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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第2巻 通史2 (北海新聞の創刊)

北海新聞の創刊 明治十年に東京から札幌へ移された活版所は、道庁設置後その官営事業貸下げ、払下げの方針,山田はこれによって札幌に新聞を発刊することとし、菊地重平を名義上の社主として北海新聞社を創立し、新鞆三郎,を編輯人として二十年一月二十日、毎月曜日発行の『北海新聞』を創刊し、六号以後は火・金曜日発行の週二回刊,記事の内容は、官報、北海道庁録事、北海新聞(社説)、雑記、寄書、小樽・札幌の諸物価、それに広告欄などから,そして同年九月三十日付六七号をもって『北海新聞』の題字を打ち切り、『北海道毎日新聞』に引き継がれた。 / 北海新聞の創刊
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『北海タイムス』の創刊)

函館、旭川支社から夕刊を発行することを計画した。,昭和二十一年六月には三万部の用紙割当が認められ、同二十六日に有限会社「北海タイムス社」が設立、八月三十一日,同時期に創刊された『新北海』と『夕刊・北海タイムス』の合併案が持ち上がったのは、二十四年八月十五日、新北海新聞株式会社臨時株主総会,北海タイムス社も同じ趣旨であったことから、二社を合併して事業能力の拡充を図ることで意見が一致し、北海タイムス,カ月(三十一日)九七九連の新聞用紙割当受給の権利を新北海新聞社へ譲渡することとなった(北海タイムス三十五年史
新札幌市史 第2巻 通史2 (新聞の発行停止)

新聞の発行停止 当時の新聞は「新聞紙条例」によって、政治上・社会上の理由で官が発行停止処分を行うことができた,まず二十年七月十九日に『北海新聞』が発行停止を命ぜられ、同二十八日に解除された。,処分が解除された際、各新聞はそれぞれ社告的記事を掲載しており、たとえば二十年の『北海新聞』の場合は「今日
新札幌市史 第2巻 通史2 (北海道毎日新聞の創刊)

北海道毎日新聞の創刊 北海新聞社の事実上の経営者である山田は、小樽の事業が繁忙だったことなどから、支配人渡辺兵四郎
新札幌市史 第2巻 通史2 (道毎日の発展)

同年九月、同新聞は「社告」としてこれまで「紙面狭隘」のため記すべき事を尽すことができなかったことなどから,柳内は札幌農学校出身で、後述する『北海新聞』発行停止処分の原因となった論説の筆者である。
新札幌市史 第2巻 通史2 (活版印刷所)

続けたが、十九年五月、小樽の山田吉兵衛が貸下げを受け、新鞆三郎を主筆として二十年一月、週一回発行の『北海新聞,市況の拡充に伴い新聞、雑誌の外に官庁、会社、商店の商標、株券、諸帳簿用紙等の印刷注文が増加し、印刷業者
新札幌市史 第2巻 通史2 (【主要参考文献・史料】)

『北海道庁統計書』、『星野和太郎書簡』(群馬県星野家文書)、『北海道毎日新聞』、『東京日日新聞』、『北海新聞,北海道』、橋爪紳也『倶楽部と日本人』、同『明治の迷宮都市』、亀山美智子『近代日本看護史―Ⅰ日本赤十字社と,看護婦』、同『同―Ⅱ戦争と看護』、日本赤十字社北海道支部『護国之礎』、同『北海道の赤十字―その百年〔写真集
新札幌市史 第2巻 通史2 (途上都市札幌)

北海道の行政府と定め、都市建設を開始して以来約二〇年を経過した明治二十年代の札幌は、古参住民も新住民も社会,を共有する人びとがタテのつながりとは別のヨコのつながりを希求してさまざまな社会的活動を開始した。,その大きな媒介役となったのが明治二十年(一八八七)に創刊された『北海新聞』とその後身の『北海道毎日新聞,新聞は、当時最大のマスメディアとして社会と社会をつなぐパイプでもあった。  ,このような札幌の結社団体の発生は二十年代に集中しており、結社団体の勃興時代ともいえよう。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『新北海』の創刊)

読売新聞本社は、この頃北海道進出をもくろんで「北海読売」(南大通西4丁目)の建物を新築していたが、道新同様労働争議,にみまわれてやむなく売却することとなり、山口はこれを買い上げ、二十一年五月三十日に「株式会社新北海新聞社,「新北海中学生新聞」(九月に中学生タイムスに改題)を創刊するなどの活動を行ってきたが、十月に「有限会社北海,タイムス社」と正式に合併することとなり、題号を「北海タイムス」と改めることになる。
新札幌市史 第3巻 通史3 (新聞)

新聞 明治二十年代に創刊された『北海新聞』『北海道毎日新聞』『北門新報』については、市史第二巻に述べられているとおりである,『北海タイムス』は『北海道毎日新聞』『北門新報』『北海時事』三社の合同紙で、三十四年創刊時の号数(4235,各社わずかに五、六千部の域を出なかった。,これではとても「全道普及の新聞」とはいえないとし、「時勢の進運に鑑み従来三社間に存立する幾多の歴史と感情,とを抛擲」し、「全道に普及せる一大新聞を発行する」ために三社が合同したことが述べられている。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (政治・社会問題等演説会)

政治・社会問題等演説会 札幌で開催された演説会で、「政談演説会」といった名称でお目見えしたのがこれである,創刊間もない『北海新聞』に演説会に関する記事が載ったのは、二十年八月二十八日東座での阿部午之助の演説会,三十二年にはいわゆる社会問題も加えられていっている。,学術演説 女学校の諸氏及び三〇余人の来会者 【二十三年】 政談学術 2・25 市川亭 大庭 鉄民 現今の社会,北海道庁長官の上京に就て一言す 武藤 金吉 余は何故に北海道を論するや 小泉 清志 維新前後の社会 / 政治・社会問題等演説会
新札幌市史 第7巻 史料編2 (解題)

これを新しい時代に適応する町村民にすることは、旧社会の風習を打破するとは別の苦心が必要だった。  ,さらに、札幌にかかわる明治十九年以降十数年間の行政文書はほとんど残っていないため、「北海新聞」「北海道毎日新聞
新札幌市史 第2巻 通史2 (学習・自己啓発)

教育・学習活動を、当時の『北海新聞』やその後身の『北海道毎日新聞』、『函館新聞』等から目についた範囲を,札幌読書会 16・3創立 はじめ札幌司典社で創立。書籍を購入し、公衆の便覧に供すを目的とす。,そのうち、神道演説会や仏教演説会のような単発の会ではなしに結社団体としての活動が明確なものを当時の新聞等,また札幌仏教青年会のごとく、目的に「禁酒」を掲げ、社会改良的運動も合わせ行っているのも特色であろう。,一方、神道においても演説会を開催し、二十二年の本州の水害に際しては、札幌神社宮司阿由葉宗三郎が義捐を望
新札幌市史 第3巻 通史3 (区長)

明治五年札幌に来たあと「十年退官シテ専ラ実業ノ発達、地方ノ開進ニ力ヲ致シ、翌年堀基ト商リテ札幌ニ大有社ヲ,設ケ産物輸出入ノ途ヲ開キ、爾来実業諸会社ノ創立一トシテ與カラサルナク、就中北海道協会ヲ創設シテ最モ拓殖,阿部宇之八(一八六一―一九二四)は阿波国、現鳴門市の生まれで、実父は興産社の創立者滝本五郎、養父は衆議院議員,大阪新報に入社して新聞記者の第一歩をふみ出すが、道庁ができると札幌に来てしばらく勤務し、まもなく北海新聞
新札幌市史 第2巻 通史2 (新札幌市史 第二巻 通史二/総目次)

霊代の札幌奉遷 札幌神社の創建     三 札幌神社の発展と地域住民        社殿等の建築と,・結社と農民移住        北海道開進会社 興産社と徳島県からの移住 開成社と厚別の信濃開墾,昇格と公認神社の急増…854     一 札幌神社の昇格と活動        官幤中社への昇格 官幤大社,    三 神社等の増加と公認神社の急増        神社等の増加 明治二十年代の公認神社 公認神社創出,書画骨董会等 音楽 白石村同攻会・青年協会     二 日刊新聞の創刊と出版文化        北海新聞
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