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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第5巻 通史5下 (道内大手企業)

道内大手企業 表26は、表25の対象となった一〇〇社のうち資本金一億円以上の一六社について、概要をまとめたものである,)宅地造成が大規模に行われたことであろう。, 62 清田配水池、北海道教育大学本部管理棟  63 アスティ45、函館本線・札沼線連続立体交差 平, 48 高速電車東札幌駅他、札幌新道豊水橋、北野団地、茨戸排水区第6工区、手稲排水区第3工区、北海学園大学会館,共同出資によりできた企業で、大型工事の施工も行っているものである。 / 道内大手企業
新札幌市史 第3巻 通史3 (大挙伝道の展開)

そして三年後、「二十世紀大挙伝道」はさらに多くの求道者を教会に結びつけた。  ,二十世紀大挙伝道とは、二十世紀初頭の数年間にわが国のプロテスタント諸教派が協同して行った一大伝道キャンペーン,写真-7 大挙伝道標語(北海教報第36号)  大挙伝道の発端は、明治三十三年四月の第一〇回福音同盟会大会,各集会に先立って早朝と午後に祈禱会を持ってその日の準備を始め、さらに「基督教大挙伝道」と大書した大旗や,第二次としては、十一月に秋期大挙伝道集会を開いた。 / 大挙伝道の展開
新札幌市史 第1巻 通史1 (本海道(中央大道)の設定)

本海道(中央大道)の設定 幕府の第二次直轄をうけ、蝦夷地の開発と経営のために、新道の切開と整備が計画,オシャマンベ──ユウフツ──チトセ川──イシカリ川──テシオ川──エサシ──アバシリをたどる、「本海道(,中央大道)」の設定を具申している。,また、西海岸にもスッツよりソウヤに至る新道の開削も述べている。,以後、このプランにそい蝦夷地における新道開削がすすめられるようになる。 / 本海道(中央大道)の設定
新札幌市史 第3巻 通史3 (大正四年大正大礼と国家神道)

大正四年大正大礼と国家神道 天皇の就任儀式である大正大礼と国家神道との関わりについてみたい。  ,大正大礼に際し、いかに札幌の区民が神道儀礼で奉祝するように徹底されたかは、札幌区役所より各戸に発せられた,大嘗祭当日の十四日に札幌神社へ遣された勅使は、道庁長官代理(橋本内務部長)・参向随員道庁属・護衛札幌警察署長,であり(北タイ 大4・11・15)、北海道全体の行政の長が総鎮守の札幌神社に勅使として派遣され、警察が,同様に、北海道神職会札幌支部会では、札幌神社や札幌支庁管内の神社で行われる地域の大嘗祭庭積机代の米作付 / 大正四年大正大礼と国家神道
新札幌市史 第3巻 通史3 (北海道の官幣大社)

北海道の官幣大社 日露戦後の神社統合をみると、全国で神社総数が明治三十九年に一九万四三五社あったのが,、大正八年には一一万六一九三社に激減するのに対し、道内の神社数は三十九年に五八〇社あったのが、大正五年,北海道の官幣大社としての地位を確立するとともに、札幌神社神札の全道頒布の具体化が、三十三年十一月十日道庁告示第四五八号,「本道拓殖ノ守護神タルヲ以テ、本年以後毎年全道へ大麻頒布ノ旨、同社宮司ヨリ申出タリ」によってなされ、頒布,から大正九年までの札幌神社の分霊社数は二六社にのぼった(北海道神宮史 上巻)。   / 北海道の官幣大社
新札幌市史 第4巻 通史4 (大正期の教派神道)

大正期の教派神道 大正十年の教会は表6①②の通り諸教会が八カ所、天理教が一〇カ所であった。,我黒住教ハ天祖天照大御神ヲ主斎神ト仰ギ奉リ専ラ天照太(ママ)神ノ大道ヲ宣布スル宗教ニシテ他ノ宗教トハ多少其,表-6① 神道教会所一覧-諸教派- (大10) 教会名 所在地 創設 信徒数 大成教蓮門教会本院,北15西4 大 1 . 9 360 390 神道大国教会 中島遊園地 大 5 .10 350 810,表-6② 神道教会所一覧-天理教- (大10) 教会名 所在地 創設 信徒数 水口大教会佐野原分教会上川支教会北都宣教所 / 大正期の教派神道
新札幌市史 第3巻 通史3 (大正四年全道青年会連合大会)

大正四年全道青年会連合大会 大正四年の大正天皇の大礼を記念して、北海タイムス社主催の全道青年会連合大会,これをうけた言説として、たとえば北海道庁地方課長小柳牧衛は「本道青年と修養」(北タイ 大4・12・5),東武北海タイムス社理事「大正青年の新運動」、俵孫一北海道庁長官「青年会の性質」、美濃部俊吉北海道拓殖銀行頭取,北海道青年連合大会へは、全道から二八〇余団体、二八〇〇余名が参加したが、表5は、連合大会へ札幌から出席,『北海道青年連合大会出席団体』(道図)より作成。   / 大正四年全道青年会連合大会
新札幌市史 第5巻 通史5上 (北海道婦人大会・札幌)

北海道婦人大会・札幌 昭和二十五年(一九五〇)七月二十八・二十九日、旭川市で北海道東北七県婦人大会が,目的にし、道教委の関係する北海道婦人大会の第一回目となった。,翌二十六年九月十四・十五日、道教委と帯広市の共催で第二回北海道婦人大会が開かれた。,(第二回北海道婦人大会綴 北海道立教育研究所蔵)。,しかし『道婦連協二十年史』は、「前二回の大会と違い、この大会にあっては婦人団体が協力団体として加わり、 / 北海道婦人大会・札幌
新札幌市史 第3巻 通史3 (十一州同志記者大会と道民大会)

十一州同志記者大会と道民大会 その動向は、九月八日に十一州同志記者大会、十日に道民大会となって開催された,続いての道民大会は、「今回の講和条約が宣戦の大旨に戻り闔国(こうこく)の世論に反し戦勝の効果を空くし、,タイムス)、外川水哉(北世界)、滝川勇吉、上野本治、丸山浪弥(岩内新報)、古谷周久(小樽新報)、東武(道会議員,、助川貞二郎(道会議員)などであり、先の十一州同志記者大会に参加していた記者が多く加わっていた。,写真-4 札幌座で開かれた道民大会風景(北タイ 明38.9.12)  報道などにより〝皇軍〟の圧倒的勝利 / 十一州同志記者大会と道民大会
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『北方風物』『大道』)

『北方風物』『大道』 戦争中は、言論統制で発表の場を失われていた言論界は、敗戦後にすばやい復活をみせる,更科源蔵主宰の月刊随筆雑誌で北海道出身の作家や道内文化人が執筆し二十二年三月まで一五冊を刊行した。,写真-1 『北方風物』  『大道』の創刊は二十一年二月である。,顧問は当時北大低温科学研究所長の小熊捍で毎号寄稿している。,執筆者は犬飼哲夫、小田観螢、長谷部虎杖子、山内壮夫、伊藤整、伊福部昭らの道内関係者のほか白鳥省吾、百田宗治 / 『北方風物』『大道』
新札幌市史 第3巻 通史3 (大挙伝道と教勢の伸張)

大挙伝道と教勢の伸張 大挙伝道としての集会は明治三十五年にも行われた。,そのときは北海(道)聯合伝道会が組織され、大挙伝道の旗を押し立てての集会が六月に五日間、毎日約三〇〇人,この聯合伝道集会は、この後も聖書の友大演説会や青山学院総理本多庸一などを講師としてたびたび開かれた。,協同して大挙伝道を成功させた各教会は、いずれも教勢を伸ばした。,札幌組合基督教会は大挙伝道の年、「七月の頃より諸集会頓に増加せり蓋し大挙伝道の結果ならむ」(札幌組合基督教会略史 / 大挙伝道と教勢の伸張
新札幌市史 第5巻 通史5上 (北海道学芸大学の設置)

北海道学芸大学の設置 師範学校は、戦前の教員養成の中核に位置しており、教育民主化のなかで批判された。,これらを制度的に変革するために、教員養成の二大方針がとられた。,のちに設置される学芸大学や学芸学部だけでなく、私立大学にも教員養成の門戸を開いたのである。  ,二十四年五月三十一日、国立学校設置法が公布され、北海道学芸大学の設置が決まった。,北海道学芸大学は、教員養成のみならず、北大などとともに教育職員免許法認定講習会の開催校となって現職教育 / 北海道学芸大学の設置
新札幌市史 第3巻 通史3 (三教合同の北海道宗教大会)

三教合同の北海道宗教大会 日露戦争中の宗教界の動向で見逃せないのは、神道、仏教、キリスト教の三教合同,による北海道宗教大会である。,アピールして道民の精神総動員をはかろうとしたものであった。,大会趣意書は日露戦争を「国家の膨張、国運の勃興」ととらえた上で、以下のような大会の意義・目的について述,宗教の妙趣を天下に宣布し、国家膨張、国運勃興の根本に培ふべきの時にあらずや、我等が本道宗教家大会を提唱 / 三教合同の北海道宗教大会
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海道帝国大学と芸術活動)

北海道帝国大学と芸術活動 札幌農学校は明治四十年に北海道帝国大学となるが、大正期には北大は欧米文化の,の外山卯三郎を中心とし、文芸美術雑誌と銘打たれる『さとぽろ』(全巻が北海道立近代美術館に所蔵)の出版や,「詩的イメージに着想を得た象徴主義的なもの」、外山卯三郎の「抽象版画」の三種があった(西村勇晴 北海道の,大正十四年十月の第一回道展に「総合的第五級解覚主義的画面構成による自画像」を出品し、「人間としての芸術的活動,あるいは、昭和八年にフォーヴィスムからコンポジションの構成や線条表現へと作風を革新する三岸に導かれて北海道独立美術作家協会 / 北海道帝国大学と芸術活動
新札幌市史 第5巻 通史5下 (評論大国・北海道を支えて)

評論大国・北海道を支えて 小笠原克、高野斗志美、亀井秀雄、森山軍治郎、鷲田小彌太らを輩出し、「評論大国,と言われた北海道」(道新 平3・12・16夕、神谷忠孝「一九九一年道内文学」)であるが、札幌はその発信地,が、六年秋号から「同人誌文芸季評」をスタート(以前は「エコー・ポスト・ジャンボ」名で不定期寄稿)し、道内同人誌,や『声の在り処―反=朗読論の試み』等を著した笠井嗣夫や、『ロシア・詩的言語の未来を読む』で五年に北海道新聞文学賞,四十九年)の終刊後、研究評論誌の登場が渇望されていたが、平成五年に谷暎子、鈴木喜三夫、柴村紀代らが北海道子 / 評論大国・北海道を支えて
新札幌市史 第1巻 通史1 (◇K三九遺跡(北海道大学構内))

◇K三九遺跡(北海道大学構内) 北海道大学構内は広大な面積を有し、敷地のほぼ全域にわたり何らかのかたちで,支流「サクシュ琴似川」に関連する地区二カ所(ポプラ並木東地区、北一七条西五丁目地区)で、それぞれ「北大式土器 / ◇K三九遺跡(北海道大学構内)
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海道神道教派聯合会)

北海道神道教派聯合会 十五年十月に道内の神道一二派(天理・金光・黒住・大成教、神社本局、修成派、御嶽,・神理・大社・扶桑・実行・神習教)が、「従来、各教派毎に行ってゐた各種公益事業、講習会、講演会等の精神作興運動,この目的は「教師、教信徒の素質を向上し惟神の大道に基き国体の本義に徹して社会風教の善導に任じ道内教派和親協力,札幌支部には天理・金光・黒住・神道大教(十五年に神社本局から改称)、御嶽・扶桑・神理・実行・大社教の一,この北海道神道教派聯合会も、十九年十二月に戦時宗教報国会北海道支部に統合となった。 / 北海道神道教派聯合会
新札幌市史 第4巻 通史4 (道路修繕)

際ノ如キハ泥濘踵ヲ没スル」ので、砂利を散布することが建議案として提出された(大正十年区会議事録)。,しかしその砂利敷きも、市民から見ると「小さいのは二三分夫から大きいのは二三寸はまだ愚か四五寸の大きさに,迄及んでゐる」、特にひどいところは「豊平川の河原そっくりと言ひ度い程大きな石塊が道巾一面に敷き詰られ」,これでは、道路改悪だという指摘がなされた(北タイ 大13・6・3)。,おそらくこのような指摘や苦情そして改善の要求が多かったのであろう、区制時代の最後の大正十一年以降の予算書 / 道路修繕
新札幌市史 第3巻 通史3 (車道・人道と左側通行)

車道・人道と左側通行 三十五年山口札幌警察署長は、荷馬車営業者の横着のため荷馬車取締りについて方針を,述べた際に、積雪中の注意事項として、「停車場通りの如き通行者の多き道路には三線の道を作り、其右線道路を,往道とし左線を還道とし其中央を人道とするか、若くは左右二線のみにするか」と冬季ではあるが、道路の通行の,仕方について人道と車道の区別を示した。  ,三十九年になると、警察署では大通と停車場間を左側歩行とする制札を立てたが、新聞ではさらに往来の多い通りはこの / 車道・人道と左側通行
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海道帝国大学の設立・拡充と学生運動)

北海道帝国大学の設立・拡充と学生運動 大正七年、東京、京都、東北、九州に続く、全国で五番目の「帝国大学,」として、北海道帝国大学が設立された。,北海道帝国大学は、翌八年に農学部、医学部、十三年には工学部を、さらに昭和五年には理学部を新設し、四学部,大正五年には当時の札幌区長・阿部宇之八が、農科大学学長・佐藤昌介、北海道庁長官・俵孫一らとともに上京し,としてエンゲルスの著作『フォイエルバッハ論』を選んだ(北海道帝国大学新聞 第一二号)。 / 北海道帝国大学の設立・拡充と学生運動
新札幌市史 第5巻 通史5下 (七年道知事選・道議選)

七年道知事選・道議選 道知事選は、横路孝弘知事の退任にともない、新人五名が立候補した。,前副知事の堀達也が一六三万票を獲得し、自民・自由連合・護憲リベラル推薦、さきがけ支持を得た前衆院議員(北海道一区,、平成七年一月社会党離党)の伊東秀子に八七万票の大差をつけ、初当選を果たした。  ,道議選(定数一一〇)は、自民系二議席減の五一、社会系七議席減の三五、公明六、共産二、新進三などという結果,今回の統一地方選挙では、東京都と大阪府で無党派タレント候補(青島幸男、横山ノック)が自民、社会、公明、 / 七年道知事選・道議選
新札幌市史 第5巻 通史5下 (三年道知事選・道議選)

三年道知事選・道議選 道知事選は、社会・社民連・進歩・スポーツ平和推薦、公明支持の現職横路孝弘、自民推薦,の前衆院議員佐藤静雄(北海道一区、自民党)、共産推薦の斎藤敏夫(北海道労働組合総連合議長)の争いとなった,結果は、横路二〇五万四四五三票、佐藤七四万四二三六票、斎藤一三万一一四三票で、横路が大差で三選を果たした,道議選(定数一一〇)は自民系五三、社会三八、公明六、共産二、民社一、その他一〇で、自民系が躍進した。 / 三年道知事選・道議選
新札幌市史 第5巻 通史5下 (六十二年道知事選・道議選)

六十二年道知事選・道議選 道知事選は、社会・社民連・サラリーマン新党推薦の現職横路孝弘と、自民推薦の,松浦昭(元食糧庁長官)、共産推薦の山辺富也(北海道民主医療機関連合会会長)が立候補した。,は、横路二一一万七三〇票、松浦八八万七三〇六票、山辺一二万五六〇四票で、二位候補に一二〇万票を超える大差,自民党は議席を大きく減らし、社会党は無所属を含めて四四議席と自民と並ぶ議会勢力を得た。,とされた(道新 昭62・4・13)。 / 六十二年道知事選・道議選
新札幌市史 第5巻 通史5下 (十一年道知事選・道議選)

十一年道知事選・道議選 道知事選は、自民・民主・公明・社民・自由推薦の現職堀達也、前回も立候補した弁護士,の伊東秀子、共産推薦の佐藤誠一(北海道民主医療機関連合会事務局長)が立候補した。,結果は、堀一五九万三二五一票、伊東八一万一八七票、佐藤三七万四九三一票で、堀が大差で再選された。,堀には今回自民党が推薦政党に加わり、五党相乗りとなったが、民主党支持層の「堀離れ」(道新 平11・4・,道議選(定数一一〇)では、自民系五二、民主系三二、公明系七、共産六、その他の無所属一三となった。 / 十一年道知事選・道議選
新札幌市史 第4巻 通史4 (軽石軌道)

軽石軌道 大正十年軽川と石狩との間に馬車鉄道を敷設して、一般の貨物や旅客を運搬することを目的として、,軽石軌道株式会社が設立された(同社定款第二条)。,路線は現在の道道石狩手稲線上を軽川駅(現手稲駅)から花畔(現在の石狩市役所前辺か)まで、八・二一キロメートル,経営は大正十二年を除き連年赤字で、昭和十四年十月二十四日には営業廃止の許可が出されている。,軌道を訪ねて(54)軽石軌道)。 / 軽石軌道
新札幌市史 第5巻 通史5上 (神道指令)

十月十一日には、進駐軍神社参拝にさいして不敬行為がないよう道庁祭務官、神社、大日本神祇会北海道支部で協議,さらに、十二月十五日には「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ビニ弘布ノ廃止ニ関スル,国家神道を廃止するための具体的措置は詳細多岐にわたり、神社神道に対する国家や官公吏の保護監督の禁止、神社及,からの神棚など神道的施設の除去、官公吏・一般国民が神道的行事に参加しない自由、官公吏の資格での神社参拝,の禁止、公文書での「大東亜戦争」、「八紘一宇」の用語の使用禁止などが規定されている。 / 神道指令
新札幌市史 第4巻 通史4 (道展の成立)

大正十四年十月に道展が結成される。,能勢真美、大森滋、渋谷政雄、小川マリ、三岸好太郎らは北九条小学校。,会長に北海道庁長官土岐嘉平、副会長に後に北大医学部長となる今裕をいだく陣容を評して、吉田豪介は、道展は,大正十四年に定められた「北海道美術協会規約」の第二条には、「本会ハ本道ニ於ケル美術ノ向上普及ヲ図ルヲ以,道展の搬入点数は、大正十四年(第一回)五三六点、入選九二点、昭和五年(第六回)には一〇〇二点と大台に乗 / 道展の成立
新札幌市史 第4巻 通史4 (道都意識)

が札幌にできて以来のことで、街づくりが始まる以前の大府構想にまで言及できぬでもない。,道庁の札幌永続立地を勝ち取った住民の自信は、この地を道都であると断言してはばからなくなった。,これをなしとげたのは区制期の人たちの意気込みによるところが大きい。,その中には販売業主の項があり、大中商店主に含まれる人もいるだろうが、多くは個人営業ないし家族労働か一、,俸給生活者の大半はサラリーマン層にあたり、これがいわゆる新中間層として定着し、一部の高級官公吏、企業経営者等 / 道都意識
新札幌市史 第4巻 通史4 (下水道計画)

下水道計画 大正五年、阿部区長時代に調査報告の形で下水道計画が発表された(大正五年区会会議録)。,その後十一年に「下水道工事費補助申請の件」が札幌区会に提案された。,これは、大正五年の計画を国費と地方費から補助を受けて、総経費一四四万円で十一~十五年度の五カ年継続事業,議定スルハ不可ナリ」という意見や、施工地域が中心部に偏っているなどを指摘され、採決の結果否決された(大正十一年区会会議録,市制施行後、十三年から札幌市では下水道計画を策定する方針で、十四年にはこれまでの大下水に当たる下水道計画 / 下水道計画
新札幌市史 第4巻 通史4 (諸町村の道路)

図-7 札幌郡藻岩村大字円山道路網図(大12)三関武治資料より 表-14 諸町村の道路 町村名,年代 国道 地方費道 準地方費道 市町村道 その他 資料 円山町 大12 17町 12町27間 5,45,561.45m 市道 565.45m 藻岩村村勢一班 昭和10年7月調製 豊平町 大11 15,2里30町     5町 27里16町 区村界道 20町 札幌村村勢一班 大正10年8月調,年版 篠路村 大14  1里16町 13里22町 私道 8里29町 篠路村勢一班 大正14 / 諸町村の道路
新札幌市史 第3巻 通史3 (道博の遺産)

道博の遺産 五〇日間にわたる道博は、盛況のうちに幕を閉じた。,またこの共同宿泊所には常に医師が交代出張していた(北タイ 大7・10・5)。  ,道博会場の各陳列館のうち、拓殖教育衛生館は拓殖館として、工業館は北海道物産陳列館として残された。,いま一つ、道博の事務員、女看守人、守衛、給事たちは、北大や小樽高商の学生、区内中学校、女学校の生徒たちであった,一様に無料で「生きた学問」を体験したと語るのであった(北タイ 大7・9・30)。 / 道博の遺産
新札幌市史 第3巻 通史3 (定山渓鉄道)

定山渓鉄道 大正七年十月十七日、秋晴れの空の下を定鉄第一号列車が小さな機関車にひかれてガタゴトと走った,定山渓鉄道建設の発案は、大正のはじめ、当時の札幌鉄道管理局長野村弥三郎から豊平町長吉原兵次郎に敷設計画,大正二年二月、札幌商業会議所会頭松田学ほか二四人が発起人となり鉄道敷設免許申請、四年七月免許下付。,大正四年から五年にかけ、鉱山成金で有名な久原房之助が一〇〇万円を投じて、定山渓温泉の奥六キロメートルの,水松沢(おんこさわ)付近に、住宅三〇〇戸や発電所を持つ金・銀・銅の製煉所を建設、定山渓の奥に一大産業集落 / 定山渓鉄道
新札幌市史 第5巻 通史5下 (五十年道知事選と道議選)

五十年道知事選と道議選 同時に実施された道知事選では、自民・民社推薦の現職堂垣内尚弘と社会・共産推薦,道議選(定数一〇五)の結果は自民五七、社会二七、公明六、共産二、民社一、無所属一二で、自民三増、公明四増,、社会九減、共産二減となり、革新勢力は大きく減少した。,今回から区ごとに選挙を行うこととなった札幌市の道議定数は、前回よりも二名増えて一八名であった。 / 五十年道知事選と道議選
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海道鉄道札幌線(苗穂沼ノ端間))

北海道鉄道札幌線(苗穂沼ノ端間) このルートに近似したものは、前述のように大正二年の北海道倶楽部の計画,実際の鉄道計画は、三年北海道興業鉄道株式会社が白石安平間の軽便鉄道敷設の許可を受けている(北タイ 大3,大正九年二月、金山方面で鉄道経営を申請していた北海道鉱業鉄道株式会社(大13北海道鉄道株式会社と改称),(北タイ 大15・8・23)。,写真-10 北海道鉄道札幌線の開通を伝える北海タイムス(大15.8.23)の記事(部分) 上段の写真 / 北海道鉄道札幌線(苗穂沼ノ端間)
新札幌市史 第4巻 通史4 (道会の論議)

北海道会における議員の質問と、それに対する道庁側の答弁をうかがうことにする。  ,こうした現状を第一六回通常道会(大5)において、山田勢太郎議員(空知支庁選出)は次のように質問した。,第一三回通常道会(大2)で友田文次郎議員(上川支庁選出)は「兎角道会ノ意見ガ当局ニ徹底シテ居ラヌヤウニ,長官ガ民論ヲ聴クノ御考ガアルヤ否ヤ疑ハザルヲ得ナイ」(同前 第一三回通常会)と言い、第一五回通常会(大4,こうした論議から、道庁と質問議員の地方自治についての考え方に大きな違いがあることがわかる。 / 道会の論議
新札幌市史 第4巻 通史4 (道路改良政策)

大正八年(一九一九)、政府は道路法制定と同時に道路会議を設置し、また道路構造については道路構造令を制定,道路会議では道路改良計画が決議された。,この会議は関東大震災の影響で十三年に廃止されるが、道路改良の民間運動も起こり、その気運は高まり、道路改良会,大正後期からは自動車が増加し始め、それまでの国道の改良に加え地方交通の中枢である府県道の改良が要求されるようになった,さらに十四年、庁令で「国道、地方費道、準地方費道道路保護規則」を制定し、町村ごとの道路保護組合の設立をはかった / 道路改良政策
新札幌市史 第5巻 通史5下 (五十八年道知事選・道議選)

五十八年道知事選・道議選 同時に実施された道知事選では、社会党・革新自由連合推薦の前衆院議員横路孝弘,(北海道一区、社会党)、自民・公明・民社・新自由クラブ・社会民主連合推薦の前道副知事三上顕一郎、共産党推薦,六期続いた保守道政が終わり、革新が二四年ぶりに道政を奪還した。  ,保守陣営は「企業ぐるみ」や「道庁マシーン」、道同盟を動員した選挙を行ったが、横路が札幌市内で九万八〇〇〇,をつけるなど、得票を伸ばしたのは、横路の「スター的な要素」に加えて、若者の中から生まれた勝手連による役割が大きかった / 五十八年道知事選・道議選
新札幌市史 第5巻 通史5下 (水道網の拡張と水道の安定供給)

また幹線配水管と枝管配水管を大幅に延長した。,さらに大規模で複雑化する水道システムを適正に管理するための支援システムを確立することと新しい水道技術に,対応する管理・運営体制の整備をすすめ、直結給水の拡大、訪問サービスの実施など利用者サービスの充実に努めた,水源は、昭和四十七年完成の豊平峡ダムが、最大貯水量四七一〇万立方メートル、水道用として一日最大五二万八,〇〇〇立方メートル取水可能、平成元年完成の定山渓ダムが、総貯水量八二三〇万立方メートル、水道用一日最大三七万五 / 水道網の拡張と水道の安定供給
新札幌市史 第2巻 通史2 (神道講習会)

神道講習会 この時期は本編第七章二節に記されたように、宗教のみならず科学その他多くの分野で講演会、研究会等,神道ではこれらに比して規模は小さいが、神道演説会がいくつか新聞に報道されている。,ほかに向井嘉兵衛、立花座主で札幌神社の祭典区の成立・運営の中心となった伊藤辰造らで、二十二年十月には大社教,の千家尊愛の来札を機に開会したものもあり、教派神道も参加していた。,写真-2 神道演説会の広告 (北海道毎日新聞 明治22年9月7日付) / 神道講習会
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌軌道会社)

札幌軌道会社 札幌茨戸間を走る札幌軌道株式会社は、馬車鉄道で営業を行っていたが、大正十一年ガソリン機関車,この会社は大正十五年八月十四日からは石狩茨戸間の船舶による貨客輸送も開始した。,九年十一月に札沼線が開通すると札幌軌道は競合路線となり、鉄道省からその損失が保証され、十年二月二日で軌道,の営業を廃止した(大正十年以降の各年度営業報告 交通博物館蔵)。,写真-8 札幌軌道のガソリン機関車  四月にこの会社は札幌軌道バス株式会社と改称し、北七東一~茨戸間 / 札幌軌道会社
新札幌市史 第4巻 通史4 (定山渓鉄道)

定山渓鉄道 大正七年開通した定鉄は、昭和三年増資をして電化計画をたてた。,四年五月には電化工事の認可を得て、電化工事を開始した(定山渓鉄道株式会社の各年度営業報告 交通博物館蔵,十月二十五日に定山渓鉄道の東札幌~定山渓間が高速度電車として運転を開始した。,また豊平駅の位置を若干ずらして地方費道札幌浦河線(現国道36号線)の市電豊平駅前に新駅舎を建設した。,さらに六年七月には北海道鉄道会社線の苗穂東札幌間を通じて電車を省線の苗穂駅まで連絡した(定山渓鉄道株式会社第拾七期営業報告書 / 定山渓鉄道
新札幌市史 第5巻 通史5下 (下水道の拡充)

公共下水道の整備には膨大な財源を必要としたが、四十五年下水道受益者負担金制度の導入により、札幌市財政の,五十六年八月二度の大雨がおそったが、札幌は思わぬ大水害となった。,それまでの五年計画や事業報告などでは、都市化による雨汚水増大への対処のため、既設下水道を拡充するというように,水害防止のため、大量に降った雨水を一時的に滞水させたり、地中へ浸透させて、一時に河川や下水道に流れ込まないようにして,茨戸処理場の雨水滞水地(平3運転開始)、北二六条から創成川処理場までの地下に内径五メートルの大下水管を / 下水道の拡充
新札幌市史 第4巻 通史4 (仏道宗教結社)

仏道宗教結社 政府による宗教統制をねらった宗教団体法が昭和十五年四月一日から施行となり、あらゆる宗教結社,河曲ウタ 20人 真言宗醍醐派修験道山鼻不動講宗教結社 南10西6 久慈道ミツ 20人 宗教結社曹洞宗薬師寺創立事務所,60人 真言宗醍醐派修験道太子講宗教結社 南5西9 丹羽真道 10人 真言宗醍醐派修験道創成結社 北,1東8 太丸よし 25人 真言宗醍醐派修験道運光院宗教結社 北2東10 黒岩フチノ 50人 古義真言宗国分寺弘法大師布教所,』『社寺関係書類』(札幌宗教関係資料 道図)より作成。   / 仏道宗教結社
新札幌市史 第3巻 通史3 (北海道の札幌)

農業地域でも住民流出現象を呈し、「商人の鋭気を沮喪せしめ商業萎靡として振はず」(大沢興国 札幌便覧、明,その結果は札幌の人口流出数を補い、さらに大幅な増加軌道が敷かれたのである。  ,、さらに大地積の処分を進めるために四十一年この法を改正した。,日露戦争を前後とする第二の移住ピーク、第一次世界大戦を前後とする第三のピークを経て、北海道移民はほぼ完成,』(明33.12.31現在),大正10年は『北海道庁戸口統計』(大10年末現在)による. 2.  / 北海道の札幌
新札幌市史 第4巻 通史4 (神道系宗教結社)

駒ケ嶺大信 50人 神道大教黒岩講社 北2東10 黒岩波吉 12人 神道真心会 南11西8 大和田長左衛門,円山325 権平トメ 10人 神道大教三山講社 円山15 佐藤鉄次郎 7人 天理教幌西布教所 円山34,会の目的は「大祖ノ御理想実現ノ為メ聖訓ヲ奉体シ八絋ニ神道精神ヲ揚 (ママ)シ、以テ聖旨ニ副ヒ奉ラムコト,円満教本部は昭和十七年九月十日に組織されているが、円満教は遠藤龍泉(武雄)が大正十年に帝国神秘会北海道支局長,そして「汝ニ円満道人ヲ授ク」という霊夢を得てから円満教を創始し、「日本神道ノ一大躍進的大宗教ヲ企図スルニ / 神道系宗教結社
新札幌市史 第4巻 通史4 (主要道路の除雪)

主要道路の除雪 前巻に記したように、大正七年までは札幌停車場通の除雪を区費で実行し、その後電気軌道会社,そのため、電気軌道会社に任せて札幌区では予算計上もしていないことが批判された(北タイ 大9・12・10,(北タイ 大10・12・6)。,」除雪費三〇〇〇円を計上した(大正十一年区会会議録)。,道路保護組合支部の区域や支部長が衛生組合や火災予防組合と重複すること(北海道庁公報第六八二号 大14・ / 主要道路の除雪
新札幌市史 第4巻 通史4 (諸町村の連絡道路)

諸町村の連絡道路 大正八年、道路法の施行により従来の国道、県道、里道の区別が国道、地方費道、準地方費道,、北海道公報第四〇〇号 大9・4・7)。,,千歳郡千歳村,勇払郡苫小牧町大字植苗村(国道28号線経由)勇払郡安平村字早来,同郡鵡川村,静内郡静内村大字下下方村,*5-大11.7.21道庁告示571号で認定,昭7.12.9道庁告示1675号で地方費道に昇格。,*6-大10.7.17道庁告示458号で認定。 / 諸町村の連絡道路
新札幌市史 第2巻 通史2 (幌内鉄道の完成)

幌内鉄道の完成 札幌を中心とした交通網の整備で最大のものは、小樽から札幌を経て幌内までの幌内鉄道の建設,これは東京横浜間、大津大阪間についで日本で三番目の鉄道であった。,はじめは一日一往復、十四年六月から手宮札幌間は夏期二往復、冬期一往復になった(北海道鉄道百年史 上)。,したことになり、その意義は大きいものであった。,また、札幌周辺の移住がほぼ終了し、それ以降の石狩平野内部の開拓にとっても意義の大きいものであった。 / 幌内鉄道の完成
新札幌市史 第4巻 通史4 (一 鉄道網の発達)

一 鉄道網の発達 大正時代から戦前期にかけては、バスによる交通網に加え、国有鉄道の鉄道網計画が順次実施,に移されたため、札幌を中心として鉄道網が形成されていく。,それが札沼線であり、民営でスタートした北海道鉄道の札幌線である。,また定山渓鉄道は電化をしたが、ほかに民営鉄道では実現はしなかったが、新たな路線が計画されて札幌を中心とした,鉄道網を整備しようとする動きが見られた。 / 一 鉄道網の発達
新札幌市史 第5巻 通史5上 (各地域の水道)

各地域の水道 札幌市には合併町村が独自に経営していた水道や上記のほか新たに造成された住宅団地にも水道,豊平町には、月寒水道、定山渓水道、羊ヶ丘水道、真駒内水道、平岸水道があった。,その所有は大蔵省札幌財務局となっていたが、その後月寒兵舎などは外地引揚者収容施設となり、豊平町が実質的,収容者の増大による給水栓の不足、漏水や破損改修のため豊平町は国に月寒水道改修工事を申請し、二十三年度国費,さらに三十一年一月の石山専用水道をはじめとする専用水道や簡易水道は、四十五年度三七件(簡易水道二三、専用水道一四 / 各地域の水道
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