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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第5巻 通史5下 (北海道開拓記念館と北海道開拓の村)

北海道開拓記念館と北海道開拓の村 戦後、道立の博物館建設の動きは早くからみられていた。,として四十年に記念塔、博物館、建造物村の建設を計画し、四十一年に三者の記念地区造成を決め、同年八月に北海道開拓記念館構想,写真-6 北海道開拓記念館と記念塔  道開拓記念館は四十三年十一月三十日の起工式から建設に入り、,四十五年に工事が竣工し、あわせて展示施設の工事に入り、四十六年四月十四日に開館(翌日一般公開)となった(北海道開拓記念館,道開拓記念館と共に計画化された北海道開拓の村は、五四ヘクタールの広大な敷地に中に、明治・大正期の建造物 / 北海道開拓記念館と北海道開拓の村
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

第四紀研究』一二巻、赤松守雄・山田悟郎・北川芳男・矢野牧夫「野幌丘陵の地質―特に東部地域を中心として」『北海道開拓記念館調査報告,』一九号、赤松守雄「野幌丘陵から産出する暖流系のフォーナについて」『北海道開拓記念館研究年報』八号、赤松守雄,・山田悟郎・北川芳男・矢野牧夫「野幌丘陵の地質と古生物の変遷」『北海道開拓記念館研究報告』六号、北海道開拓記念館,四八号、北川芳男・赤松守雄・山田悟郎・矢野牧夫・三野紀雄「野幌丘陵の地質―特に西部地域を中心にして」『北海道開拓記念館調査報告,、北川芳男・赤松守雄・松下勝秀・五十嵐八枝子「石狩低地帯の第四系(1)―中・下部更新統について―」『北海道開拓記念館研究年報
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 赤松守雄・北川芳男「北海道石狩低地帯北部における完新統自然貝層」『北海道開拓記念館研究年報,北海道立地下資源調査所報告』五七号、野村崇・中田幹雄・平川善祥「野幌丘陵周辺の先史時代の遺跡と文化」『北海道開拓記念館研究報告,三野紀雄・赤松守雄・山田悟郎・小林幸雄・森田知忠・松下勝秀「石狩低地帯における最近の14C年代資料」『北海道開拓記念館調査報告
新札幌市史 第2巻 通史2 (拓殖推進団体の設立)

さらに十月には、富くじを拓殖資金とする北海道開拓義会の創設の計画が伝えられ(同前 二十四年十月十五日付,翌二十六年には北海道開拓調査会、開拓同盟会などもつくられ、道議会の開設、本道における衆議院議員選挙の実施
新札幌市史 第5巻 通史5下 (建造物の保存)

解体をまぬがれ北海道開拓の村へ移設・保存となったものもある。,白石区菊水に所在したもう一つの有島邸の方は、北海道開拓の村で保存されている。,上は札幌芸術の森、下は北海道開拓の村に所在。  一方、惜しまれつつ消えていった建物も多くある。
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

・中田幹雄・三野紀雄・森田知忠・赤松守雄・山田悟郎・小林幸雄「野幌丘陵周辺の第四紀に関する諸問題」『北海道開拓記念館研究年報,.1〈札幌〉』、赤松守雄・山田悟郎・北川芳男・矢野牧夫「野幌丘陵の地質―特に東部地域を中心にして」『北海道開拓記念館調査報告,』一九号、赤松守雄・山田悟郎・北川芳男・矢野牧夫「野幌丘陵の地質と古生物の変遷」『北海道開拓記念館研究報告,六号、北川芳男・赤松守雄・山田悟郎・矢野牧夫・三野紀雄「野幌丘陵の地質―特に西部地域を中心にして」『北海道開拓記念館調査報告
新札幌市史 第8巻1 統計編 (総説)

これによれば「北海道開拓の土地制度は,土地取扱に関する規律の如何によって之れを五期に分って考えることが,』(1897),同『第四』(1897),同『第五』(1898),同「第六」(1899),上原轍三郎「北海道開拓極初期,に於ける土地制度」『北海道帝国大学法経会論叢』第6輯,同「北海道開拓初期に於ける土地制度」『北海道帝国大学北方文化研究報告,』第1輯,同「北海道開拓第三期に於ける土地制度」同前第3輯,同「北海道開拓第四期に於ける土地制度」同前第,5輯,同「北海道開拓第五期に於ける土地制度と第一期より第五期に至る総括的結論」「北海学園大学経済論集」
新札幌市史 第1巻 通史1 (編集にあたって)

第一編 札幌の自然史   赤松守雄(北海道開拓記念館)   五十嵐八枝子(北海道大学)   北川芳男,札幌市教育委員会)   加藤邦雄(札幌市教育委員会)   百々幸雄(札幌医科大学)   野村 崇(北海道開拓記念館,札幌村郷土記念館、滋賀大学経済学部史料館、市立函館図書館、市立弘前図書館、東京大学史料編纂所、那珂湊市史編纂室、北海道開拓記念館
新札幌市史 第2巻 通史2 (東久世と島)

このような島と東久世の人物やその関係について、兵部権少丞北海道開拓掛から開拓権判官に転任して間もない大橋慎,過日来相伺候開拓基本順序モ何も相始マリ不申、実ニ北地一日も忽カセニスベカラズと奉存候事」と、島の問題は北海道開拓全般
新札幌市史 第2巻 通史2 (道毎日の編集方針)

必要性を強調したのち、同社のそれを「第一 北海道の開拓は日本全国の利益なること、第二 農漁商工等各営業は北海道開拓上,ついで「第一」「第二」の理由を詳述したのち、第三に関して「彼等政党は我々の意見の如く北海道開拓を日本全国
新札幌市史 第2巻 通史2 (例言)

一 この期間の札幌は、開拓使・北海道庁が設置されて北海道開拓行政の中心的都市としての位置を占めると共に,滝川市教育委員会、伊達市、東京都公文書館、富岡市(群馬県)、東本願寺北海道別院、北海学園大学付属図書館、北海道開拓記念館,北海道大学附属図書館→北大図  北海道立文書館→道文  北海道立図書館→道図    北海道開拓記念館
新札幌市史 第2巻 通史2 (【主要参考文献・史料】)

、『竹内運平ノート 屯田兵関係史料』、『篠路村沿革史』(札幌市蔵)、北海道教育委員会編『屯田兵村』、北海道開拓記念館編
新札幌市史 第2巻 通史2 (黒田開拓次官の就任と開拓使)

樺太開拓使が再び開拓使に合併されるまで解消されることはなかった(ただ樺太開拓使の設置により、従来の開拓使を北海道開拓使,開拓使設置以来混乱の元であった開拓経費は、当初より樺太詰の強い不満もあって、三年五月三十日政府は定額を北海道開拓分,しかし定額一三万両での北海道開拓はますます困難な状況に追いやられる。  
新札幌市史 第7巻 史料編2 (一 明治二年)

十文字龍助宛函館出張指令(八月三日)  二 蝦夷地へ人民送り方の詳細北島従五位より問合せ(八月一八日)  三 北海道開拓御用
新札幌市史 第3巻 通史3 (畑作・畜産の奨励)

畑作・畜産の奨励 これに北海道開拓使の農業政策が付け加わる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (図版・写真・表組一覧)

の地形 5万分の1地質図幅「札幌」「石狩」その他により編図 (13頁)   写真-1 西南部の山地 北海道開拓記念館,(17頁)   第3章 図-1  野幌丘陵の地質図 赤松守雄ほか「野幌丘陵の地質と古生物の変遷」『北海道開拓記念館研究報告,音江別川流域の海牛化石の産状 木村方一撮影(1981)・提供 (39頁) 写真-4 ステラー海牛化石 北海道開拓記念館資料, 五十嵐八枝子提供 (42頁) 写真-7  アルメニアゾウの仲間の左下顎第1大臼歯と野牛の右角化石 北海道開拓記念館資料,の墓制」『続北海道5万年史』1985 (141頁)  図-6  鈴谷式土器の南下と後北式土器の進出 北海道開拓記念館
新札幌市史 第2巻 通史2 (東本願寺の開拓出願)

同年二月に法主厳如上人が老齢のため現如法嗣を長とする北海道開拓御用掛一行一八〇余人が京都を出発、途中廃仏毀釈,現如法嗣はこの後函館別院で新道切開、北海道開拓の方針を協議の上離道した。
新札幌市史 第2巻 通史2 (制定の事情)

北海道開拓をすすめる拠点として札幌の建設をすすめ、ここに常備兵を配置する案は三年にすでにあったが許可されず,大不況に見舞われたわけで、北海道開拓の拠点づくりを継続するためには、大型事業を実施し国家財政の多額な投融資
新札幌市史 第2巻 通史2 (神仏分離と札幌)

しかし札幌本府が創建され、さらに周辺にも移民が招来されて次々と村落が設立し、札幌が北海道開拓の行政的中心
新札幌市史 第2巻 通史2 (「公然売女」)

一  此度北海道開拓人夫一万人程モ差遣シ有付テハ遠境ノ儀自然人夫トモ厭倦ノ道ヲ生シ候モ難計候ニ付妓楼ヲ
新札幌市史 第1巻 通史1 (凡例)

北海道大学附属図書館→北大図  北海道立文書館→道文  北海道立図書館→道図    北海道開拓記念館
新札幌市史 第2巻 通史2 (官有諸工場の処分)

または中止するとした諸工場を払下げ、あるいは貸下げの方針に切り換え、その七月上京して有力実業家と懇談し、北海道開拓
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

岡式土器の分布と縄文式土器の終末」『考古学』一―三、野村崇「いわゆる亀ガ岡式土器の北方への伝播について」『北海道開拓記念館研究年報
新札幌市史 第2巻 通史2 (留学生の派遣と開拓使仮学校の設置)

しかし五年八月の学制頒布により、これらはすべて文部省の管轄となり、多くは七年春までに帰国し、しかもその後北海道開拓
新札幌市史 第5巻 通史5上 (博物館)

関係者を中心にして本格的な総合博物館を建設しようとする動きもあり、それを底流として四十六年四月、厚別町に北海道開拓記念館
新札幌市史 第4巻 通史4 (開拓神社の創立)

ことで決着し、十三年十一月十八日に「北海道開拓ノ先覚ニシテ功労最モ顕著ナル三十六柱ヲ祭神トスル開拓神社
新札幌市史 第7巻 史料編2 (編集にあたって)

札幌村郷土記念館    市立函館図書館    鶴岡市郷土資料館    北海学園大学付属図書館    北海道開拓記念館
新札幌市史 第7巻 史料編2 (凡例)

北海道立文書館→道文      北海道立図書館→道図  北海道開拓記念館→道開    北海道大学附属図書館
新札幌市史 第2巻 通史2 (黒田指針の具体化)

さらに北海道開拓の一定不易の大綱とその方法を樹立するため、大臣・納言の実地巡見と、風土の適当する外国から,このような中央集権体制の整備を背景として、八月八日に樺太開拓使は廃されて、北海道開拓使に合併吸収された
新札幌市史 第2巻 通史2 (西郷・山県両卿と金子大書記官の見解)

これは開拓使によって北海道開拓の基礎が定められたにもかかわらず、「現今ノ景況ヲ察スルニ全道事業ノ進歩或,之ヲ奚何ゾ、自今数十年ノ星霜ヲ経過スルモ、北海道開拓ノ大事業ハ、決シテ期ス可カラザルナリ」と評論し、さらにその
新札幌市史 第5巻 通史5上 (拓北農兵隊)

設立し、入植地の選定・住宅の設営・営農指導等の準備に取りかかると共に、この事業の協力団体として戦災者北海道開拓協会,を、また審議機関として戦災者北海道開拓協会を設け、東京都などで帰農者の募集を開始した。
新札幌市史 第2巻 通史2 (新善光寺)

いずれの場合も北海道開拓地において多くみられる型である。  
新札幌市史 第6巻 史料編1 (編集にあたって)

十文字良子氏(東京都豊島区) 松浦一雄氏(東京都目黒区) 市立函館図書館 鶴岡市郷土資料館 北海道開拓記念館
新札幌市史 第2巻 通史2 (拓殖資金施策)

そのため北海道開拓の草創期にあって開拓使は、北海道の行政・開発などの事業のほかに、移民の移住費、定着のための
新札幌市史 第2巻 通史2 (幌別への移住)

当時、片倉家の家臣のうち約半数にあたる六五一戸、三六〇〇人程が「北海道開拓志願之徒」(奥羽盛衰見聞誌 
新札幌市史 第2巻 通史2 (開拓使の性格)

一時樺太開拓使が新たに設置されていた時期には、本来の開拓使は北海道開拓使とさえ呼称されてもいた。
新札幌市史 第2巻 通史2 (函泊事件)

この間広沢は「唐太及北海道開拓一件議事有之、実に不易事件なり」と記している(広沢真臣日記、以下広沢日記
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌本府建設の復活)

その「北海道開拓ノ儀ニ付左ノ件々奉伺候」などでは、札幌の本府建設について、「札幌建府ノ儀、何分急速目途難相立候得共
新札幌市史 第6巻 史料編1 (口絵)

) 平岸村の三番 969頁参照                    村山家資料(北海道開拓記念館蔵
新札幌市史 第5巻 通史5上 (戦没者追悼と慰霊)

真宗大谷派本願寺札幌別院では昭和二十二年八月二十四日に、北海道教区主催によって現如上人二十五回忌法要、北海道開拓功労者追悼法要
新札幌市史 第3巻 通史3 (例言)

北海道大学附属図書館、北海道教育大学附属図書館、東京都公文書館、東京都立日比谷図書館、北海道立図書館、北海道開拓記念館,      国公文    北海道大学附属図書館  北大図    北海道立図書館     道図    北海道開拓記念館
新札幌市史 第2巻 通史2 (黒田の初期開拓画策)

ところが欧米の開発状況を視察し、また北海道開拓の顧問としてケプロンらを招聘して以降の黒田の見解は、一変
新札幌市史 第2巻 通史2 (本願寺街道の開削)

そのため北海道開拓の代表となった現如(光營)は、北陸地方を巡回して資金を得てから北海道に来ている(明治維新
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌への離宮設置案)

そして一〇〇年後、北海道開拓の実効があがり札幌が大繁栄した後に、離宮を上川に移しても差し支えないであろうというのである
新札幌市史 第4巻 通史4 (明治天皇の合祀と神宮昇格)

それによると北海道開拓は明治天皇の「叡慮」によるものであり、明治天皇を合祀することは、 天皇ノ叡慮ヲ
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海道博覧会と仏教界)

村雲日栄尼を迎えて、八月二十七日に村雲婦人会北海道支部記念総会、二十八日に追悼大法要を行うとともに、北海道開拓五
新札幌市史 第5巻 通史5上 (現如と開教百年)

開教当時を偲ぶ会、慶讃芸能大会、慶讃平和おどりの夕などの記念行事が実施され、また丸井デパートを会場に「北海道開拓
新札幌市史 第2巻 通史2 (開拓地から都市へ)

開拓地から都市へ 開拓使時代から札幌は北海道開拓の中心地として位置付けられていたが、札幌自体も開拓地
新札幌市史 第5巻 通史5上 (手稲隊の入植)

北海道開拓集団帰農手稲農民団、これが彼等の団名である。
新札幌市史 第2巻 通史2 (屯田兵魂と開拓精神)

開拓精神として、やがて独自的な屯田魂を中核とすることで国家政策への積極的参加の道を開いたのであった」(北海道開拓精神
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