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新札幌市史 第4巻 通史4
(手稲村)
手稲村
手稲村
は上
手稲村
、下
手稲村
、山口村の三大字から成り大正十年九月三日に開村五〇周年記念式が挙げられた,この時期の
手稲村
は、大正期は農業生産力が安定していたが、昭和期に入って凶作などにより生産額は落ち込み停滞,こうした軽川の市街地の発展は続き、十五年には三六一戸、一八〇五人となっており、
手稲村
の村勢伸展の著しい,手稲鉱山の発展の結果、
手稲村
の人口も六年まで四〇〇〇人台であったものが七年以降は増加をみせるようになり,
手稲村
は昭和九年に札樽国道の改良工事が完成し、札幌・小樽間の省営バスも運行開始され、工事に合わせて軽川市街 /
手稲村
新札幌市史 第4巻 通史4
(手稲村)
手稲村
手稲村
は二級町村であったので道庁官吏が任免されており、歴代の村長は以下の通りであった(手稲町誌,
手稲村
も二級町村であったせいか、村政に関する紛議は伝えられておらず、ほぼ平穏な村政の状況であったとみられる,村内の自治団体をみると、大正十年一月に
手稲村
自治会が組織されている。,一月十七日に下
手稲村
にて発会式が行われたが、協議事項には開村五〇年祭挙行、学齡児童就学歩合の向上、農業金融上信用組合 /
手稲村
新札幌市史 第3巻 通史3
(手稲村の概況)
手稲村
の概況
手稲村
は明治三十五年四月一日に上
手稲村
、下
手稲村
、山口村の三村を合わせて二級町村制が施行,四十二年の戸数・人口は上
手稲村
が二三八戸一三七六人、下
手稲村
が二八二戸一六七五人、山口村が九七戸六二一人,であった(
手稲村
史原稿)。,上
手稲村
と山口村が純農村であったのに対し、下
手稲村
には停車場、村役場がある軽川に市街が開けており、前田農場,行政区域は七部に分かれていたが、大字上
手稲村
は上手稲・西野、大字下
手稲村
は軽川・三樽別・下手稲星置、大字山口村 /
手稲村
の概況
新札幌市史 第2巻 通史2
(下手稲村の成立)
下
手稲村
の成立
手稲村
は片倉家旧臣の開拓使貫属が入植し、五年二月に発寒村を割き設置された。,そこで
手稲村
を二つに割き、片倉家旧臣の地を上
手稲村
とし、サンタロベツの方は下
手稲村
として同村が誕生した,」(ママ)ト唱フルヲ下
手稲村
トス]上
手稲村
ノ称名下ル」とし、下
手稲村
の項では「明治六年ニ至テ始テ一村落,ヲ為ス[始テ
手稲村
号ヲ下セリ]」と、記述に相違がみられる。,この時下
手稲村
の副戸長に管野格が任命されており(市史 第七巻九四四頁)、これ以前にすでに上
手稲村
には伊東信正 / 下
手稲村
の成立
新札幌市史 第2巻 通史2
(手稲村への入植)
手稲村
への入植 石狩で年を越し残留したうち、一部は
手稲村
に入植することになった。,これが
手稲村
への入植を示す唯一の史料である。 ,発寒の入植地は、二月十二日に「発寒川北字ベツカウス東ニ
手稲村
ト相称ヒ候」(市史 第七巻二一三頁)と
手稲村
,図-3
手稲村
入植図 『奥羽盛衰見聞誌』下巻より作成。,写真-17 松本十郎が
手稲村
入植の開拓使貫属に与えた書画(手稲記念館蔵) /
手稲村
への入植
新札幌市史 第3巻 通史3
(手稲村の発展)
手稲村
の発展
手稲村
は大正期に入り急激な発展をみせてくる。,
手稲村
の明治四十二年の総生産額は一三万九八〇〇余円のうち、林産が二万九〇〇余円、畜産が一万二〇〇〇円であった,
手稲村
全体での飼育数も四十一年は二六六頭であったものが、大正十年には六九二頭にまで伸びており、これは石狩支庁管内,
手稲村
は人口の推移をみると発足時の三十五年に三三二一人であり、しばらく三〇〇〇人台であったが、四十四年 /
手稲村
の発展
新札幌市史 第2巻 通史2
(下手稲村と軽川の発展)
下
手稲村
と軽川の発展 下
手稲村
は二十一年八月に、上手稲、下手稲、山口村の三カ村戸長役場が上
手稲村
より,下
手稲村
の中でも軽川(手稲区本町)は、十四年十月二十五日に幌内鉄道の簡易停車場が設置され、市街地の形成,下
手稲村
の二十二年の戸数は二〇八戸、人口は五七九人であったが、農業は六割でその他が四割とされており(佐藤喜代治,下
手稲村
には二十五年に巡査駐在所がおかれ、二十八年に前田農場の軽川支場が開場し(小作は三十二年で四九戸,、「石狩港並に附近の村落は、冬春積雪の候は凡て物貨は我が軽川に運送し来り」、軽川には戸数二八一戸(下
手稲村
/ 下
手稲村
と軽川の発展
新札幌市史 第5巻 通史5上
(手稲村の場合)
手稲村
の場合 同村を取り巻く地理的環境から、農地の多くは札幌と小樽の地主が所有するケースが多かった。 /
手稲村
の場合
新札幌市史 第2巻 通史2
(白石・手稲村と貫属取締)
白石・
手稲村
と貫属取締 北地跋渉組の中で白石に残留していた片倉家臣は、四年三月十七日に開拓使貫属に編入,取締助は取締の補助をする役職であったろうが、
手稲村
の取締助となった管野格(四年十一月~五年二月、新任戸長明細短冊,
手稲村
の取締は当初、長谷川弥六郎(正路、五年二月三日に差免)が任命されたようである。 / 白石・
手稲村
と貫属取締
新札幌市史 第2巻 通史2
(上手稲村と西野の開拓)
上
手稲村
と西野の開拓 この時期上
手稲村
は、西部地域の現在の西野、福井、平和の諸地域の開拓が進展していった / 上
手稲村
と西野の開拓
新札幌市史 第4巻 通史4
(白石・手稲村の例)
白石・
手稲村
の例 番号二の争議は、直接的には小作人Kが折から始まった日中戦争に応召のため、地主への契約小作料 / 白石・
手稲村
の例
新札幌市史 第1巻 通史1
(中田儀右衛門・福玉仙吉ほか)
中田儀右衛門・福玉仙吉ほか 一般に上
手稲村
の祖とされている中田儀右衛門は、岩手郡薮川村の出身で、万延元年,に道南の大野村に移住、慶応三年にハッサム村に入植、翌明治元年にのちの上
手稲村
となる地に移住し、開墾・農業,これはたとえば明治五年二月に
手稲村
設置に関連する文書で、のちの上
手稲村
辺りを「発寒村貫属(旧片倉家家中,したがって中田の場合も、入植地がその時点でハッサム村であり、その地が後年
手稲村
になり、さらに上
手稲村
となったにすぎないという,このほか、『地価創定請書』上
手稲村
の項では、明治二年二月の土地割渡しとして佐々木せつ(『検地野帳』では
新札幌市史 第7巻 史料編2
(三 地租創定事業)
空知通 (北)西創成町 (北)東創成町 雨龍通 札幌通 雁来村 下
手稲村
, 白石村 上白石村 豊平村 苗穂村 円山村 上
手稲村
札幌村,篠路村 発寒村 琴似村 山鼻村 (2)耕地の部 雁来村 下
手稲村
, 白石村 上白石村 豊平村 苗穂村 雁来新道 円山村 上
手稲村
新札幌市史 第7巻 史料編2
(三 移住民情況調査報告)
〇年調) 札幌市街 山鼻村 円山村 琴似村 発寒村 琴似発寒屯田兵村 上
手稲村
, 下
手稲村
豊平村 平岸村 白石上白石両村 月寒村 雁来村 札幌村 苗穂村,四ケ村 篠路村 山鼻村 円山村 月寒村 豊平平岸両村 上白石白石両村 上
手稲村
新札幌市史 第7巻 史料編2
(二 教育)
二 教育 (一)筆算所一件 八八
手稲村
に筆算所建設の届(明治五年五月) 八九 早山清太郎より,明治六年九月二七日) 九七 市中教育所に助教師任命の件(明治七年一月二九日) 九八 上手稲・下
手稲村
説教世話方届,に敷物下附の件(明治七年二月) 一〇一
手稲村
教育所生徒調(明治七年二月) 一〇二
手稲村
教育所より,より書籍拝借願の義(明治七年三月一七日) 一〇九
手稲村
教育所より敷物下附再願(明治七年三月一二日),付申立(明治七年三月二九日) 一一一 各村筆算教師の月給三等区分の伺(明治七年七月七日) 一一二
手稲村
教育所
新札幌市史 第2巻 通史2
(学田)
また円山学校は上
手稲村
西野に払下げをうけ、小作人を入れて開墾させたが、小作料収入が教育施設の充実、村民,明治18年) 学 校 面 積 位 置 藻岩学校 60万坪 月寒村厚別(あしりべつ) 琴似学校 50 上
手稲村
西野,山鼻学校 65 砥石山官林 上手稲学校 20 上
手稲村
西野 円山学校 20.3148 上
手稲村
西野
新札幌市史 第6巻 史料編1
(〔明治六年市在状況調〕)
〔琴似村〕 〔発寒村〕 〔平岸村〕 〔白石村〕 〔月寒村〕 〔
手稲村
,丘珠村(明治6年6月29日検地開始) 10 苗穂村(明治6年6月19日検地開始) 11
手稲村
,) 摘用録〔抄〕 札縨村外十一ケ村収穫高調 明治六年収穫調 〔丘珠村〕 〔上
手稲村
, 〔白石村〕 〔月寒村〕 〔札縨村〕 〔篠路村〕 〔琴似村〕 〔下
手稲村
新札幌市史 第3巻 通史3
(上手稲と分村運動)
上手稲と分村運動 大字上
手稲村
はもと仙台藩の片倉家臣団により開かれたが、明治二十年以降は西野地区を中心,「西野水田地ト云ハヽ価格モ不廉ニシテ望者先ヲ競フニ至レリ」(
手稲村
史原稿)といわれ、水田農家が多い西野地区,このように西野地区を中心に発展をしていた上
手稲村
であったが、明治四十三年に地域を二分する分村問題が発生,九月に上手稲を
手稲村
から分割して琴似村へ併合することが、一三一人の連署でもって石狩支庁へ請願された。,特に
手稲村
は上手稲、下手稲、山口の三村の戸長役場の時期から、札幌支庁管内では著名な〝難治村〟であり戸長
新札幌市史 第2巻 通史2
(初期士族移住村)
札幌では旧片倉家家中の入植した白石村および
手稲村
が一応それに当たる。 ,同じ旧片倉家家中の入植した
手稲村
では、開村間もない五年五月に「
手稲村
貫属之内男女六童子エ手習学業為相学度趣一統,輿地誌略」、「内国史略」、「五経素読本」、「理学摘要」、「西洋度量早見」、「数学教授本」、「地学事略」、
手稲村
,平岸村もほぼこの中の書から八書を願い出ている(御検印済 学校 道文九六二)し、『筆算所一件』によれば、
手稲村
,このほか、著名な話として、七年に松本開拓大判官が、白石・
手稲村
の教育所に「古之兵皆農」で始まる『兵農一理之書
新札幌市史 第2巻 通史2
(取締を巡る紛糾)
取締を巡る紛糾 白石、
手稲村
の取締などの変遷は表3の通りである。,取締助は白石村では五年二月から三人となり、
手稲村
は二人である。,取締は両村とも一人で、白石村は佐藤孝郷がつとめあげるが、
手稲村
の方は交代が頻繁である。,先の願書と同じ頃、白石・
手稲村
の取締、取締助から別な出願も行われていた。,
手稲村
では引地広安が新しく貫属取締となったらしいが、任命史料は残っていない。
新札幌市史 第2巻 通史2
(元仙台藩士片倉家従者の場合)
白石村(のち白石村と上白石村に分かれる)と上
手稲村
に入植した宮城県白石の元仙台藩士片倉家従者の一行である,私立水沼製糸所 (明治7 ・11~10・10) 達崎ます 白石村 農 達崎吉左衛門 長女 佐藤りほ 上
手稲村
, 農 佐藤伊格 長女 内馬場ふさ 上
手稲村
農 内馬場仲良 妻 置賜県 (明治8・4~9・8),阿子島きわ 上
手稲村
農 阿子島安元 妻 長谷川なを 上
手稲村
農 長谷川正路 妻 福島県 (明治,8・4~9・8) 大内ふゆ 上
手稲村
農 大内矩常 妻 大河内きし 上白石村 農 大河内頼綱 妻
新札幌市史 第3巻 通史3
(戊申詔書)
21)に掲載された「戊申詔書と本道の施設」によると、札幌支庁では札幌村の勤倹会、藻岩村の青年以心会、
手稲村
,
手稲村
では、戊申詔書を村内各戸に配布し「普ク御叡慮ヲ遵奉実行」を申し合わせるとともに、四十三年九月に
手稲村
和衷協同規約,、⑥時間厳守の励行、⑦部落共有財産の造成、⑧美風・礼儀・信義など秩序の確立、⑨近隣の和合と相互扶助(
手稲村
史原稿
新札幌市史 第2巻 通史2
(札幌近傍の林相)
篠路村ヨリ花畔村ノ間 雁来村ヨリ豊平川沿岸対雁村迄平林、篠路村ヨリ東北「ケレトウシカ」沼平林 下
手稲村
星置往還筋,ヘンケハツタリベツ」ヨリ豊平川上、両側定山渓迄山林、定山渓ヨリ豊平川上筋山林 同所ヨリ白井川筋山林 上
手稲村
,、白石村ヨリ東北平林 「アシヽベツ」ヨリ野津幌迄ノ間街道ヨリ北側 円山村ヨリ北琴似川筋平林 上
手稲村
字,「テイ子イニタ」川筋、落合迄平林 上下
手稲村
山 下
手稲村
、三樽別、軽川、星置、山林 発寒川字「モリ
新札幌市史 第2巻 通史2
(副戸長の兼務)
市太郎は十二月に総代の任命を求めたが、おそらく人材が乏しかったのであろう、下
手稲村
副戸長管野格に発寒村事務取扱,管野格は九年二月に上
手稲村
の副戸長も兼務し(四月に辞任)、一時は三村の副戸長を兼ねた。
新札幌市史 第3巻 通史3
(就学督励と「名誉旗」の授与)
ここでは
手稲村
と円山村の両村の実態について言及しておこう。,
手稲村
の就学状況は『明治四十一年札幌郡
手稲村
勢一班』に基づくものであるが、手稲三村(上
手稲村
・下
手稲村
,上
手稲村
では男子八三・三三パーセントに対して女子九一・四二パーセント、下
手稲村
では男子五二・〇〇パーセント,円山村の場合は
手稲村
とは逆に男子が女子を上回っている。
新札幌市史 第2巻 通史2
(戸長役場と戸長)
戸長 琴似ほか四カ村には当初戸長の配置が一人であったが、十五年七月一日に琴似・発寒村に一人、上・下
手稲村
,また十六年四月に下
手稲村
を分け山口村が設置されたので、上手稲、下手稲、山口村の三村に一人の戸長配置となった,山口村は戸長役場の所在した上
手稲村
まで四里余りもあり、戸数も百余戸になったことを理由に、十八年三月に生田春正宅
新札幌市史 第2巻 通史2
(北海道開進会社)
このうち札幌周辺では十三年六月と十四年六月の二度出願されているが、後者の場合、下
手稲村
に六〇〇万坪、札幌村,十四年六月の出願では下
手稲村
に約六〇〇万坪の仮割渡しが許可となり、八月ここに同社の第五会所(下
手稲村
四五番地
新札幌市史 第2巻 通史2
(周辺村落の形成と移民)
以上は農民層の移住によるものであるが、この年は旧仙台藩白石領の片倉家臣団が開拓使貫属となり白石・
手稲村
,へ(ただし
手稲村
入地は五年二月)、同じく水沢領の伊達家臣団が開拓使支配となり、同地の農民と共に平岸村へ
新札幌市史 第4巻 通史4
(諸町村の道路)
月調 昭11 1里34町 7間 13里31町46間 篠路村村勢要覧 昭和11年版
手稲村
,昭2 3里18町 32町13間 17里47間
手稲村
勢一班 昭和2年11月調 昭10 3里,18町 32町13間 17里47間
手稲村
村勢一班 昭和10年末調 琴似村 大11 18町
新札幌市史 第8巻1 統計編
(【人口】)
32表 戸数・人口 (豊平村) 第33表 戸数・人口 (豊平村・町) 第34表 戸数・人口 (上
手稲村
,) 第35表 戸数・人口 (下
手稲村
) 第36表 戸数・人口 (山口村) 第37表 戸数・人口 ,(
手稲村
・町) 第38表 人口動態総覧1 本籍地別(札幌区・市) 第39表 人口動態総覧1 現住地別
新札幌市史 第3巻 通史3
(ブリーダー牧場の概況)
極東煉乳株式会社軽川農場 (
手稲村
大字下
手稲村
字軽川) 極東煉乳株式会社の経営にして、大正六年の創業なり,塩野谷牧場 (
手稲村
字上
手稲村
) 塩野谷平蔵氏の経営にして、大正二年六月米国よりホルスタイン種の優良種牛十頭
新札幌市史 第2巻 通史2
(山口・広島県からの移住)
年代中頃まで) 当時、山口県からは漁・島松村(現恵庭市)、千歳村への移住も行われ、また上手稲・下
手稲村
,山口村ハ農業一途ニ付不向ナルモ小樽へ五里、銭箱へ壱里、札幌ニ六里ニテ日雇稼ノ者弁利之所モ有之、彼是ニテ上
手稲村
山口村,また山口村とならび上
手稲村
への移住のこともふれられている。 ,植産会社に関係をもつ山本章、玉井利之助、柏村桃作などが上
手稲村
のいまの西区西野に、五〇戸分五〇万坪の地所割渡,十七年に移住した前鼻林七・理寛寺栄蔵など八人は、十八年四月に今度は上
手稲村
の今の西野へ再移住し、広島開墾
新札幌市史 第3巻 通史3
(軽川市街)
三十四年九月二十七日には、
手稲村
消防組も設立されている。,しかしながら三十九年七月十日に五〇戸余を焼失する大火に見舞われ、「細民三拾有戸ハ非常ノ惨状ヲ極メ」(
手稲村
史原稿,『
手稲村
史原稿』は四十一年の市街の状況を以下のように伝えている。
新札幌市史 第2巻 通史2
(神社等の増加)
. 9 創建時八幡社 上手稲神社 上
手稲村
明治5 白石神社 白石村 明治5 明治30.,#160;6 三吉神社 札幌区 明治10 明治13 中の島神社 平岸村 明治10頃 手稲神社 下
手稲村
,#160;9 大正4.3 丘珠神社 丘珠村 明治15. 9 明治25.10 星置神社 下
手稲村
,明治30頃 十軒神明宮 篠路村 明治31.10 西野神社 上
手稲村
明治32. ,1 三つの小祠を合併創建 稲穂神社 下
手稲村
明治31. 9 『神社明細帳』,札幌関係市町村史
新札幌市史 第3巻 通史3
(大正四年全道青年会連合大会)
の札幌区周辺町村における青年会数は、札幌村六団体三一九人、琴似村三団体一八八人、篠路村三団体九五人、
手稲村
五団体二四四人,大谷派札幌青年会 札幌区北八条石狩通 諏訪神社氏子青年会 本派仏教青年会 札幌菓の子会
手稲村
,上手稲青年会 軽川青年会
手稲村
山口青年会
手稲村
山口星置青年会 豊平町 簾舞青年会 豊平町石山忠誠青年会
新札幌市史 第7巻 史料編2
(二 札幌市街並に周辺村落の誕生)
薄野字名に付布達(明治四年七月二四日) 二二 白石村名に付布告伺(明治四年一一月二五日) 二三
手稲村
呼称,に付伺(明治五年二月) 二四
手稲村
名に付布達(明治五年二月一二日) 二五 創成橋命名に関する件(,明治七年三月三〇日) 三五 豊平、山鼻の村名並に新白石村を上白石村に改称に付伺(明治七年五月一〇日) 三六
手稲村
新札幌市史 第2巻 通史2
(牧馬場)
九年四月上
手稲村
(ナカノ川左岸、札幌越新道北方一帯)に二〇万三四一六坪の牧場を開き、五月札幌官園の牧馬,
手稲村
牧場は廃止され牧馬一一一頭と札幌官園の牛若干を移した。
新札幌市史 第2巻 通史2
(副戸長の設置)
札幌・苗穂・丘珠・篠路 札幌村名主 小熊善右衛門 手稲・発寒村
手稲村
貫属取締 伊藤作助,十月頃に
手稲村
が上・下に分割されて下
手稲村
は管野格が任命された。
新札幌市史 第2巻 通史2
(山口村の成立)
山口村は当時下
手稲村
に属し、十四年九月に山口県から宮崎源治右衛門を総代とする植産会社の人々が移住したことに,山口村の設置は十五年十二月二十二日に、下
手稲村
を割き設置の告示がなされた(札幌県布令全書 明治十五年)
新札幌市史 第2巻 通史2
(新しい農業の導入)
十年に一頭曳プラウが琴似・山鼻両村へ一七台ずつ入り、同二頭曳が円山・平岸両村へ三台ずつ、上
手稲村
に二台入,十年~十四年の農具売下合計でみると、プラウの合計は札幌市街三、札幌村三、円山村七、平岸村四、上
手稲村
四,、下
手稲村
一、琴似村二〇、山鼻村二一、雁来村三、白石村一、篠路村五、月寒村七などの数字がある(開拓使事業報告
新札幌市史 第4巻 通史4
(争議の経過)
札幌郡藻岩村(現・中央区を中心とする地域、昭13町制施行円山町と改称、16・3札幌市に編入)の円山小学校が同郡
手稲村
大字上
手稲村
字西野,なお、この学田地は通称「円山学田地」と称されているが、後掲史料では「西野学田地」または「
手稲村
学田地」,円山小学校に
手稲村
西野の学田地三〇万坪が付与されたのは、明治十七年五月のことであった(三関武治 藻岩村概史
新札幌市史 第4巻 通史4
(諸町村の生産額)
も多くを占めており、十四年の場合でみると篠路、藻岩村では八割に達しており、他の町村も鉱産額の多かった
手稲村
,特に六年の落ち込みがひどく、大正十四年と比較すると
手稲村
は二五パーセント、白石村は三四パーセントにしか,
手稲村
は鉱産が四九パーセントを占めていた。,4 各町村の産額内訳対照図 これが昭和十四年になると鉱工産が飛躍的に伸びるようになり、琴似、
手稲村
,琴似、藻岩村は工場の進出により工産が増大し、
手稲村
、豊平町は手稲鉱山、豊羽鉱山の発展による鉱産の増大に
新札幌市史 第2巻 通史2
(分校・分教場等)
このほか月寒村厚別、上
手稲村
西野などにも同様の学校が設置された。
新札幌市史 第2巻 通史2
(米穀金融)
白石・上
手稲村
民は、開拓使から前渡し給与米を得ていた。石川はそれを他へ廻して増米をはかる。
新札幌市史 第4巻 通史4
(普通選挙)
の町村議会有権者数を比較すると、札幌村では二五四人から一三三九人、琴似村では二五二人から一二四〇人、
手稲村
,の新聞報道で判明する政党別議員数を摘記すると以下の通りであるが、やや政友会が優っているものの札幌村、
手稲村
, 豊平町 一三人 九人 二人 篠路村 七人 四人 一人
手稲村
新札幌市史 第2巻 通史2
(その他の村落)
札幌村 (朱書)「苗穂丘珠を兼 岡田 潤桂 白石村 月寒を兼 杉山 順
手稲村
円山琴似発寒,札幌村には十七年七月、請負人大岡助右衛門から校地を譲り受けて藤古小学校が設立され、また開村間もない下
手稲村
,写真-3 下
手稲村
学校略図(札幌県治類典 道文8939)
新札幌市史 第4巻 通史4
(産業組合)
における産業組合一覧表 組合名 所在地 組合員 設立年月日 解散理由 解散年月日 (無)軽 川 購販
手稲村
大字下手稲,信購 豊平町大字月寒村 147 大 9. 7. 8 合併 昭16. 4. 1 (有)軽川酪農 信購販
手稲村
大字下
手稲村
,保)篠路村 信販購利 篠路村字篠路 〔502〕 昭 8.10. 3 - - (保)手 稲 信購販利
手稲村
字軽川,
手稲村
においては、(無)軽川購販組合(大13・4解散)、(無)上手稲信購販組合(昭8・10解散)、(有,
手稲村
字東
手稲村
字前田 北聯,中金 豊平町信購販利 豊平町大字月寒村 大字平岸村字簾舞,大字月寒村字厚別
新札幌市史 第4巻 通史4
(学田地の解放問題)
九番 小作人ニ於テ自作農創設ノ意志ナキヤ 議長(助役) 前年小作争議ヲ生シタル時調停後ノ
手稲村
長ヨリ,翌十二年一月十四日、星野毅
手稲村
長にも「藻岩村有地自作農創設請願書」を提出し、「何卒自作農創設維持法ニヨリテ
新札幌市史 第3巻 通史3
(生産額と産業形態)
113,426 332,797 1,385,560 1,350 67.8 8.2 24.0
手稲村
,以下やや個別的にみていくと、
手稲村
は鉱産の占める割合が高い。,
手稲村
には前田農場(明28開設)、極東煉乳会社軽川農場(大6)、農家でも副業として乳牛の飼育がさかんにおこなわれており,
手稲村
は当時、道内でも屈指の酪農村でもあったのである。,まず最も高いのは
手稲村
であるが、これは農産以外の畜産・鉱産など生産額に支えられた結果といえる。
新札幌市史 第4巻 通史4
(「村社」をめぐる競合)
. 5 . 2 篠路 篠路村字キウス 明34. 9 .25 昭 2 . 8 . 1 山口
手稲村
大字山口村,明35. 9 .17 昭18. 6 .28 西野 同 大字上
手稲村
明32. 1 .28 昭 4,. 1 .10 手稲 同 大字下
手稲村
明32. 5 .18 大 6 . 8 .23 昭16.,
手稲村
では上手稲、下手稲、山口の旧村ごとに三官社が存在していたが、開村七〇年を迎えた昭和十六年に手稲神社
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