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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第4巻 通史4 (手稲村)

手稲村 手稲村は上手稲村、下手稲村、山口村の三大字から成り大正十年九月三日に開村五〇周年記念式が挙げられた,原動力となっていたが、それとともに村勢伸展には手稲鉱山の躍進も大きかった。  ,人口をみても村人口の半数近くは、手稲鉱山に関係をもっていたといえそうである。,手稲鉱山の発展の結果、手稲村の人口も六年まで四〇〇〇人台であったものが七年以降は増加をみせるようになり,かつてヒュッテ型の駅舎でなじまれた手稲駅も九年二月二十日に落成式が挙げられている。 / 手稲村
新札幌市史 第4巻 通史4 (手稲村)

手稲村 手稲村は二級町村であったので道庁官吏が任免されており、歴代の村長は以下の通りであった(手稲町誌,手稲村も二級町村であったせいか、村政に関する紛議は伝えられておらず、ほぼ平穏な村政の状況であったとみられる,村内の自治団体をみると、大正十年一月に手稲村自治会が組織されている。,村自治に関した組織としては、昭和二年九月十一日に村の発展振興を協議する手稲(軽川)昭和会(会長近藤新太郎,また昭和四年三月三日に上手稲にて手稲自治協会が発会しており、村政批判演説会も開かれているが(同前)、その / 手稲村
新札幌市史 第1巻 通史1 (手稲山)

手稲山 手稲山を構成する岩石は安山岩溶岩と同質の火砕岩である。,ゴルフ場やスキー場などの施設があるところは、手稲火山の初期の活動(一八〇~三〇〇万年前)の産物である安山岩質火砕岩 / 手稲山
新札幌市史 第3巻 通史3 (手稲鉱山)

手稲鉱山 手稲鉱山は本格的に操業するのは昭和にはいってからである。,手稲村星置の農民鳥谷部弥平が試掘権を得て、明治四十年頃まで私財を投げうち瀧ノ沢付近を探鉱したが成功しなかった,続いて大正五年、北海道庁技師石川貞治が試掘権を得て手稲鉱山と称して開発に着手した(手稲鉱山史 昭和十四年十二月末日迄,投資額二万五〇〇〇円といわれている(手稲鉱山史)。  ,糸谷芳太郎 夕張郡夕張町 広島 石炭  7. 8 990,000 有田利之助 札幌区 手稲・朝里 鉄 / 手稲鉱山
新札幌市史 第4巻 通史4 (手稲鉱山)

手稲鉱山 明治時代から鉱区が設定されていた手稲鉱山では、昭和三年広瀬省三郎が鉱業権を入手した。,さらに十三年には輪西鉱山株式会社から、手稲鉱山に隣接する鉱区である輪西手稲鉱山を二四万円で買収した。,しかし昭和十八年には政府の金山整理政策で、金山としての操業を停止し、銅山中心に転換した(手稲鉱業所 手稲鉱山史,、浅田政弘 手稲鉱山について 札幌の歴史29号)。 / 手稲鉱山
新札幌市史 第3巻 通史3 (手稲村の概況)

手稲村の概況 手稲村は明治三十五年四月一日に上手稲村、下手稲村、山口村の三村を合わせて二級町村制が施行,四十二年の戸数・人口は上手稲村が二三八戸一三七六人、下手稲村が二八二戸一六七五人、山口村が九七戸六二一人,であった(手稲村史原稿)。,上手稲村と山口村が純農村であったのに対し、下手稲村には停車場、村役場がある軽川に市街が開けており、前田農場,行政区域は七部に分かれていたが、大字上手稲村は上手稲・西野、大字下手稲村は軽川・三樽別・下手稲星置、大字山口村 / 手稲村の概況
新札幌市史 第5巻 通史5上 (手稲町の合併)

手稲町の合併 手稲町を合併しようという札幌市の意向は、豊平町合併直後から見られる。,手稲町側も、基本的に合併に賛成の意を表していた。,また、これと同日札幌市・手稲町合併協議会が発足している(手稲町合併に関する資料)。,(道新 昭41・8・22夕、手稲町合併に関する資料)。,ここに札幌市と手稲町との合併は決定したのである。 / 手稲町の合併
新札幌市史 第2巻 通史2 (下手稲村の成立)

下手稲村の成立 手稲村は片倉家旧臣の開拓使貫属が入植し、五年二月に発寒村を割き設置された。,そこで手稲村を二つに割き、片倉家旧臣の地を上手稲村とし、サンタロベツの方は下手稲村として同村が誕生した,」(ママ)ト唱フルヲ下手稲村トス]上手稲村ノ称名下ル」とし、下手稲村の項では「明治六年ニ至テ始テ一村落,で、これは十月十九日に市在に布告されており、そこに記された諸村名の中にはじめて上手稲、下手稲の村名を認,写真-2 上手稲、下手稲の初見資料(市在布達 民事局明治6年従6月至12月 北大図) / 下手稲村の成立
新札幌市史 第2巻 通史2 (手稲村への入植)

手稲村への入植 石狩で年を越し残留したうち、一部は手稲村に入植することになった。,これが手稲村への入植を示す唯一の史料である。  ,発寒の入植地は、二月十二日に「発寒川北字ベツカウス東ニ手稲村ト相称ヒ候」(市史 第七巻二一三頁)と手稲村,図-3 手稲村入植図 『奥羽盛衰見聞誌』下巻より作成。,写真-17 松本十郎が手稲村入植の開拓使貫属に与えた書画(手稲記念館蔵) / 手稲村への入植
新札幌市史 第5巻 通史5上 (手稲隊の入植)

手稲隊の入植 このような拓北農兵隊の一人に手稲村に入植した田中美之助がおり、後に『白雲を眺めて』(昭,七月六日に東京を出て三日目、田中一家を含む手稲隊は手稲村前田に入植した。,北海道開拓集団帰農手稲農民団、これが彼等の団名である。,(白雲を眺めて)  この手記にも記されているように、手稲隊に用意されていた仮宿舎はもともと牛舎であり / 手稲隊の入植
新札幌市史 第3巻 通史3 (手稲村の発展)

手稲村の発展 手稲村は大正期に入り急激な発展をみせてくる。,手稲村の明治四十二年の総生産額は一三万九八〇〇余円のうち、林産が二万九〇〇余円、畜産が一万二〇〇〇円であった,手稲村全体での飼育数も四十一年は二六六頭であったものが、大正十年には六九二頭にまで伸びており、これは石狩支庁管内,手稲村は人口の推移をみると発足時の三十五年に三三二一人であり、しばらく三〇〇〇人台であったが、四十四年 / 手稲村の発展
新札幌市史 第3巻 通史3 (上手稲と分村運動)

上手稲と分村運動 大字上手稲村はもと仙台藩の片倉家臣団により開かれたが、明治二十年以降は西野地区を中心,このように西野地区を中心に発展をしていた上手稲村であったが、明治四十三年に地域を二分する分村問題が発生,九月に上手稲を手稲村から分割して琴似村へ併合することが、一三一人の連署でもって石狩支庁へ請願された。,西野には琴似村の学田もあり、この年(四十三年)の三月には、琴似手稲果樹組合も創設されており、上手稲と琴似村,特に手稲村は上手稲、下手稲、山口の三村の戸長役場の時期から、札幌支庁管内では著名な〝難治村〟であり戸長 / 上手稲と分村運動
新札幌市史 第2巻 通史2 (下手稲村と軽川の発展)

下手稲村と軽川の発展 下手稲村は二十一年八月に、上手稲、下手稲、山口村の三カ村戸長役場が上手稲村より,下手稲村の中でも軽川(手稲区本町)は、十四年十月二十五日に幌内鉄道の簡易停車場が設置され、市街地の形成,下手稲村の二十二年の戸数は二〇八戸、人口は五七九人であったが、農業は六割でその他が四割とされており(佐藤喜代治,下手稲村には二十五年に巡査駐在所がおかれ、二十八年に前田農場の軽川支場が開場し(小作は三十二年で四九戸,、「石狩港並に附近の村落は、冬春積雪の候は凡て物貨は我が軽川に運送し来り」、軽川には戸数二八一戸(下手稲村 / 下手稲村と軽川の発展
新札幌市史 第5巻 通史5下 (手稲西幼稚園の教育)

手稲西幼稚園の教育 仲よし子ども館の活動があり、また保育園を重視して「従来から市立幼稚園は設置しないという,公立幼稚園の最初のものは、手稲町などとの合併によるものである。,すなわち、昭和二十三年八月に私立幼稚園として設立された星置幼稚園が、二十九年九月に町立移管で手稲西幼稚園,によって、市立手稲中央幼稚園となったのである。,手稲西幼稚園では、早教育を排除しようとした。 / 手稲西幼稚園の教育
新札幌市史 第1巻 通史1 (◇手稲遺跡(N一遺跡 西区手稲前田五二四―一九))

◇手稲遺跡(N一遺跡 西区手稲前田五二四―一九) 昭和二十八年に道路改修用の砂利採集中に遺跡を発見し,出土遺物は、後年手稲式土器と呼ばれる北海道の代表的な後期中葉の土器が主であり、札幌はおろか全道的に著名 / ◇手稲遺跡(N一遺跡 西区手稲前田五二四―一九)
新札幌市史 第1巻 通史1 (◇手稲砂山遺跡(N一五六遺跡 西区手稲前田五二三番地))

◇手稲砂山遺跡(N一五六遺跡 西区手稲前田五二三番地) 手稲遺跡の北東約五〇〇メートルの地点の標高約二,初頭の曲線の沈線文と貼付文を持つ土器は、手稲砂山式土器と呼ばれ、初頭の標式土器のひとつとされている。 / ◇手稲砂山遺跡(N一五六遺跡 西区手稲前田五二三番地)
新札幌市史 第5巻 通史5上 (近郊の観光―手稲町、その他)

近郊の観光―手稲町、その他 手稲山を背景にもつ手稲町は、夏は登山、冬はスキーの地として親しまれ、平和,三十年には、七年以降廃業していた手稲温泉が復活し(昭35手稲町勢要覧)、札樽国道から温泉に向かう坂道には,三十四年には三軒の温泉旅館が建ち並び、隣接する高台には、新たに石狩平野や空知方面の山岳地帯を望む手稲公園,三十二年十月手稲町観光協会設立発起人会が開かれ、翌三十三年四月十日同協会が設立された(手稲町報 昭33,手稲町観光協会は、中央バスと協力して、星置の滝―軽川牛乳の試飲―山口スイカの試食―手稲温泉をまわる観光 / 近郊の観光―手稲町、その他
新札幌市史 第5巻 通史5上 (豊平・手稲町の公民館)

豊平・手稲町の公民館 豊平町での公民館の最初は、昭和二十四年五月に旧陸軍屋内体操場の一部を改造して設置,写真-6 月寒公民館(昭34頃)  手稲町では三十年度以来、社会教育目標の第一に「公民館活動の促進,手稲町公民館は、「昭和三十年頃全町民こぞって公民館建設への要望がたかまり、特に婦人団体など町内諸行事ある,四十二年に札幌市との合併後は、札幌市手稲公民館となったが、六十年十月十九日に手稲コミュニティーセンター / 豊平・手稲町の公民館
新札幌市史 第2巻 通史2 (上手稲村と西野の開拓)

上手稲村と西野の開拓 この時期上手稲村は、西部地域の現在の西野、福井、平和の諸地域の開拓が進展していった,右股では、二十八年四月には上手稲小学校西野分教場もおかれ(三十一年五月に廃止)、この年は札幌鉱山(西野銀鉱 / 上手稲村と西野の開拓
新札幌市史 第5巻 通史5上 (手稲村の場合)

手稲村の場合 同村を取り巻く地理的環境から、農地の多くは札幌と小樽の地主が所有するケースが多かった。 / 手稲村の場合
新札幌市史 第2巻 通史2 (白石・手稲村と貫属取締)

白石・手稲村と貫属取締 北地跋渉組の中で白石に残留していた片倉家臣は、四年三月十七日に開拓使貫属に編入,取締助は取締の補助をする役職であったろうが、手稲村の取締助となった管野格(四年十一月~五年二月、新任戸長明細短冊,手稲村の取締は当初、長谷川弥六郎(正路、五年二月三日に差免)が任命されたようである。 / 白石・手稲村と貫属取締
新札幌市史 第1巻 通史1 (豊羽鉱山と手稲鉱山)

豊羽鉱山と手稲鉱山 豊平川の支流、白井川上流にある豊羽鉱山は、鉛、亜鉛、硫化鉄などを産出する道内最大,このほか、この時期に生成された鉱床には、かつて、金・銀・銅などを産出した手稲鉱山やその他小鉱山がある( / 豊羽鉱山と手稲鉱山
新札幌市史 第5巻 通史5上 (手稲町商工会、豊平町商工会との合併)

手稲町商工会、豊平町商工会との合併 商工会議所が市を単位として設置されていたのに対して、町村には商工会,、名称も商工会・商店会・専門店会等とさまざまであったが(北海道商工会史)、札幌市に合併する町村では、手稲町,まず手稲町では、二十四年二月手稲町商工会が設立されている。,から独立して東支所内に手稲東商工振興会を組織した。,手稲町誌)。   / 手稲町商工会、豊平町商工会との合併
新札幌市史 第4巻 通史4 (抵抗する手稲鉱山の朝鮮人)

抵抗する手稲鉱山の朝鮮人 札幌近郊における最初の連行者として手稲鉱山に到着した二九三人の朝鮮人労働者 / 抵抗する手稲鉱山の朝鮮人
新札幌市史 第1巻 通史1 (◇N二九五遺跡(西区手稲前田三三五番地))

◇N二九五遺跡(西区手稲前田三三五番地) 手稲遺跡から新川を渡った手稲寄りの標高約六メートルの紅葉山砂丘上,出土遺物は、初頭に編年される曲線の沈線文を持つ土器多数と、手稲式土器少数が出土している。 / ◇N二九五遺跡(西区手稲前田三三五番地)
新札幌市史 第4巻 通史4 (白石・手稲村の例)

白石・手稲村の例 番号二の争議は、直接的には小作人Kが折から始まった日中戦争に応召のため、地主への契約小作料 / 白石・手稲村の例
新札幌市史 第1巻 通史1 (◇N二九五遺跡(西区手稲前田三三五他))

◇N二九五遺跡(西区手稲前田三三五他) 市営団地造成に先立ち昭和五十九、六十年と二カ年にわたり発掘調査 / ◇N二九五遺跡(西区手稲前田三三五他)
新札幌市史 第1巻 通史1 (◇N二九五遺跡(西区手稲前田三三五番地))

◇N二九五遺跡(西区手稲前田三三五番地) 本遺跡も、紅葉山砂丘の西端の内陸側に立地する例で、昭和五十九 / ◇N二九五遺跡(西区手稲前田三三五番地)
新札幌市史 第7巻 史料編2 (三 移住民情況調査報告)

〇年調)  札幌市街  山鼻村  円山村  琴似村  発寒村  琴似発寒屯田兵村  上手稲村, 下手稲村  豊平村  平岸村  白石上白石両村  月寒村  雁来村  札幌村  苗穂村,四ケ村  篠路村  山鼻村  円山村  月寒村  豊平平岸両村  上白石白石両村  上手稲村,豊平村  上白石村  白石村  月寒村  平岸村  琴似村  山鼻村  円山村  上手稲下手稲山口三
新札幌市史 第1巻 通史1 (中田儀右衛門・福玉仙吉ほか)

中田儀右衛門・福玉仙吉ほか 一般に上手稲村の祖とされている中田儀右衛門は、岩手郡薮川村の出身で、万延元年,に道南の大野村に移住、慶応三年にハッサム村に入植、翌明治元年にのちの上手稲村となる地に移住し、開墾・農業,これはたとえば明治五年二月に手稲村設置に関連する文書で、のちの上手稲村辺りを「発寒村貫属(旧片倉家家中,したがって中田の場合も、入植地がその時点でハッサム村であり、その地が後年手稲村になり、さらに上手稲村となったにすぎないという,このほか、『地価創定請書』上手稲村の項では、明治二年二月の土地割渡しとして佐々木せつ(『検地野帳』では
新札幌市史 第5巻 通史5下 (火葬場と墓地)

火葬場と墓地 火葬場は、昭和四十七年(一九七二)には、平岸火葬場と手稲火葬場があった。,手稲火葬場は、十八年開設である。,えた火葬場の分散化、西部・北部方面の住民の利便性向上のためなどにより、平成十八年供用開始を目指して、手稲区手稲山口,墓地には、平岸霊園、里塚霊園、手稲平和霊園と古くからある円山墓地など一七カ所の墓地がある。,手稲平和霊園は、公園式墓地として昭和四十七年から五十一年まで五年計画で造成した。
新札幌市史 第2巻 通史2 (民有林・造林)

民間における造林業は、三十一年札幌郡手稲村に創立した北海道造林合資会社(二三六〇町歩余、資本金一五万円,はじめ造林面積は年間数十町歩から百数十町歩にすぎなかったが、次第に拡大し、事業地は上手稲より下手稲、山口,、銭函、張碓、朝里方面にまでおよんだ(手稲町史)。
新札幌市史 第7巻 史料編2 (三 地租創定事業)

空知通   (北)西創成町   (北)東創成町   雨龍通   札幌通   雁来村   下手稲村,  白石村   上白石村   豊平村   苗穂村   円山村   上手稲村   札幌村,篠路村   発寒村   琴似村   山鼻村     (2)耕地の部   雁来村   下手稲村,  白石村   上白石村   豊平村   苗穂村   雁来新道   円山村   上手稲村
新札幌市史 第5巻 通史5下 (郵便局の増設)

手稲金山(西区手稲金山へ移転、手稲鉱山を改称)  50 札幌北(北区新琴似4-2、普通)。,手稲山口(西区手稲山口、平8手稲曙東に改称)。札幌宮の沢西(西区手稲宮の沢)。,手稲星置駅前(手稲区星置1-3)。札幌駅パセオ(北区北6西2)。,手稲稲穂二条(手稲区稲穂2-3)。,手稲曙通(手稲稲穂を改称)。札幌西町北(手稲東を改称)。札幌二十四軒南(琴似南を改称)。
新札幌市史 第5巻 通史5上 (郵便局の増設)

現札幌中央)、琴似(現札幌西)、篠路、石狩白石(現白石中央通)、厚別、月寒(現豊平)、定山渓、藤野、軽川(現手稲,14西5),札幌北一条西(円山北一条を改称),札幌南六条西(円山南六条を改称,南6西23) 昭27 手稲,(軽川を改称,手稲町字手稲,昭45普通に改定,手稲富岡295) 昭28 藤野沢(簡易 札幌郡豊平町字藤野,白石栄通(白石町栄通8),下野幌(厚別町下野幌,昭44札幌青葉に改称),手稲稲穂(手稲稲穂),山鼻東屯田通,-13),白石平和通(白石町平和通2)手稲稲穂中(簡易 手稲稲穂),札幌北四十一条(北41東8),東月寒
新札幌市史 第5巻 通史5上 (戦後の経営の変遷)

戦後の経営の変遷 戦後の札幌における鉱業は、手稲鉱山と豊羽鉱山に代表されるといってよいだろう。,表-39 鉱山別生産実績表(昭和21年度) 鉱種 鉱山名 精鉱中含有量 金(g) 手稲 21,809,伊達 3,449 沼の上 13,693 音羽 1,500 銀(g) 手稲 2,115,618 沼の上,1,522,531 音羽 3,600 銅(kg) 手稲 154,593 伊奈牛 126,930 新下川,写真-6 手稲鉱山 選鉱場内部  昭和二十四年一月、探鉱作業の結果、脈幅一・三メートル、品位は金一〇
新札幌市史 第4巻 通史4 (鉱山の戦時体制)

これは昭和十四年七月に閣議決定され、八月には道庁、手稲鉱山、豊羽鉱山と鴻之舞鉱山から各一名が調査団として,そして十月には連行の第一陣が全国にさきがけて函館に到着し、約三〇〇人が手稲鉱山に送られた。,手稲鉱山には両者が動員された。,まず産金報国隊は、札幌職業紹介所が音頭をとって、手稲鉱山へ送り込むために十四年冬に実施された。,手稲鉱山や豊羽鉱山に動員されたのは、主に札幌・小樽の商工業者である。
新札幌市史 第3巻 通史3 (軽川石狩間の馬車輸送)

軽川石狩間の馬車輸送 手稲と石狩の交通路は、明治二十一年に軽川花畔間の排水渠の開削とともに作られていた,(現在の道道石狩手稲線)。,この連絡道路は手稲と石狩間の交通上重要で、新聞の記事から四十年代には馬車輸送の様子をうかがうことができる
新札幌市史 第4巻 通史4 (鉱山街の形成)

鉱山街の形成 上記のような諸鉱山があったが、特に大きな鉱山であった手稲鉱山と豊羽鉱山には、そこで働く,手稲鉱山には、北海道庁警察部が調査した二〇〇戸以上連担(軒や庇を連ねている)戸口表では、昭和十五年末に,また最寄りの駅である軽川には、鉱山関係者が利用する飲食店や料理屋が集まった(手稲町史、浅田政弘 手稲鉱山
新札幌市史 第2巻 通史2 (学田)

また円山学校は上手稲村西野に払下げをうけ、小作人を入れて開墾させたが、小作料収入が教育施設の充実、村民,明治18年) 学 校 面 積 位 置 藻岩学校 60万坪 月寒村厚別(あしりべつ) 琴似学校 50 上手稲村西野,山鼻学校 65 砥石山官林 上手稲学校 20 上手稲村西野 円山学校 20.3148 上手稲村西野
新札幌市史 第5巻 通史5上 (火葬場と墓地)

火葬場と墓地 札幌市の火葬場は、昭和四十七年には平岸火葬場と手稲火葬場の二つがあった。,手稲火葬場は、昭和十八年三月三十一日開設、一日最高三体の処理能力を持っている。,藤野 13,307 不詳 藤野276 24 滝野 4,354 M37.2.8 滝野3191 25 手稲,13,719 M28.10.3 手稲本町575 26 西野 7,921 T12.8.7 手稲西野74,27 山口 9,917 不詳 手稲山口347 計 1,312,149 『厚生事業の概要』(札幌市厚生局
新札幌市史 第2巻 通史2 (戸数と人口の増加)

1425  413  2111  発寒 27  111  49  51  239  40  214  上手稲,59  235  59  63  304  181  577  下手稲 41  98  46  102,北海道戸口表』  まず七年と十五、六年を比較すると、琴似・発寒村などのように屯田兵が入植した所、下手稲,その一方では、上手稲・上白石・札幌・丘珠村などのように、さほど急激な増加が認められない所もある。,琴似は新川地区、上手稲は西野地区、平岸は澄川・簾舞地区、白石は厚別地区などに開拓前線が広がり、移住者の
新札幌市史 第5巻 通史5上 (各地域の水道)

手稲町には、手稲水道と手稲東水道があった。,手稲水道は、十四年認可となっている三菱鉱山株式会社手稲鉱山の社宅用に計画されたものであった。,しかし二十八年手稲鉱山の事業縮小に伴い交渉の末、二十九年星置川の水利権ともども水道施設が手稲町に寄付され,手稲東水道は、三十九年十一月にさく井を水源として給水を開始し、四十四年手稲水道に統合された。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (戸長の任免と村民との対立)

たとえば高田直一郎は①山鼻・円山村、④豊平ほか四カ村、③上手稲・下手稲・山口村の戸長を歴任している。,・下手稲・山口村 氏 名 任 命 退 任 伊藤信正 17.10.23 20. 5.31 斎藤在武 20,(三)上手稲・下手稲・山口村戸長の伊藤信正、斎藤在武も上手稲村の移住士族(旧片倉家臣)であったが、その,特に戸長任免の変化がはなはだしい上手稲ほか三カ村は対立が激しく〝難治村〟といわれた。  ,札幌郡上手稲、下手稲、山口戸長役場は下手稲村字軽川にありて従前より苦情多く、戸長の交迭も又極めて頻繁にして
新札幌市史 第2巻 通史2 (戸長役場と戸長)

戸長 琴似ほか四カ村には当初戸長の配置が一人であったが、十五年七月一日に琴似・発寒村に一人、上・下手稲村,また十六年四月に下手稲村を分け山口村が設置されたので、上手稲、下手稲、山口村の三村に一人の戸長配置となった,山口村は戸長役場の所在した上手稲村まで四里余りもあり、戸数も百余戸になったことを理由に、十八年三月に生田春正宅
新札幌市史 第7巻 史料編2 (二 教育)

二 教育 (一)筆算所一件  八八 手稲村に筆算所建設の届(明治五年五月)  八九 早山清太郎より,・下手稲村説教世話方届(明治七年一月三一日)  九九 白石村教育所落成届(明治七年二月七日) 一〇〇, 市中教育所に助教師任命及び手稲村教育所に敷物下附の件(明治七年二月) 一〇一 手稲村教育所生徒調(,明治七年二月) 一〇二 手稲村教育所より新道双六受取届(明治七年二月) 一〇三 阿部友諒を助教師に,より書籍拝借願の義(明治七年三月一七日) 一〇九 手稲村教育所より敷物下附再願(明治七年三月一二日)
新札幌市史 第1巻 通史1 (後期の土器)

土器型式からみると礼文島船泊第四遺跡出土の船泊上層式、札幌市手稲遺跡出土の手稲式土器などがあり、つづいて,船泊上層式の深鉢の口縁部にみられる平行沈線には、縦につなぐ短い沈線が入れられるが、手稲式のようにS字状,手稲式(写真10)は、深鉢や浅鉢の平行沈線をつなぐ弧線にさまざまなバラエティがあり、磨消手法もよく発達,手稲式土器は、関東地方の加曽利B式土器の系列につらなる土器で、類縁の土器は東海、近畿にまで広くみられ、,写真-10 手稲式土器(札幌市手稲遺跡)  後期後葉では、長沼町幌内堂林遺跡出土の土器を標式とする
新札幌市史 第2巻 通史2 (その他の村落)

前述のように、明治五年に白石・手稲両村に初等教育機関が設置されたが、このほか幕末に成立した篠路村では、,札幌村 (朱書)「苗穂丘珠を兼 岡田 潤桂 白石村 月寒を兼       杉山 順 手稲村 円山琴似発寒,本庁管内教育所一覧(札幌郡) 明治8年7月 所名 官私立別 教師名 月給 生徒員数 円 人 男 女 手稲,にも同年下手稲学校が開設された。,写真-3 下手稲村学校略図(札幌県治類典 道文8939)
新札幌市史 第2巻 通史2 (戸長役場の移転と分立)

すなわち、(一)山鼻・円山村(戸長役場は山鼻村に設置)、(二)琴似・発寒村(琴似)、(三)上手稲・下手稲,・山口村(上手稲)、(四)豊平・平岸・月寒・上白石・白石村(豊平)、(五)札幌・苗穂・丘珠・雁来・篠路村,まず上手稲ほか二村の戸長役場は、これまで上手稲村におかれていたが、三カ村の中央に位置する下手稲村の軽川
新札幌市史 第2巻 通史2 (取締を巡る紛糾)

取締を巡る紛糾 白石、手稲村の取締などの変遷は表3の通りである。,取締助は白石村では五年二月から三人となり、手稲村は二人である。,取締は両村とも一人で、白石村は佐藤孝郷がつとめあげるが、手稲村の方は交代が頻繁である。,先の願書と同じ頃、白石・手稲村の取締、取締助から別な出願も行われていた。,手稲村では引地広安が新しく貫属取締となったらしいが、任命史料は残っていない。
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