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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第2巻 通史2 (本府計画)

本府計画 本府の建設計画は、「石狩大府指図」と「石狩国本府指図」から類推しなければならない。,写真-5 石狩国本府指図(北大図)  「石狩大府指図」から考察すると、本府を中心に役宅と道路を配置し,「本府指図」では、一間幅の堀で囲まれた方三〇〇間の本府が北部に描かれている。,本府の南に長官邸・判官邸から使掌の長屋などの役宅官舎を配置し、更に農政市政刑部の役所や武家などの休憩所,また本府から役宅地域を南北に貫く道路は、幅一二間、町地を区画する道路も幅一二間である。   / 本府計画
新札幌市史 第2巻 通史2 (石狩本府論)

石狩本府論 新たな北海道の支配体制として開拓使が置かれ、その支配権力を発動する場としての本府の位置も,このように本府と確定しているわけではないが、要するに「諸地開拓を総判」する開拓長官の居所として、「石狩,この間本府として両地のいずれが適当か、という論議は一切見られない。   / 石狩本府論
新札幌市史 第2巻 通史2 (本府建設と寺院)

本府建設と寺院 第一節で述べたように、札幌本府建設が始まった時、現札幌市域では、仏教的施設としては札幌村,本府、周辺村の形成にともなって、寺院、説教所等も建設されていくが、同時にこの時期は神仏分離、あるいは教導職制,また札幌は、本府として本道の行政の中心と位置づけられたため、札幌およびその周辺に各宗派の基幹的な寺院が / 本府建設と寺院
新札幌市史 第2巻 通史2 (本府構想のモデル)

本府構想のモデル この二つの図を総合してみると、官地と民地の区別、官地を含む本府一帯が土塁や堀そして,河川湿地帯に囲まれていること、官地は役所としての本府の南側に官宅群を配置し、一見して古代の都の役所である,にかかわる区域がないこと、藤原・平城・長岡・平安と四代の都に踏襲された条理制が明確にあらわされていないこと、本府,特に土塁で区切られているとはいえ、民地を本府地に隣接した本府区域内の街区画内に配置する構造は、島判官の / 本府構想のモデル
新札幌市史 第2巻 通史2 (本府の建設の開始)

本府の建設の開始 島判官は十月十二日銭函に到着した。,本府地選定のために、十月十四日に富岡復起少主典が札幌へ派遣された。,その後、本府建設予定地の確認のためと思われるが、十一月九日に十文字大主典が札幌へ本府地見分に行った。,そして十一月十四日から平山大主典・野村少主典が本府建設のために派遣された。,これらから考えて、本府建設事業としてこの時期にはかなり具体的な計画が進められていたのである。 / 本府の建設の開始
新札幌市史 第2巻 通史2 (アンチセルの札幌本府論)

アンチセルの札幌本府論 アンチセルはワーフィールドより遅れて札幌入りをして調査に当たった。,その札幌本府の是非を論じた報文の冒頭において、「夫レ札幌ヲ開キ開拓使ノ本庁ヲ建ルノ論ナランニハ、課多ノ,費用ハ敢テ厭サル所ナレトモ」と、本府を建設するに際して当然かかるであろう相当の経費の問題はさて置いて、,本府としての札幌を検証している。  ,はできず、また馬車も積雪のため通行不可能となり、この寒冷酷寒と物質の供給不能との環境条件により、札幌は本府 / アンチセルの札幌本府論
新札幌市史 第2巻 通史2 (ケプロンの札幌本府観)

ケプロンの札幌本府観 上述のように、ケプロンが命じた札幌本府の実検結果は、ワーフィールドとアンチセル,すなわち札幌に置かれるべき本府は、ワーフィールドは本然的に適当とし、アンチセルはそれを不適とした。,しかしながら、積極的・消極的の差はあるにしても、札幌を本府と敢て容認する上には、ワーフィールドもアンチセル,さて両者の報告を受けたケプロンは、その意見を勘案しながら、四年十二月八日札幌本府に関する最初の報文を開拓使,これを見ると、ケプロンの札幌本府観は、両者の意見を採用しつつも、どちらかといえばアンチセルのそれに傾いた / ケプロンの札幌本府観
新札幌市史 第2巻 通史2 (島判官の札幌本府建設着手)

島判官の札幌本府建設着手 二年九月二十五日東久世長官以下が函館に到着したが、島判官は直ちに諸般手配の,ところで本府を石狩に設けることは、開拓使設置当初から決定されていたと先述した。,島らが本府建設着手のため真直ぐに銭箱を目指したこともその現れであろう。,本府建設のため海路物資を送り込む地として、銭箱が最も札幌に近接していた。,開拓使の本府建設の構想は終始松浦によってリードされていたといえよう。   / 島判官の札幌本府建設着手
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌本府建設の復活)

札幌本府建設の復活 開拓使は、三年二~五月の岩村判官の巡視で得た情報をもとに、七月「衆議紛々」を理由,に、札幌への本府建設を中止した。,その「北海道開拓ノ儀ニ付左ノ件々奉伺候」などでは、札幌の本府建設について、「札幌建府ノ儀、何分急速目途難相立候得共 / 札幌本府建設の復活
新札幌市史 第2巻 通史2 (十文字大主典の札幌本府建設)

十文字大主典の札幌本府建設 『御金遣払帖』で島判官離任の二月から西村権監事札幌着任の十一月までに経費,を計上した建物は、一番小屋、本府本陣、権大主典役宅、判官少主典役宅、使掌長屋、人足小屋、木挽小屋、御用炭竈,これらのほか運河開削工事なども考慮にいれると、この三年中にかなり札幌本府建設工事は進行したと考えられる,確かに三年七月札幌本府建設の方針は中断したが、札幌を役所としての体裁を整えること、都市札幌本府の形態の,」に酷似しているから、この三年中の建設事業は島判官が計画していた本府構想に沿って行われていたといえるであろう / 十文字大主典の札幌本府建設
新札幌市史 第2巻 通史2 (島判官の本府建設伺)

島判官の本府建設伺 二年七月二十三日島判官は長・次官と共に石狩出張を命ぜられた。,函館詰長官始メ多人数ニ付、私儀ハ函館到着之上直ニ石狩え罷越、最前御治定之通北海道之本府相建候基本之取計可仕,このような状況の下で島判官は、函館の配置が多人数なので、すでに政府が決定済の石狩本府建設の基礎事業に当 / 島判官の本府建設伺
新札幌市史 第2巻 通史2 (本府建設とアイヌ労働)

本府建設とアイヌ労働 明治初年の札幌は、幕末においてイシカリ役所と箱館奉行所あるいは各場所詰役人間の,本府建設をひかえて近隣のアイヌ労働力の確保が必要とされたからであろうか。,また、二年十一月より札幌本府造営のため勇払・沙流・新冠・静内・三石五郡の馬五〇頭を借り上げていたが、三石郡 / 本府建設とアイヌ労働
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌本府建設の中止方針)

札幌本府建設の中止方針 岩村は札幌着任後の執務の方針として東久世長官へ数項目について書き送っている。,第五に、札幌経営の順序について、本府建設を後にまわし、先に移民を入植させて村落をつくること。,しかしこの方針は、三年七月の次のような布達に引き継がれ、札幌への本府建設方針は一時中断する。 / 札幌本府建設の中止方針
新札幌市史 第2巻 通史2 (本府としての整備)

本府としての整備 明治五年になると、札幌の建設は本庁舎の建設、病院など諸施設の建設、札幌本道の開削などと,一つには、札幌詰と東京詰の本府建設についての認識の違いが考えられる。,ところが本府経営のために工事を急ぐ岩村判官は、全般的に建設工事を実施しようとした。 / 本府としての整備
新札幌市史 第2巻 通史2 (岩村判官の札幌赴任と本府建設計画)

岩村判官の札幌赴任と本府建設計画 岩村判官は、明治四年(一八七一)一月九日東久世長官から「札幌出張申付,については、新川の銭函への計画は中止され、松前・函館などからの商工民たちもその移住地は、島判官の『石狩国本府指図,そしてその中で最惑大きな変更は、本府(本庁)地の変更である。 / 岩村判官の札幌赴任と本府建設計画
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌本府経営と兵部省支配)

札幌本府経営と兵部省支配 二年十月十二日銭函に入った島判官らは、早速当役々上下七、八〇人ほどをもって,本府建設の基礎事業に取りかかった。,「左モ無之候テハ石狩国ニ本府ヲ立、開拓ノ創業相立候見的絶テ無之候間、迅速断然タル御所置有之度」と、在京 / 札幌本府経営と兵部省支配
新札幌市史 第2巻 通史2 (「札幌表御用取扱向等伺書」の札幌本府)

「札幌表御用取扱向等伺書」の札幌本府 三年閏十月札幌詰を命ぜられた西村権監事・広川大主典・八木下大主典,この「札幌表御用取扱向等伺書」から、札幌での本府建設計画の内容を以下に検討してみよう。  ,これを見て思い浮かぶのは、島判官の「石狩国本府指図」である。,なぜなら三年中に、小さいとはいえ本府建設予定地を縦断する新川が開削されているからである。,したがって彼らは、三年中に進められた建設工事の上に「石狩国本府指図」計画の本府を建設できないことを知らなかったのである / 「札幌表御用取扱向等伺書」の札幌本府
新札幌市史 第2巻 通史2 (ワーフィールドの札幌本府検証)

ワーフィールドの札幌本府検証 ケプロンから上述の命令を受けたアンチセルとワーフィールドは、時期的には,而シテ所轄ノ開墾地モ極テ大ニシテ東西海岸へ通路ノ便ナル地位ハ、札幌府ノ右に出ルモノナシ」と、札幌は本府 / ワーフィールドの札幌本府検証
新札幌市史 第2巻 通史2 (西村権監事七カ条伺の札幌本府)

西村権監事七カ条伺の札幌本府 さらに西村権監事は、本府建設について札幌の実地を検証しながら計画をたてた / 西村権監事七カ条伺の札幌本府
新札幌市史 第2巻 通史2 (岩村判官の区画構想)

まず原形は、やはり島判官の『石狩国本府指図』である。その本府前の官舎役宅は二列に描かれている。,地形の関係で本府地を北の端に設置できないため、官舎役宅の列の西側の部分を、最南端を中心に九〇度西へ回転,そして、そのために空間となった地域に北端にあった本府地を移動させた。,本府地官宅地と民地とはやはり区別した。民地の区画は、近世以来の伝統的都市構造で区画した。,または『石狩国本府指図』の本町のように長方形で描けば、自然に碁盤の目状ないしはそれに類似した区画を意味
新札幌市史 第7巻 史料編2 (解題)

解題 石狩平野に北海道開拓の中心となる本府を建設すべきだとする意見は、主として欧米諸国の日本周辺への,の緊迫化の中で、この意見は更に具体性を増し、松浦武四郎は文久四年(一八六四)に「西蝦夷日誌」凡例で、本府,ここでは本府建設の地について、旧幕府奉行所のあった箱館をさけるなどのほか「全島要害之地」と位置づけているが,九月の島義勇の伺中「……私義ハ函館到着ノ上直ニ石狩ヘ罷越、最前御治定ノ通北海道ノ本府相建候基本ノ取計可仕,このようにして札幌本府の建設が開始されたが、この建設は緊急の政治的必要性によって行われたものであると共
新札幌市史 第2巻 通史2 (石狩府構想への評価と風評)

図-1 島判官の本府計画図 『石狩国本府指図』をもとに作成した。  ,また九月に来た東久世長官は、「本府経営甚広大也。府前棚門新規落成、大道両側役宅也。,本府之地割三町四方。道幅三間。,ほかの道路幅と本府の敷地の表記以外は、だいたい「石狩国本府指図」の通りの記述である。,一方このような本府について、庶民はどのように感じていただろうか。
新札幌市史 第2巻 通史2 (島判官の専断)

東久世日記の文面からとると「本府建築」と見られる。,しかし本府の建設自体は、政府においても長官においても容認している事業であり、専断とはいい難い。,また本府建設による「金穀空乏」の事実も、先述したように、そのような事態を招くほどの事業は展開していない,それでは本府建設に限定せず、「嶋判官在西地」とある、彼の処務である西地経営における専断であろうか。,さらに請負人らは函館本府にも訴え出たようで、大きな問題に発展した。
新札幌市史 第2巻 通史2 (明治三、四年成立の村)

明治三、四年成立の村 以上が幕末に形成された諸村であるが、明治に入り札幌本府の建設にともない、本府の,村落の配置と移民の入植は、札幌本府を基点に銭函、千歳、篠路、石狩へ向かう官道上の沿線が選ばれている(以上,図-1 明治5年の札幌本府と周辺村(奥羽盛衰見聞誌より)  次に年次を追い、六年以降に成立した下手稲
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌会議の結果と影響)

岩村が体制整備よりも本府建設を優先させたのに対し(三好の場合は、自分の担当地区の開拓の進行)、黒田は体制整備,そして杉浦の日記の会議紛糾の原因に関する記述やその後の本府建設事業の進め方から見て、会議後黒田の方針がとられたと,そのためこの札幌会議の結果は、札幌本府建設の進行に大きな影響を与えた。,本府の全般的な建設から定額金に見合った事業の進行速度に変更されたのである。,建設の時間で考えると本府建設完成の日程が遅らされたことになる。
新札幌市史 第7巻 史料編2 (一 明治二年)

石狩移住数岩倉公へ書上(八月二七日)  五 役邸等の部屋数及び広さ(八月頃)  六 島判官石狩へ罷越本府建設,に付伺(九月)  七 兵部省管割地割替、札幌辺に牧場建設等の件(一一月一六日)  八 石狩へ本府取建,付不足米買入方取計申入の件(一一月)  九 御用米買上回送方取計の件(一二月) 一〇 石狩国札幌郡へ本府造営
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌会議の背景)

札幌会議の背景 この会議が開かれる以前に、黒田次官と岩村判官との間には、五年中の札幌での本府建設資金,札幌の主任である岩村が、本府建設のために黒田との定額金の条約を破ったことである。,本府の建設方法については、前述のように岩村は全般的に事業を起こそうとした。,「本府会議粗漏」の意味が不明だが、本府の会議が疎漏であるととると、札幌上局内での会議がいい加減であるという,もっとも「本府会議粗漏」を札幌会議の進め方が悪かったととれば別である。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (島判官時代の建設)

それから本府営繕関係と思われる記事をひろうと表2のようになる。,十一月二十二日の千吉が本府地(役所としての本府建設予定地なのか、町としての大きな領域全体を指すのか)のどこを,そしてほぼ一番小屋(役邸)、本府本陣、権大主典役宅の順番で建築されたようである。,千吉に本府地内雑木切出し代を支払う。,高木長蔵へ本府本陣取建入用代を貸す。4年返納。
新札幌市史 第2巻 通史2 (米の確保)

明治初年の札幌においては、本府建設のために現地入りした官員をはじめ大工・諸職人、あるいは本府下で商業活動,をするために集められた商人、あるいは本府をとりまくように作られた村に入植した農民たちにいたるまで、官からの,それゆえに開拓使による米の確保如何が、本府建設を左右する鍵になったのではなかろうか。  ,なかでも官員はじめ本府建設に携わった人夫・諸職人は、官禄・給料として米が支給された。,米は、このように本府建設になくてはならない食料であった。
新札幌市史 第2巻 通史2 (周辺村落の形成と移民)

周辺村落の形成と移民 開拓使が北海道の本府を札幌に置くことを立案するのは二年七月の開拓使設置当初である,ただ札幌本府論は開拓使や明治政府の内部でも迂余曲折を経ていることは、第一節で詳述した通りであるが、開拓判官,の島義勇は本府建設とともに周辺村落の形成を企図し、三年に至り移民の募集に着手する。
新札幌市史 第6巻 史料編1 (解題)

周知のように、札幌本府および周辺村落の建設は、明治二年(一八六九)十月に開拓判官島義勇を責任者とする銭函仮役所,その後札幌に本府を建設するということの是非から問題となったが、結局同年中に周辺村落を優先させる方針がたてられ,、十二月中には札幌方面に移民規則(「農民取締規則」「農業規則」ともいわれる)も定められて、翌四年から本府,そして六年秋には開拓使本庁舎が完成して、本府建設事業は一段落することになった。  ,任免および手当の支給、戸籍業務など行政の根幹となることも主要業務に含まれており、この意味で、開墾掛け本府
新札幌市史 第2巻 通史2 (新札幌市史 第二巻 通史二/総目次)

 島判官の本府建設伺 島判官の札幌本府建設着手     四 開拓使と兵部省        軍務官の,の廃止   第二節 島判官の札幌本府建設…30     一 島判官の本府計画        本府計画,を巡る事情 豊平開墾の実態     三 島判官の本府建設の着手        本府の建設の開始 島判官時代,五 西村権監事の本府建設計画        札幌本府建設の復活 「札幌開府に付当使一般会計の目途」の,札幌経営案        「札幌表御用取扱向等伺書」の札幌本府 西村権監事七カ条伺の札幌本府   
新札幌市史 第2巻 通史2 (東久世長官の上京)

一  石狩州札幌ハ北海道枢要之地ニ付本府ヲ爰所に相立、石狩小樽高島等ノ諸郡並近国便宜之地而已ヲ管轄可致之事, (但書略) 一  諸藩オヰテ追々開拓願出候ニ付てハ余地無之候間、本府ニ隔絶スルノ土地各藩へ支配可被仰付之事,今度上京趣意ハ、嶋判官在西地、専独逞意見不応函館本府之下知、独断本府建築金穀共空乏、仍て資本金穀増額ニ
新札幌市史 第2巻 通史2 (開拓使初期の機構)

札幌本府の建設工事も進捗して、四年四月に仮庁舎が竣工するや、同月二十四日東久世長官は函館より札幌に移転,し、翌五月新たに札幌開拓使庁を開庁して、名実共に懸案の開拓使本府が札幌に誕生したのである。,これにともない同月、函館・根室の開拓使出張所は、それぞれ函館出張開拓使庁、根室出張開拓使庁と改称され、また本府建設
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌の建設と火事)

このように火事と札幌本府建設の進行とは大きなかかわりを持っていた。,にも東本願寺の当時の記録には、三月九、十二日の両度、近辺の野火で延焼しそうになったことも記されている(本府管刹役席日誌,この本府建設の進行と火事との関係に、この御用火事の背景が存在すると思われる。
新札幌市史 第2巻 通史2 (住民構成(市中と村))

住民構成(市中と村) 北海道の首都札幌本府の建設が開始された段階における住民構成はどうなっていただろうか,それが、一旦本府建設が中断され、そして再開された四年の末には、二〇二戸の新移住民を加えて、二一一戸、六三七人,たとえば市中へは、本府下で商業活動を行う商人や本府作りに欠かせない土木工事関係者や諸職人等を入れ、一方市中,ということは、本府建設のために一時的に集まった住民が多かったといえる。  
新札幌市史 第5巻 通史5下 (山車行列と露店)

五十四年に第三山鼻祭典区の島義勇が登場して七台、平成八年(一九九六)に第一本府祭典区の日本武尊(やまとたけるのみこと,本府祭典区にはかつて①牛若丸と弁慶、②加藤清正、③日本武尊の三台をもつも、①は焼失、②は第八豊平祭典区,だが、「伝統の山車の復活を願う本府祭典区の人たちが平成六年三月に引き取り、約二年をかけて修復した」という,表-3 現在の山車 祭典区名 建造年 山車人形 1 第1本府 明治末期、平成8年改修復銘 日本武尊
新札幌市史 第2巻 通史2 (ケプロンの調査指令)

この時期にはすでに札幌本府の建設も進捗しつつあって、東久世長官は四月二十九日札幌に移転し、また本庁としての,以上の命令内容をみると、ケプロン来日最初のこの事業は、いうならば札幌の本府としての妥当性を諸方面から検証,またこのことから考えると、このケプロンの指令はさらに、本府としての確認を得るため黒田次官の指示によったものとも
新札幌市史 第2巻 通史2 (新川開削)

仕込みをさせていること、余市越山道などの見積りをしていること、雪中に銭函道の整備をしていることなどは、本府建設,のための準備事業として、本府建設前から物資輸送路の確保をめざしていたことを示すものである(歌棄郡引渡書類,三年七月札幌への本府建設を一時中断し、札幌へ五〇〇軒の農家を移住させることが決定する(開拓使布令録)。,その結果佐々木は小樽からの薪の運送料の半額で、札幌本府地から銭函のポンナイ川まで運河を開削できることを,三年中、この新川は、本府地から現在の麻生の北部で琴似川と合流する辺までが開削された。
新札幌市史 第2巻 通史2 (神仏分離と札幌)

しかし札幌本府が創建され、さらに周辺にも移民が招来されて次々と村落が設立し、札幌が北海道開拓の行政的中心,に位置づけられたことによって札幌神社が創置され、その他本府、村落部にいくつかの小祠が創建された。
新札幌市史 第2巻 通史2 (本庁敷地等の確保)

秋の札幌会議で示されるように、岩村判官は多額の経費をかけて本府建設を大々的に実行した。,草刈り賃の節約はそれに比べ微々たるものであったかもしれないが、時間と金を節約して本府建設そのものに集中
新札幌市史 第2巻 通史2 (豊平開墾)

豊平開墾 島判官が銭函に到着したのが十月十二日、札幌に本府の官衙建設に着手したのは十一月中旬である。,深谷鉄三郎の昔話で、札幌へ来た役人を紹介した際に、「豊平向うの開墾掛長石山」といっていることと、島判官の本府建設計画図
新札幌市史 第2巻 通史2 (豊水吟社など)

中でも開拓判官島義勇は札幌本府選定に関し、「他日五州第一都」の有名な句を含むものをはじめ多くの漢詩を残,し、次いで本府再経営にあたった岩村通俊も漢詩・短歌・俳句を多く残している。
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌の水運)

札幌の水運 三年に佐々木貫蔵の計画に端を発する、札幌本府から小樽方面への水路確保は、五年十月札幌運漕掛,いささか気楽な説であるが、札幌の抱えた物価高と本府建設経費削減を真摯にとらえた説ともいえる。
新札幌市史 第2巻 通史2 (豊平開墾の実態)

石狩大府指図」の「豊平村」の記載と統一した「豊平」という文字の使用から推察して、この事業は島判官の石狩本府構想,豊平に村をつくり、すでにある村落と共に石狩本府の物資補給(特に食料供給)を行おうとしたのである。,ところが開拓使は、本府建設の開始などの際の役員の配置換えと共に、基本事業である「豊平開墾」を中止にしたのである,したがって十一月初めに縄の購入が多いことも考えあわせると、物資購入の一部は本府縄張用と考えることも可能,また④の史料から、豊平開墾で働いた人夫たちは銭函新道や本府建設の方に回されている。
新札幌市史 第2巻 通史2 ([◇巻構成])

場所の成立     第四編 イシカリの改革とサッポロ  *第二巻 通史二     第五編 札幌本府
新札幌市史 第3巻 通史3 ([◇巻構成])

場所の成立     第四編 イシカリの改革とサッポロ  *第二巻 通史二     第五編 札幌本府
新札幌市史 第1巻 通史1 (エンカルシベの山霊)

イシカリに「東西蝦夷地総鎮守」の設立が企図されたのは、荒井金助がイシカリに本府をおき、将来は日本の〝北京,すなわち、イシカリが蝦夷地の中心となり、蝦夷地の本府をこのイシカリに設置するもので、これに対応した総鎮守社
新札幌市史 第2巻 通史2 (写真)

これらの写真は翌五年に函館から東京に送られたが、このうち札幌本府関係としては開拓使仮本庁舎、本陣、札幌神社,同五年、開拓使は今度は横浜の写真師スチルフリートに本府を主とした開拓現況の撮影を依頼し、同人は九月から
新札幌市史 第4巻 通史4 (◇巻構成(*は既刊))

場所の成立     第四編 イシカリの改革とサッポロ  *第二巻 通史二     第五編 札幌本府
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