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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第3巻 通史3 (製麻女工)

製麻女工 日清戦争後大幅な事業拡張を行った北海道製麻会社は、札幌区内で最も多くの女工を抱える工場であった,それでも三十三年末の職工数は三二二人、うち男工四七人、女工二七五人といった具合に女工が八五パーセントを,女工の出身地も、従来の北越・九州地方よりは東北地方出身者が多くなったが、女工になった理由の多くは嫁入り,このため製麻会社は、女工獲得に苦慮、月収一七円以上で女工を募集したが応募者は少なかった。,女工の出身地は東北出身者が大部分であり、うち半分は宮城県出身者であった。 / 製麻女工
新札幌市史 第3巻 通史3 (製糸女工)

製糸女工 明治三十年代以降の札幌の製糸業は、開拓使時代の手厚い保護にかかわらず、小林製糸場(明治二十二年創立,)が女工五人くらいで細々と続けている状況であった。,四十二年には女工四〇人が働いていた(札幌区統計一班 明治四十三年)。  ,最盛期とみられる四十四年の名取製糸所(四十年に合資会社となる)の女工の待遇をみると、女工数五〇人、うち,工場主と女工の関係はきわめて家族的な関係を保持していた。 / 製糸女工
新札幌市史 第3巻 通史3 (その他の女工)

その他の女工 製麻女工、製糸女工、麦酒工場の女工以外にも、当時の札幌の工場で働く多くの女工がいた。,それと反対に製糸女工の減少は製糸業の衰退を明確に語っている。,さらにもう一つ目につくのは、大戦と同時期に女工数を伸ばしていく活版・印刷関係、麦酒、製粉・精米関係、大戦後,に女工を多く採用した製菓、乳製品、鉄道・苗穂工場、木材加工関係である。 / その他の女工
新札幌市史 第3巻 通史3 (麦酒工場の女工)

麦酒工場の女工 開拓使時代に官営工場として操業開始した麦酒工場は、その後民間に払い下げられ、『札幌区統計一班,』明治四十三年によれば、大日本麦酒株式会社札幌支店(北二条東四丁目、苗穂町)の醸造工場と製瓶所に女工が,四十二年では醸造工場に一五人の女工がいるが、次第に製瓶工場にも採用されるようになり、大正三年では醸造工場,の女性と女工が働いていたが、それを過ぎると女工のみとなった。,臨時雇・女工ともに職工の妻たちが多く、もっぱら小遣い稼ぎが目的であった。 / 麦酒工場の女工
新札幌市史 第3巻 通史3 (職工の待遇問題と労働状況)

工場の主要な労働者は女性であったが、数少ない女性の働き口であった女工は、当時は人気の高い〝花形職業〟でもあった,大正十四年に細井和喜蔵が著わした『女工哀史』には、女工たちがおかれていた状況が克明に描かれている。,札幌でも製麻会社の女工を中心に様々な〝女工哀史〟が展開されていた。  ,新聞には製麻会社における職工(男工・女工)の待遇問題と労働状況についてしばしば報道されている。
新札幌市史 第3巻 通史3 (職工の居宅と勤続年数)

男工    女工    合計   自宅通勤  一一三人  三三三人  四四六人   社宅居住   ,  二五二人  二七六人         二〇二人  六四九人  八五一人  これでみると、男工・女工,社宅は家族持ちに与えられていたが、女工でも「多年勤続セルモノ嫁シテ一戸ヲ構ヒ引続勤続スルモノ」には貸与,寄宿舎は男工で約一割、女工で約四割となっており、当時は意外と少なかったといえる。  ,それゆえに、女工は三年をめどに働くのが一般的であった。
新札幌市史 第3巻 通史3 (衛生問題と工場医療)

三十五年十一月に「病気に罹り治療を施せしも全治の見込なき」女工二〇余人が国許の青森・岩手・宮城県に「送還,三十年四月に女工が死亡した折には、「偽病」視されて手当もされなかったという。,『工場要覧』によると、女工の一日の患者割合は以下の状況であった。         ,の健康状態を読み取ることはできないが、例えば四十四年の数値でいくと、女工一人当たり年に一三・七日間の「,女工は休業すれば日給を失うだけに、よほどのことがない限り「患者」とはならないから、実際にはこの日数以上
新札幌市史 第3巻 通史3 (賃金問題と労働時間)

三十一年当時の日給は男工二七~五〇銭、女工一六~三五銭であったが、平均は男工三八銭、女工二三銭であった,しかし新採用の女工は一六銭であったが、寄宿舎の食費は一日一四銭であり、手許には幾許も残らない状況であった,薄給と寄宿料の高額に耐えかねて下宿住まいにするものや、売春に走る女工もいた。  ,会社では精勤者の昇給を三カ月毎に、夜間就業者の賃金を一割増に、新採用者は三カ月後に男工は三五、六銭、女工,写真-6 大正7年頃の帝国製麻札幌工場の内部と女工  労働時間についてみると、昼業と夜業の二種あり、
新札幌市史 第4巻 通史4 (女性労働者の増加)

工場で女工を使用するのは、昭和初年まで製麻、製綱、古谷など数少なかった。,しかし昭和十年代になると化学工場が増加し、女工が増加してきた。だが化学工場も労働条件が苛酷であった。,ゴム工場の女工/ゴム工場女工は五時間も過労/札幌署で改善工作 ゴム製品の需要期に伴ひ札幌署では、生産,労働時間は朝六時から夜九時まで、休憩時間を除き約十五時間に上ってゐる有様で、しかも全職工の八割までが女工
新札幌市史 第3巻 通史3 (職工の取締り)

「逃亡」する恐れや会社に反抗的な女工には体罰を加え、食事も与えず、休日にも外出を許さず寄宿舎や倉庫での,「逃亡」するだけではなく、社内における風紀紊乱、売春、女工同士の対立なども頻発していた。,会社では女工取締役をおき、また寄宿舎では舎監をおき、各室にも年長者を室長に任じ女工の取締りにつとめていた
新札幌市史 第2巻 通史2 (製麻会社)

募集は札幌ばかりでなく、同年十月には京都、滋賀大津から一三歳から一八歳の女工三〇人が、また十二月には鹿児島,・福岡両県の女工九九人と男工三七人が集められた。,職工の待遇は、二十四年の時点で一日平均賃金男工二四銭、女工一六銭で、賄料一日八銭であった。,このため、女工は死亡した。,そればかりか、収入が少ないために社外で「売淫」を兼ねる女工さえいるとまで報じた。
新札幌市史 第4巻 通史4 (細民街の子供たち)

児童二六人の昼間の仕事は、子守と留守居(男5、女10)、鍛冶屋徒弟(男3)、屑拾い(男2)、軍手女工(,昭和二年には児童は三二人となり、九歳の子供が袋張で一日三銭を稼ぎ、そのほか飴売り、活字拾い、ゴム会社女工,、軍手女工として働いた。
新札幌市史 第3巻 通史3 (職工の募集)

そのために大規模工場では多人数の女工を必要としていた。,北海道製麻会社では少ないときでも約五〇〇人、多いときには一〇〇〇人にも達する女工を雇用していた。,同社は明治二十二年に操業開始したが、女工は当初、京都府、滋賀県、九州方面で募集されており、二十七年からは,そのために東北地方の出身者が多くなり、明治四十四年の寄宿舎住まいの女工は二八〇人のうち、宮城県一八九人,まことに女工は前借金にしばられた三年間の「年期奉公」であった。
新札幌市史 第3巻 通史3 (帝国製麻の営業と札幌工場)

男女の内訳は、大正四年では男工二三五人、女工九六九人である。,男女の変動は異なり、男工の最低数に対する最高数は一・五倍であるのに対し、女工のそれは二・四倍であった。,主として女工の増減により雇用調整が行われていたわけである(北海道庁統計書 各年)。,、病気で退社した女工は故郷の村まで社員の介抱付きで送り届けられたという。,平日の夜七時から九時までは「行余学校」と称して読み書き、算術、裁縫を教え、乳児をもつ女工のために保育も
新札幌市史 第4巻 通史4 (職人から労働者へ)

工場幹部でさえ「職工は全く私用はできません」と公言していた)ことで知られていた帝国製麻では、女工の病気,製麻の女工定年は三五歳であったから、犠牲者の大半は若い女性であった。,この工場は札幌最大の工場で、六年六月の職工数は、女工七八〇人(うち寄宿舎二八三人)、男工二七〇人であった
新札幌市史 第4巻 通史4 (北海道製綱争議)

ただ、小数の豆選女工が争議を起こした。  ,を与ふる事 一 、日給辞令は昇給毎に交附する事 一 、年二回必ず昇給する事 但し男工は一回二十銭以上女工,北海道製綱会社争議(北タイ 大15.9.18)  この争議で強硬であったのは、劣悪な衛生設備に泣いていた女工達
新札幌市史 第3巻 通史3 (北海道製麻会社の増産と職工)

事業拡張のために十二月には一〇〇人ほどの職工を募集し、三十八年二月現在の職工数は八〇九人(男工一八五人、女工六二四人,その時の模様は、「同会社の社旗と祝捷旗を真先に押し立て、女工連の娘子軍一隊約一千人に続て同会社員一同仮装
新札幌市史 第4巻 通史4 (「娘の身売り」問題)

作女・女工・女中・子守等は前借金も少なく、女中月二円で一年間、女工八〇円で五年間等もあり、子守は七円で,にもかかわらず、『北海道凶荒災害誌』によれば、九年中全道の農村子女の身売り状況は、芸娼妓七三五人、酌婦五七五人、女工六三三人
新札幌市史 第2巻 通史2 (職業斡旋業の出現)

斡旋業者のなかには製麻会社や製糸場の女工を逃亡させたり、転業させるような悪徳業者もいたため、警察では業者一同
新札幌市史 第4巻 通史4 (社会運動の中へ)

しかし、駒野製綿の場合不成立に終わったが、同時期開催中の労農党札幌支部演説会では、同工場女工が男女聴衆五,これらの争議に共通している点は、当時男工一八時間、女工一五時間の長時間労働の上に低賃金であったということである
新札幌市史 第3巻 通史3 (寄宿舎の食事)

上記の記事は新潟県出身の女工(二三歳)が、会社の虐待を警察に訴える事件の報道であるが、部屋の定員は二〇
新札幌市史 第3巻 通史3 (職業紹介所)

そのおもな職業は、料理店の番頭、看護婦、製麻女工、ミシン徒弟、タイピスト、行商、小使、事務員といった類
新札幌市史 第3巻 通史3 (経木真田(きょうぎさなだ))

北海経木商会の女工募集広告では、経験者は原料を持ち帰って自宅でできる仕事であること、未経験者には指導すること
新札幌市史 第4巻 通史4 (鉄道従業員組合と札幌合同労働組合)

北海道製綱争議で活躍した女工の参加が、組合や同盟の幹部を喜ばせた。
新札幌市史 第3巻 通史3 (製麻会社の共済会と「掖済事業」)

さらに運動会の見物客も多く、「女工連の競技は毎回観客の大喝采を博」していた(北タイ 明44・5・14)
新札幌市史 第3巻 通史3 (支部の活動)

また三十一年にも女工たちが寄宿舎の待遇改善を求め、「同盟罷工を企てんと専ら協議中」ということがあった(
新札幌市史 第3巻 通史3 (社会主義研究)

本を読むことより、代用教員として勤めていた東小学校の近くの細民街や製麻会社の女工の生活の方に関心が向いた
新札幌市史 第4巻 通史4 (時局産業の労働力不足)

上昇しないのは、亜麻紡織賃金だが、これだけ女工賃金である。
新札幌市史 第4巻 通史4 (ゴム工業)

日本ゴムに勤務した女工の回想によると、工場には三〇〇人以上もの工員がおり、「鉄の作業板の前に、朝座ると
新札幌市史 第4巻 通史4 (労働者の状態)

しかも職工数に占める男女比率は六対四で、女工の占める割合も高い。
新札幌市史 第3巻 通史3 (新札幌市史 第三巻 通史三/総目次)

       地域女性団体 その他の女性団体     三 女子労働者の実態        製麻女工, 製糸女工        麦酒工場の女工 その他の女工        内職の奨励 経木真田        
新札幌市史 第4巻 通史4 (公区・各種団体の足跡)

12.3.7  国防婦人会幌東分会,一般婦人会員と工場班(北海製綱,ゴム工場の女工)と札幌グランドホテル
新札幌市史 第4巻 通史4 (働く女性の地位)

工場で働く女工の多くは、帝国製麻、北海道製綱、古谷製菓等で一日一五時間もの長時間で働き、昭和三年の場合
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌製糸場等)

日給は三十二年中で三〇銭より二〇銭で、製麻女工の最低賃金一六銭よりはまだ上である。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (三十年代の一般地域劇団)

』『森は生きている』『八月三十日』『おりん口伝』『霰』『オホ-ツクの女』『からゆきさん』『流氷の海に女工節
新札幌市史 第3巻 通史3 (図版・写真・表組一覧)

凱旋軍隊札幌着実景」(北タイ 明38.11.12) (422頁) 写真-6 大正7年頃の帝国製麻札幌工場の内部と女工,仏教婦人会聯合本部長 九条武子(国史大辞典第4巻 吉川弘文館) (590頁) 写真-12 札幌帝国製麻女工募集広告,(593頁) 表-20 札幌帝国製麻工場男女別職工数(明42~大9) (597頁) 表-21 製糸女工数
新札幌市史 第5巻 通史5上 (「夜の女」の増加と「風紀取締条例」の制定)

4 21 進駐軍雇婦 31 4 3 1 8 事務員 19 1 1 2 女給 15 3 1 4 女工
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