番(札幌区)、二番(山鼻村)、三番(円山村)、四番(琴似・発寒村)、五番(上手稲・下手稲
新札幌市史 第2巻 通史2 (市中移転問題と遙拝所の建立)

困難等を理由に、「社地ヲ当市中適宜ノ場所へ換移シ、壮麗ナル社殿を建築」することを願い、計費については円山村往還
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