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新札幌市史 第3巻 通史3
(新琴似)
新琴似
新琴似
は明治二十、二十一年に佐賀、福岡、熊本、大分、徳島、岡山県などの西日本から屯田兵に応募,
新琴似
はもとより低湿地が多く、それを利用して新川付近では早くから水田も行われていたが小規模なものにとどまっていた,そのために三十七年七月に
新琴似
道路排水橋梁土功組合が組織され、約九〇〇町歩の造田をめざし四十一年まで工事,大正七年に開村三〇年を迎えた
新琴似
は、戸数二八〇戸、人口一五〇〇人、耕地一四〇〇町歩に達しており、「住民勤勉,
新琴似
兵村の公有地であった新川は、二十六、七年頃から小作として入植が行われるようになり、三十四年頃には /
新琴似
新札幌市史 第2巻 通史2
(新琴似・篠路兵村の大根)
新琴似
・篠路兵村の大根 三十三年頃の調査と思われる『札幌郡調』(北大図)によると、篠路兵村の項に大根栽培,それに対し
新琴似
村については、大根は三十年以降多くなり、五町歩を作付するものもいて、さらに作付面積は増加,昔話では、三十一年大水害のために篠路と
新琴似
の大根の評価は逆転したという。,しかしこの年の水害だけがきっかけで篠路大根が
新琴似
大根に席を譲ったとは考えにくい。,での大根栽培が不可能になったとは考えにくいため、この頃を境に篠路屯田は水田化が進行し、それにかわって
新琴似
/
新琴似
・篠路兵村の大根
新札幌市史 第3巻 通史3
(新琴似兵村からの出兵)
新琴似
兵村からの出兵
新琴似
、篠路兵村に入地していた屯田兵は、いまだ後備役中であったために召集を受け,
新琴似
兵村の場合八二人が召集を受け、そのうち約半数の四二人が歩兵第二五聯隊に属していた。,後備役、補充兵役に召集令状が出され、「挙村軍人たる屯田兵とてなかなか以て混雑を極めた」という(以下『
新琴似
兵村史 /
新琴似
兵村からの出兵
新札幌市史 第5巻 通史5下
(新琴似屯田兵中隊本部・旧黒岩家住宅)
新琴似
屯田兵中隊本部・旧黒岩家住宅 札幌市内には後掲の表10が示すように、国指定一二件、道指定三件、,〃
新琴似
屯田兵中隊本部 北区
新琴似
8条3丁目 札幌市 昭49. 4.20 明治19年に
新琴似
屯田兵村,写真-10
新琴似
屯田兵中隊本部 中隊本部の建物は明治十九年(一八八六)に建設され、中隊本部の,中隊本部の建物で現存しているのは、野幌(江別市)とこの
新琴似
の二カ所のみであり非常に貴重なものであった,同保存会では資料館として活用するために史料の収集につとめ、五十一年五月二十日に資料館として
新琴似
開基九 /
新琴似
屯田兵中隊本部・旧黒岩家住宅
新札幌市史 第1巻 通史1
(◇K四八二遺跡(北区新琴似・発寒川河川敷))
◇K四八二遺跡(北区
新琴似
・発寒川河川敷) 石狩町の紅葉山三三号遺跡の外縁部にあたる地区で、大正時代 / ◇K四八二遺跡(北区
新琴似
・発寒川河川敷)
新札幌市史 第2巻 通史2
(道路・排水溝・風防林)
まず
新琴似
の道路についてみることにしよう。,琴似兵村と
新琴似
兵村を結ぶ唯一の道路であった。,現在も
新琴似
と屯田両町の境をなし、緑豊かな逍遥林として市民に親しまれている。 ,また、篠路兵村第二横線を
新琴似
兵村の第三横線に直結させたことは前にもふれた。,
新琴似
兵村の北西に篠路兵村の追給地が置かれたので、
新琴似
兵村の四~六番通に接続する道路とこれに直交するものを
新札幌市史 第5巻 通史5下
(郵便局の増設)
白石栄通西(月寒駅前を改称) 53 札幌
新琴似
十一条(北区
新琴似
11-8)。,札幌
新琴似
(
新琴似
8-3へ移転、
新琴似
を改称)。札幌拓北(東篠路を改称)。,札幌
新琴似
八条(
新琴似
八条を改称)。,札幌
新琴似
八条西(
新琴似
八条西を改称) 63 札幌北野通(豊平区北野3-2)。,札幌
新琴似
七条(北区
新琴似
7 -17)。札幌東苗穂十二条(東区東苗穗12- 2)。
新札幌市史 第2巻 通史2
(【主要参考文献・史料】)
【主要参考文献・史料】 『琴似兵村給与地配当調』『山鼻兵村給与地配当調』『
新琴似
兵村給与地配当調』『,以上北大図)、『琴似兵村誌』、山田勝伴『開拓使最初の屯田兵―琴似兵村』、『山鼻創基八十一周年記念誌』、『
新琴似
兵村史,』、『
新琴似
百年史』、『篠路兵村の礎』、『屯田百年史』、上原轍三郎『北海道屯田兵制度』、『屯田兵』(さっぽろ
新札幌市史 第2巻 通史2
(募兵)
、十八年は江別、篠津、野幌へ入地、十九年から根室市の東西和田兵村開設に取りかかり、翌二十年、いよいよ
新琴似
兵村,〈
新琴似
分〉 〈輪西分〉 福岡県 三七戸 熊本県 一四戸 ,表-1 明治20年 招募の計画と実績 招募県 計画 実績 増減
新琴似
分 福岡 37人 44人,は『
新琴似
兵村史』、輪西分は『新室蘭市史』による。 ,篠路入地者についてみれば、
新琴似
同様熊本が多く、徳島、山口、和歌山、石川、福井の各県に広がっている。
新札幌市史 第5巻 通史5下
(北区の誕生)
それにあわせて生徒数も増加し、同年十二月には、
新琴似
中学校から分離して
新琴似
北中学校が開校した。,図-2 北区の中学校の変遷
新琴似
北中学校は、全学年がそろった四十八年四月に、学級数が二三、全生徒数,同年三月二十七日には
新琴似
北中学校から四六六人を受け入れて、光陽中学校が開校した。,その後、北区では中央部に位置する
新琴似
地域や太平地域などで人口増がさらに進み、五十四年三月には太平中学校
新札幌市史 第3巻 通史3
(分村問題)
これは大字
新琴似
村、篠路兵村を琴似村から分離・独立させて江南村をつくる運動であった。,琴似、発寒の両部落は明治九年頃岩城、岩手、青森等の移民を以て兵村を組織し今日に至るが、篠路、
新琴似
の部落,すなわち当時の所在地は現在の琴似二条七丁目(現西区役所所在地)にあり、村の南端に偏した位置となっており、
新琴似
,ところが
新琴似
、篠路兵村側ではこれを不満とし、分村運動が開始されたのである。,そして村議会でも五月十五日に全会一致で分村──
新琴似
村の設置を議決し、札幌支庁でも「其必要を認め意見開申
新札幌市史 第5巻 通史5上
(地神碑)
札幌市内には一二基あり、そのうち一〇基までが北区に集中しているといわれている(
新琴似
百年史)。,写真-14 地神碑(明治34年建碑,
新琴似
神社) 地神碑が地域住民にとって鎮守社と同様の信仰対象,
新琴似
の地神碑は「徳島県を中心とする瀬戸内海地方が発祥の地といわれる。,証明でき、石川貞右ヱ門は屯田兵石川浅太郎の父、原繁三郎は同原佐平の父でいずれも徳島県の出身である」(
新琴似
百年史
新札幌市史 第5巻 通史5下
(郷土史の編纂)
中には『
新琴似
百年史』『新川百年』『丘珠百二十年史』などのように、一〇〇〇頁を超える大冊もある。,
新琴似
では『
新琴似
百年史』以前にも、『
新琴似
七十年史』(昭32)、『
新琴似
町八十年のあゆみ』(昭41),、『
新琴似
九十年史』(昭51)を出しており、地域史には熱心な取り組みをしていた。,藤野地区開基百年記念事業協賛会 上野幌百年のあゆみ 60・ 9 371 上野幌開基百年記念事業協賛会
新琴似
百年史, 61・ 5 1297
新琴似
開基百年記念協賛会 篠路烈々布百年 62・ 4 460 篠路烈々布開基百年協賛会
新札幌市史 第2巻 通史2
(後期二兵村)
二十、二十一両年の入地をもって始まる新第一大隊第三中隊は、現北区
新琴似
(条丁目)、
新琴似
町、麻生町、新川一帯,を用地とし、
新琴似
兵村と呼ばれ、当時は札幌郡琴似村の一部である。,また、日清戦争復員の日をもって大中隊の編成替があり、
新琴似
兵村を第一大隊六中隊、篠路兵村を同七中隊としたが,図-1
新琴似
・篠路屯田兵村の位置 明治29年版五万分の一地形図「札幌」(部分 国土地理院),
新琴似
中隊本部とは約五・六キロメートルだが、両兵村と札幌市街の道のりはこれよりもはるかに長い。
新札幌市史 第2巻 通史2
(家族)
両兵村の入地が完了する二十二年でみると、
新琴似
は一戸平均四・九人、篠路は四・八人であるから、兵員を除くと,二十七年には
新琴似
一戸平均五・九人、篠路五・八人と、いずれも家族数の増加をみたのである。,表-3 後期兵村の戸口数(明治20年~28年) 戸口
新琴似
兵村 篠路兵村 合 計 戸 人 口 戸,翌二十八年に琴似、山鼻、
新琴似
二十年入地者が後備役となり町村の一般人口に繰り込まれ、残った
新琴似
二十一年入地者
新札幌市史 第2巻 通史2
(管理共用施設)
管理共用施設
新琴似
の中隊本部は兵屋とともに入地の前年、すなわち明治十九年に建築されたと考えられ、その,位置は遺構の現存する北区
新琴似
八条三丁目である。,で現在は
新琴似
小学校敷地である。,
新琴似
では学校を二十年十二月練兵場西側に設置、「五日正午十二時開校式執行あり。,のちに校地を練兵場跡地に広げ、現
新琴似
小学校の前身となった。
新札幌市史 第2巻 通史2
(兵員)
集計に使った資料は、
新琴似
兵村が『
新琴似
兵村史』(昭和十一年刊)『
新琴似
百年史』(昭和六十一年刊)、篠路兵村,表-2 後期兵員の出身地 兵村出身県
新琴似
篠路 計 割合 熊本 41人 46人 87人,15 0 15 九州外計 島根 1 0 1 44.1% 計 220 220 440 100
新琴似
兵員,このように
新琴似
に九州の人、篠路に四国・中国・中部・北陸の人がかたよっているのは、既述の社会情勢を反映,そして次の年
新琴似
、さらに篠路の順番となった。
新札幌市史 第5巻 通史5上
(氏子組織の再編)
新琴似
神社では、二十三年十月、「
新琴似
神社運営の基本団体として敬神講」が結成されている(
新琴似
百年史),屯田兵村の歴史とともにある琴似、
新琴似
の両社にかぎらず、開拓時代の苦難をささえた村の鎮守への思いは深く
新札幌市史 第2巻 通史2
(兵役)
〈
新琴似
兵村二十年入地者〉 兵村内では「古兵」とか「二十年組」と呼ばれる。,〈
新琴似
兵村二十一年入地者〉 兵村内では「新兵」とか「二十一年組」と呼ばれる。,なお『
新琴似
兵村史』に後備役編入、兵器返納式の模様を次のように伝えている。 ,明治二十八年四月一日、大隊練兵場に於て屯田歩兵第一大隊の解隊式いと壮厳に挙行され、同月同日
新琴似
屯田兵村在住,写真-1 明治24年の屯田兵演習(
新琴似
百年史より)
新札幌市史 第5巻 通史5下
(神社の記念事業)
屯田兵の入植とともに創設された琴似神社、
新琴似
神社、江南神社などは、地域開基と神社創設が同年ということもあって,
新琴似
神社では四十年に八〇周年事業として社殿の造営、社務所が新築され(社殿は北海道神宮の仮御殿を移設),、四十一年五月二十一日の例大祭の翌日には、
新琴似
開基八〇周年記念がなされていた。,また、六十年の一〇〇周年では社務所の改築が行われている(
新琴似
百年史 昭61)。
新札幌市史 第5巻 通史5下
(【主要参考文献・史料】)
北海道教育委員会、昭48)、『開拓使直営簾舞通行屋の今昔』(平11)、『篠路烈々布百年』(昭62)、『
新琴似
百年史,』(昭61)、『
新琴似
連合町内会三十年史』(平8)、島倉亨次郎「札幌市西区手稲山口のバッタ塚に関する調査報告書
新札幌市史 第3巻 通史3
(農村の歌舞伎)
もう一つは
新琴似
歌舞伎と呼ばれるものである。,その後も田中を中心に
新琴似
神社境内、知人の家、空き地等で演じていたが、明治四十三年に田中は自費で常設小屋,ただしこれは「自分所有ノ倉庫ヲ改築」(
新琴似
百年史)とあって新築ではなく、四〇〇円をかけて改造したものであった,そして若松館は経営が悪化して大正五年頃に閉館の止むなきに至り、同時に
新琴似
の歌舞伎もその幕を閉じることとなった
新札幌市史 第2巻 通史2
(住区画)
住区画
新琴似
兵村は琴似村の北部、現在の新川と道道琴似停車場・
新琴似
線(通称茨戸街道)に挟まれた土地,篠路兵村は
新琴似
兵村との間に風防林を設定し、それを境に隣接しているが区画の基軸方向は二五度ほどずれている,こうした住区画の方法は基本的に
新琴似
と同様で、全道に多くみられる散居制の典型といえよう。 ,地番のつけ方も
新琴似
に類似するが、こまかな点では同じではない。
新札幌市史 第4巻 通史4
(字名の設置)
琴似町では十八年五月一日に琴似村、発寒村、篠路村の三大字が廃止され、屯田、
新琴似
、新川、八軒、発寒、琴似,中・下福移 中野 中野,沼ノ端 表-15② 琴似町字名対照表 改称字名 旧字名 屯田 兵村
新琴似
,
新琴似
,琴似 新川 琴似川沿,
新琴似
八軒 発寒川下,
新琴似
発寒 追分 琴似 二十四軒,発寒川下
新札幌市史 第2巻 通史2
(公有地の処分)
新琴似
兵村で住区画周辺の公有地処分は早かったが、遠方の土地は長く部有財産として維持され、それがかえって,中でも
新琴似
と札幌市街を結ぶ西五丁目通の建設は懸案の大工事で、その用地の大半は公有地の提供によったし、,八軒に新築することになった琴似村役場敷地の買収費には
新琴似
公有地を処分した金を充てたのである。 ,この資金確保は公有地によって可能となり、他方
新琴似
地区と水利権を禅譲的に解決して成功に導いたが、離村の
新札幌市史 第2巻 通史2
(北の農村建設)
たとえば
新琴似
の明治二十一年七月十一日から一〇日間の様子をみると「新墾三町七反七畝十二歩、再墾二町八反二畝二十歩,ここに大分県出身屯田兵の実況視察に来道した県庁職員末富五郎の
新琴似
兵村調査報告を引用し、明治二十五年夏,午後、琴似村字
新琴似
兵村ヲ見ル。,
新琴似
では一時水田化に傾き、江頭坊主と呼ばれる寒地向品種の発明をみたが、水利権を篠路に譲ることで畑作地帯,として成長、特にビール麦の後作として秋大根が播かれ、道内屈指の名産地に発展、〝
新琴似
大根〟の名を世に知
新札幌市史 第3巻 通史3
(町村役場)
二級村になって「村役場の位置は琴似村にして、
新琴似
、篠路へは距離遠く一方に偏在の傾向あるより、
新琴似
へ,大正六年村長になった清水凉は大乗的立場から旧琴似兵村側と旧
新琴似
篠路兵村側の調停をはかり、大正九年ついに,適当と認め、改築の財源は村民の負担増徴を避け基本財産を財源とし、その他は理事者に一任してもらふべく、
新琴似
新札幌市史 第2巻 通史2
(市外との連絡路の整備)
表-4 道路新開削及び修繕 19年度 琴似新道(道道琴似停車場
新琴似
線)及び新屯田道路(俗称
新琴似
4番通,,正式名称は西部から道道樽川篠路線,市道手稲
新琴似
線,市道
新琴似
4番線の三つに分かれる).定山渓新道(
新札幌市史 第5巻 通史5下
(周辺部の中学校の新設―北区を事例として)
当時は、札幌市立北辰中学校と琴似町立
新琴似
中学校、そして篠路村立篠路中学校の三校があった。,創立当初の規模は、三十一年に創立された現東区にある北栄中学校の生徒五九三人と
新琴似
中学校の生徒六四人などの
新札幌市史 第4巻 通史4
(町村部の商業)
新琴似
地区では、四番通の
新琴似
神社から覚王寺にかけて、食料品、雑貨店が数軒建っていた。,昭和十一年刊行の『五十年史』には物品販売業五戸、理髪店・運送店・柾屋・豆腐屋・大工兼請負各一戸とある(
新琴似
百年史
新札幌市史 第4巻 通史4
(桑園駅などの設置)
その他の駅の設置については、篠路駅(北タイ 大12・1・19、2・4、3・17など)、
新琴似
駅(北タイ,現在の札幌市内には、
新琴似
駅と篠路駅が札沼南線開業の九年十一月二十日開業した(北海道鉄道百年史 中)。
新札幌市史 第3巻 通史3
(琴似村の概況)
〔大字琴似村〕川添、二十四軒、山手、十二軒、小別沢、盤ノ沢、中ノ沢、八軒、牧場、
新琴似
南一番通、同二番通,この傾向は大正期に入っても変わらなかったが、発寒村や
新琴似
の低湿地、泥炭地の土地改良により燕麦・牧草栽培,蔬菜類では篠路、
新琴似
の大根が有名であった。
新札幌市史 第3巻 通史3
(連絡道路の整備)
また現在では、札幌から石狩町花畔や花川へ通じる第一の道路は、西五丁目通から通称
新琴似
四番通を抜けて花畔,この道路は、まず通称
新琴似
四番通を延長して、軽川花畔間道路に結ばれ(北タイ 明40・1・8)、さらに西五丁目通,を北へ延長して、現在の麻生で通称
新琴似
四番通に合流させて(北タイ 明44・4・15)できた。 ,例えば、札幌茨戸間道路を
新琴似
住民が自費で修繕した(北タイ 明34・11・5)。
新札幌市史 第2巻 通史2
(後期の兵村)
すなわち
新琴似
兵村と篠路兵村の新規設置をもたらし、札幌市街を東西南北でとり囲む兵村配置の完了をみる時期,これを札幌の歴史の中で兵村の大きい節目とみなすことができるから、
新琴似
・篠路両兵村開設以前を札幌兵村史,しかし琴似・山鼻と
新琴似
・篠路兵村では道内他兵村におよぼした影響に大きな差があり、開設時における札幌の
新札幌市史 第2巻 通史2
(後期兵村の給与地)
後期兵村の給与地
新琴似
兵村では入地当初(二十年入地者は五月二十日付、二十一年入地は五月二十六日付),二十六年からさらに
新琴似
兵村の北西に隣接する二六画を給与地に充てたが、一万五〇〇〇坪にはほど遠く、用地確保難
新札幌市史 第2巻 通史2
(共同の財産)
新琴似
兵村へは琴似兵村公有地に隣接する発寒川上流の山林地が広く給与された。,ほかに月寒村厚別、上下手稲村に分散するが、官用地とともに
新琴似
兵村に近接する土地の編入替が注目される。,表-4 兵村用地の面積 兵村 琴似 山鼻
新琴似
篠路 合計 地域 給与地 官・公有地 給与地 官・公有地,- - - - 224,415 - - 331,150 224,415 琴似村
新琴似
新札幌市史 第2巻 通史2
(亜麻等特約農家)
この表からもわかるとおり、篠路・
新琴似
・苗穂・丘珠各村および兵村の亜麻栽培が多い一方、養蚕を其幹産業としていた,- 篠路兵村 164.75 - 白石村 101.45 0.05 篠路村 444.30 11.00
新琴似
新札幌市史 第2巻 通史2
(修業年限と補習科の設置)
また同規則は補習科の設置についても規定しているが、この時期
新琴似
小(二十九年)、下手稲小(三十年)、札幌女子高小
新札幌市史 第4巻 通史4
(土功組合と用水組合)
土功組合一覧表 組合名 所在地 設立年月日 目的 工事竣工 工事費 反当工事費 許可反別 既成水田反別
新琴似
兵村,白石村 昭 2. 5.15 潅漑 昭 3. 8.16 50,898 50.89 100.0 100.0
新琴似
排水,白石第一 100.0 1.612 - 56 7 49 15,875 2,950 1,223 3.74
新琴似
排水
新札幌市史 第5巻 通史5下
(丘珠獅子舞と無形文化財)
市内の消えた無形文化財では篠路歌舞伎、
新琴似
歌舞伎がある。,
新琴似
歌舞伎は田中松次郎が中心となり、明治三十年から大正五年頃まで演じられ、松次郎は明治四十三年に若松館,
新琴似
歌舞伎伝承会が平成五年七月十四日に設立され、八年三月二日に八〇年ぶりの復活公演がなされるなど、新
新札幌市史 第2巻 通史2
(自治の芽ばえ)
新琴似
兵村では積穀資金の個人返還を希望する者が多く、中隊本部に預金高を知りたいと願い出る者がいたが、聞,このため
新琴似
兵村のみに積穀金の一部が払い戻され、あとは屯田銀行の株券に変わったが、それが兵員兵村にどのような,によって消失するが、多くは公有財産取扱事務を吸収し、私的な住民組織を合わせて独自の規則を定めて存置し、
新琴似
新札幌市史 第2巻 通史2
(小学校の設立事情)
二十年に入地した
新琴似
屯田兵村では、同年に私立の
新琴似
小学校を設立し、小学教則により尋常科四年制として,理由を「兵村経営ということは私立であることが確認されたため」(江別第二小学校九〇年記念誌)としており、
新琴似
新札幌市史 第2巻 通史2
(演習と出征)
二十八年二月二十三日から二週間にわたる琴似・発寒・山鼻・
新琴似
・篠路の五兵村を含む第一大隊一~五中隊の,臨時第七師団編成の第一大隊には、前述の山鼻・琴似・
新琴似
・篠路等の兵員が含まれていた(歩兵第二十五聯隊史
新札幌市史 第5巻 通史5上
(境内地の確保)
新琴似
神社では、二六町歩余のうち、境内五〇〇坪と一町歩余の社地を残して小作人に払い下げ、「一朝にして無財産,、収入を失う」ことになった(
新琴似
百年史)。
新札幌市史 第3巻 通史3
(石狩川最下流域の農業)
屯田兵制度をもとに山鼻や琴似、
新琴似
、篠路の開発が進んでくるが、当然そこでの農業形態は畑作生産を中心に
新札幌市史 第3巻 通史3
(「燕麦組合」の設立)
事務所は
新琴似
の屯田第三中隊本部跡におかれ、設立時の組合員は三四一人であった。,事業内容は、任意組合時代から燕麦と牧草の販売と包装資材の共同購入であった(
新琴似
農協三十年史)。,するのは大正十五年からであり、その本格的な展開は昭和恐慌期の経済更生運動を待たねばならなかったのである(
新琴似
農協三十年史
新札幌市史 第2巻 通史2
(殖民的評価)
琴似兵村 五七パーセント (開村後二五年) 山鼻兵村 五二パーセント(同 二四年)
新琴似
兵村,
新琴似
兵村は開村後二四年、予備役終了後一六年の四十四年で在村者八八戸、四〇パーセントが残っていたが、その,、全数の六分強にしか当ってない有様であり、さればとて他に転出せしものも余り香しい者は少ないと云う」(
新琴似
兵村史
新札幌市史 第5巻 通史5上
(土地改良事業)
なお,旧市内には藻岩地区を,白石には厚別地区を,琴似には
新琴似
地区を含む。 ,中止の止むなきに至った(以上について、札幌市史 産業経済篇 昭33、篠路農業協同組合三十年史 昭54、
新琴似
百年史
新札幌市史 第4巻 通史4
(琴似村と町制の施行)
琴似村と町制の施行 琴似村は琴似、
新琴似
、篠路の三兵村を抱える難治村であったが、清水凉が村長に就任以来,この結果、
新琴似
兵村では小学校の移転・改築、神社の改築、公会堂・教員住宅・巡査駐在所・村医住宅・道路の
新札幌市史 第2巻 通史2
(小学校組合会)
札幌区内小学校)、第二同(白石・平岸・月寒・大谷地・信濃・広島各小学校)、第三同(山鼻・円山・琴似・
新琴似
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