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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第5巻 通史5上 (『北海タイムス』の創刊)

『北海タイムス』の創刊 戦後新興紙の旗揚げと、東京三紙が札幌、函館、旭川で傍系紙の発行に乗り出したことへの,に、二頁建ての「夕刊・北海タイムス」が創刊された。,この同時期に創刊された『新北海』と『夕刊・北海タイムス』の合併案が持ち上がったのは、二十四年八月十五日,北海タイムス社も同じ趣旨であったことから、二社を合併して事業能力の拡充を図ることで意見が一致し、北海タイムス,こうして二十四年十月一日、「新北海」は「北海タイムス」と改題された。 / 『北海タイムス』の創刊
新札幌市史 第5巻 通史5下 (『北海タイムス』の廃刊)

『北海タイムス』の廃刊 昭和五十八年高雄ビル開発(株)(後にたかをビル開発(株)に社名変更)代表の高橋幸雄,タイムス社の経営権を譲渡することを明らかにした(道新 平8・12・16)。  ,タイムス』は二日付紙面の第一万八七八六号を最後に事実上の廃刊となった(道新 平10・9・2)。  ,一面には「北海タイムスの理念、理想を承継していく新聞があってほしいという願いから」(伊藤専務談)、「きょうで,写真-3 『北海タイムス』の休刊を告げる紙面(タイムス 平10.9.2) / 『北海タイムス』の廃刊
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海タイムス社の航空事業)

北海タイムス社の航空事業 一方、北海タイムス社側は、大正十五年七月北海道航空協会の札幌旭川間の定期飛行,昭和二年北海タイムス社は、北二四条西六、七丁目の約二万坪の土地を整備して飛行場とした。,その後北海タイムス社は、八年に札幌旭川を結ぶ定期航路として、郵便物を搭載して札幌旭川間を往復した(北タイ,このように、北海タイムス社ではその航空部を充実させつつ航空事業を続けている。 / 北海タイムス社の航空事業
新札幌市史 第5巻 通史5下 (北海タイムス社の経営危機)

北海タイムス社の経営危機 北海道新聞社とならんで全道を網羅する地元紙の北海タイムス社でもまた、昭和五十九年七月一日大型,は地下一階・地上八階建てであったが、地下一階から地上四階までを自社使用とし、五階以上を貸ビルとした(北海,タイムス三十五年史 昭56)。   / 北海タイムス社の経営危機
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海タイムスと小樽新聞の競合)

北海タイムスと小樽新聞の競合 この時期の新聞界は、『北海タイムス』と『小樽新聞』による〝二大新聞対立,当時、自社で航空機を所有している新聞社は少なく、北海タイムスは全国で三番目であった。,北海タイムスにとっては、創立二五周年記念事業の一つでもあった。,、勢いは完全に北海タイムスに移った。,北海タイムスと二つの勢力が、ぎくしゃくしたことも事実です。 / 北海タイムスと小樽新聞の競合
新札幌市史 第3巻 通史3 (新聞記者と社会主義)

「社会主義、平和主義、平等主義」の抱懐者であることを披瀝したものであったが、社会主義についての発言は北海,タイムスに移ってからであった。  ,西川光二郎と同期であった碧川企救男は、囚人問題研究のため北海道に渡ってきたが、新聞記者に転じ、北海時事を経て北海,タイムスに入社し、文芸欄の刷新につとめた。,三十五年三月十六日には北海タイムスに「哲学職工」という小説を発表している。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (『フロンティアタイムス』の創刊)

『フロンティアタイムス』の創刊 北海タイムス社には、山崎オーナー社長による突然の休刊宣言(平10・6,こうしたなかで、同社の販売店を中心に十年十月「北海タイムス復刊準備委員会」が組織され、「北海タイムス復刊,は難しく、予定より五カ月遅れの十一年四月九日ようやく新会社の北海道21世紀タイムス(代表・藤野紘一元北海,タイムス社長)の設立にこぎ着けた。
新札幌市史 第8巻2 年表・索引編 (出典一覧(新聞出典))

北海道毎日新聞(北海新聞改め)  1887年(明治20)10月1日〜1901年(明治34)9月2日 ③北海,タイムス(北海道毎日改め)  1901年(明治34)9月3日〜1942年(昭和17)10月31日 ④,北海道新聞(北海タイムス,小樽,旭川新聞など道内11紙統合)                  1942,年(昭和17)11月1日〜2008年(平成20)現在 ⑤北海タイムス          1949年(
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海道新聞の創刊)

道内では、十六年末現在存続していたのは一一紙で、いずれも北海タイムスか小樽新聞および旭川新聞の系列に属,このような状況下で十七年、北海道庁長官戸塚九一郎は阿部良夫(北海タイムス)、地崎宇三郎(小樽新聞)、原忠雄,同月十二日、北海道庁長官裁定の形式で最終決定を見、十月末日をもって北海タイムス、小樽新聞、新函館、旭川新聞,本社は旧北海タイムス社(大通西3)に置かれ、道内六カ所(函館、旭川、釧路、帯広、室蘭、北見)に支社、道外
新札幌市史 第3巻 通史3 (十一州同志記者大会と道民大会)

まず十一州同志記者大会は岩内新報、拓殖新報、北世界、小樽新報、小樽新聞、北海タイムスの記者が参加して豊平館,演説会の弁士は、入山祐次郎、伊東正三(北鳴新報)、土岐孝太郎(北海タイムス)、外川水哉(北世界)、滝川勇吉,、上野本治、丸山浪弥(岩内新報)、古谷周久(小樽新報)、東武(道会議員、北海タイムス)、安東俊明、坂牛祐直
新札幌市史 第4巻 通史4 (震災の影響)

義援金の募集開始もす早く、震災三日後の『北海タイムス』には、道庁、市役所、北海タイムス社等が窓口となって,また、義援金の方も九月十日までに北海タイムス社に約一万二〇〇〇円が寄せられた(北タイ 大12・9・11
新札幌市史 第4巻 通史4 (戦勝と祝賀行事)

『北海タイムス』一面を例にとると、六日付朝刊一面トップは「一路南京に猛進撃」「砲声・南京市内に達す」に,しかし、日本軍が南京を占領したのは十三日夕刻であり、『北海タイムス』が「南京陥落」の号外を改めて出したのは,『北海タイムス』の記事を拾ってみると、早くも十二月十日夜南京陥落を告げる北海タイムス社の花火があがった
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『新北海』の創刊)

旬刊紙の散発的な発行が見られる程度であったが、この年になって有力新聞人の創業が本格化し、『新北海』『夕刊北海,タイムス』(ともに札幌)、『北海日日新聞』(旭川)、『函館新聞』等の日刊紙が相次いで発行された(昭22,新北海中学生新聞」(九月に中学生タイムスに改題)を創刊するなどの活動を行ってきたが、十月に「有限会社北海,タイムス社」と正式に合併することとなり、題号を「北海タイムス」と改めることになる。
新札幌市史 第3巻 通史3 (大正四年全道青年会連合大会)

大正四年全道青年会連合大会 大正四年の大正天皇の大礼を記念して、北海タイムス社主催の全道青年会連合大会,東武北海タイムス社理事「大正青年の新運動」、俵孫一北海道庁長官「青年会の性質」、美濃部俊吉北海道拓殖銀行頭取,白石青年親友会 白石村上白石青年会 小野幌青年会 厚別青年会 1.大4.11. 1,北海,タイムス社主催,札幌管内分。,『北海タイムス』には、「見よ蜿蜒長蛇の如き優に十二町余に亘る大行列は秩序を正して整然と練り進むを」と報道
新札幌市史 第3巻 通史3 (新聞)

『北海タイムス』は『北海道毎日新聞』『北門新報』『北海時事』三社の合同紙で、三十四年創刊時の号数(4235,『北海タイムス』の「発刊之辞」(明34・9・3)によると、三社はそれぞれ競合関係にあったが、発行紙数はといえば,明治・大正期に見られる主な新聞は表7のとおりであるが、『北海タイムス』の他にも合同紙(札幌毎日新聞)があり,5.30 創刊 対馬嘉三郎 北鳴新報  34. 6.15 創刊 伊東正三 記者野口雨情 北海,タイムス  34. 9. 3 再刊 阿部宇之八,東武 道毎日,北門,北海時事合同
新札幌市史 第3巻 通史3 (郷土俳句の成立)

本格的に興したのは、大正九年の「黒土会」の結成であるが、すでに大正二年一月「俳句選評について」と題し『北海,タイムス』に連載した中に、若干これと関連していると思われるところがあるので、当時の実況説明の意味も含めて,ここではまず『北海タイムス』に掲載される俳句は新傾向が多いが、これは投句の傾向を反映しただけであると述,中森其涯の編で、『ホトトギス』『北海タイムス』など十余種三万余句より道内俳人の作二五〇〇の抜粋抄録が、
新札幌市史 第3巻 通史3 (四十年以降の来道劇公演等)

松井須磨子来道の時の絵葉書(大正4年頃)  このほか大正に入ってから比較的目につくものとして、『北海,タイムス』に連載された小説等を脚色して上演していることが挙げられる。,これらについて『北海タイムス』は読者優待割引券を本紙に刷込むと共に、連日かなりのスペースで報道しているので,北海タイムス社としては舞台装置を豪華にするよう努めるなど、かなりの努力をはらったように見受けられ、また
新札幌市史 第4巻 通史4 (婦人見学団)

婦人見学団 「時代の覚醒と共に女性向上の叫び高き今日、北海タイムス社の婦人見学団を催された事は我等女性,これは、大正十四年(一九二五)六月に北海タイムス社が第一回婦人見学団を募って以来、二年間に一二回開催、,3回婦人見学団 大正14年10月8日真駒内種畜場にて(北タイ 昭2.1.1) 表-13 北海,タイムス社主催婦人見学団見学地(1~12回) 回 開催日 募集人員 見学地 1 大14. 6.27
新札幌市史 第4巻 通史4 (戦いのなかへ)

もちろん、『北海タイムス』昭和六年九月二十日の夕刊第一面には、他の主要紙と同様に「奉天の支那軍、突如わが,昭和六年十一月二十八日付の『北海タイムス』によると、札幌市立高等女学校生徒有志が満州派遣軍に金二五円三五銭,このことと関連があるのかどうかわからないが、愛国映画『戦争と少女』が、北海道庁、歩兵第二五聯隊、北海タイムス,七年三月十二日付『北海タイムス』には、「満州国」に職を求め「群をなして殺到」し「治安をみだし(中略)邦人
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌の都市形成意識の視点)

その意識を『北海道毎日新聞』(後に北海タイムス)の様々な記事のなかに、ゴミ処理などの衛生認識、都市の醜景
新札幌市史 第3巻 通史3 (印刷)

6  29. 2 山藤活版所工場 南2西6  29. 9 活版印刷所博光社 大通西3  34. 7 北海,タイムス社工場 大通西4  34. 9 北海タイムス合資会社 第一工場 大通西4  34. 9 博光社活版印刷工場,大通西3  41.10 山藤活版所第二工場 大通西3  41.11 西村活版所 南1西4  41.12 北海,タイムス合資会社 第二工場 大通西4  42. 4 高増活版所 大通西2  43. 3 北海道報社工場
新札幌市史 第4巻 通史4 (盧溝橋事件と札幌)

盧溝橋事件と札幌 『北海タイムス』による盧溝橋事件についての報道は、七月九日付朝刊で、「盧溝橋事件暫定停戦,小樽の道博会場では、八日午後北海タイムス社の放送塔から会場内にアナウンスされたのである。,」と言って金二円を札幌市役所の窓口へ差し出したとか、東小一年生が小遣銭一円七〇銭と銀紙五キログラムを北海,タイムス社窓口に差し出した(北タイ 昭12・7・17)ことなど大きく掲げられた。,北海タイムス社が「軍事献金を募る」の社告を出したのは八月一日のことである。
新札幌市史 第4巻 通史4 (漫画)

その中心人物が、大正十年から昭和七年まで北海タイムス社で漫画を描いた加藤悦郎であった。,四年からは週一回『北海タイムス』紙上に漫画欄を開設する。また漫画欄の投稿家を集めて月曜会を組織する。,『北海タイムス』の漫画欄は、佐藤八郎らプロレタリア美術家同盟の札幌支部のシンパとなった加藤の影響で左傾化,即席揮毫会は、他にも丸井呉服店の新装を記念して、同年六月十二日から十四日まで、東京の服部亮英、小林克已、北海,タイムス社の澤枝重雄の三人で行われた。  
新札幌市史 第3巻 通史3 (神楽村御料地争議との連動)

『北海タイムス』の報じた「横田星一」「堀清」のことである。,この『北海タイムス』の記事では、丘珠まで指導に来てもらったのか、東京での陳情運動に協力を仰いだのかは不明
新札幌市史 第3巻 通史3 (二部教授)

札幌区の二部教授はその後も存続したが、大正六年の『北海タイムス』(大6・5・5)は西創成尋常高等小学校,しかし、その一方で『北海タイムス』の記事が指摘するように「教授上の影響」も相当大きかったに違いない。
新札幌市史 第3巻 通史3 (詩学研究会の結成と豊水吟社の再興)

以前から漢学の素養にすぐれ、在札中も、たとえば北海タイムス社が元旦紙上に登載すべく詩歌俳句を募集した際,また小川黙渕は世話人的な役割も果たしていたようであるが、北海タイムス社員とあるので、おそらく小川忠之助
新札幌市史 第3巻 通史3 (社会主義の新聞)

その年の十一月には、北海タイムスをやめた井口伝が『北海道平民新聞』を創刊したが、たちまち発禁になってしまった
新札幌市史 第4巻 通史4 (民衆文化論の登場)

飯田実・東末吉・田上義也らが「民衆的な大音楽団」を創立しようともくろんだ、札幌市民楽団をめぐって、『北海,タイムス』は、以下のように位置づける。,また清楚な日本画を書いた名随筆家鏑木清方は、昭和四年九月八日付の『北海タイムス』に「美術の民衆化」と題,こうした大衆的紙面づくりは他紙にも影響を与えるが、昭和七年頃から『北海タイムス』も、ラジオ・家庭・学芸
新札幌市史 第4巻 通史4 (戦時下の音楽)

戦時下の音楽 昭和十年十二月十九日付『北海タイムス』の札幌のレコード店(冨貴堂楽器部、岩水蓄音機、フタバ,北海タイムス社は、紀元二千六百年記念事業として、山田耕筰の中央交響楽団とテノールの奥田良三、ソプラノの,その折、紀元二千六百年の北海タイムス社の懸賞当選歌詞の「北海道歌」の作曲を山田耕筰に依頼している。
新札幌市史 第3巻 通史3 (演劇運動の成立)

演劇運動の成立 今のところ一応地元の演劇運動とみられるのは、前記三十七年五月開催の戦勝祝賀演劇に関する『北海,タイムス』の記事(5・7)が初出である。,)  演劇研究会とはいえ、すくなくともこの公演は芸妓芝居にすぎなかったともいえるが、同時に前出の『北海,タイムス』連載ものの上演では、大正三年二月公演の「野晒勘三郎劇」の脚色は柴田如峯が行っており、本格的な
新札幌市史 第5巻 通史5上 (平和の滝と盤渓の奥の院)

昭和初期の頃より仏教、神道の各宗の信徒による利用が盛んとなったようであるが、『北海タイムス』(昭9・7,写真5は昭和初期の神道実行教の大祭のものとされているが(日登寺百年史 昭50)、先の『北海タイムス』も
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『獅子座』『楡派』)

『獅子座』『楡派』 昭和二十七年六月、粕谷草衣が北海タイムス俳壇の中堅作家を対象に五十嵐久一、中村還一
新札幌市史 第3巻 通史3 (俳句結社の増加と運動の本格化)

タイムス社に入社した青木青葉(のちの郭公)も参加し、『ホトトギス』の影響をうけつつ活動した。,このほか三十五年十月八日付の『北海タイムス』には、「北海道の俳句団」の記事中、札幌区は「札幌吟社を始めとして,さらに三十五年十一月現在で北海文友舎という文芸団体が北海タイムス社員によって作られ、「知名の士に乞ふて,また農村部でもこの時期「丸山俳句会」というものがあり、また『北海タイムス』(明44・4・7)には、手稲村前田農場内,『北海タイムス』には三十八年十二月に第二号の課題等の記事があり、それによれば選者は「鳴雪、麦人、機一、
新札幌市史 第5巻 通史5下 (【主要参考文献・史料】)

年北海道の文学行動」(北海学園 平2)、北の文学フェスティバル実行委員会『'89―北の文学』(北海,タイムス社 平2)、「札幌芸術文化年鑑」(札幌市教育文化財団、昭59~平13年版)、『北海道演劇史稿』
新札幌市史 第3巻 通史3 (炭礦鉄道国有化の動き)

そのための参考資料が北海タイムス紙上に掲載されている(明36・2・14~15)。
新札幌市史 第3巻 通史3 (文光堂)

しかし、販売として札幌中学校(現札幌南高校)と北海中学校(現北海高校)の教科書を取り扱っていたことは、『北海,タイムス』(明41・4・2)の広告で確認できる。
新札幌市史 第4巻 通史4 (聖公会幼稚園)

同幼稚園は大正四年の『北海タイムス』(大4・3・27)の記事では園名が「聖心幼稚園」と報じられている。
新札幌市史 第4巻 通史4 (『暁雲』の創刊)

『暁雲』の創刊 大正十五年十一月、北海タイムス俳壇の選者であった青木郭公が主宰となって『暁雲』が創刊
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌記者俱楽部)

北海タイムス社 山口喜一、梁田政蔵、安田仙蔵、長内清、岩谷直次郎、岡田天洞、金子郡平、戸石正憲、岡田春夫,山川清  北海公論 桜庭善一郎  この他の会員として、柴田欣兵衛、大島経男、土井栄知、湯浅為吉(以上北海,タイムス社)、松本安二、戸田精一、宮原知久(以上小樽新聞支局)、加藤彦四郎(小樽毎夕新聞支局)の八人の
新札幌市史 第3巻 通史3 (遼陽戦勝祝賀会)

北海タイムス社前の大アーク灯が点火され、大通と中島遊園地で何発もの花火が打ち上げられ、各軒先には国旗、
新札幌市史 第3巻 通史3 (日本弘道会札幌支会)

また『北海タイムス』(大4・4・17)では「弘道会支部現況」として、教育関係者が多い弘道会は、会長である
新札幌市史 第3巻 通史3 (例言)

そのため主な資料となったのが、北海道毎日新聞から北海タイムスへと引き継がれた新聞であった。,但し史料名のうち、『新札幌市史』は『市史』、『北海道毎日新聞』は『道毎日』、『北海タイムス』は『北タイ,札幌市史』(四冊)、『琴似町史』など現在の札幌市域に含まれた諸自治体の歴史書、および『北海道毎日新聞』『北海,タイムス』『小樽新聞』『官報』『北海道庁統計書』などは、原則としてはぶいた。
新札幌市史 第3巻 通史3 (旅順海戦祝勝会)

この報が伝えられるや、北海タイムス社では十五日の紙上に、十七日の戦勝大祝賀会の開催を予告した。
新札幌市史 第3巻 通史3 (川柳の団体の成立)

たとえば『北海タイムス』は「タイムス詞壇」の欄を設け、漢詩、短歌、俳句などを掲載し、選者にはたとえば俳句
新札幌市史 第4巻 通史4 (防諜)

十六年六月、北海道護国神社祭典に慰霊飛行をおこなった北海タイムス社の責任者は軍機保護法違反に問われている
新札幌市史 第3巻 通史3 (音楽隊等の成立と活動)

本稿でも確定には至らなかったが、『北海タイムス』によってできるだけ追ってみたい。  ,まず赤帽子と通称され、看板店を経営していた原田文治郎によるいわゆる赤帽子音楽隊であるが、『北海タイムス
新札幌市史 第3巻 通史3 (丘珠御料地払下問題)

ただしこの引用文中の大正九年というのは、『北海タイムス』が報じるように十一年の誤りであろう。
新札幌市史 第3巻 通史3 (アイヌ小学校の修学旅行)

北海道旧土人保護法」に基づいて特設された第二伏古尋常小学校と芽室太尋常小学校の生徒四四人が修学旅行で札幌を訪れ、北海,タイムス社や大日本麦酒株式会社などを見学した(北タイ 明43・10・20)。
新札幌市史 第4巻 通史4 (四・一六事件)

記事解禁となった十一月六日の『北海タイムス』は「思想係が独立して/最初の腕だめし/鮮やかな検挙ぶり」という
新札幌市史 第3巻 通史3 (雑誌)

「ドウもむつかしい文章がチョイ/\あるのは感心しません、編者の一考を煩はします」というような記事が『北海,タイムス』(明37・9・21)に掲載されている。
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