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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (村役人)

すなわち『逸伝』では「曾テ名主以下ニ各々姓氏ヲ付シ、謂テ曰ク。,ただし「各農民」は『事蹟材料』の「勧農の事」中に記されているように、名主のことであろう。,また後述のように明治三年四月に、「名主畑六」が文書で確認されるから、これは事実としてよい。  ,またこの書き方では、前三人が交替で名主をつとめたものと思われる。,ここでは一応名主は三人の交替と考えておきたい。
新札幌市史 第2巻 通史2 (村三役の普及)

村三役の普及 名主、組頭、百姓代の村三役制は、庚午移民の村落では組と組頭制の廃止により漸次普及していった,平岸村は開拓使支配となった元伊達邦寧の家臣が移住したが、移住間もない四年四月に名主に坂本平九郎、組頭に,廃止の時期は、札幌村名主小熊善右衛門は五年六月(履歴書札幌村郷土記念館―写真3参照)、篠路村名主早山清太郎,明治政府は五年四月九日に、荘屋・名主・年寄等を廃止し、かわって戸籍編成につき戸長・副戸長の設置を定めているので
新札幌市史 第2巻 通史2 (篠路村と早山清太郎)

設置の年代は不明であるが、『荒井金助事蹟材料』(道文旧記一四三七)には、名主・百姓代・農夫取締の村役人,近世の村役人は村方(地方(ぢかた))三役と呼ばれ、村の総責任者となる名主(庄屋・乙名(おとな))、補佐役,は二人みえるが、荒井村の時期にも名主が三人おり、しかも「順番」でつとめていた形跡がある。,畑六と兼松の二人の名主も、前代のあり方を引き継いだものかもしれない。  ,四年 七月 篠路村名主に任(五年七月まで)。    
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

は彼に出稼として鮭漁場を割り当て、石狩川筋江別より上流域の開発と留萌方面への新道調査を命じ、さらに浜名主,のこり十一冊は石狩浜名主としての御用留である。    ,後者は浜名主在任中の一連の文書控。,十一冊のうち表題紙に「御用留」とあるのが五冊、ないのが五冊、あとの一冊は浜名主罷免後の文久二年(一八六二,あとは役所や浜名主からの達、触、規則類(その請書を含む)八十四件、その他願人の請書、通行手形、人別書等
新札幌市史 第1巻 通史1 (シノロ村の成立)

すなわち、明治三年四月の『兵部省分引継書類』中、「シノロ村名主 畑六」が五六両余の、「シノロ村名主 兼松,の猶予をそれぞれ兵部省に願い出ており、これによれば、荒井・中嶋村は名目上一村とはなったが、それぞれに名主
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロ村の誕生)

それは石狩役所より、御手作場農民の長蔵が「察歩路村(さっぽろむら)名主」に、また同じく農民松太郎が「察歩路村年寄,名主、年寄は周知のように近世農村の村役人の呼称で、一般に村方(むらかた)(地方(じかた))三役と総称され,、その三役の筆頭で村の総轄責任者が名主(または庄屋あるいは乙名)で、その補佐役が年寄(または組頭(くみがしら,イシカリ御手作場に隣接するシノロにおいても荒井金助による荒井村が建設され、金助が名主、百姓代の村役人を
新札幌市史 第1巻 通史1 (住人の組織化)

そこに、前述のように勝右衛門が浜名主を命じられた。,但し、漁場や貸付については浜名主の一印でよかった。,初代浜名主は文久二年交代し(あるいは前年末で解任か)、本陣守(阿部屋)も同三年願い出て任を解かれるが、,から永住人四人が組頭となり、月行司を定め輪番で町会所に詰め、町役人業務を行うことになったが、イシカリに名主
新札幌市史 第1巻 通史1 (漁間農業の育成)

イシカリ役所は改革を機に出稼奨励と表裏をなす生産活動の振興に力をそそぎ、〝無商売の者〟がいないよう、浜名主,網持出稼人は使用人の食糧を補うため畑作の必要にせまられ、浜名主勝右衛門は農民を雇ってポンライネに畑を開
新札幌市史 第2巻 通史2 (庚午移民と組頭)

ただこれ以前、札幌村には名主、年寄がみられた。年寄はまた組頭とも呼ばれていた。,この頃(四年四月)、札幌村では名主が菊地徳三郎から梅松嘉蔵へ、百姓代が梅松から柳沢宅四郎に代わっている
新札幌市史 第2巻 通史2 (副戸長の設置)

札幌・苗穂・丘珠・篠路   札幌村名主 小熊善右衛門   手稲・発寒村      手稲村貫属取締 伊藤作助,坪内猪之助   白石村         白石村貫属取締 佐藤廓爾   平岸・月寒村        平岸村名主
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム村の成立)

項に「発三村百姓代源吉」云々の文言がみられ、この時期に笹布源吉が村役人の一人であったことが知れるが、名主等
新札幌市史 第2巻 通史2 (組頭から村三役へ)

表-2 村三役の変遷 写真-3 小熊善右衛門の履歴書(部分) 組頭・名主・副戸長の任免が記され
新札幌市史 第1巻 通史1 (早山清太郎による道路開削)

清太郎[当時篠路村名主]豊平川上温泉[是丈山渓之温泉也]を開かんと欲し、小樽住荒屋孫兵衛に相請致し出金
新札幌市史 第2巻 通史2 (戸長制と札幌市中の事務)

次いで十一日名主が戸長となり、その余は副戸長になることが布達された。,市中の中年寄は名主にあたる地位として認められなかったためか、市中に戸長は任命されなかったようである。
新札幌市史 第2巻 通史2 (島判官時代の建設)

記事 金(両) 銭(永文) 11. 17   5両 3分  62文5歩 名主長蔵,11. 18   4. 1.2 朱 名主長蔵へ営繕入用茅買上代を支払う
新札幌市史 第6巻 史料編1 (編集にあたって)

石狩場所の請負人であった村山家の史料のうち札幌に関連の深いもの、安政五年から石狩の鮭漁場の出稼人となり浜名主
新札幌市史 第1巻 通史1 (勝右衛門のその後)

これが初代浜名主と同一人だとすれば、網持出稼人から名を消したあと、山田文右衛門の雇人として働くことになったのだろう
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの繁栄)

五十嵐勝右衛門は、阿部屋伝治郎の本陣とならび浜名主という町役をつとめており、『五十嵐勝右衛門文書』には
新札幌市史 第2巻 通史2 (戸長役場と戸長)

次の小熊善右衛門も札幌村の組頭・名主・副戸長・村用係などをつとめてきて、両人はいわば〝たたきあげ〟の在地役人
新札幌市史 第1巻 通史1 (本陣)

町役的な役割は、安政五年六月二十日に五十嵐勝右衛門が浜名主に任じられてから、両者がうけもつようになっている
新札幌市史 第2巻 通史2 (辛未移民の編成)

村取締は八月に村役人にかわり、入札により名主に四戸安蔵、組頭に岩瀬末治、百姓代に米内宗吉が選ばれている
新札幌市史 第1巻 通史1 (その用務)

⑤  浜名主。安政五年六月二十日に命を受けた。
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌・発寒・琴似村)

高木長蔵が二年十一月に名主をつとめており(市史 第六巻六〇七頁)、村役人の存在が知られる。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (那珂湊と廻船)

那珂湊と廻船 水戸藩の息のかかった浜名主や開発方御用取扱のイシカリ進出は、当然イシカリと水戸の結びつきを
新札幌市史 第1巻 通史1 (勝右衛門)

色々咄合仕候内、先年御町奉行の節、高橋様の御威光に罷成候間、幸ひ当地え御下り、又私も以前と違ひ、石狩場所浜名主
新札幌市史 第1巻 通史1 (勝右衛門の漁業)

勝右衛門の漁業 最後に新規出稼人浜名主勝右衛門の漁業をみることにする。
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ・サッポロと水戸藩)

そこから日本海岸への新道開削、そのためのアイヌ差配権、イシカリ浜及び下流での鮭漁経営、イシカリの初代浜名主
新札幌市史 第1巻 通史1 (検分の成果と影響)

たとえば弘前藩の青森で一行の宿を命じられた升屋は手違いを生じ「公儀衆至て立腹」(家内年表 一)、町年寄や名主,幕吏の増長はエスカレートするばかりで、公儀来泊となると「会所抔は名主早朝ニ詰合、夜ノ四ツ時九ツ頃ニ退出
新札幌市史 第2巻 通史2 (豊平開墾の実態)

候節周旋に付御入用事 小計 93両3分 差引残 756両1分 その外 15両 ハツサフ村百姓源吉名主長之助
新札幌市史 第1巻 通史1 (新漁場の割渡し)

づくりの有力者層を構成するわけで、①場所請負人出身者(阿部屋、山田、半兵衛)、②役務をともなうもの(浜名主
新札幌市史 第1巻 通史1 (出稼の諸相)

また、鮭漁でにぎわいはじめる安政五年八月十一日、勝右衛門が浜名主として市中に廻文した一節には次のように
新札幌市史 第2巻 通史2 (開墾・営農の推進者たち)

篠路村の草分けといわれる早山清太郎は、開墾・営農の模範であるだけでなく、新道の開削、移民誘致、名主その
新札幌市史 第6巻 史料編1 (件名目次)

  二〇 傷害事件示談一札(同年五月二八日)   二一 錯  簡   二二 永住出稼人願出浜名主経由,の廻文(同年四月一九日)   三六 貸附品定日の覚(同年四月二九日)   三七 市中願筋は本陣浜名主協議
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