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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場)

御手作場 御手作場は安政三年に庵原菡斎(いばらかんさい)の自費開墾場を箱館奉行所に移管したことに始まる,ここでの水稲および雑穀・蔬菜・果樹等の試作は良好であり、また農夫も増加したので、この開墾場を奉行所に属して御手作場,よって箱館奉行所は箱館在の赤川村の内字石川沢に御手作場を設定して、弁之助にその開発を申し付けた。  ,文久二年(一八六二)の当時には、これら御手作場は箱館在に一一カ所・農民三〇〇人余、オシャマンベには四カ,なお、上記の在住、御手作場の外に、箱館奉行所の奨励により、各地の場所で場所請負人による開墾も着手され始 / 御手作場
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場)

御手作場 慶応二年、大友亀太郎を蝦夷地開墾掛として、サッポロに御手作場(幕府の直営農場)の事業が開始,したがって、この御手作場の計画が、明治維新の政変によって中断されず、そのまま続行された場合、堀の両側が / 御手作場
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場の性格)

御手作場の性格 一般に御手作場を官営農場として、全て官費をもって直接経営する開墾場ないし農場と解されている,松川弁之助による石川沢の御手作場に関して、「農夫繰入、一時小屋掛料、農具代等被下、夫食代ハ、人別ニ応じ,三ケ年程を限り被下方取計、追々開発為致候」とあり、また新井小一郎のオシャマンベ御手作場においても、「去,以上のような御手作場も、その採用にあたって箱館奉行所は必ずしも積極的ではなかった節がみられる。,しかしながら、手厚い扶助にもかかわらず、この御手作場の農民の定着は決して良好ではなかった。 / 御手作場の性格
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場の地所選定)

御手作場の地所選定 大友自身の『履歴書』(大友亀太郎文書補遺)によると、大友は慶応二年(一八六六)の,ついで同二十七日にイシカリを発してハツサムに赴き、そこにある番所を受け取って宿泊、同二十九日より御手作場,大友は各地検分の結果、自分が取り扱うべきイシカリ御手作場の地を、石狩川左岸のサッポロプトからフシコサッポロ,川をさかのぼった上流地域の「サツホロ」と決し、そして直ちに御手作場の造成に着手した。,他方、このような御手作場の造成と相まって、その間農民を招募し、最初の移住農民四戸が同二年七月イシカリ御手作場 / 御手作場の地所選定
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場の導入)

御手作場の導入 慶応二年(一八六六)二月一日に在住の関定吉ならびに大友亀太郎は、箱館奉行所より次のような,開拓の要請は容認され、直ちに右のような命令が発せられたものとみられ、ここに大友亀太郎が差配するイシカリ御手作場,石狩開墾取扱願伺取調書上帳』(大友文書)によると、「関定吉儀石狩出張御免相願候ニ付」とあるように、イシカリ御手作場取扱方 / 御手作場の導入
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場農民の生活)

御手作場農民の生活 御手作場の入植者たちは大層手厚い保護を受けていたことは前章でも述べた。,生活困窮に陥れば拝借金も貸付けてくれ、また勧農・勧業の指導もなされるという、まことに手厚い保護のもとに御手作場農民,しかしながら、このような扶助・保護を受けながらも、御手作場農民は決して安定した生活を享受していたわけではない,例えばイシカリにおいて官が購入する物品の価格でみても、慶応二年二月箱館において作成したイシカリ御手作場,これらの貸付金の利息は不明であるが、ただ大友がイシカリ御手作場経営に当たり、慶応二年六月に提出した将来計画 / 御手作場農民の生活
新札幌市史 第1巻 通史1 (在住制から御手作場へ)

在住制から御手作場へ 慶応二年正月、小出箱館奉行は「蝦夷地全嶋御開拓筋の儀に付申上候書付」で、まずロシア,(ヨイチ林家 諸覚諸書上)  これによると、サッポロの御手作場は、以前から考えられてはいたが、経費の,点で見通しのつくのに若干時間がかかったらしいこと、この方式の御手作場はこれ以外にもいくつか設置する意図,すなわち、当然ながら御手作場は、在住制による開拓と同様、基本的には防衛を主目的として設置されたものである,そしておそらくはその反省から、直営かつ計画的に相当額の先行投資を行うあらたな御手作場方式に転換せざるを / 在住制から御手作場へ
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場総経費の内訳)

御手作場総経費の内訳 上述のようにイシカリ御手作場は、幕府倒壊により明治元年(慶応四年)をもってその,、以後札幌村として新生していくのであるが、この慶応二年より同四年に至る三カ年間、大友の取り扱いの下に御手作場,イシカリ御手作場の経営において、その目的達成のため開墾場の造成・整備に、また入植農民に対する手厚い扶助,しかしそれらにとどまらず、御手作場の運営のためにそれ以外の支出もまた多くみられる。,これらを各年ごとの『石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳』(大友文書)によって列挙してみると、開墾取扱所 / 御手作場総経費の内訳
新札幌市史 第1巻 通史1 (御手作場経営の将来計画)

御手作場経営の将来計画 農民の入植と定住に関する仕法は以上のようなものであったが、このようにして開発,される御手作場の将来の姿を、大友はどのように想定していたのであろうか。,三〇年目の慶応三十二年までは毎年一五戸ずつの農民を入植させ、したがってこの慶応三十二年で合計イシカリ御手作場農民 / 御手作場経営の将来計画
新札幌市史 第1巻 通史1 (早山の移転と御手作場への繰り入れ)

早山の移転と御手作場への繰り入れ 万延元年ころに、早山はこの地を仁三郎(池田)にゆずってシノロの地に,文久二年移転と伝えられる)がそのまま管理していたが、慶応三年に、前年大友亀太郎が担当者となって開墾の始まった御手作場,(石狩御手作場農夫家数人別取調書上帳 慶応四年六月 大友文書)。 / 早山の移転と御手作場への繰り入れ
新札幌市史 第6巻 史料編1 (目次)

 慶応二年二月…349    4 石狩御手作場新軒取建入費大略取調 慶応二年二月…355    5,13 石狩御手作場農夫御扶持米塩噌諸道具渡方書上帳…437   14 石狩御手作場開発田畑取調書上帳, 石狩御手作場農夫家数人別取調書上帳 慶応四年…470   19 石狩御手作場農夫家数人別取調書上帳,  21 石狩御手作場農夫御扶持米塩噌諸品渡方書上帳 慶応四年十二月…489   22 石狩御手作場開発田畑取調書上帳, 慶応四年六月…492   23 石狩御手作場開墾田畑取調帳 慶応四年十二月…494   24 石狩御手作場開発田畑取調書上帳
新札幌市史 第1巻 通史1 (ハッサム村の変質)

ハッサム村の変質 ここで問題となるのは、前掲大友文書の山岡出府に続いて「同人取開候場所幷御手作場とも,すなわち山岡は、ハッサム村において自分の「取開候場所」と共に、御手作場も管理していた。,御手作場とは幕府の直営のもので、おそらくこの場合は退去した在住の地をイシカリ役所が引継ぎ、若干の農民扶助,とすれば、山岡が退去に際して開墾地を差し出すことにより、これまでのハッサム在住開墾地はすべて御手作場となり,すなわち慶応三年以降、ハッサム村は在住村から御手作場(ただし大友を担当者として開始された大規模のものではない
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

以来慶応元年(一八六五)の箱館付村々開墾場(御手作場)廃止まで、八年にわたり木古内村ならびに大野村の開墾,以後農民を奥州各地あるいは越後等に求めて石狩御手作場の経営に努め、また鎮守妙見社を建立した。,慶応三年十二月)(11)、「石狩御手作場開墾御用金請払書上下書」(慶応四年六月)(16)、「石狩御手作場開墾御入用請払書上帳,四 戸数・人別書上帳  「石狩御手作場家数人別取調書上帳下書」(慶応二年十月)(7)、「石狩御手作場農夫家数人別取調書上帳,)(22)、「石狩御手作場開墾田畑取調帳」(慶応四年十二月)(23)、「石狩御手作場開発田畑取調書上帳
新札幌市史 第6巻 史料編1 (〔大友亀太郎文書〕)

  〔去ル丑ノ十一月十五日酒井雅楽頭御役御免如前々之溜詰被仰付候〕   〔私儀去ル午年木古内大野両村御手作場取扱方被仰付, 大友亀太郎   4 慶応二丙寅年二月 石狩御手作場新軒取建入費大略取調 開墾取扱掛 大友亀太郎, 大友亀太郎   7 慶応二丙寅十月 石狩御手作場家数人別取調書上帳下書 開墾取扱 大友亀太郎,  13 慶応三丁卯年十二月 石狩御手作場農夫御扶持米塩噌諸道具渡方書上帳 大友亀太郎  , 石狩御手作場開墾田畑取調帳 開墾取扱所   24 従慶応四戊辰七月至同十二月 「(朱書)扣」 石狩御手作場開発田畑取調書上帳
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロ村の誕生)

そして七月十二日に大友亀太郎も箱館裁判所附属に任じられ、引き続いてイシカリ御手作場の取扱いに従事する。,この大友が附属に就任したと同じ七月に、イシカリ御手作場も新しい展開を見せている。,イシカリ御手作場に隣接するシノロにおいても荒井金助による荒井村が建設され、金助が名主、百姓代の村役人を,御手作場は入植後わずかに三年目を経過しつつある段階で、いまだ自治的組織、あるいは行政・財政上の末端を支,あるいは官費支給による御手作場を解体するための前提処置であろうか。
新札幌市史 第1巻 通史1 (扶助米の支給状況)

扶助米の支給状況 大友は御手作場の経営計画の中で、農民に対して手厚い保護を加えるべきことを力説し、また,いまこれら扶助諸物品の支給状況を、慶応二・三・四年の各年ごとの『石狩御手作場農夫御扶助米塩噌諸道具渡方書上帳,』(大友文書)ならびに『石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳』(同)によって跡付けてみたい。  ,ですでに農夫または自力開墾等で農業を営み、その後御手作場に編入された農民(荷三郎、与惣次・茂八)には支給,以上、慶応二年八月朔日より同四年十二月晦日までの間に、扶助米として御手作場農民に支給したのは(慶応二年
新札幌市史 第1巻 通史1 (その他の系路)

その他の系路 以上の主要系路の他に、札幌市域では、ハッサムより御手作場にむかうシャクシコトニ道、御手作場,からシノロへいたる道、大友堀にそいサッポロ越新道にいたる道などが、御手作場の設置にともない大友亀太郎により
新札幌市史 第1巻 通史1 (経営指針の提示)

経営指針の提示 慶応二年二月にイシカリ御手作場の差配を命じられた大友亀太郎は、直ちに同月、開墾取扱掛,第一の書類は、農民一戸の移住入植に要する諸経費の概算と、また御手作場経営に当たり大友が抱く基本的な指針,を陳述したものである(石狩御手作場新軒取建入用大略取調 大友文書)。,①御手作場の経営に当たり移住経費の概算を一応提示したが、これは目下現地の状況が不分明なのできわめて大まかなものに,①の御手作場地所についてはイシカリ役所と相談の上、アイヌの人たちに障害とならないような地を選定すべきこと
新札幌市史 第1巻 通史1 (大友亀太郎のサッポロ選定)

大友亀太郎のサッポロ選定 サッポロ村という呼称は維新変革以前には見られないが、これはイシカリ御手作場,当時はもっぱら大友亀太郎扱いのイシカリ(石狩)御手作場もしくは開墾場と称せられていた。,このイシカリ御手作場はすでに前章で述べられているように、慶応二年(一八六六)箱館奉行所の強い意向のもとに,大友は慶応二年の四月二十七日にハッサムに入り、そこの番所に宿泊して、二十九日よりいよいよ設立すべき御手作場,なおこれら御手作場としての基盤整備工事は、引き続き慶応三年と四年(明治元年)にも施行されている。
新札幌市史 第1巻 通史1 (農地開発の成果)

畑一町二畝歩、同三年は農民一九戸で田が四反四畝歩に畑二一町九反五歩、計二二町三反四畝五歩(田・畑とも御手作場,なお大友は明治二年七月に兵部省に転じ、十月にイシカリ御手作場を開拓使に引き渡すにいたっているのであるが,、その直前の八月に作成した御手作場開発田畑の取調書(石明御手作場開発田畑取調書上帳 大友文書)によると,、開設より大友の手から離れる明治二年七月までのイシカリ御手作場の開発田畑は、田の四反四畝歩、畑の四七町二反六畝二三歩
新札幌市史 第1巻 通史1 (大友亀太郎)

大友亀太郎 イシカリ御手作場の取り扱いを申し渡された大友亀太郎は、天保五年(一八三四)四月二十七日相模国足柄下郡西大友村,新妻、佐々木、大友(新六)らは直ちに箱館奉行所によって在住に任命され、箱館近在に設定した御手作場の差配,にあたり、それに従う亀太郎も箱館奉行所雇として木古内御手作場の開墾に従事するが、同安政五年十二月十五日,奉行所より在住に任じられ(年手当金一〇両)、新妻らの手付(てつき)開墾農夫取立方として木古内・大野の両御手作場,以降八カ年におよび御手作場の経営に当たり、この間箱館在有川村で廻船問屋を営む種田徳兵衛の娘サダを妻に迎
新札幌市史 第1巻 通史1 (慶応二年の移住)

慶応二年の移住 イシカリ御手作場への農民移住は、大友が御手作場の造成を進行させつつあった慶応二年の七月,これら農民の移住の状況を、その戸数・人別・入地年月を記した年度別の『石狩御手作場家数人別取調書上帳』(
新札幌市史 第1巻 通史1 (開墾取扱所ほか建造物)

開墾取扱所ほか建造物 御手作場は、前項の札幌村図(図4)でみるように、西から堀割が入り込み、それに道路,がほぼ平行して走り、堀割は御手作場地所の中央でフシコサッポロ川に落ち込む。,しかし大友はイシカリ赴任に際し、単なる在住居宅では御手作場経営に当たって多くの農民を取扱うことなどのため,慶応二年の『石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳』(大友文書)によると、「在住中川秋山明宅二軒願受代」,以上の開墾取扱所、板倉、穀物入蔵、鍛冶小屋、それに妙見社などの建物が、場所的にも機能的にも、御手作場の
新札幌市史 第1巻 通史1 (慶応四年の移住)

慶応四年の移住 慶応四年の御手作場新規農夫は、一月に南部五戸出身の幸吉の家族五人(十一月に男子出生して,六人となる)、六月にはすでに自立開墾をもって入植していた与惣次(出身地不明)の家族四人を御手作場農夫として,れて入植した者一人と出生三人の計四人が加増し、別家のため一人が減じたのを差し引きして、結局、イシカリ御手作場
新札幌市史 第1巻 通史1 (家作の支給状況)

家作の支給状況 イシカリ御手作場に農夫家屋一軒(桁間六間・梁間三間)が慶応三年に建築され、その費用は,図-1 イシカリ御手作場農夫本家作図  本来この農夫家作が建築されて各移住農民に支給されることになっていたのであるが,御座候得共、一時ニハ出来兼申候ニ付、此度仮ニ家作敷板之内六坪ツヽ相渡置候事」(慶応四戊辰年六月 石狩御手作場開墾御用金請払書上下書
新札幌市史 第1巻 通史1 (慶応二・三年の開墾田畑)

それを慶応三・四年の『石狩御手作場開発田畑取調書上帳』(大友文書)によって見てみよう。  ,まず慶応二年の七月に最初の御手作場農民四戸(長蔵・万次郎・宅四郎・弥平次)と八月に四戸(松太郎・勘右衛門,一戸(寅助)と、三年一月の三戸(磯吉・卯之助・三太郎)、八月の三戸(嘉蔵・佐次右衛門・長八)と、六月に御手作場編入,(あげち)分の畑九反六畝歩と田二反四畝歩、それに慶応二年分の一町二畝歩を加えると、慶応三年末における御手作場
新札幌市史 第1巻 通史1 (シノロ村の成立)

シノロ村の成立 慶応二年に大友亀太郎を掛とする御手作場が設置されたが、同年十月には、大友文書中に種物買入,の支払い先として「シノロ 喜右衛門」の、また借船賃の支払いとして「シノロ 喜三郎」の名がみえる(石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳,翌三年には種物買入として「シノロ 清太郎」、「シノロ 金松」の名があり、さらに用悪水路築造関係中に「御手作場
新札幌市史 第1巻 通史1 (用排水路の掘削)

用排水路の掘削 大友の御手作場経営方法において、人と物との流通をうながし、かつ農業適地を造成するため,の開削、用排水路の掘削、橋梁の架設、家屋の建築等の事業を起こすことが「開拓之本源」であると説き、事実御手作場,そこで実際に遂行した、いわば御手作場の基盤整備としての諸事業の内容について、慶応二・三・四(明治元)年,の各年ごとの『石狩御手作場開墾御入用請払仕訳書上帳』(大友文書)によって展望してみたい。  ,翌慶応三年にも水路の掘削は継続されており、その内訳は、  ①〈御手作場よりシノロ村上までの用水路として
新札幌市史 第1巻 通史1 (サッポロの開発)

他の一つは、慶応二年に設置されたイシカリ御手作場である(第八章参照)。,この御手作場は、二宮金次郎(尊徳)の薫陶をうけた大友亀太郎が担当者となり、長期的な年次計画による尊徳仕法,御手作場は、間もなく幕府の崩壊により消失したが、責任者によって計画が立てられ、それにのっとって移民が招来
新札幌市史 第1巻 通史1 (農民の住まい)

これら小屋に関する経費は御手作場の請払帳には一切認められない。,ただここで松太郎は、上述したように慶応三年に「本家作壱軒」を確かに支給されているのであるが(慶応三年 石狩御手作場農夫御扶持米塩噌諸道具渡方書上帳, 大友文書)、他方でこの敷板六坪の給付もうけている(慶応四年六月 石狩御手作場開墾御用金請払書上下書 
新札幌市史 第1巻 通史1 (幕府の倒壊と大友亀太郎の去就)

たるハ勿論ニ候間、裁判所附属之心得を以尽力可致候事(御用控 大友文書) これをもって大友の立場もまた御手作場,も、当面は継続することになったわけであるが、同年七月十二日に大友は改めて箱館裁判所付属に任命され、御手作場,この間大友は御手作場に新規農夫として、嘉助(家族三人、越後国蒲原郡枚村出身)、与兵衛(家族二人、庄内田沢村出身,これをもって大友はイシカリ御手作場の取扱いから離れることになったのである。,に赴き、同月八日石狩に帰着してトウベツ開墾場の地勢を報告するとともに、十月十二日サッポロ村のイシカリ御手作場
新札幌市史 第5巻 通史5下 (史跡・有形文化財)

札幌村・大友亀太郎関係歴史資料及び史跡は、札幌村郷土記念館にて保管しているイシカリ御手作場の関係資料である,大友亀太郎文書、及び同館の敷地が御手作場の中心地であったことから、六十二年二月二十日に一括して有形文化財,大友亀太郎文書は慶応二年(一八六六)に幕府によって札幌に設置された、御手作場の経営計画を伝える貴重な資料
新札幌市史 第1巻 通史1 (新札幌市史 第一巻 通史一/総目次)

へ   第八章 イシカリ御手作場の経営…915   第一節 イシカリ御手作場の開設…915     ,一 御手作場の設置        蝦夷地開発の方策 御手作場 御手作場の性格     二 イシカリ,開発と御手作場        イシカリの開発 在住制の停滞 御手作場の導入 大友亀太郎   第二節,御手作場の地所選定 大友の経営方法 農民扶助の内容と方法 御手作場経営の将来計画   第三節 御手作場,の造成と農民移住…933     一 御手作場の造成事業        用排水路の掘削 用水土手の
新札幌市史 第1巻 通史1 (農民扶助の内容と方法)

それを彼が慶応二年二月に提示した『石狩御手作場新軒取建入用大略取調』(大友文書)によって見てみたい。,しかも大友の御手作場全体の経営計画では、この農民入植に先立っての道普請、用悪水路掘削、橋掛等の御手作場造成,奉行所の疑問とは、かつての箱館近在御手作場における新妻、佐々木、大友(新六)らの仕法見込では、農民扶助米,を一人一日五合ずつを三カ年間の支給としていたが、それを大友のイシカリ御手作場においては、上記のように一人一日初年六合
新札幌市史 第1巻 通史1 (大友個人の請願)

①イシカリ御手作場へ移転するにあたり、従来支給されていた手当と別段手当との一季分前借の願。  ,ただ②に関連して、慶応四年六月の『石狩御手作場開墾御用金請払書上下書』(大友文書)には、「御手当取越し,さて、イシカリ御手作場の開墾取扱掛としての大友は、身分は在住と変わりはないが、その手当は前記の如く、大友
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

「大友亀太郎文書補遺」『札幌の歴史』第一三号、東区今昔『大友堀』(札幌市東区役所編)、原田一典「石狩御手作場
新札幌市史 第1巻 通史1 (入植の農民)

すなわち慶応二年の七月に四戸、八月に同じく四戸の農民がこのイシカリ御手作場に入っている。,いまこれら慶応二年より同四年の三年間に御手作場に入植あるいは編入された農民の人たちを、各年ごとの『石狩御手作場家数人別取調書上帳,かね(二一歳) 茂八(サッポロ村永住、四四歳)、妻ミわ(四〇歳)、娘すゑ(一三歳)  以上、イシカリ御手作場
新札幌市史 第1巻 通史1 (慶応四年の開墾田畑)

慶応四年の開墾田畑 慶応四年においては、農民は前年の一九戸に、一月に一戸(幸吉)、御手作場組入れが六月,ここに慶応二年より四年に至る三カ年間のイシカリ御手作場の開発田畑は、田が四反四畝、畑が四六町一反六畝二三歩
新札幌市史 第6巻 史料編1 (口絵)

頁参照(2)                      大友亀太郎文書(札幌市蔵) 19 石狩御手作場農夫家族人別取調書上帳, 484頁参照 23 石狩御手作場開墾田畑取調帳 494頁参照 1 達願御用留 341
新札幌市史 第1巻 通史1 (土地・農民管理)

なお、この土地・農民は、大友の担当する御手作場に組み入れられるが、その際、土地については「是迄取開候入費,このほか、前述のように慶応二年十月に退去した山岡精次郎は、その際同人の開いた場所と共に御手作場を差し出,おそらく、この御手作場とは、米の扶助などなんらかの形で官の資金が投入されたもので、それを山岡が管理していたということであろう
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ役所の評価)

これまでみてきたように、イシカリ改革あるいはクシュンナイのイシカリ出稼所の創設、さらには新道の開削、御手作場
新札幌市史 第1巻 通史1 (産業・農民など)

産業・農民など 水稲作については前述したが、畑作でも、前記のように種子を御手作場に売り渡している。,ハッサム村に比較すれば、イシカリに近く、慶応二年からは、フシコサッポロ川を通じて御手作場とつながっているという
新札幌市史 第1巻 通史1 (ロシア産種子と牛の回付)

ロシア産種子は、蝦夷地に適合する寒冷地作物として、箱館奉行所の積極的な奨励によるものであったが、イシカリ御手作場,なおまた、箱館奉行所イシカリ役所より、同所備付けの牛、牝牡合わせて五頭を、イシカリ御手作場備付として引
新札幌市史 第2巻 通史2 (本龍寺)

本龍寺 前述のように、幕府御手作場開墾掛の大友亀太郎によって、慶応四年(一八六八)に鎮守妙見堂として
新札幌市史 第2巻 通史2 (庚午移民と組頭)

この時、旧イシカリ御手作場の札幌元村と庚午移民による札幌新村(庚午四ノ村)があわされて札幌村となり、彼,両人はともに御手作場の農夫であり、ここには組頭もみえない。
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌・発寒・琴似村)

札幌・発寒・琴似村 イシカリ御手作場として慶応二年(一八六六)に形成されたのがサッポロ村である。,中川金之助、中嶋彦左衛門らの在住のコトニ開墾場は、慶応三年にイシカリ御手作場にくり入れとなったが、その
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ赴任に際しての諸条件提示)

④大友がイシカリへ赴き御手作場の選定・造成を開始するに当たり必要な測量機器のうち、小方儀ならびに分度、,⑤御手作場における開墾事業に入用の筆、墨、紙の代金として、木古内・大野両村での処置と同様に、年間金二両
新札幌市史 第1巻 通史1 (道路・橋梁その他の築工)

これは「下場所ユフスツ越へ道境より御手作場新道中普請」と注記があり、すでに完成をみていた内陸幹線路の一,つであるゼニバコより東蝦夷地ユウフツに至る道路に、イシカリ御手作場を結合させた新道である。
新札幌市史 第1巻 通史1 (シノロ番所)

シノロ番所は、鮭漁の臨時の番所か、または荒井金助、中島彦左衛門などの主導による開墾、大友亀太郎による御手作場
新札幌市史 第1巻 通史1 (イシカリ開拓と荒井村の性格)

また前節で述べたような米等の扶助を主体とする小規模な御手作場がハッサム村に存在した。,換言すれば、米などの扶助を行う主体が在住であれば在住村として土地は在住に下され切り、官の行う場合が御手作場
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