• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 221件
辞書ファセット
/ 5ページ
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住の任命)

在住の任命 本節以降では、現在の札幌市域に重点をおきつつ、イシカリ役所直支配地に入地した蝦夷地在住、,すなわちイシカリ在住と呼称されたもの全体を対象として記述する。  ,在住制が制定されると、願に基づき江戸において在住が任命されるが、任命された在住の、イシカリ・ムロラン等入地地域,ス」などという文言がみえ(村垣淡路守範正公務日記―以下『公務日記』と略記)、在住に対して、かなり詳細な,江戸における蝦夷地在住の任命は、安政三年(一八五六)の九月に始まっており、十月以降かなりの数の在住が箱館 / 在住の任命
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住の移動)

在住の移動 前述の蝦夷地在住の発令・入地等も含めて、イシカリ在住の動向を示したのが表2である。,表-2 イシカリ関係在住一覧(50音順) 氏名 元身分 在住 発令 イシカリ詰 申渡 入地場所 入地後,制度で記述したように、旗本、御家人の場合は、元身分による高および在住扶持等も支給され、在住手当金のみの,同額の「北地在住ニ付増御手当」を得ているし(慶応三年在住・御雇・御雇医師同並明細短冊)、一時カラフト在住,慶応三年現在では、中川は箱館在住(明治元年四月に在住頭取)となっており、中嶋と同居している。 / 在住の移動
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住の住宅)

在住の住宅 住宅については、安政三年二月の箱館奉行に対する支配向伺中、在住は「先ツは無役之姿に候へは,同年五月の同史料「蝦夷地開拓其他入用の件」では、六二五〇両が在住五〇人分の居宅建築費用として計上され、,これについてイシカリ在住として軽部伝一郎ほか一名の在住宅の平面図が見出されたので、これを紹介する(図1,なお、佐倉藩士今村治郎橘の『蝦夷日記』によれば、安政四年八月に、在住が一一人いてハッサムには在住宅が五軒,七五〇両余が「御在住家御普請入用金箱館御役所御下ケ金」とされている。 / 在住の住宅
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住制の達)

在住制の達 以上のような経過をふまえ、安政二年十月十四日付老中から大目付・目付あての達という形式で在住制,御旗本御家人之内、風寒暑湿を不厭、山野を跋渉し、筋骸を固メ、文武修練心掛候者共相願候得は、元身分ニ応し、在住被仰付候間,は、都テ御委任被成候条、蝦夷地御開拓行届候様可被相心得候」(蝦夷地御用留 道文一〇八一)と達せられ、在住制,なお、箱館奉行はすでに同年四月、在住手当と共に在住に関する達案を次のとおり伺っており、在住の募集については,写真-1 在住之者御達案 / 在住制の達
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住制の内容)

在住制の内容 ここまでは在住制成立の経過を述べてきたが、ここでその内容について、概括的にまとめてみよう,給与は、旗本、御家人については元身分に応じた扶持米等に加えて、在住手当金・扶持が支給され、移住に際して,イシカリ在住の手当支給の事例は見出していないが、イワナイ在住の常見栄太郎の場合、元身分に応じた分が高四,しかしこれは以前からの幕臣の場合であり、惣領から浪人までについては在住手当金のみの支給となるから、在住,なお在住手当・引越料等は、表1のとおりである。 / 在住制の内容
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住の兼務)

在住の兼務 先にも少しふれたように、在住は、在住本来の業務を行うだけでなく、イシカリ役所関係の種々の,任命年は不明であるが、中村の場合は在住というより、定役代という行政官の活動が主体だったと思われる。,じられており(公務日記)、また文久元年四月に軽部伝一郎は槍術教授を命じられ、翌文久二年十月軽部が岩内在住,さらに『公務日記』では安政四年八月に「一イシカリ在住弓気多源之丞当所ニ罷在、鉄炮打立方近藤庫三郎手伝可致旨,『荒井金助逸伝』中の「石狩漁場を廃し直捌御手場所となし、創業着手、漁場取締以下数十人を置き、各漁場エ在住士及部属 / 在住の兼務
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住制の停滞)

在住制の停滞 右の史料によっても、イシカリの地に開拓が着手され、その尖兵として在住が配置されたことを,知りうるが、前章の記述によって見ると、安政三年から同五年の間に二五人ほどの者がイシカリ在住を申し渡されている,安政五年十二月現在で蝦夷地在住総数は七〇人とあるから、移動もありうるので正確な数値といいえないにしても,、安政期に全在住のほぼ三分の一がイシカリに配置されたとみなされる。  ,しかしその後これら在住のうち、死亡や退去、また他の地域への移住、特に切迫する北蝦夷地への移動も目立ち、 / 在住制の停滞
新札幌市史 第1巻 通史1 (兼務の収入と在住)

兼務の収入と在住 このように、在住本来の業務以外の業務を行った場合の手当はどのようになっていたであろうか,中村が他の在住と別扱いとなっているのは、おそらく定役代としての扱いであろう。  ,この二つの例、それに大友の例も加えていえることは、在住身分のものが在住本来以外の業務を行った場合には、,また漁業に関する役は、そのほとんどが沿海地域に入地した在住で占められ、山麓地域の在住はごく少数である。,すなわち、これらによれば、山麓地域の在住がすべて退去したのは、在住身分によるもの以外の収入がほとんどなく / 兼務の収入と在住
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住制の成立経過)

在住制の成立経過 これによって在住制の整備は急速に進んだ。,安政二年四月の箱館奉行から老中あての伺に、在住対象者は五〇〇石以下御目見以上(将軍に謁見できる家格)、,ものえは、地所割渡し、成功に随ひ望候丈之地所相増、在住中は被下切ニ相心得候様」(同前)と、在住が自費で,開墾した場合、その地所を在住に付与することが定められた。  ,ついで同年七月の、箱館奉行からの伺に基づいて、元身分に応じた在住手当・引越料等が定められ、開墾地の付与等 / 在住制の成立経過
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ在住の入地)

イシカリ在住の入地 第七・八章でのべたように、在住制あるいは大友亀太郎を担当者とした御手作場設置等によって,さらにハッサム村、中嶋村等は在住制によって成立した村であることから、記述の必要上、第七章と多少重複する,ハッサム村は、安政四年(一八五七)二月に箱館奉行によってイシカリ在住入地の中心地と位置づけられたことに,在住制は、在住手当等を支給される在住が農民を招募し、その開拓した土地は、在住が在地するかぎり永久に下しおかれ,したがって多くの在住が農民を招募した。 / イシカリ在住の入地
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住入地場所の選定)

在住入地場所の選定 このように、個々の在住の入地地域の決定は在函箱館奉行が行ったが、地域中の在住を入地,これをまず『公務日記』によってみると、安政四年二月二十二日の項に「石狩在住もの之場所取極、早々御普請ニ,ニ申立候処也、至極宜見ゆる」(傍点引用者)とあって、翌二十四日には「在住場所サツホロ、アツサフ両山麓ニ,到着した在住の処置にまで言及している。,されるが、実際にはここにも相当数の在住が入地している。 / 在住入地場所の選定
新札幌市史 第1巻 通史1 (生活の困難と在住の立場)

生活の困難と在住の立場 すでにみてきたように、在住は蝦夷地開拓の中心的役割をになわせられながら、箱館奉行,さらに安政六年八月、在住頭取栗本鯤は、箱館奉行あて在住士切米扶持方渡方の件で箱館奉行あて願書を提出したが,、この中で栗本は、箱館在住の困窮について述べ、そのため「町人共ニ手を下ケ膝を屈候様相成、夫故か在住士は,これをうけて箱館奉行は、同年十月に老中へ蝦夷地在住人切米扶持方渡方の件で伺書を提出したが、その中で蝦夷地在住,に到着した在住の病体見届けを命じたり(公務日記)、在住入地の際、各地を穏便に通行したかを報告させたりしている / 生活の困難と在住の立場
新札幌市史 第1巻 通史1 (箱館裁判所(府)と在住制)

箱館裁判所(府)と在住制 このようにして在住制は多くの問題を抱えつつも継続されたが、幕府が崩壊し、箱館奉行,に替わって箱館裁判所(府)がおかれてからも在住制はなお継続された。,これをイシカリ在住についてみれば、明治元年(一八六八)八月に、元イシカリ在住の肩書で箱館府に任用された,者が四人、そのまま在住として手当を支給された者が大友亀太郎など六人となっている(箱館裁判所評決留)。,イシカリ在住の具体的な動向については、次節で述べるが、この時点では、人数は従来いわれているほどには減少 / 箱館裁判所(府)と在住制
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住制から御手作場へ)

在住制から御手作場へ 慶応二年正月、小出箱館奉行は「蝦夷地全嶋御開拓筋の儀に付申上候書付」で、まずロシア,すなわち、当然ながら御手作場は、在住制による開拓と同様、基本的には防衛を主目的として設置されたものである,と同時に、具体的に言及してはいないが、在住制ではもはやその目的はとうてい達成できないと見きわめたことも,すでにみてきたように、全道的にも在住数は、当初の目標とされた六〇〇人をはるかに下まわり、さらにイシカリ,在住についてみれば、ほぼ開拓に専念したとみられる山麓地域はほとんど全滅し、行政的な業務を兼ねた沿海地域 / 在住制から御手作場へ
新札幌市史 第1巻 通史1 (幕府の崩壊とイシカリ在住)

幕府の崩壊とイシカリ在住 おそらく安政五、六年ころに最多数に達したイシカリ在住は、その後漸減し、明治元年八月現在,については、若干居住場所の不明のものもあるが、大友を除きすべて沿海地域にあり、ハッサムなど山麓地域の在住,この理由については、在住の兼務・同手当のところで記述する。  ,明治元年八月に、前記在住のうち中村、荒井、永嶋玄造、井上の四人が箱館府に任用され、残る六人は引き続き在住,と記されており、この二人が最後のイシカリ在住と思われる(御人撰評議)。 / 幕府の崩壊とイシカリ在住
新札幌市史 第1巻 通史1 (開拓使の設置と在住制の終末)

開拓使の設置と在住制の終末 開拓使の設置された明治二年七月、開拓使の石狩詰任用に関わる文書のうち、二人,の肩書が在住となっている(開拓使庶務局 御人撰評議)。,ほかに大友亀太郎がこの月兵部省(軍務官か)出張所石狩国開墾掛に任命されており、箱館府のイシカリ在住六人,そして多分この文書が在住の最終的な処理に関するものであり、在住制は開拓使の設置とほぼ同時期に消滅したといえよう,また慶応三年の『在住御雇・御雇医師・同並明細短冊』では八九人の在住が数えられるが、同文書はかなり剝離が / 開拓使の設置と在住制の終末
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地警備と「在住」の任用)

在住へ 21 森内祐次 文化4.4.16 西丸御先手渡辺久蔵組同心 在住へ 22 斉藤要八郎 文化,在住へ 24 和田貞吉 文化4.4.16 浜御殿番世話役 在住へ 25 田村兵左衛門 文化4.4.16,御船手丸毛甚三郎組水主同心 在住へ 26 海久保和三郎 文化4.4.16 評定所同心 在住へ,小普請組逸見左近組 在住へ 29 石井善蔵 文化4.4.16 小普請組蒔田権佐組 在住へ 30,幕末の「在住」とは、内容においても大きく異なると思われるが、いわゆる「文化度」の「在住」とは、このような / 蝦夷地警備と「在住」の任用
新札幌市史 第1巻 通史1 (水野一郎右衛門の在住への降格)

水野一郎右衛門の在住への降格 人事交替が実施されなかったかわりに、調役並でスッツ詰の長谷川儀三郎が、,一方、一郎右衛門の処置に対して場所交替はおろか、調役並出役の差免、蝦夷地在住への降格という、非常にきびしい,一郎右衛門が差免され、在住申渡しの公布が出されたのは五月十八日であるが、江戸から公書が届いたのは四日で,、翌五日にはシャマニ(様似)詰の在住が申し渡されている(公務日記)。 / 水野一郎右衛門の在住への降格
新札幌市史 第5巻 通史5下 (札幌市在住「ウタリ実態調査」の意図)

札幌市在住「ウタリ実態調査」の意図 四十九年一月には札幌在住のウタリの人々による生活館建設要求の声が,調査結果は、『札幌市在住ウタリ実態調査報告書』(北海道ウタリ協会 昭51)としてまとめられ、この内訳については / 札幌市在住「ウタリ実態調査」の意図
新札幌市史 第5巻 通史5上 (札幌市在住ウタリ実態調査から)

札幌市在住ウタリ実態調査から 農漁村を離れ、札幌市へ仕事と新しい生活を求めて集まった同胞(ウタリ)が,北海道ウタリ協会では、札幌在住ウタリの人々が抱えている生活上の切実な問題を解決するために、五十年、ウタリ / 札幌市在住ウタリ実態調査から
新札幌市史 第1巻 通史1 (箱館奉行の対応)

箱館奉行の対応 このような経過もあったが、在住制はそのまま実施に移された。,ただ問題となった在住頭取等については、安政四年五月にムロラン在住の高橋三平、新家鉄作、イシカリ在住の酒井和三郎,が頭取に、イシカリ在住の中嶋彦左衛門が世話役にそれぞれ任命された。,また陪臣の在住任命に関しては、安政三年三月に、主立った者については、その藩の意志を確認して行うよう箱館奉行
新札幌市史 第1巻 通史1 (堀・村垣の上申)

現在の札幌市域において農民が定住して集落が形成され、「村」と呼ばれるようになって明治に至ったのは、在住制,しかしこの期の在住制についてはまだ研究が進んでいないため、ここではイシカリ在住について必要な範囲で、在住制,ニテ御引移有之」(幕末外国関係文書)と、その対象を旗本から浪人までの広範囲に定め、手当等の制を立てて在住,ついで同年十二月、堀・村垣は老中あての蝦夷地経営に関する上申の中で、在住を東は箱館辺からエトモまで、西,人数のみからみても、六〇〇人の在住とその家族、および後述するが在住の招募する農民とその家族を合計すればかなりの
新札幌市史 第1巻 通史1 (箱館奉行の反対)

この中で、まず僻遠の地の実状を述べたのち、これまでの在住は、従来宛行のほか在住手当を支給してすら農民雇入,その他の費用に差し支えているのに、この案では開墾どころか家族の生活すらできなくなり、すでに入地した在住,明治五年ころの聞取りに、文久二年にハッサム、シノロ、コトニ等の在住六人が帰府または箱館に出たという記述,それ以上に、この老中案が実施されれば、箱館奉行の述べるように、在住制は全面的に崩壊せざるを得なくなるから,しかし同時に在住制は立案時のような期待、たとえば諸藩の警備を不要にするほどのもの、という位置づけはすでに
新札幌市史 第1巻 通史1 (文久二年の老中案)

文久二年の老中案 文久二年(一八六二)五月、老中は箱館奉行に対し「覚」として在住制の改正について意見,しかし改正案の骨子は、一、今後在住にはそれぞれの高に応じて在住中給地を支給し、帰府の節知行所蔵米は前のとおりとする,すなわち在住の主力とされている旗本、御家人については前述のように在住扶持・手当金のほか、元身分の高を支給,自力開墾の見込みのある土地を付与されていたのが、元身分の高を蝦夷地の土地に替えて支給され、かつすべての在住,当然在住の収入は大幅減となって、制度としては大きく後退したものといわざるを得ない。  
新札幌市史 第1巻 通史1 (旧幕吏の再任)

給事席 元石狩在住定役代中村兼太郎、元石狩在住荒井好太郎(兼学校助教)  趨事席 元石狩詰同心山本晋之助,、元石狩在住永嶋玄造、同井上斧太郎  属事席 元石狩詰足軽西村嘉右衛門、同山本政之助、同田中鋭次郎,にかわった)  属事席 元雇医師佐藤玄悦(民政方病院石狩詰) 以上の属吏のほか、同時に新たに石狩在住,石狩在住一カ年御手当金一五両 渡辺鼎斉、畑山万吉  石狩在住一カ年御手当金一〇両 松井八右衛門、大友亀太郎, 石狩在住一カ年御手当金七両二分 玄造悴永嶋芳之助  石狩在住一カ年御手当金五両 八右衛門悴松井小申吾
新札幌市史 第1巻 通史1 (志村鉄一の経歴)

鉄一がイシカリ在住で、学問教授方の鈴木顕輔の家来であった可能性は高い。,その節見送りに来たのは、在住の高橋靱負・中村兼太郎、及び鈴木豊太郎の三人であった。,在住の二人のうち、靱負・兼太郎はイシカリ在住で、鈴木豊太郎は鈴木顕輔の子弟とみられる。,イシカリ在住に鈴木の姓をもつ在住は、顕輔の他にはいない。,鈴木顕輔は、イシカリ在住兼学問教授方として安政四年七月三日に、箱館を出発する(公務日記)。
新札幌市史 第1巻 通史1 (土地・農民管理)

土地・農民管理 これまで述べてきたように在住が農民に開拓させた土地は、在住の在地している間は「被下切,」となる制度となっており、もちろんイシカリ在住についてもこれが適用されたが、多少変則とみられる事例があるのでここに,紹介し、この面から在住の実態にふれてみたい。  ,これからすれば、この開発場というのは、すでにある農民・農地も、在住の管轄下においたものといえよう。,なぜこのような措置がとられたのかは不明であるが、慶応の文書で在住に対し、農民人別、農地反別の報告を督促
新札幌市史 第1巻 通史1 (役人の交替)

また翌日には、オタルナイ・タカシマ詰の高田重次郎を無役在住におとし、後任に宇津木頼母を任命している。,準庵は小普請医師で、安政三年九月に在住に任じられていた。在住の身分で医師とされたのである。,準庵と同時に在住となった長坂与一郎・大竹慎十郎の両人は、四年二月二十八日頃にイシカリに到着しており、準庵,イシカリ詰の在住医師から学問教授役に変更になったのは、この頃、詰役・在住の子弟の教育のために、学問所の,しかし準庵は、これより間もない六月二十三日に、箱館在住頭取に転任となり、さらに学問教授役となった(河野常吉
新札幌市史 第1巻 通史1 (老中尋書)

老中尋書 以上のような経過を経て在住制が達せられ、実行段階に入っていくが、しかし老中の達が出されてわずか,すなわち、この中ではまず在住そのものについて、在住は何の才幹もなく、たとえあったとしても一時の利を求めて,このような疑義が、しかも在住制が実質的に実施される以前になぜ老中から提示されたのかは明らかではないが、,することの弊害が主張されていることなどから、幕閣の内部およびその周辺に、窮迫した藩の維持とも関わって、在住制,(第一次直轄期)とは異なり、幕府の財政がはなはだしく欠乏していることが繰り返し強調されており、これが在住制
新札幌市史 第1巻 通史1 (番所の設置)

十一月の「書付」にも、「漁業中役人・勤番人共不足ニ付、在住次三男幷家来等雇」といわれているが、在住の次三男,ではなく、在住自身が利用されている。,役人の不足を在住で補うのは、この他にも多くみられ、ここにイシカリ在住の特異性があった。,表-1 役人の場所(番所)割 場所 氏名 身分 ホリカモイ御掛 金子八十八郎 在住 永島玄造 在住 ワッカヲイ,御掛 中村兼太郎 在住 天野伝左衛門 在住 トクヒタ御番所 中西清三 同心 木村源次郎 同心 ヒトエ御番所
新札幌市史 第1巻 通史1 (学問教授所)

学問教授所 イシカリには、詰合役人や在住の子弟教育のために、特に学問教授所が設置された。,最初に学問教授所に関することがみられるのは、安政四年(一八五七)四月三日に、塩田準(順)庵がイシカリ詰在住,準庵はもと小普請医師で、安政三年九月に在住となったのであった。,しかし準庵は、六月三日に箱館在住頭取となり、後任にはやはりイシカリ在住の鈴木顕輔が、学問方教授となった,再び亀谷丑太郎の談によると、撃剣場があり指南は在住の水島玄造で、あわせて弓術も指南したという。
新札幌市史 第1巻 通史1 (農民の招募)

農民の招募 これまで繰り返し述べてきたように、在住制は、在住みずからが開拓を行うのが本旨ではなく、在住,の招募した農民が土地を開き、作物を育て、やがては在住に年貢を納める、というのが骨子であった。,したがって、札幌の歴史にとって在住制で最も重要なのは、招募され、開拓労働に従事し、やがて村落を形成していった,これは、まず入地した在住が、状況をみて次弟に農夫を増加していった事例といえる。,在住自体すら移動が少なくなかったから、それの招募した農民の定着率が低いのは当然であろう。
新札幌市史 第1巻 通史1 (農業・開拓)

農業・開拓 ここでは紀行類および明治期の聞取り等を主にして、在住地における農業等について記述する。,には、ハッサム在住地について次のように書かれている。,あるいは在住がみずから耕作したのかもしれない。  ,なお、在住の年貢収納に関しては、史料は今のところ見出していない。,在住の年貢の収納についても、おそらくほぼ同様で、少なくとも在住の生活を支えるだけの年貢は、明治に至るまで
新札幌市史 第1巻 通史1 (箱館府の成立)

給事席 中村兼太郎(在住定役代) 趨事席 山本晋之助(同心)、永島玄造・井上斧太郎(在住) 属事席, 西村嘉右衛門・山本政之助・田中鋭次郎(足軽)  また、荒井好太郎(在住)は給事席で、学校助教の兼務
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ開拓と荒井村の性格)

まずイシカリ役所直轄地内の在住は、盛期で二〇人以上入地したが、官の期待とははるかに遠い成果しかあげることができなかった,このような状況下で、幕吏が自費を以て開墾を行うのは、官にとってきわめて望ましいことであって、その開墾地は在住,換言すれば、米などの扶助を行う主体が在住であれば在住村として土地は在住に下され切り、官の行う場合が御手作場,として官の土地、そして幕吏によるものが何某開墾地として在住同様となるということである。
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム村の変質)

御手作場とは幕府の直営のもので、おそらくこの場合は退去した在住の地をイシカリ役所が引継ぎ、若干の農民扶助,とすれば、山岡が退去に際して開墾地を差し出すことにより、これまでのハッサム在住開墾地はすべて御手作場となり,すなわち慶応三年以降、ハッサム村は在住村から御手作場(ただし大友を担当者として開始された大規模のものではない
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム道)

サッポロ越新道がいつどのように計画され、また工事に着手されたのか不明な点が多いが、新道はまずハッサム在住地,ハッサム在住の第一陣は、安政四年二月二十八日頃にイシカリ入りし、雪どけを待って間もなくハッサムに入植したとみられる,フシコベツブトと呼ばれたハッサム在住地へのハッサム道は、阿部屋に命じて開削されたとみられる。,また『公務日記』によると、六月一日付で堀から箱館の村垣範正への御用状には、①発寒部(ハッサム)在住地所割渡
新札幌市史 第1巻 通史1 (銭箱よりハッサムへ)

を出発し、ホンナイ・マサラカマフの小川をこえ、オタルナイ・イシカリの境界であるホシオキ川をすぎると、在住,追分の由来は、右は本道、左はハッサム在住地へ至る二叉(さ)路になっていたからである。,武四郎はここで左行し、大屋文右衛門・大竹慎十郎・永田休蔵・弓気多内匠の在住地にいたる。,また、ホンハツシヤフ(中の川)を渡ると、山岡精次郎・秋庭熊蔵の在住地があった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (蝦夷地開発の方策)

相成、其外陪臣浪人ニテモ可御用立者ハ夫々御所置ニテ御引移有之」(前出)と、まさしく前章で詳述された「在住,人員として、「御旗本御家人ニテ相願候者は勿論、次三男厄介陪臣浪人等ニても人物相撰、普く差遣し」と前述の在住,以上のような堀、村垣の蝦夷地警衛や公務をも兼ねた在住制案は、ほぼ全面的に幕閣の容認するところとなり、身分,・手当等の細則の決定を終えて、安政三年より採用を開始し、この在住制が展開していったことは前章で見たとおりである,この在住制と平行して、蝦夷地開発を目的として採用された他の一つの方策があった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (産業)

については、官もそれを認めており、村山家資料中の「石狩場所改革方取計之儀申上候書附」のうちに、 一  在住召遣農夫為助成鍵取漁差免候,また、河野常吉資料中の『石狩場所請負人村山家記録』中に、在住畠山万吉(安政五年発令、ワッカオイ)から「,此度在住仕候上はイシカリ川之内御差支無之所ニテ召連候手人数ヲ以魚漁等も」行いたい旨願い出て、許されている,在住等から扶助を得ているとはいえ、開拓・農業以外の多くの仕事にも従事することによって、農民の生活はかろうじて
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム川の利用)

まで丸木舟の使用しかできなかったが、安政四年(一八五七)閏五月の堀利熙、五年四月の村垣範正のハッサム在住地,文久二年(一八六二)に記された、今井宣徳『蝦夷客中日記』には、「此所(ハッサム)在住五軒あり、諸荷物運漕,は皆此川(ハッサム川)を登すと云」とあり、ハッサム川の利用がさかんに行われ、在住地への物資の輸送に便宜,なお小休所は先のハッサムの他に、ホシオキ在住のいるホシオキにも、安政五年に建設されたらしい(公務日誌 
新札幌市史 第1巻 通史1 (金助赴任時のイシカリ)

第二に、在住による開発の問題である。,この安政四年二月に大竹慎十郎・長坂与一郎がイシカリに入地以降、四年中には一七人程の在住が、イシカリに続々,在住による開発地所の選定、必要物資の補給などをすすめ、イシカリの開発を円滑におこなうことが、急務の問題
新札幌市史 第1巻 通史1 (安政五年の調査)

当地の在住やオタルナイ辺への出稼の者たちの鮭漁を禁ずるものである。,フシコハッサムには在住の家が立ち並び、武四郎はアイヌのアイクシテの家に止宿している。  ,翌二十日、在住宅五、六軒あるチライオツベツの辺を過ぎ、サンタラッケに来るや、オタルナイ領より薪、材木伐,ついでオタルナイ川の支流ポンタツナイも同じく在住の給与地である。,、秋場熊蔵の在住二軒あり、少し上に夷人小屋五軒。
新札幌市史 第1巻 通史1 (新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)

とイシカリ在住…880   第一節 在住制の成立と展開…880     一 在住制制定の動向        ,堀・村垣の上申 在住制の成立経過     二 在住制の成立        在住制の達 在住制の内容,在住の任命と入地        在住の任命 在住入地場所の選定     二 在住の移動        ,在住の移動 幕府の崩壊とイシカリ在住   第三節 イシカリ在住の活動と生活…900     一 在住,二 在住の生活        在住の住宅 生活の困難と在住の立場 在住制から御手作場へ   第八章
新札幌市史 第1巻 通史1 (村垣範正の廻浦)

千歳川を下り、その夜はツイシカリの通行屋に宿泊し、翌二十八日にイシカリ・ハッサム川を経由して、ハッサムの在住,この夜は在住の空宅で一泊し、二十九日はサッポロ越新道を検分しながら千歳へと戻っている。,この五日は、ワッカオイ在住の畠山万吉・天野伝左衛門の畑地・役宅、五十嵐勝右衛門の漁場を検分し、六日はホシオキ,の在住、サッポロ越新道をみ、この夜は銭箱に泊まり、翌七日はオタルナイ・タカシマへと向かっている。
新札幌市史 第1巻 通史1 (開墾取扱所ほか建造物)

大友の役宅は本来在住身分としての居宅が給付されることになっていた。,しかし大友はイシカリ赴任に際し、単なる在住居宅では御手作場経営に当たって多くの農民を取扱うことなどのため,明宅と記されているのを見ると、近在のすでに退去した在住家作とも考えられる。,慶応二年の『石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳』(大友文書)によると、「在住中川秋山明宅二軒願受代」,ひ候明宅ほごし之事」として明宅解体の人足賃料銭六四貫六〇〇文が計上されているのを見ると、あるいはこの在住家作二軒分
新札幌市史 第1巻 通史1 (堀利熙の再訪)

そのうち、ハッサム在住地とサッポロ越新道の視察について、玉虫左太夫の『入北記』が、その様子を伝えている,それによると、堀利熙は九月九日夜に、ハッサム在住の新宅に着きここで宿泊し、翌十日に視察をおこなった。,畑地二、三丁歩モ開ケ、川岸ニハ土手ヲ築キ其景色目ヲ驚カス程ナリ」と、ハッサムの在住地の開発がすすんでいる,この後、ホシオキへむかい、新たに落成した三戸の在住宅をみ、この夜は銭箱に宿泊した。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (在日韓国人・朝鮮人と人権問題)

在日韓国人・朝鮮人と人権問題 昭和三十四年(一九五九)に一万一三三五人を数えた北海道在住韓国人及び朝鮮人数,一方で札幌市在住者数は増加を続けて五十年には道内在住者数の三〇パーセントを超え(表5)、五十六年六月、,四十一年から、日韓法的地位協定により戦前から居住する在日韓国人及び「二世」の協定永住が認められ、道内在住者,表-5 国内・道内・札幌市の在住韓国人・朝鮮人数の推移   種別 年次   登録韓国人・朝鮮人数 札幌市,4,571 4,093 主婦、学生・生徒・児童など 分類不能 5 7 7 不詳を含む 卞東運「北海道在住
新札幌市史 第1巻 通史1 (箱館奉行の意見)

すなわち安政三年二月に、堀および竹内はそれぞれこれに関する上申書を提出したが、この中で在住頭取・世話役,まず在住の人選に関しては、堀は在住の大半は多分五~七年くらいで帰府するだろうが、替わりはいるし、その残
新札幌市史 第1巻 通史1 (中嶋村の成立)

すなわちイシカリ在住として安政四年ホシオキに入地した中嶋彦左衛門は、万延元年コトニ川支流のケネシベツ川流域,すなわち在住村である。『逸伝』によれば、早山清太郎がここへの移住を説いたとされている。
/ 5ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました