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新札幌市史 第1巻 通史1
(出稼の諸相)
出稼
の諸相 島義勇は松前江差地方を視察し「近年不漁の由にて、土人(松前江差の住人)男子は大形石狩辺の,奥え
出稼
に参り候由」(安政四年五月晦日付書状)と報告し、成石修輔は木古内で「里人は皆
出稼
して、常に夷地,その
出稼
人はイシカリ改革直前、イシカリの両隣場所にひしめいていた。,イシカリ近隣へのこのような
出稼
増加は、箱館奉行の積極的な奨励施策によるところが大きい。,こうした封建的通行流通の制限撤廃とともに、道路や通行家の整備をすすめ、
出稼
の便をはかった。 /
出稼
の諸相
新札幌市史 第1巻 通史1
(山田家の出稼)
山田家の
出稼
前幕府直轄以後、ユウフツ、サル場所からイシカリへの山田文右衛門
出稼
漁場は着実に増加し、,これから推計すると山田
出稼
の鮭水揚高は年平均二〇〇〇石以上と考えられ、イシカリ鮭荷物の約三〇パーセント,天保後期からのイシカリ鮭漁高の上昇は、東蝦夷地の先進漁法を身につけた山田の
出稼
に負うところが大きいといえよう,ここの
出稼
役は三七役といい、水揚の三割を阿部屋に納めた。,もう一つの留意点は新規の浜中引場(川口西方)へ実際に
出稼
したのは梶浦屋五三郎と瀬川屋孫兵衛だったこと。 / 山田家の
出稼
新札幌市史 第1巻 通史1
(出稼人の交代)
出稼
人の交代 イシカリ改革にともなう漁場改会所と網持
出稼
人を主軸とした漁業展開は、五年にして曲り角にさしかかった,大半の
出稼
人の経営は不安定で出入りがはげしく、先の見通しが立たない。,イシカリ役所は困窮した
出稼
人へ、応急の米塩を貸し付けたが、その返済が滞る一方で、ついに文久元年(一八六一,この際、次のように
出稼
人に申し渡した。,ここで注意しなければならないのは、
出稼
人と金主(仕込みや融資をする人)と改会所の関係である。 /
出稼
人の交代
新札幌市史 第1巻 通史1
(出稼所の設置)
出稼
所の設置 ロシアとの境界画定が成立しておらず、ロシア・日本双方の雑居地となっていたカラフトに、幕府及,カラフトの西海岸クシュンナイに、イシカリ
出稼
所が設置されたのも、その動向の一端であった。,この
出稼
所の漁場選定のために、城六郎はこの年(安政六)に、はじめてカラフトに渡る。,五月に提出された、「北地エ石狩
出稼
所番家取建、其外出張為致候義ニ付申上候書付」(北蝦夷地仕出之部御用留,それによると、すでにクシュンナイヘイシカリ
出稼
所の番家を取建てることが伺い済となっているが、実地に調査 /
出稼
所の設置
新札幌市史 第1巻 通史1
(山田家の出稼形態)
山田家の
出稼
形態 改革前から
出稼
をつづけた山田文右衛門の場合は事情が違う。,表8は文久二年(一八六二)、ユウフツ場所からの
出稼
先と人数である。,表-8 ユウフツ場所からの
出稼
(文久2年)
出稼
地 目的 アイヌ 人数 和人 人数 出発月日 (,山田は従来の
出稼
引場をすべて継承し、ただ阿部屋に払っていた
出稼
役を、イシカリ役所に換えて納めれば良いだけである,図-5 ユウフツ場所
出稼
カレンダー / 山田家の
出稼
形態
新札幌市史 第1巻 通史1
(稲荷丸と山田家出稼荷物)
稲荷丸と山田家
出稼
荷物 稲荷丸の航跡をもうすこしたどってみよう。,那珂湊から大俵で二〇〇俵の塩を積んで箱館に入港すると、ユウフツ場所請負人でイシカリやオタルナイに
出稼
漁場,この年、稲荷丸がイシカリから山田家の
出稼
荷物を積み出すまでには、複雑な背景があった。,七六六頁)のように沖の口徴税が東西二分されると、請負場所は東蝦夷地にあるが、そこのアイヌを西蝦夷地に
出稼
,松前藩は
出稼
所の荷物はそれぞれの場所から積み出すことを認め、「ユウフツ御場所川下け名代免判」を山田家に / 稲荷丸と山田家
出稼
荷物
新札幌市史 第6巻 史料編1
(件名目次)
九 永住
出稼
一同への申渡請書(同年五月一八日) 一〇 川上
出稼
所見分請取の覚 一一,(同年七月) 三一 小商渡世
出稼
地所拝借願(同年七月) 三二 小商渡世
出稼
地所拝借願 ,三三 小商渡世
出稼
地所拝借願(同年七月一三日) 三四 小商渡世
出稼
地所拝借願(同年七月) ,三五 小商渡世
出稼
地所拝借願(同年七月) 三六 働方渡世
出稼
地所拝借願(同年七月一七日) ,(同年七月) 一五 餠屋渡世
出稼
居小家建築願(同年七月) 一六 小商渡世
出稼
居小家建築願(
新札幌市史 第1巻 通史1
(新漁場の割渡し)
既得権の中に新
出稼
人が割り込むにはねばり強い交渉が必要だった。,これらの人を一般の
出稼
永住者とわけて、網持
出稼
人と呼ぶことにする。,翌六年の状況をみると、吉五郎と弥右衛門が早くも網持
出稼
人から名を消す。,安政5年の鮭引場、網持
出稼
人、改役所勤番人等の配置が示されている。,表-6 イシカリ改革後の網持
出稼
人(安政5・6年) 網主 郷里 住居 イシカリにおける
出稼
引場 備考
新札幌市史 第6巻 史料編1
(〔村山家資料〕)
家内取締、利兵衛呼寄せ申渡書(文政二年) 八 石狩不漁、仕法立替書(文政三年) 九 石狩場所
出稼
約定書,(安政四年) 一〇 場所支配人より
出稼
所恩借願(安政四年) 一一 場所支配人より
出稼
所再願(安政四年,) 一二 場所支配人より
出稼
所再々願(安政四年) 安政二乙卯年四月 石狩御場所御引渡之節於彼地書上之扣八冊綴込, 文化十一戌年 文政元寅年 御用通諸品直段定帳 場処境小名里数 秋味鮭漁業高見込ヶ所 鯡場
出稼
人数,覚〕 〔材木津出場書上 覚〕 〔御通行御用状譴之御人足 日々雇土人介抱書上 覚〕 〔春鯡
出稼
新札幌市史 第1巻 通史1
(移住の自由)
まず、箱館奉行は、請負人が強く抵抗してきたイシカリにおける和人の定住を許し、
出稼
を積極的に奨励することにした,安政五年四月十三日、阿部屋伝治郎にイシカリ場所請負の差免を令し
出稼
人となることを命じ、この日から一漁場経営者,をしなくてすむが、これまでのようにアイヌを勝手に労役に使えなくなり(本陣で毎月交代の八人のみ許可)、
出稼
人,はこれまで通り イシカリ場所請負人 山田文右衛門
出稼
はこれまで通り 見世(店)開設(サツホロ辺),(店)開設(サンタラベツ辺) オタルナイ、フルビラ他 場所請負人 勝右衛門 漁業
出稼
申付(場所見立、
新札幌市史 第1巻 通史1
(カラフトへの足場)
クシュンナイ、東海岸はマアヌイ辺をわが国の北方開拓前進基地として整備、それより北側は日露両国が入会う
出稼
漁猟地,イシカリ役所は前述(第一章)のように、改革の年いち早くクシュンナイ経営の準備にあたり、翌安政六年から
出稼
人,そこへの
出稼
人の多くはイシカリ永住か
出稼
で、しかもクシュンナイ
出稼
人という名目になる。,イシカリ直捌との違いは、
出稼
人への仕込みまで箱館奉行所の名で行ったこと。
新札幌市史 第1巻 通史1
(山田家の難儀)
②
出稼
所の鮭も鯡も本請負場所の見込高に含める。,したがってイシカリ等へ
出稼
して生じた荷物はユウフツ場所の荷物の一部とみなす。,③
出稼
所のうち、イシカリ場所の鮭荷物は、イシカリで積み込み箱館へ廻送しなければならない(箱館奉行所,山田家のイシカリ
出稼
による鮭荷物は箱館廻送ときまったが、これが東蝦夷地ユウフツ場所の荷物高の一部と解釈,27 西地
出稼
荷物箱館廻送決定の報、松前に伝わる。
新札幌市史 第1巻 通史1
(城六郎の北地出張)
城六郎の北地出張 城六郎がクシュンナイのイシカリ
出稼
所を担当するようになり、これ以降毎年、クシュンナイ,カラフトのノダサン以北は、安政三年以降、松川弁之助を差配人とした箱館奉行の直捌がおこなわれ、イシカリ
出稼
所,これにともない、クシュンナイのイシカリ
出稼
所も廃止となったのである。,クシュンナイには、イシカリ役所の役人・番人などが越冬して、
出稼
所の取締りにつとめ、同心広田八十五郎のような,イシカリ
出稼
所の設置により、このクシュンナイを「石狩詰之附属」とし(白主御用所御用留)、イシカリ役所の
新札幌市史 第1巻 通史1
(人足役)
箱館奉行村垣範正が廻浦の途次、アツタよりイシカリ入りした折、イシカリよりオタルナイ川迄の道普請と共に、主に
出稼
人,このように
出稼
人・永住人が人足を出すということは、当時各藩でなされていた助郷(すけごう)などの人足役が,安政五年八月二十六日に、イシカリで
出稼
小商内渡世を願い出た箱館大黒町の与右衛門、江差在(ざい)の万吉は
新札幌市史 第1巻 通史1
(動員されるアイヌ)
この時期におけるイシカリ場所での大きな変化は、鮭の漁獲高増大をねらって投入された
出稼
和人労働力と、漁業,を直接購入して加工する方式をとってきたのに対し、イシカリ川下流域沿岸には請負人直営の鮭漁場さえでき、
出稼
和人,一方、この時期の十三場所外の労働力の動員の問題でユウフツアイヌのイシカリへの
出稼
がある。,ユウフツアイヌのイシカリへの
出稼
は、イシカリアイヌのユウフツ領千歳川への
出稼
と同様、第六章で触れたように,安政二年段階では、前出の表3・表6でもみたように、「ユウフツ
出稼
」分の諸施設が多くあることや、網引場が
新札幌市史 第1巻 通史1
(役鮭)
役鮭 イシカリ役所が網持
出稼
人に課した現物納の営業税を役鮭と呼ぶ。,サッポロフトを境に、その下流は三七役、上流を二八役として徴収したから、阿部屋請負時代に山田家が支払った
出稼
役率,役鮭八カ条(市史一二五頁)は、並の大きさの鮭を塩引きにして納めるよう定めたが、
出稼
人の負担が大きすぎるとし,安政六年を例にすると、表7のように網持
出稼
人分五八一一束、御手料場分(アイヌ漁)三三二四束、計九一三五束余,8,865石) 100 9,135 (3,045石) 100
出稼
人荷物高
新札幌市史 第2巻 通史2
(伝染病と離散)
このような病魔の直撃は対雁での生活を一層不安にし、対雁を去るきっかけを作り、ひいては樺太への
出稼
という,二十五年以降、唯一の頼みの綱であった漁業も連年不漁となり、このため樺太への
出稼
者を続出させた。,以後
出稼
者は増加の一途をたどり、三十三年には一三四戸、二四八人が石狩に残るのみであった(北海道殖民状況報文
新札幌市史 第1巻 通史1
(共同体意識の成長)
改革初年は網持
出稼
人だけの集会だったが、のちに広く永住人
出稼
人の参加が認められた。,このように人別帳ができ、まがりなりにも年貢を納め夫役を負担した永住
出稼
人を、百姓と呼ぶにはいたらなかったらしい,翌年の阿部屋再任により、この住人共同事業は陽の目を見なかったとはいえ、安政五年にはじまる
出稼
へのイシカリ
新札幌市史 第1巻 通史1
(勝右衛門の漁業)
勝右衛門の漁業 最後に新規
出稼
人浜名主勝右衛門の漁業をみることにする。,写真-14 ホリカムイにおける鮭漁 (明治の写真だが、改革時の和人引網をしのばせる) 新規の
出稼
,網と船の準備にも多額の金が必要で、
出稼
初年は古い網を使用したから「千本余入り候節、袋切れ残念」(生田目氏日記,
出稼
五年目の文久二年(一八六二)、勝右衛門が直接経営した引場はトウベツブトの二統のみで、その水揚は五二四束,グループは、イシカリにおける漁業の権利をすべて(三浦)源治らにゆだね、実質的な経営から手を引き、網持
出稼
人
新札幌市史 第1巻 通史1
(阿部屋の漁業経営)
阿部屋の漁業経営 次にイシカリ改革後の漁業経営の実態を網持
出稼
人の三例からうかがうことにする。,まず場所請負人を罷免され一
出稼
人となった阿部屋の場合を見よう。 ,請負人をやめたので運上金や仕向金が不要となり、この項で改革後に残るのは鯡
出稼
の建網冥加金のみとなる。
新札幌市史 第2巻 通史2
(徴兵令と徴兵検査)
また、札幌外九郡役所における徴兵適齢者数はおよそ一千四、五百人にのぼったが、徴兵事務が滞ったため、
出稼
,で生計を立てている者は
出稼
を一旦見合わせるなど支障をきたす者もでてきた。,当時の新聞には、
出稼
のため居所を他へ移す者や他府県よりの移住者が多く、ゆえに兵事係がいかに繁忙をきわめたかを
新札幌市史 第2巻 通史2
(貸家・空家の増加)
このため札幌市街の商業活動はストップし、店をたたんで貸家にしたり、仕事をもとめて
出稼
など転出する者が相次,開拓使がこの時点で調査したところ、
出稼
・出京等を理由に空家になった家が三一軒、商業活動が思わしくないので,結局、翌八年一月
出稼
等一家で出奔して帰郷する見込みのない二六戸の建家を没収することとし、拝借希望者へ貸与
新札幌市史 第1巻 通史1
(諸施設)
御制札、御焰硝蔵、元小家、 秋味帳場、板蔵23棟、茅蔵20棟、蝦夷雇小屋5棟 (計52棟) (ユウフツ
出稼
,) 居小家1、板蔵8、茅蔵3、蝦夷雇小家1 (計13棟) フンヘムイ 御小休所 シュフ (ユウフツ
出稼
,蝦夷雇小家1 (計6棟) ヒトエ 御昼所1、秋味居小家1、茅蔵2、蝦夷雇小家1 (計5棟) (ユウフツ
出稼
,蝦夷雇小家1 (計5棟) ツイシカリフト 秋味番家1、板蔵5、茅蔵2、蝦夷雇小家1 (計9棟) (ユウフツ
出稼
,チユクヘツフト 番家1、板蔵2 (計3棟) 『安政二年乙卯二月御詰所元小家番家神社蔵々員数幷間数書幷ユウフツ
出稼
所居小家員数間数書
新札幌市史 第1巻 通史1
(場所請負漁業の終末)
すなわち、 ① 春、アツタ、オタルナイ、タカシマの各場所に
出稼
し、鯡漁を行う。,備考 浜(川口西) 1 1 大網(浪高の時、小網で川に追網) 浜(シュップ) 1 1 大網、
出稼
役,3割 ホリカモイ 2 1 3 以下 元小家扱い、
出稼
役3割 ワッカヲイ 2 1 10 13 フル,4 4 ハナンクル 1 1 2 サツホロフト 2 2 ヒトエ 1 1 2 以下 ヒトエ扱い、
出稼
役,とはいえ阿部屋には山田家の
出稼
役二ないし三割が入り、アイヌ網漁のすべてが原則として集荷されたから、商品
新札幌市史 第1巻 通史1
(漁間農業の育成)
漁間農業の育成 イシカリ役所は改革を機に
出稼
奨励と表裏をなす生産活動の振興に力をそそぎ、〝無商売の者,この結果、
出稼
漁業者、商人、雑業者、アイヌの住居の周辺に自家賄い用の菜園が急増した。,網持
出稼
人は使用人の食糧を補うため畑作の必要にせまられ、浜名主勝右衛門は農民を雇ってポンライネに畑を開
新札幌市史 第2巻 通史2
(人足などの札幌への送り込み)
そこで、その見返りとして島判官は、浜益・厚田・忍路の
出稼
ぎ人を人足として本府建築に抱えこんだと考えられる,このことから、島判官は米を運送すると共に諸場所の
出稼
ぎ人たちも札幌へ集めたと考えられる。,また島判官がそうして物資を集めた背景には、北海道全般的な物資不足から諸場所の
出稼
ぎ人たちや永住人たちを
新札幌市史 第2巻 通史2
(困難な移住と開墾)
それと同時に、北海道に永住目的ではなく、〝一旗組〟と称された
出稼
ぎのつもりでくる人びとも多く、当初より,(とて)も田畑の耕作のみにては生活立ち行き難きが故に、男子は大工・石工・日雇・船乗等となり他の地方へ
出稼
,いよいよ)生計上の困難を招き… これによると大島郡は、田畑のみでは生活が成り立たず、大工・石工などの
出稼
,このような状況で失職した人びとが、新たな
出稼
ぎ先として北海道を選んだ可能性が高い。,以上の状況は大島郡のみではなく、人口過剰と耕地不足に悩む西日本各地の
出稼
ぎ地帯における一般的な状況であったろう
新札幌市史 第1巻 通史1
(松浦武四郎のイシカリ川筋探検)
ビトイ イシカリより5里、番屋、アイヌ小屋皆
出稼
、サルルユウフツより
出稼
、本名シノロ、蔵、弁天社、李の,番屋、弁天社、ユウフツ
出稼
番屋あり。ユウバリ
出稼
漁猟する。アイヌ小屋3~4軒。土地把沃。,アイヌの家が三、四軒あり、ユウフツ
出稼
の番屋もあって、さらにユウバリからもアイヌが
出稼
にきていた。,との境シママップにもユウフツ
出稼
番屋ができていた。,復領後からのイシカリとユウフツ場所間の取り決めによる相互の
出稼
が恒常化していたのであろう。
新札幌市史 第1巻 通史1
(住人の組織化)
イシカリ役所は来住の願い出をもとに、永住人と
出稼
人に区分して許可を与え、前者に家別銭である四半敷役(しはんじきやく,永住人、
出稼
人ともに
出稼
人別帳に繰り入れられるが、宗門を書く者は少なく、家内名(家族のほか雇人厄介人など,其旨相心得、御持役人様より御立合の上御改請、当方え相納可被致もの也」(市史一三八頁)とあるので、漁業者(網持
出稼
人
新札幌市史 第1巻 通史1
(改革の発表)
さらに改革後は、請負人を廃止して
出稼
となし、他の
出稼
も自由に認め、運上金のかわりに漁獲高の一割五分を上納金
新札幌市史 第1巻 通史1
(その用務)
① イシカリ川エベツフトより上川筋の場所を見立て、漁業
出稼
をすること。,詳しくは第三節に述べるが、網持
出稼
人となり、この利益を①②に振り向けるよう見込まれ、⑤の役手当を含めた,この仕事は「
出稼
の者等、近々百姓に取立候役の由」(生田目氏日記)といわれ、役務は藩政下の町役人同様であった
新札幌市史 第1巻 通史1
(弘前藩の関心)
嘉永六年春は、今別、三厩、増川の三町村だけで一一二人の領民が、一人五升の米を背負って西蝦夷地に鯡漁夫として
出稼
,しかし郡奉行は、これら領民の生活が西蝦夷地への
出稼
をぬきにして成り立たぬと指摘、労賃は前金で受け取っているし,このように、第二次幕府直轄期をむかえた西蝦夷地は、弘前領民の
出稼
なくして鯡漁が成り立たず、両地は経済的,
出稼
漁民をはじめ、多数の弘前領民の往来を受ける側の松前藩は、どう対応したであろうか。,漁業
出稼
や米のほか多くの生活物資を津軽に求めなければならなかった松前藩の立場を合わせ考えると、両藩の円滑
新札幌市史 第1巻 通史1
(勝右衛門)
彼の本籍ともいうべき宗門人別帳の所在は今のところ不明だが、
出稼
人別帳が二つ知られる。,その大工町一丁目に「一 イシカリ
出稼
市蔵店 水戸旅人五十嵐勝右衛門」の一行があり、イシカリ
出稼
は家業
新札幌市史 第1巻 通史1
(阿部屋のその後)
② イシカリにおける阿部屋の
出稼
引場はすべて新政権のもとに接収し、これを希望者に分割する。,②の処置として再分割されたイシカリの引場は表9の通りで、表6と対比すると、安政改革直後に登場した網持
出稼
人,表-9 明治3年 網持
出稼
人 網主 イシカリにおける
出稼
引場 統数 備考 山田家 浜中(東)、ホリカモイ
新札幌市史 第1巻 通史1
(第二次直轄とイシカリ)
しかしその一方では、漁場の解放により
出稼
・永住人が増大し、それに付随して商工人が移住し、町家や寺社の建築,改革後は役所の新築、役人の増加、カラフトのクシュンナイに
出稼
所の設置など、イシカリ役所は広範な職政を展開
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリの繁栄)
イシカリの繁栄 イシカリ改革以降、
出稼
人が大幅に増加し、越年もするようになった。,また箱館奉行でも、旅人役・越年役の免除、通行改の廃止などをおこない、蝦夷地への
出稼
・移住が簡便になると
新札幌市史 第2巻 通史2
(建設ブームのかげり)
市中の人びとが、店をたたんで貸家にしたり、仕事をもとめて他所へ
出稼
に出たことは前述した。,札幌市民の不景気による流出は七年にいたってもとどまらず、同年七月警邏課の調査では、市中九六三戸中一九六戸が
出稼
,はくりかえされ、十六年の場合、「市中空屋四百戸ばかりあるいは百戸位、大方は皆空知樺戸の両集治監と幌向炭坑へ
出稼
新札幌市史 第2巻 通史2
(高騰する地価と家賃)
ことに商人以外は融雪とともに仕事が開始される五月より地方
出稼
の職人や工事人夫が札幌を離れ、降雪とともに,このため翌二十六年一月には空家が五〇余軒にもおよび、仕事もなく、収入のいたって少ない者や地方へ
出稼
に出,二十八年秋の段階では漁場や内陸部の
出稼
から戻った人びとが入居してもまだ借家に余裕があった。
新札幌市史 第1巻 通史1
(産業)
石狩場所改革方取計之儀申上候書附」のうちに、 一 在住召遣農夫為助成鍵取漁差免候ニ付、サツホロ川エ番所壱ケ所足軽附限、其余
出稼
人漁場,これ以外にも、現場に
出稼
に行った者も少なくなかったと思われる。
新札幌市史 第1巻 通史1
(十三場所の出産物)
十三場所のアイヌたちは、イシカリ場所外まで鯡漁の
出稼
に行かされ、その漁獲物は十三場所の出産とされた。,此人数凡二千有余人(中略)イシカリ十三ケ所夷人モ早春鯡取ニ同処へ集リ候儀ニテ」とあって、十三場所のアイヌが
出稼
,鯡漁
出稼
のかたちで、アイヌの労働力の集約的使用が開始されているのが知られる。
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ御用達と問屋の出店)
イシカリ御用達と問屋の出店 イシカリ改革により
出稼
人の急増をみるが、その多くは資力に乏しく、有力商人,彼らはイシカリ役所の仕事のみにとどまらず、一般
出稼
人との関係を持たざるをえなかっただろう。
新札幌市史 第1巻 通史1
(本陣)
本陣 安政五年(一八五八)四月のイシカリ改革の申渡案によると、阿部屋伝二郎は請負を差免し
出稼
とみなし,これは旅行者、
出稼
人等が増加してきたためであり、また「女召抱」も認められている(五十嵐勝右衛門文書)。
新札幌市史 第3巻 通史3
(小作取締規則)
ノ承諾ヲ受ケタルトキハ未墾地ハ開墾及小作契約既墾地ハ小作契約ヲ締結スヘシ 第肆条 小作人遠隔ノ地ヘ
出稼
又,そして第四条にもあるように、小作人が無届で「
出稼
又ハ旅行等」を行った場合には、小作契約書の第七条(通常
新札幌市史 第1巻 通史1
(イシカリ役所の評価)
イシカリ役所の評価 イシカリ役所は、これまでみてきたように、イシカリ改革あるいはクシュンナイのイシカリ
出稼
所
新札幌市史 第1巻 通史1
(詰合役人の役割)
イシカリは一三カ場所の運上屋(元小屋)が所在する本拠で、蔵や
出稼
小屋など四十数棟が立ち並び、勤番所・武器庫,漁獲の見込高八〇〇〇石余、運上金は一〇〇〇両の大場所で、漁期には
出稼
人も増加し、大船も多数繰り込んでいた
新札幌市史 第1巻 通史1
(雇の実態と代償)
第一次直轄頃より河口のみならず、海浜に面していない十三場所のアイヌの人びとを鯡漁に近隣の場所まで恒常的に
出稼
,この時期の最終段階においては、タカシマ、オタルナイ、アツタ方面にアイヌ男女ともに
出稼
に行っているのがみられる,第二次幕府直轄直後の安政二年の場合、和人網引場一九カ所で三五七人、「蝦夷網」(榀網のことか)引場七カ所で二二三人、
出稼
網引場,このうち、和人網引場は、請負人直営の糸網を使用した網引場で、アイヌのほかに和人
出稼
者もいた。
新札幌市史 第2巻 通史2
(市中不況への対策)
そのため不況の実態をさぐるため、松本は六月十三日に開墾掛前田権大主典に「市中脱走等至急に取調」を指令して、
出稼
人
新札幌市史 第4巻 通史4
(貧困者の実態)
夫(53)が東京方面へ
出稼
ぎに出たまま音信不通、長男(14)が近年病死、二女、四女は奉公中、三男(9)
新札幌市史 第1巻 通史1
(安政三年の調査)
梁一間半、桁七間)・備物蔵・秋味帳場各一棟、板蔵二〇棟、茅蔵一二棟、テフキ(手葺の蔵か)二棟、ユウフツより
出稼
小屋一棟,〈ビトイ〉昼所一棟(梁五間、桁三間)、漁小屋ならびにユウフツ
出稼
小屋あり。 ,川口の手前に番屋一棟(梁五間、桁一三間半)、板蔵五棟、茅蔵二棟、雇夷人小屋一棟、ユウフツ
出稼
漁小屋一、
新札幌市史 第7巻 史料編2
(五 福岡・山口諸県民の移住)
明治一六年一一月二四日) 六九 福岡士族移民開墾状況調査復命書(明治一七年七月九日) 七〇 福岡移住士族
出稼
願出
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