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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (和人地と蝦夷地)

和人地と蝦夷地 松前藩の存立基盤は幕府より認められた蝦夷地の交易独占権であった。,そこで、まず慶広は藩の所在する和人地と交易する場所としての蝦夷地を明確にした。,東は知内、西は瀬棚の和人地の範囲が、この時までに東は亀田、西は熊石にひろがっていた。,なお和人とアイヌの居住を分離し、和人地と蝦夷地をつくり出したことは、アイヌとの交易独占を容易にするばかりでなく,、和人漁民らの統一的な支配体制確立に必要な条件でもあった。 / 和人地と蝦夷地
新札幌市史 第1巻 通史1 (徳川家康の黒印状)

松前志摩守とのへ(北海道史 第一)  これは秀吉の朱印状における船役徴収権を前提としながら、さらに和人,直売買を禁じている点、松前藩の商場知行制の進む中での藩の蝦夷地交易独占権を保証すると共に、アイヌに対する和人,の非分を禁止するばかりでなく、和人地と区分された蝦夷地を幕藩体制外の地として、アイヌの行動の自由を公認
新札幌市史 第1巻 通史1 (山田家の出稼形態)

表-8 ユウフツ場所からの出稼(文久2年) 出稼地 目的 アイヌ 人数 和人 人数 出発月日 (,人数はアイヌ一四〇人、和人九人の計一四九人。,この年、イシカリではアイヌ一六〇人、和人三二人の計一九二人のユウフツ場所住人が働いた。,山田はこのほかアッケシや北蝦夷地にも出稼を送り、その年間延人数はアイヌ四一八人、和人四八人、計四六六人,一方、逆にユウフツ場所へは鰯漁のため、四月下旬から九月にかけ和人を中心に八〇〇~九〇〇人の出稼が入り込
新札幌市史 第1巻 通史1 (蜂起の起因)

鷹用の餌犬の飼育などの、労力の負担を課せられることに対する積年のアイヌの不満も重なり、また私欲による和人,のアイヌへの煽動もあって、アイヌ間の紛争が、反和人、反松前藩への戦いへと変化していったものである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (道南館主の動向)

これら館主たちを支えた経済基盤は、アイヌとの交易や和人の漁撈狩猟などによる鷲羽、獣皮、干魚、昆布などと,各館主間の経済活動に相違はあったとするも、こうした安東氏を中心に館主を核とした和人の活動は、アイヌの漁撈狩猟圏,(イオル)を侵し、かつ交易も館主や和人の要求を通す形のものになり、その矛盾はアイヌ民族の和人への抵抗となって
新札幌市史 第1巻 通史1 (鍬取り上げ事件)

さらに、日本語の使用や和人風俗に改めることに対しても、同様な言辞を述べていた。  ,アイヌが和人の服装・外形、あるいは名前を和人風に改めた「帰俗」調査によると、安政五年の段階でイシカリ場所,ちなみに、人別帳で和人風の名前をもつ者は、安政三年では一三人ほどいる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (温泉の利用と新道)

また山の方より和人弐人に、ハツシヤフのハレテレキ両人の者と、女の子一人と出来りけるが、其方等は何故に爰,(ここ)え来りし哉と尋ねしに、当春貴人(ニシハ)が見附し温泉え、追々此頃は人も行候様成しまゝ、此和人等連行呉,このハレテレキが和人二人を案内して温泉に行っており、また「追々此頃は人も行候様成」と、湯治客があらわれ
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手船の商場)

その後和人地と蝦夷地を区別し、アイヌが和人地に来ることを禁じてからは、松前藩の御手船が「いしかり」へ来
新札幌市史 第1巻 通史1 (場所請負漁業の終末)

網引場と網の統数は表4のようで、和人の小網一統はアイヌの榀網三統分以上の収獲をあげえた。,安政期のイシカリ鮭漁獲高のうち、七七パーセントほどがいわゆる和人の取りしきった引場からで(アイヌを雇う,ツイシカリ上向 1 1 2 ホリカモイ 1 1 2 引網計 21 15   49   85 和人網,また、和人網三六統をみると、ウライを含めても阿部屋が六〇・五パーセント、山田家の出稼が三九・五パーセント,10.0 1,078 15.4 1,715 31.4 1,511 20.0 1,231 14.9 アイヌ、和人
新札幌市史 第3巻 通史3 (「社会問題欄」)

蛎崎は、荻伏でアイヌ民族の女性から、和人から暴行されそうになったので抵抗して追い返した話を聞き、「夷族,の間には節操あり義烈あり(中略)和人には道念なく夜叉犲狼の害毒あり噫文明は文迷にして開化は怪化なるか」
新札幌市史 第1巻 通史1 (コシャマインの蜂起)

鍛冶屋がアイヌの少年を刺殺した事件を契機に、アイヌの和人に対する積年の反感が一挙に爆発し、その抗争が以後数十年,信広は天ノ河の北側洲崎に館をかまえて、蠣崎氏を継ぎ、蝦夷島の統一的和人政権への一歩を踏み出した(新羅之記録
新札幌市史 第1巻 通史1 (温泉の注目)

また六月にはハッサムのハレテレキの案内で、和人二人も温泉に行っていた。,このようににわかに温泉が注目されたのであるが、イシカリの和人の間では、武四郎の「発見」以前に、すでにアイヌ
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ在住の入地)

八章でのべたように、在住制あるいは大友亀太郎を担当者とした御手作場設置等によって、現在の札幌市域内に、和人,しかしこの村は、本州方面はもちろん道内和人地の村と、どのような共通点あるいは相違があって、具体的にどのようなものなのか
新札幌市史 第1巻 通史1 (移住の自由)

第一点のうち、アイヌについては第六章をもうけるので、ここでは改革にともないいわゆる和人の進出をいかにすすめ,まず、箱館奉行は、請負人が強く抵抗してきたイシカリにおける和人の定住を許し、出稼を積極的に奨励することにした,一方、アイヌの使役をはじめ和人の移住制限など、従来実質的に行使してきた場所請負人の権限を喪失する。
新札幌市史 第1巻 通史1 (松浦武四郎の総括)

幕府による第二次直轄あるいはイシカリ改革は、その目的のひとつに以上のような人口減少、アイヌ社会の疲弊と和人,さらに、改革後の漁場解放による和人の増加は、アイヌの労働の場や居住地をうばい圧迫することになり、窮乏と
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

同『燼心餘赤』(吉田武三編『松浦武四郎』下巻)、高倉新一郎『アイヌ政策史』、菊地勇夫「場所請負制下の和人
新札幌市史 第1巻 通史1 (鮭漁の発展と変わる漁法)

一九カ所に分けた網引場は、いわゆる和人網引場と呼ばれている引場で、イシカリ元小家分(運上屋)が二三統、,しかも、この網引に従事した人数は、アイヌおよび出稼和人合わせて三五七人であった(村山家資料)。,この一方で、アイヌ専用の網引場が七カ所(ただしこのほかに和人網引場と共用のが一カ所あるので実際は八カ所,この場合の網は、和人網引場の糸大網と異なり、榀網を用いたもので、漁獲高においては糸大網の方が数倍すぐれていたらしい
新札幌市史 第1巻 通史1 (雇の実態と代償)

糸網引場というから和人網引場の雇あるいは「テツキ」(手付のことと思われるが、仕事は鮭の員数調べを担当),しかも、この秋味漁に従事した労働人口は、第二次幕府直轄直後の安政二年の場合、和人網引場一九カ所で三五七人,このうち、和人網引場は、請負人直営の糸網を使用した網引場で、アイヌのほかに和人出稼者もいた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (民族的蜂起)

このシャクシャインの和人襲撃の檄(げき)に答えて、寛文九年(一六六五)六月、東はシラヌカ、西はマシケに,至るアイヌの多くは、一斉に蜂起し、蝦夷地にいた商船を襲い、つぎつぎに和人の水主、鷹待、金掘を殺戮し、東西蝦夷地,シャクシャインの檄に応じて、東西の蝦夷が商船などを襲撃して和人を殺害した底意は、寛文十年(一六七〇)しりふか
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌへの種痘)

しかし医師は、和人の治療にあたるのみで、アイヌへの施療はみられなかった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌの使役)

当時、和人は漁業の出稼者しかいなく、他に労働力が求められなかったこともあるが、アイヌが請負人により最も
新札幌市史 第1巻 通史1 (動員されるアイヌ)

この時期におけるイシカリ場所での大きな変化は、鮭の漁獲高増大をねらって投入された出稼和人労働力と、漁業,直接購入して加工する方式をとってきたのに対し、イシカリ川下流域沿岸には請負人直営の鮭漁場さえでき、出稼和人,、タカシマ男一六人、サル・ユウフツ男女八〇人、ウス男三五人)におよび、賃金は一人約一両三分で、これは和人労働者
新札幌市史 第1巻 通史1 (改役所の設置)

アイヌ漁場は、元来、アイヌの冬季の食料源・交易物としてアイヌの漁場権を認めて成立し、和人の進出から保護,しかし、アイヌの漁獲した鮭は、干鮭にして和人と交易されていたものが、生鮭のまま本州に輸送されるようになり
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリアイヌの流散)

また、アイヌへの優遇策を謳(うた)ったイシカリ改革であったが、この改革は同時に和人の出稼労働を招いて、
新札幌市史 第2巻 通史2 (人身売買の実態)

北海道の場合、松前・函館・江差の旧和人地の三湊を除いては近代に入ってからほぼ同様な経緯をたどって確立した
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ文化のルーツ)

そして、実際に本州の商品経済の影響が強く現れてくるのは、和人との交渉が活発になる擦文文化以後の「中世・
新札幌市史 第1巻 通史1 (渡党)

ともかく鎌倉期以来道南に和人の居住者がふえていたといえる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (蠣崎政権成る)

勢田内は瀬棚、志利内は知内、天ノ河は上之国を流れる川であり、この範囲を和人地とし、蠣崎氏はこれを基盤に
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサムよりシユママツフへ)

まだ渡守等もおらず、通行屋は無人であったが、シコツのハレタク、定山渓の温泉帰りの和人二人、案内のハッサム
新札幌市史 第1巻 通史1 (北方領土問題とアイヌ)

北方領土問題とアイヌ 箱館開港を契機として安政二年(一八五五)二月に、和人地とされた東部木古内村、西部乙部村
新札幌市史 第1巻 通史1 (士分の雇農民)

そしてイシカリ場所内で和人が消費する主食農産物の大半は、前代と同様移入に頼り、改革を経て定着した漁間農業
新札幌市史 第1巻 通史1 (阿部屋の漁業経営)

これをカバーするためいわゆる和人を雇うと、労賃はアイヌの七、八倍と高く、大きい負担になった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (人口の減少)

請負体制を中心とした和人によるアイヌ社会の破壊が、いかにすさまじいものであったか、この数値が如実に物語
新札幌市史 第1巻 通史1 (武四郎その後の去就)

特にアイヌの人たちの悲惨な状況を直視し、そこに追いやる和人の不法・不当性を剔出した眼識は、特筆すべきものといえよう
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム)

円吉はこの兄弟をかわいがり、たまにハッサムに来ては添い寝をし、着物・食物も和人同様にしていた。
新札幌市史 第1巻 通史1 (銭箱よりハッサムへ)

、屋内には屛風(びょうぶ)・襖(ふすま)も立てられ、「賤妓」が来ており、「開闢(かいびゃく)以来未だ和人
新札幌市史 第1巻 通史1 (アイヌ政策の変化)

以上の八点はいずれもアイヌの固有の民族文化を認めず、一様に和風化・和人化をはかると同時に、場所請負制において
新札幌市史 第1巻 通史1 (最上徳内のイシカリ探検)

、ハッサム川を遡り、その枝川をたどって「シイシヤモウシベ」にいたった時、「シイシヤモウシベ」とは、「和人
新札幌市史 第2巻 通史2 (函泊事件)

明治二年六月二十四日ロシア軍艦が多くの人員を輸送して来て北蝦夷地函泊(ハコトマリ)に上陸、アイヌ墓地や和人漁業者
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ「場所」と鮭)

鮭 イシカリ川と、その支流に位置する現在の札幌市域を包括した地域が、きわめて鮭の豊富なところとして和人史料
新札幌市史 第5巻 通史5下 (「全国アイヌ語る会」)

白糠、帯広、幕別、旭川から、道外は東北、東京から合わせて一五〇人が参加、さらにアイヌ問題に関心を持つ「和人
新札幌市史 第1巻 通史1 (寛文期の史料から)

蜂起事件とは、第三章で触れたごとく、松前藩の商場知行制の確立にともない、和人の不正交易に対するアイヌの,地図自体は必ずしも精巧とはいえないが、アイヌ蜂起事件に関する「鬼ヒシ住所」や「シヤクシヤ犬住所」、あるいは和人側
新札幌市史 第1巻 通史1 (志村鉄一の経歴)

志村鉄一の経歴 トヨヒラの通行屋の管理にあたったのは、札幌市内最初の和人居住者として名高い志村鉄一(
新札幌市史 第2巻 通史2 (人口比率と「家」)

さらに、当時の北海道の男女の人口比率が極端に「男多女少」の理由として、近世において蝦夷地内への和人女性
新札幌市史 第1巻 通史1 (オホーツク文化の起源と終末)

においては一七世紀頃などの諸説があり、その理由としてはそれぞれ「擦文文化優位説」、「元の侵略説」、「和人進出説
新札幌市史 第1巻 通史1 (詰合役人の役割)

また翌四年八月四日にイシカリを再訪した、関宿藩士成石修輔の『東徼(とうきょう)私筆』は、「諸方より和人夷人共
新札幌市史 第1巻 通史1 (山田家の出稼)

に増加し、再直轄時、シップの浜に大網一、イシカリ川筋に小網一四の合計一五カ所一五統を持ち、イシカリの和人網
新札幌市史 第1巻 通史1 (松前藩の反撃)

シャクシャインに降服をすすめ、和睦なるとみせかけて、十月二十三日、その祝としての酒宴に招いてこれを謀殺し、和人
新札幌市史 第1巻 通史1 (カラフトへの足場)

としてイシカリも直場所と呼ばれたが、奉行所は原則としてこれを認めなかったのは(市史六二頁)、イシカリの和人
新札幌市史 第1巻 通史1 (人別帳にみる人口構成)

武四郎が確認したところでは、妻妾となった女性は三二人もいる(菊地勇夫 場所請負制下の和人とアイヌ)。
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