• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 272件
辞書ファセット
/ 6ページ
新札幌市史 第1巻 通史1 (玉虫左太夫の建言)

如ク万苦身ニ負ヒ……」と述べ、食料・衣服に欠乏し、支配人が「禽獣」のように使役している様も指摘している,左太夫の一書提出のおおきな要因になったとみられる。,この問題は後述するとして、申渡しは場所詰役人及び請負人・支配人に対し、賄賂(わいろ)の厳禁とともに、「,この申渡しは、各場所の役人・請負人などへ出されたもので、イシカリ場所に限定されたものではない。,賄賂についてもイシカリ場所がもっとも横行しており、そのために調役水野一郎右衛門が、在住に降格されるほどであった / 玉虫左太夫の建言
新札幌市史 第4巻 通史4 (助役と収入役)

助役と収入役 市が発足してしばらくの間、市長が選任されなかったため、新しい市役所の機構も作られなかった,爾来夫々助役を初め部下の充員を行なひ、又一面には市の処務規程といふものがなかったのでありますので、それを,其他の事務としては夫々着々改善されつゝあることを私は喜ぶのであります。,(札幌市公報二七 大13・1・10)  市制では市長のもとに助役と収入役が置かれた。,空席を補ったが、同年四月二十八日になって、初代助役として増田彰が就任し、昭和二年再任、四年関崎不二夫( / 助役と収入役
新札幌市史 第1巻 通史1 (皆川周太夫)

これを受けて翌年蝦夷地御用掛松平忠明は、原新助(半左衛門弟)の手付農夫の一人皆川周太夫らに実地踏査を命,皆川周太夫らは、寛政十二年八月十九日ユウフツを出発、九月十三日にトカチ川口オオツナイに入り、その川筋上流,当時盛んになりつつあったシコツ越え道も、後日イシカリ川開発を行う時には横断道路、かつ東西交通路として役立,人夫三〇〇人ほどを雇い入れて、一五〇日ほどで完成させようというものである。,寛政十二年、皆川周太夫が計画した東蝦夷地を横断する新道開削計画とは以上の内容であった。 / 皆川周太夫
新札幌市史 第1巻 通史1 (村役人)

村役人 荒井金助が村役人を定めた際の考え方はよく知られている。,村役人名等については、前述のように資料により多少の相違がある。,[篠路開墾荒井手農夫名主役] 渋田 畑六 仝 順番 仝  乙吉 仝 仝 仝  弥平 仝    七之丞,仝 大島 文蔵 仝    政吉 武藤 金蔵 松下 喜平 農夫取締    喜三郎 佐(ママ)山 清太郎 / 村役人
新札幌市史 第1巻 通史1 (漁法の工夫)

漁法の工夫 生産を向上させるために漁法の改良がせまられた。,浜の引場で使う大型のものは長さ五〇〇尋(ひろ)とも八七〇間ともいい、漁夫は一統に、五、六〇人がいる。,漁獲高を増すため、網の大型化には限度があり、目の粗い榀網を麻糸網に換えたり、川口部でも大網を使うなどの工夫が,の船にて、かひを以て配迴し、艫は用ひ不申、兎角迴り遠に相見候間、鮭も余程洩れ可申、此上は御国浜方の漁夫御指下,は、常陸地方で江戸時代前期から鰯(いわし)漁に使っていた八坂網(はっさかあみ)を持ちこもうとイシカリ役所 / 漁法の工夫
新札幌市史 第2巻 通史2 (物産局諸製造所職夫例則)

物産局諸製造所職夫例則 物産局管轄下の製粉、造酒、醸醤、製紙、缶詰各製造所の職夫例則は十二年六月に定,職夫の給料は表16のようであった。,表-16 職夫給料表 等級 給料 1等 50銭0厘 2等 45. 0 3等 40. ,使役時間は日の長短と事業の繁閑によって定めた。病気休日は三日にわたれば医師の証明を必要とした。 / 物産局諸製造所職夫例則
新札幌市史 第4巻 通史4 (定山渓の土工夫争議)

定山渓の土工夫争議 昭和二年八月、定山渓の奥で土木工事に従事していた東京からの募集人夫が争議を起こした,この争議を起こした土工夫は、部屋経営者が札幌職業紹介所に人夫の紹介を依頼し、札幌職業紹介所は東京地方職業紹介所,に依頼したのであるが、東京地方職業紹介所は労働保護協会に廻し、保護協会と部屋経営者とが契約し土工夫が就労,一、世話役外幹部を解雇する事 二、食事に関し石黒の妻を解雇せしむること 三、班員中より幹部二名を挙 / 定山渓の土工夫争議
新札幌市史 第1巻 通史1 (詰合役人の役割)

詰合役人の役割 それでは、一郎右衛門をはじめとした詰合達の役割は、どのようなものであったのだろうか。,特に、場所請負制下にあって、場所支配人・番人のアイヌに対する苛酷な使役、非道な取り扱いに対する取締りと,この安政三年七月七日にイシカリ入りした、佐倉藩士窪田官兵衛(子蔵)の『協和私役』は、「是地、夷境にありては,阿部屋の苛酷・非道ぶりは目に余り、イシカリ場所は「支配人、土人ノ取扱ヒ以テノ外不宜場所第一」(玉虫左太夫  / 詰合役人の役割
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリの詰役)

にならい、各場所に調役以下の詰役を派遣し、統轄することにした。,その際、蝦夷地及びクナシリ・カラフトなど一〇カ所を持場割に定め、そこに調役(調役、調役並、調役並出役),調役並出役 水野一郎左(右)衛門 下役出役  立石元三郎 同心    広田八十五郎 足軽    ,吉沢佐一郎 久保欣吾  調役並出役となった水野一(市)郎右衛門は、もと西ノ丸定介御賄吟味役であった。,この時武四郎は、松前藩との引継に廻浦していた箱館奉行組頭の向山源太夫と同道しており、源太夫は八日も「御用引渡有 / イシカリの詰役
新札幌市史 第1巻 通史1 (調役の政務)

調役の政務 調役の政務事項は、安政三年一月に制定された「場所在勤心得方」(幕末外国関係文書 一三)に,」には、漁業中のこととして、御用所(役所)には調役・下役が各一人、改役所には下役が一人、海岸五里・河通三里,の所に調役・下役が各一人、それぞれ日々、出勤・巡回することとしていた。,右之通御払被  この林家の「御賄留」は、ヨイチの運上屋を利用した賄帳(まかないちょう)で、宿泊代・人夫・,それによると調役は、帳場帳面の「調取」、定役は蔵鍵の管理、同心・足軽は蔵の出納の立会など、役務の分担が / 調役の政務
新札幌市史 第2巻 通史2 (区役所)

区役所と郡役所も一体で、その吏員も庁舎も異なることはなかった。,この間の札幌区長代理者は蔭山逸夫、村上先、加藤寛六郎の三人である。,区役所庁舎は明治十三年開設の建物を引続き使用した。,札幌、夕張、空知、樺戸、雨竜、上川の六郡役所も亦此にあり。(中略)傍に町会所あり。,写真-2 札幌区役所と町会所(札幌繁栄図録) 写真-3 大通西3丁目に新築した区役所 (北海道毎日新聞 / 区役所
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌区役所の成立)

札幌区役所の成立 その後十一年の郡区町村編成法等の地方三新法の制定にともない、北海道でも郡区役所の編成,五月には戸長役場の位置を決定し、札幌市街は創成川を境に二分し、戸長役場は区役所内に置いた(市史 第七巻,この札幌区役所体制は、人口の増加にともなう事務の煩雑さに合わせるように、郡区役所の再編成・戸長役場の増設,表-5 市会所・区務所・郡区役所の役員及び分掌一覧 ●明治6年2月の市会所役員及び事務分掌,堺伝助, 富田貞賢, 橋爪正夫 総代 山口重次郎, 北島粂次郎, 渡辺富作, 北村伴次郎 / 札幌区役所の成立
新札幌市史 第1巻 通史1 (玉虫左太夫『入北記』(カラフトへ向かう))

夫ヨリ一里計海岸行キテ、セニハコヘ来リ投宿ス。,用人郷昌作近習ハ僕一人中小性畠山万吉森深蔵両人其外僕隷三人場所詰ノ役々四五人ノミナリ。,立候者計ニて、老人御役ニ不立様相成候得は山奥え追払ひ候由ニ相見得申候。,閏月廿七日 玉虫左太夫  右ノ趣、内々ニテ指出ケルモ(鎮台)至極憐愍ヲ(ママ)情ヲ(催サレ外ニ)工夫ヲ,夫ヨリ、イサリブト、千歳川、ユウブツトツヽクト見ヘシカ、夫レ迄ハ探索セスシテ戻リケルコソ残念ナリ。 / 玉虫左太夫『入北記』(カラフトへ向かう)
新札幌市史 第1巻 通史1 (玉虫左太夫『入北記』(カラフトからの帰り))

玉虫左太夫『入北記』(カラフトからの帰り) (安政四年)九月九日[快晴朝白霜満地] 一  今日ハ鎮台,夫ヨリ又行クコト二里計リニシテ豊平ニ至リ、此処ニ通行家アリ。併シ仮家ニテ未タ普請ナラズ。,夫ヨリ又行クコト一里計ニシテ、ホシホキニ至リテ午飯ヲ喫ス。此間大抵平原ニシテ茅多ク生ス。,夫ヨリ半里モ行キテ高キ所アリ。此処眺望大ニ宜シク、イニワ山或ハシコツ山等連続シテ見ヘニケル。,(玉虫誼氏所蔵の自筆稿本をもとに、その修正稿を本文とし、修正前の文でも内容の理解に役立つ個所は( )で / 玉虫左太夫『入北記』(カラフトからの帰り)
新札幌市史 第2巻 通史2 (辛未移民の編成)

これは在来村や庚午移民の諸村ではすでに村役人がおかれており、組頭の名称が村役人と同一のためまぎらわしいことによるのだろう,その結果、組頭の名称を廃したがその役割を継承しておかれたのが、村取締あるいは農夫取締とみられる。  ,花畔村には農夫取締がいた。,四年七月に組頭となった小川右十郎はもと農夫取締であったし、山下吉之助も四年十月まで鬱苗(花畔村)の農夫取締,以上の諸例をみると、村取締・農夫取締は組頭から村役人までの移行期に、組頭の役割を引き継ぎ開墾指導と移民取締
新札幌市史 第3巻 通史3 (鉱山町の出現)

建物として事務所、倉庫、製錬所、発電所、木工場、鉄工所、製材所などの鉱山施設、病院、合宿所、測候所、役宅一三戸,元山には事務所、合宿所、飯場二軒、役宅八戸、坑夫長屋約三〇〇戸、小学校、病院、請願巡査派出所などがあった,従業員は採鉱夫一四七人、雑夫一三五人(元山)、製錬手一八八人、雑夫二九三人(神居)、女雑夫二三人、合計七八六人,就業人員については、七年六月末では役員五二人、職頭小頭一六人、鉱夫一般七五〇人で合計八一八人、家族が約一五,定山渓温泉は豊羽鉱山の社交場、娯楽場の役割をになっていたといえる。
新札幌市史 第4巻 通史4 (女性方面委員)

女性方面委員 昭和七年一月二十三日、札幌市役所では方面委員約六〇人の伝達式を豊平館で行ったが、この中,橋本キヨ子(札幌市長夫人)、久保キヌ子(札幌商工会議所会頭夫人)、藤原ヒデ子(北大予科教授夫人)である,十年八月二十四日、道庁社会課と札幌市社会課が共催で、市役所を会場に女性方面委員三人と方面委員夫人一〇人
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム巡検)

堀利熙、玉虫左太夫、畠山万吉などは後者に属し、左太夫の『入北記』も、この年に開かれた新道、山岡精次郎等,エベツフトの漁猟場所等の事にてユウフツより鈴木(庄助)氏の出張有ける由……」と記され、利熙はイシカリ詰の役人,クウチンコレなどより、場所支配人・イシカリ詰役人の非道な取扱いぶりの話を聞いている。,左太夫はこれには怒りを覚えたらしく、さっそく聞書をまとめ利熙に提出している。,利熙も「至極憐愍ノ情ヲ払ハレ、外ニ工夫(くふう)ヲ成サレント思召モ是アルヤニ見ヘタリ」と、『入北記』は
新札幌市史 第1巻 通史1 (事務の引継)

一 、西地石狩場所の儀は去る午年(安政五年)より手捌に致し、出稼繰入役魚にて取立候に付収納高年々増減有之候,但、出産秋味積取船直走相願候得ば承届、出役銭収納仕候。,一 、同所川上幷山手え田畑開墾致居候に付、反別帳其外農夫人別共場所にて御引渡可申候。  ,是迄詰合之者上下一同衣食等ニ不苦様取計可申候条各得其意安心可致、其上人材ニ随ひ夫々任用可有之、今日に至,派遣され、旧イシカリ詰調役樋野恵助より引継を受けたのであった。
新札幌市史 第2巻 通史2 (篠路村と早山清太郎)

設置の年代は不明であるが、『荒井金助事蹟材料』(道文旧記一四三七)には、名主・百姓代・農夫取締の村役人,近世の村役人は村方(地方(ぢかた))三役と呼ばれ、村の総責任者となる名主(庄屋・乙名(おとな))、補佐役,もともと「村」は、領主に租税を貢納し夫役を負担することで設置された。,で終わるが、四月に作成された『兵部省引継書類』(道文一八三)に、シノロ村名主(渋田)畑六が「篠路村農夫」,シノロ村の農夫取締などもつとめ〝札幌の開祖〟とされる早山清太郎は、明治に入ってからもこれ以降、種々の方面
新札幌市史 第4巻 通史4 (レーン・宮沢事件)

札幌では、すでにその身辺に監視の眼が及んでいた北大予科教師のレーン夫妻と北大生宮沢弘幸ら五人が軍機保護法違反,十七年十二月の札幌地裁における第一審判決で懲役一五年の重刑となった宮沢については、次のような認定が下されている,(レーン)夫妻の開催する英語個人教授会に出席して英語会話の教授を受けたることありて以来同夫妻に心酔して,が旅行談を愛好就中軍事施設等に亙る談話に興味を抱き居るを看取するや第一、同夫妻の歓心を購はんが為我軍事上,の秘密を探知して之を同夫妻に漏泄せしむることを企て(以下略) 写真-7 宮沢弘幸とレーン夫妻
新札幌市史 第2巻 通史2 (豊平開墾の実態)

候也 11. 3 5両 大工棟梁辰五郎職人召連度義に付貸渡 立合 楠元権少主典 11. 4 1両 山夫世話役藤吉頭取平三郎遅参,付藤沢使掌え御入用より差出相渡す 11. 6 1分 シノロ村御用達清太郎鍛冶木挽山夫等其外場所案内為致候,山夫等の道案内をしていること、札幌官員役宅の建設をしていることなどがわかる。,そこで草刈りをして役宅を建てた、または建てる準備をしたということが現段階でいえることである。  ,また④の史料から、豊平開墾で働いた人夫たちは銭函新道や本府建設の方に回されている。
新札幌市史 第5巻 通史5下 (板垣市長の五選)

板垣市長の五選 先に四選を果たした板垣武四市長は、後継者として第一助役の河崎和夫を第一候補に、第二助役,対立を抱えたままでの選挙と新市長の前途の困難を板垣は憂慮していたが、助役退任後札幌都市開発公社社長に転,自民・公明・民社推薦の板垣の他に、札幌地区労推薦の田村正敏(学校法人理事)と共産推薦の中神凡夫(北海道高等学校職員
新札幌市史 第1巻 通史1 (住人の組織化)

イシカリ役所は来住の願い出をもとに、永住人と出稼人に区分して許可を与え、前者に家別銭である四半敷役(しはんじきやく,)を課し越年役は免除、後者には越年役を課すという違いはあるが、権利義務に大差はなかった。,住人は当時の村民と同様、年貢を納め夫役に従わなければならなかった。,前者の詳細はわからないが、改役所の廻文に「当年、御役鮭の儀は御年貢有之候間、其旨相心得、御持役人様より,」(市史二六九頁)と歎願しているので、夫役はかなり重い負担だったことがわかる。  
新札幌市史 第6巻 史料編1 (〔大友亀太郎文書〕)

慶応二丙寅年正月 達願御用留   〔箱館奉行支配組頭被仰付候〕   〔去ル丑ノ十一月十五日酒井雅楽頭御役御免如前々之溜詰被仰付候, 大友亀太郎   9 慶応三丁卯年正月 開墾御入用筋之儀ニ付調役樋野恵助殿添書写 石狩   〔「,石狩御手作場開発田畑取調書上帳 大友亀太郎   15 (朱書)「慶応三丁卯年分」 慶応四戊辰年三月 開墾御入用之儀ニ付調役樋野恵助殿添書写,…〕   〔申渡〕   〔以廻状申達候然者箱館総督清水谷殿江差江着被致候趣ニ而権判事役之者陸路去月廿五日着,二月廿一日美作守殿御渡〕   〔辰二月廿六日美濃守殿堀錠之助江御渡〕   〔辰三月二日於芙蓉之間布衣已上一役壱人江川勝備後守御渡
新札幌市史 第2巻 通史2 (岩倉とパークス)

政府見込を尋ねられて、改めて、「唐太[クシュンコタンシラヌシ]両所え良民弍三百人計移住、尤開拓外務等より夫々出役,只管静謐を旨とし条理を以て応接、順序を追ひ開拓心得にて、此地えは兵隊を不渡先雑居を目的と申入候」、また「夫より,宗谷に兵隊、根室に兵隊其外出役、亦石狩の事夫々申」し述べたところ、これに対しパークスは前段の樺太対応については,「至極可然」とし、また後段の蝦夷地配備については「当年夫丈の御運ひ出来候はゝ実に重畳、何卒此義の不替様早々御手,所詮外務兵部大蔵開拓等、十日計も打寄示談に相成候ては、当年の渡海は六ケ敷」として、「寺島大隈船越にても夫々御用掛被仰付
新札幌市史 第6巻 史料編1 (目次)

 慶応二年十月…397    9 開墾御入用筋之儀ニ付調役樋野恵助殿添書写 慶応三年正月…404,13 石狩御手作場農夫御扶持米塩噌諸道具渡方書上帳…437   14 石狩御手作場開発田畑取調書上帳, 慶応三年十二月…448   15 開墾御入用之儀ニ付調役樋野恵助殿添書写 慶応四年三月…450, 慶応四年…470   19 石狩御手作場農夫家数人別取調書上帳 慶応四年十二月…477   20, 石狩御手作場農夫御扶持米塩味噌諸道具渡方書上帳 慶応四年六月…485   21 石狩御手作場農夫御扶持米塩噌諸品渡方書上帳
新札幌市史 第2巻 通史2 (本府建設とアイヌ労働)

本府建設とアイヌ労働 明治初年の札幌は、幕末においてイシカリ役所と箱館奉行所あるいは各場所詰役人間の,二年末から三年の『御金遣払帖』(十文字龍助関係文書 市史 第六巻)にも、銭函仮役所と札幌間の物資や御用状,などの継立、あるいは開拓使所轄地間の新道開削工事や人馬継立などに、アイヌの人びとが人足や人夫としてたくさん,この場合、忍路、余市、勇払、美国、沙流、釧路といった遠方のアイヌまでが「札幌御造営人夫」として、営繕あるいは,たとえば、沙流郡のアイヌ一一人は、三年一月より「札幌御造営人夫」として札幌で雇われていたが、同年三月、
新札幌市史 第5巻 通史5下 (桂市長の誕生)

自民、社会、公明、民社四党の推薦を得た桂に対抗して出馬したのは、共産推薦の佐藤富士夫(北海道勤労者医療協会副理事長,二十八年、北海道大学法経学部を卒業後、札幌市役所に就職した。,50)、教育長(昭54)を歴任し、五十八年六月に助役に着任した。,平成二年五月、助役を退任し、市長選出馬に及んだ(朝日 平3・3・23夕)。,これで札幌市では三代連続で助役出身の市長が生まれた。
新札幌市史 第2巻 通史2 (豊平開墾)

その間の史料として、①「巳十一月 諸請(受)払附込 豊平金穀掛」、②「明治二己巳年十月 御入用扣 豊平役所,」、③「御仕入品 直段附 豊平分」、④「明治二己巳歳十月 山夫諸品願受扣 豊平御役所」、⑤「十一月二日取調,題名でみるかぎり、豊平役所の明治二年十、十一月の諸帳簿である。,また豊平通行屋を役所とするのも不自然である。,従来語られてきた昔話に、このような「豊平役所」があった話はない。
新札幌市史 第4巻 通史4 (建国祭音楽祭)

建国祭音楽祭 昭和五年から十九年まで、札幌市役所主催の建国祭音楽祭が毎年行われるが、この音楽祭が札幌,建国祭音楽会のパンフレットをみてゆくと、第一回(昭5)は主催が札幌市役所のみではじまったのが、第四回(,第一一回(昭15)建国祭記念大音楽会では、札幌市役所、北海道精神作興会札幌支部、札幌市聯合婦人会に加えて,〔第一部〕一、混声合唱「春の弥生」「うてや鼓」、二、ソプラノ独唱「護符」「波の上にて唄へる」(レーク夫人,そして小川隆子・横尾雪子・田上義也・朝山綾子といった新しい担い手が年ごとに主役になってゆく。  
新札幌市史 第5巻 通史5下 (演奏の場の広がり)

五十一年から二年ほど続いた「豊平館コンサート(ほうへいかんコンサート)」がその先導役を担い、札響の佐々木一樹,(バイオリン)と戸沢宗雄(ファゴット)、当時札幌在住だった小林道夫(チェンバロ)が中心となって開催された,市役所一階での市民ロビーコンサートも、五十五年八月から始まった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場)

元幕府普請改役の菡斎は隠居の身であったが、竹内保徳箱館奉行に従う息子の勇三郎と共に安政元年箱館に来たり,、翌二年より近在の銭亀沢村地内の字亀ノ尾に入り、自費でもって小屋掛をなし、また農夫を雇い入れて田畑の開墾,ここでの水稲および雑穀・蔬菜・果樹等の試作は良好であり、また農夫も増加したので、この開墾場を奉行所に属,越後国蒲原郡井栗村の大庄屋松川弁之助が、同国の人別増加により他国への出稼者が増大しつつある状況に基づき、これらの農夫を
新札幌市史 第5巻 通史5上 (基地建設とタコ部屋解体)

監獄部屋打破」を掲げていた社会党道連の渡辺惣蔵書記長らが、「タコ部屋制度改革」について日本建設工業統制会役員,きっかけは、工事場の土工部屋から脱走した二人の土工夫が札幌警察署(現中央署)に駆け込み、米軍政部が憲兵,を総動員し、日本の警察と協力して摘発したものであったという(高橋昭夫 証言北海道戦後史─田中道政とその,周旋屋の「一日十五円の労賃、一日六合の白米飯」の甘言で送り込まれた約三〇〇人の土工夫が、作業時以外は二階,これに対してむしろ、「日本政府の役人」の方が「北海道には労働力が不足しているから、ある程度必要悪」という
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム番所)

この番所の役割は、第一に材木の伐り出しにあった。,足軽も番人の役割をひきついだのである。,しかも、夫人を伴っての駐在であった。,ハッサム詰の森下梅吉は慶応四(明治元)年十月十三日に、大友亀太郎(織之助)へ農夫が鮭を捕獲することに、,しかし、その本質的な役割は、イシカリ役所の出先機関として、各担当区域内の取締・支配をなすことにあった。
新札幌市史 第1巻 通史1 (農民の招募)

まず安政四年五月十五日の項に「永田久蔵面会、見込様子……等承ル、農夫十壱人召連来ル由」とあり、同二十日,地方掛りに示談致ス」と記され、さらに二十二日には「永田久蔵拝借等願出し候へとも、難相成筋ニ付、召連候農夫は,次に、安政四年ハッサムに入地した秋山鉄三郎は、万延元年十二月にイシカリ役所に対し、農民の飯米に差し支えるため,で北蝦夷地在住の秋山吉郎(繁太郎)の扶持を、イシカリで受け取りたい旨願い出たが、それに対してイシカリ役所,これは、まず入地した在住が、状況をみて次弟に農夫を増加していった事例といえる。
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 『懐旧紀事』、『東徼私筆』、『協和私役』、『伊達家文書』、『観国録』(北大図,島義勇『旅日記』(佐賀県立図書館)、『奥羽幷箱館松前日記』(佐賀歴史研究会準備会報 第一号)、玉虫左太夫『
新札幌市史 第5巻 通史5上 (『北方風物』『大道』)

執筆者は犬飼哲夫、小田観螢、長谷部虎杖子、山内壮夫、伊藤整、伊福部昭らの道内関係者のほか白鳥省吾、百田宗治,この二誌は戦前に活躍した人を起用したものであるが、戦後の札幌言論界に刺激を与える役割を果たした。
新札幌市史 第4巻 通史4 (タコ部屋存続)

タコ部屋存続 北海道名物とされるタコ部屋(土工夫を監禁状態で使役する)は、札幌においても明治中期から,大正十三年九月には、円山駐在所の巡査が土工夫によって暴行を受けた(北タイ 大13・9・9)。,数を示したものであるが、十年に藻岩村に入りこんできた土工夫数は、実に三六四六人に達していた。,多数の朝鮮人土工夫が就労していた。,日本人土工夫と朝鮮人土工夫は、しばしば民族的反感から対立し、十年十二月四日にはあわや乱闘騒ぎが起こるところであった
新札幌市史 第2巻 通史2 (豊平開墾を巡る事情)

豊平開墾を巡る事情 前出の史料①~⑤に登場する役人は、石山大主典、楠元権少主典、荒井使掌、藤沢使掌、,八百五拾両玄米四斗八升五合入拾五俵御渡相成、同所え石山大主典楠元権少主典藤沢使掌荒井使掌平田使掌出張、夫々開墾手配罷在候処,其節石山大主典江刺海官所詰被命、楠元権少主典岩内石炭山詰被命、藤沢使掌荒井使掌銭函詰平田使掌札幌詰被命、何レも夫々御分配相成,この山田大主典とは忍藩出身の山田一太夫のことで、二年十、十一月頃の銭函札幌の金穀掛の責任者であった。,さらに役所にしていた宿所へ遊女を侍らせて執務をしている。
新札幌市史 第4巻 通史4 (時局産業の労働力不足)

上昇の著しい業種として、大工、鉄道積卸人夫があげられるだろう。,やや低い水準ながら日雇人夫賃金も一貫して上昇している。,これらは、人夫需給がきわめて逼迫していたことを物語っている。,鉄道積卸人夫の不足は、深刻であった。,十三年十二月には札幌駅に毎日一五〇輛の貨車が到着し、駅は滞貨の洪水と化し、第一高等小学校生徒が荷役のボランティア
新札幌市史 第3巻 通史3 (遺族と傷痍軍人)

また第七師団では戦争による傷病・疾病数は、   現役    傷病二二人   疾病一八人   予備役,     四二      三九   後備役     三七     一六〇   補充兵     一二,夫の帰還後は扶助、無料入院も打ち切られ、夫は日雇の稼ぎで生活費・入院代を工面していたが、妻は死亡しても
新札幌市史 第2巻 通史2 (開墾の奨励と勧農規則)

開墾の奨励と勧農規則 二年十一月開拓使が定めた移民扶助規則の対象には工・商移民も含むが、中心は募移農夫・,自移農夫であり、食糧(玄米)を扶助し、家屋、農具、家具などを給与して開墾に励ませ、農民として自立させることを,それらの内、四年一月には札幌・石狩の町役人に対して「札幌空知石狩ノ三郡広原相連リ居候ニ付テハ、万人競テ,五年五月に定められた勧農規則は、村落行政制度の規定であると共に、とくに村役人の勧農上の役割を強調し、同時,半時拍子木撃チ、其組下ノ四戸速ニ応答ノ拍子木ヲ撃チ農事ヲ始メ、夕七ツ半復拍子木ヲ撃チ収メシムヘシ」「村役及
新札幌市史 第1巻 通史1 (直䑺)

と問屋口銭を徴収、役銭は松前藩に引き渡すことになる。,改革の初年は二五七両余の役銭がイシカリで徴収されている。,また、改革により直捌となったので、イシカリ役所で使用する物品を運んだり、イシカリの役鮭を積み入れるために,出向く船からは役銭判銭を徴収しないことにし、役鮭を積んで入港した時の入口銭も免除とする。,が適用され、食糧、農具類の入口銭を徴収せず、船に乗って来た農夫についても役銭判銭は不要とした。
新札幌市史 第4巻 通史4 (一級議員の再選挙)

87 山本清作 44 憲政会 米穀雑貨商 86 阿部与之助 60 中立 殖林業 84 浅野一夫,南部多三郎 49 中立 運送業 287 波多野与三郎 46 政友本党 酒造業 285 浅野一夫,602 石川剛三 54 実業青年会 農業 569 福島利雄 41 更新会 農業 564 浅野一夫,実業青年会 弁護士 483 沢田利吉 60 実業青年会 農業 466 昭14.12.19辞職 浅野一夫,306 斎藤忠雄 41 推薦 弁護士 304 南部多三郎 65 推薦 運送業 300 浅野一夫
新札幌市史 第3巻 通史3 (青年団の活動)

団長に渡辺小学校長、副団長に福井軍人分会長を推挙、評議員十四名幹事十二名は夫々団長の依嘱選任により決定,、式に移り君が代合唱、戊申詔書捧読、団長の告辞、来賓祝辞、団員総代答辞ありて閉式、夫より一同打揃ひ札幌神社,散会せり(北タイ 大4・11・24)  ここからは、学区の小学校長、在郷軍人会分会長といった名望家が役職,毎年元旦早暁札幌神社ニ参拝スルコト 一  毎年春季弐回、夏季壱回、秋季弐回、基本財産地ニ於ケル植樹事業ノ労役ニ
新札幌市史 第1巻 通史1 (その用務)

③  労働力として役立つアイヌ一五〇人ほどを差配する権限。但しその「撫育」をすること。,この仕事は「出稼の者等、近々百姓に取立候役の由」(生田目氏日記)といわれ、役務は藩政下の町役人同様であった,しかし、旧請負人阿部屋は本陣の名でイシカリの町役人的立場にあったから、二人の力関係が複雑だった。,文久二年まではこの役を勤めている。 ⑥  湊案内。,風雨のため難破した船の救助に要する人夫雇銭はイシカリ役所が負担した。  
新札幌市史 第3巻 通史3 (豊羽鉱山)

一カ年あたり九六〇万貫の産出が予想されており、鉱夫総数四四〇~四五〇人であった。,鉱夫には長屋を無料で提供し、生活物資は物品供給所が札幌と同値で販売した。,神居(かもい)とも呼ばれ、鉱山事務所、倉庫、製煉所、発電所、木工場、鉄工場、製材所、病院、合宿測候所、役宅一三戸,元山には事務所、小学校、病院、合宿所、役宅八戸、飯場二軒、鉱夫長屋約三〇〇戸などがあった。,これに対して鉱夫など従業員は、元山に採鉱夫一四七人、雑夫一三五人、神居に製煉手一八八人、雑夫二九三人がいた
新札幌市史 第1巻 通史1 (共同体意識の成長)

内容は鮭漁のルールをはじめ役鮭のきまり等漁業のすすめ方が中心で、それに町内の生活規則などがつけ加えられ,、協議というより役所からの指示事項が多かったと思われる。,こうした住人の生産と生活の用務を直接担当したのは改役所(のちに漁場改会所という)であるが、イシカリ役所,このように人別帳ができ、まがりなりにも年貢を納め夫役を負担した永住出稼人を、百姓と呼ぶにはいたらなかったらしい,相勤可申」(五十嵐勝右衛門文書の内 函館日記留)と言い、組頭を中心に具体的な運営仕法を作成し、イシカリ役所
新札幌市史 第2巻 通史2 (衣類の供給)

漁夫や土工夫などの労働者、商家の店員などの町の勤労者、中流の職人、上流の官員や会社員など、一見して身分,二十四年発行の『札幌繁昌記』によると、もっとも下の階級に属する漁夫・土工夫は、無尻(角袖の角を切ったもの,おおよそこの五段階に分かれていたようだが、これ以外に無尻に髪を藁で束ねた出稼婦女、薩摩袖の垢染みた出稼人夫一隊,古着は既成の衣服として求められるのと、原料として求められる面とが入り混じって、安く簡便に衣料を提供する役割
/ 6ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました