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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌村)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌村 札幌村の村長は二級町村の時期は坂本忠親(大9・7・9~13・1・19)、中崎正敏(13・1・,札幌村は昭和九年四月一日に札幌市の隣接住宅地、工業地となっていた大字札幌村、苗穂村、雁来村の一部を札幌市,村内の自治団体には札幌村自治会が創設されている。,同会は「札幌村在住者及関係地主ノ有志」により構成され、「札幌村自治ノ発展ヲ期スルヲ以テ目的トス」とされ,、昭和三年四月十二日に村議会にて可決して創設された(札幌村会議案 札幌村郷土記念館蔵)。 / 札幌村
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌村域の札幌市編入)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌村域の札幌市編入 札幌村は、「札幌市ニ隣接関係上、接続地域ハ逐年人口ノ稠密ヲ加へ殆ト市街地形成ヲ,、②札幌村での委託料支払、③札幌村での委託児童引取り、以上の三案を示して札幌村と交渉し、結局①の案で妥結,したのであった(札幌村札幌市境界変更関係書類)。,図-3 札幌村の札幌市への編入区域図(昭7.8調製,札幌村札幌市境界変更関係書類)  札幌村では,〇五世帯、六一五五人が札幌市に編入となった(札幌村札幌市境界変更関係書類)。 / 札幌村域の札幌市編入
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌村)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌村 札幌市に隣接する近郊農村として発展してきていた札幌村は、一級町村となった大正十三年の耕地面積,又近時札幌市の発展に伴ひ蔬菜栽培者増加し将来は之が供給地として嘱望せられて居る。,この時期、札幌村で最も期待していたのは札沼線の村内通過であった。,札幌村は、農村と札幌市に隣接する住宅地という二面の顔を持っていたが、新川添や苗穂を中心とした市街地部分,は昭和九年四月一日に札幌市へ編入となり、これ以降は純農村となっていく。 / 札幌村
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌二〇〇戸)

新札幌市史 第2巻 通史2 / その目的地として、黒田の建議書は「札幌及ヒ小樽、室蘭、函館等ノ処」をあげた。,札幌郡を移住地に予定していた。,内定をみ、札幌郡への移住準備が始まった(開拓使公文録 道文五五二七)。,ところが、札幌三〇〇が二〇〇戸に、室蘭二〇〇が一〇〇戸に変更される。,ないし札幌だけが対象地として残った。 / 札幌二〇〇戸
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌招魂社と札幌護国神社)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌招魂社と札幌護国神社 中島公園内には札幌聯隊区内の戦死者を慰霊する忠魂碑があり、忠魂碑保存会、祭典区,忠魂碑保存会は札幌招魂社崇敬会に改組されたが、その後、大正十五年五月に創立された札幌招魂社奉賛会(会長,昭和九年六月には忠魂碑も移設され、六月二十五日に札幌招魂社維持委員会が創設されて「札幌招魂社ノ維持経営,同会委員の定数は歩兵二五聯隊長、札幌聯隊区司令官、石狩・空知・胆振・日高支庁長、札幌・室蘭市長(以上はまたは,そして十四年四月一日には札幌招魂社が札幌護国神社に改称となった。 / 札幌招魂社と札幌護国神社
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌病院)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌病院 明治十五年(一八八二)の札幌県の設置とともに官立札幌病院は札幌県立病院となったが、十九年の,札幌県の廃止とともに北海道庁立札幌病院と改められた。,二十年、開拓使時代以来開拓使御雇医師として札幌農学校に勤務し、また札幌県立病院顧問として活躍したカッター,二十三年三月道庁では、札幌をはじめ道内四つの庁立病院を廃止し、新たに北海道病院職制を定め札幌に庁立北海道病院,従来の庁立札幌病院は廃止され、四月札幌区に交付されて公立札幌病院となった。 / 札幌病院
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌立地)

新札幌市史 第3巻 通史3 / 札幌側は当初これを〝浮説〟として深刻に受け止めず、開会中の札幌区会で多少話題になった程度である。,本道の行政及経済上札幌を以て最も適当なりと認む。,札幌の道庁永続立地運動に加わり、道会出席のため札幌に集まった議員に個別面談を申し込み、建議提出の取消を,求め、商業会議所が札幌側運動の拠点の観を呈した。  ,札幌区会が表面に出ることは難しかったので、もっぱら秘密会とし、函館、小樽区会とも札幌永続の支持に傾いた / 札幌立地
新札幌市史 第1巻 通史1 (札幌軟石)

新札幌市史 第1巻 通史1 / 札幌軟石 およそ三万年前、支笏火山の破局的大爆発によって噴出した軽石流の北へ向かった流れは、それまであった,この垂直にきりたった岩壁をつくる岩石は、「札幌軟石」とよばれ、明治時代から採石され、建築用石材、石垣、,代表的なものは大通西一三丁目にある札幌市資料館(旧札幌高等裁判所、写真2)、すでに消え去ったものでは、,旧札幌郵便局、旧札幌電話交換局(愛知県犬山市の「明治村」に移設復元)などである。,写真-2 札幌市資料館及び常盤の石山軟石採石場(南区常盤) / 札幌軟石
新札幌市史 第3巻 通史3 (「札幌の教会、教会の札幌」)

新札幌市史 第3巻 通史3 / 「札幌の教会、教会の札幌」 札幌の教会は、この二〇年程の間に各教派の全道的活動の拠点となり、また超教派,そして教会は「札幌の教会」として立ち、また「教会の札幌とせねばならぬ」(鶏鳴 第二二八号 日本基督教会札幌北一条教会創立六十年史再引,北1条 東1丁目 明治37年 (1904) 現存 日本基督教団札幌教会 札幌組合基督教会 南1条,札幌天主公教会 北1条 東6丁目 大正5年 (1916) 現存 カトリック北一条教会 札幌聖公会,13 札幌組合基督教会堂(献堂式) 写真-14 札幌独立基督教会堂 / 「札幌の教会、教会の札幌」
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌会議)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌会議 明治四年十二月、松本判官他各地詰の主任官が決定し、管轄地域も決定された。,その報告と将来の方針を決定するため、五年十月、黒田次官以下各地詰の主任官たちが札幌に集会した。,この会議は、俗に札幌会議と呼ばれている。,この札幌会議に関する史資料は、現在のところ松本十郎の『蝦夷藻屑紙』、岩村の『貫堂存稿』と杉浦誠の日記のほかに,札幌会議の問題を本府建設問題にしぼって、その背景や状況を描いてみよう。 / 札幌会議
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌官園)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌官園 明治四年(一八七一)九月、ケプロン来日直後の献策によって東京に官園三カ所が設置された。,東京、七重両官園の設置とほとんど同時期に札幌官園も誕生した。,『開拓使事業報告原稿』(道文七一八二)では、札幌官園を穀菜、果樹、林木など「樹芸」にかかわる試験施設の,八年六月、札幌本庁では余市・静内・浦河の各出張所にあて農業現術修業の希望者をつのった。,故ニ今般更ニ札幌農学校ニ隷属セシメタリ。 / 札幌官園
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌の橋)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌の橋 開拓使時代の札幌の橋の最初は、やはり島判官の本府計画中の官宅前の大友堀にかけたものであろう,四年の『札幌区劃図』で確認できるのは、北三条に一つ、北二条に二つ、南一条に一つである。,札幌の橋で代表的なのは豊平橋であろう。,写真-10 ホイーラー設計の豊平橋(北大図)  札幌市中の橋としては創成橋がある。,図-4 明治17年決定の札幌市街の橋名 『札幌県治類典』(道文8925)より作成。 / 札幌の橋
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌の郵便局)

新札幌市史 第3巻 通史3 / 札幌の郵便局 この間、札幌では開拓の進行や人口の増加により、順次郵便局も増加していった。,明治三十二年区制施行前に、札幌では上記の一等局である札幌郵便(電信)局の他に、篠路(茨戸太)郵便局(明, 函図)、札幌南二条郵便受取所(明23・4・1設置、札幌区史史料九)、厚別三等郵便局(明29・10・16,札幌鉄道郵便局 官制改正で新設 36 .12.15 札幌郵便局 札幌鉄道郵便局を併合 43 . 4,札幌南四条東二丁目郵便局 受取所を改称,三等局 39 . 1 . 1 札幌南四条郵便局 札幌南四条東二丁目郵便局 / 札幌の郵便局
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌村の例)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌村の例 このほか昭和五年五月二十八日、札幌郡札幌村の碓井仁次郎所有地(畑三町三反三畝一五歩)で、,②小作人がすでに収穫した牧草は小作人の所得とし小作料を支払うこと、という条件で七月十五日に解決した(札幌控訴院検事局思想部, 札幌控訴院管内社会運動概況 第二輯)。 / 札幌村の例
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌村地主会)

新札幌市史 第3巻 通史3 / 札幌村地主会 これらの動きは札幌ではどのようであったのだろうか。,札幌村の場合でみると、七年九月に札幌村地主会が設立されているが(札幌郡札幌村勢一班 大10・8調)、同会,札幌村地主会規則 第一条 本会ハ札幌村地主会ト称ス 第二条 本会ハ札幌村内ニ於テ土地ヲ所有スル者ハ,、札幌村地主会の事務所は札幌村農会事務所内に置かれ(第四条)、その主たる目的は村内の地価設定であった(,設立時の会員数は明確でないが、昭和四年十二月現在では五六六人となっている(札幌郡札幌村 村勢一班 昭4 / 札幌村地主会
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌養豚場)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌養豚場 四年四月、函館在住のプロシャ人ガルトネルが七重村で飼っていた豚牡牝四頭を購入し、元村(札幌村,)の牧場に移したのが札幌での養豚のはじめである。,七年中、東京及び七重官園から米国輸入の種豚サツフォーク、バークシャー牡牝計五頭を札幌村に、翌八年にはさらに,九年九月札幌官園内に面積三二〇七坪余の養豚場を設けて札幌村の豚をすべてここに移した。 / 札幌養豚場
新札幌市史 第3巻 通史3 (〝宗都〟──札幌)

新札幌市史 第3巻 通史3 / その際に拠点とされたのが道都札幌であった。,大谷派では札幌に明治三年十月に札幌管刹所を置き、九年四月に別院と改称して道央部の拠点としてきた。,それが二十九年十月に札幌別院内に札幌支所が新たに設けられ、別院輪番が支所長を兼務することになった。,ここに札幌は初めて大谷派の全道の拠点となるのである。,このように浄土真宗の各派では、札幌を宗務・布教の全道の拠点に据えており、札幌が〝宗都〟としての役割を帯 / 〝宗都〟──札幌
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌の興行)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌の興行 表6~9は、『北海道庁統計書』から作成した札幌の諸興行にかかわるデータである。  ,札幌警察署管内は、札幌市、豊平町、札幌村、白石村、藻岩村・円山町、琴似村、篠路村、手稲村、広島村、恵庭村,(札幌市,豊平町,札幌村,白石村,藻岩村,琴似村,篠路村,手稲村,広島村,恵庭村,千歳村)。,(中村美彦 札幌最初の劇場・秋山座、杉本実編 札幌の劇場の記録)。,(札幌市,豊平村,札幌村,白石村,藻岩村,琴似村,篠路村,手稲村,広島村,恵庭村,千歳村)。 / 札幌の興行
新札幌市史 第1巻 通史1 (札幌扇状地)

新札幌市史 第1巻 通史1 / 札幌扇状地 札幌の中心部は、豊平川によって形成された扇状地の上に発達している。,この扇状地は札幌扇状地(豊平川扇状地)とよばれている。,それより北では札幌面との境界は不明瞭になり、地形的には札幌面に併合されてしまう。  ,札幌面は真駒内泉町付近(標高八〇メートル)を頂点として北に広がっている。,新しい方の札幌面は豊平川の流路が石山~川沿方向に変わってから形成されたものである。 / 札幌扇状地
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌都市計画東札幌土地区画整理)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌都市計画東札幌土地区画整理 東札幌土地区画整理は、新興工場地帯として発達し始めていた東札幌駅を中心,十九年八月二十一日、内務省告示第四六一号で決定し、道庁と札幌市役所で図面の縦覧が告示された(官報第五二八一号,その設計書によると、区域と地積は、札幌市字豊平町、白石町、札幌郡豊平町大字豊平村、白石村大字上白石村、,第一工区は東札幌駅前北部区域、第二工区は東札幌駅背面南部区域、第三工区は豊平駅南部豊平区域とした。,その後戦争などの事情で中止状態となって、敗戦を迎えた(札幌市史 政治行政篇、札幌都市計画概要)。 / 札幌都市計画東札幌土地区画整理
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌音楽協会)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌音楽協会 札幌の洋楽史については、史料の博捜・膨大な関係者からの聞き取りがなされた前川公美夫『北海道音楽史,大正十二年九月には、札幌音楽協会が札幌音楽普及会に代わって結成される。,中心メンバーは、関東大震災を契機に札幌にきて昭和二年まで滞在するチェロ奏者の飯田実、札幌混声合唱団でバス,笹三津彦は、「『札幌の音楽』の使命」で、「『東京を一歩北に出て真に音楽を聴いて呉れる所は札幌を措いて外,昭和十三年六月二十二日に改正された「札幌音楽協会々則」では、会の目的を「札幌市延イテハ北海道ニ於ケル音楽 / 札幌音楽協会
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌村の概況)

新札幌市史 第3巻 通史3 / 札幌村の概況 札幌村は明治三十五年(一九〇二)四月一日、札幌村、苗穂村、丘珠村、雁来村の四村が併合して,村内は四旧村が大字に編成され、村内は三十五年十月に八部が置かれたが(北タイ 明35・10・5)、『札幌村史,』によると大字札幌村に元村、中通、新川、列々布、大字苗穂村に苗穂上、苗穂下、大字丘珠村に丘珠、大字雁来村,四十三年四月一日に市街化されていた札幌村、苗穂村の一部が札幌区に編入された。,札幌村は全域が平坦な沖積地であり札幌区に近接した都市近郊農村として発展する一方、都市近郊住宅地、あるいは / 札幌村の概況
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌の防衛)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌の防衛 昭和十七年四月十八日、アメリカ軍による日本本土初空襲により国内の防衛強化が緊急課題となり,五月に札幌は訓練実施の重要地域に指定され、十八年になると札幌聯隊区司令部が中心になって特設警備隊を編成,し、札幌防衛の任にあたることとなった。,このほか札幌防衛のためにいろいろな部隊が配置されるようになる。,これによれば札幌駐屯の主力は北部軍管区司令部と第七輸送聯隊である。 / 札幌の防衛
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌県の組織)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌県の組織 分置された三県は旧開拓使の本支庁をそれぞれ引き継いだものであった。,札幌県では県置の十五年二月八日、共に開拓使札幌本庁に在任していた調所広丈(前開拓大書記官)が札幌県令に,、佐藤秀顕(前開拓少書記官)が札幌県大書記官に、また辰野宗城(前開拓使御用掛准奏任兼一等警部長)が札幌県警部長,その後十七年五月府県官職制中に増補された収税長に、森長保(前札幌県収税属)が准奏任として同年十二月二日任,ぜられたが、この四人が札幌県の奏任官であった。   / 札幌県の組織
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌圏の生成)

新札幌市史 第3巻 通史3 / 札幌圏の生成 これまで札幌区近郊の七町村の状況をみてきたが、この時期は各町村とも新たな近代化を遂げつつあり,ただそれらの主因となったのは、二度の戦争を通して成長を遂げた日本経済のあり方とともに、何よりも札幌の発展,中心とする札幌圏が生成されていたことを意味するであろう。  ,以降も続き、札幌市が他町村を吸引していく大きな理由となっていく。,このような動向は逆にいえば、札幌区の発展や維持は諸町村との依存関係で成り立っていたのであり、札幌圏の生成 / 札幌圏の生成
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌の朝鮮人)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌の朝鮮人 札幌の朝鮮人は、北大の学生を除けば、行商人、料理店、土工夫、酌婦など貧しい人が多かった,十四年十月から、札幌にも朝鮮人労働者が強制連行されてきた。  ,札幌市内 21人 3人 10人 8人 札幌村烈々布藤原組 77 63 14 札幌村雁来菅原組(北方帰還者,皇民化政策を進めるため、自主的な組織であった札幌保全自治組合(昭13・4・10結成)は解散させられ、十四年十一月二十三日札幌協和会,昭和十九年になって、北海道にも中国民衆が連行されてきたが、札幌には就労しなかった。 / 札幌の朝鮮人
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌遊覧案内)

新札幌市史 第3巻 通史3 / ▲円山公園 札幌神社の境内にあるので札幌を距る西南方三十余町、桜花を以て名ある処、園に隣接して養樹園があり,▲札幌礦山監督署 北六条西五丁目にある。,▲御料局札幌支庁 北一条西十二丁目高等女学校と相対して屹立した宏大なる建物が御料局札幌支庁である。,▲札幌地方裁判所 停車場通り北三条西三丁目にある。,▲札幌区裁判所 札幌地方裁判所の建物内に設けられ、石狩、胆振の二ケ国を管轄して居る。 / 札幌遊覧案内
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌建築開始)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌建築開始 函館で五稜郭の移築が進行している最中、札幌での本府建設は雪解けとともに開始された。,5 東創成通 本陣 1 7 東創成通 用度係詰所 1 6 東創成通 札幌病院病室 6 札幌 町長屋,1 9 6 札幌 官邸 2 8 札幌 東京府貫属邸 3 8 7 東創成通 本陣板倉 1 7 東創成通,2 8 札幌 蔵地板庫 1 7 10 東創成通 用度係物置 2 12 札幌 官邸物置 30 12 11,写真-4 仮庁平面図(札幌往復 道文335)  また胆振通町長屋二棟とは『札幌区劃図』の現南二条西二丁目 / 札幌建築開始
新札幌市史 第3巻 通史3 (北海道の札幌)

新札幌市史 第3巻 通史3 / 北海道の札幌 こうした状況下、札幌の人たちはいかに区制期を迎えたのであろう。,とは,札幌区に山鼻(含円山),琴似(発寒),札幌(苗穂・丘珠・雁来),篠路,白石(上白石),豊平(平岸,以後、札幌、江別、岩見沢辺を行き来する。,「札幌区の盛衰は即ち北海道に於ける全体の盛衰を意味するもの也。,札幌区の興廃は即ち北海道に於ける一般の興廃を支配するもの也。 / 北海道の札幌
新札幌市史 第4巻 通史4 (大正期の札幌)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 大正期の札幌 大正期の札幌は、明治末に隣接する札幌村、琴似村、藻岩村、豊平町、白石村との間で境界変更,このとき含み込んだ地域は、当時住宅地化が進みつつあるといわれていた地域(豊平町、藻岩村、札幌村から編入,図-1 札幌市街図<大正5年>(北海道立図書館蔵)  大正期の札幌市の面積は、六八〇万八三一九坪,表-4 札幌市の人口変遷 年次 札幌全域 札幌市 市増加数 市増加率 市集中率 大12 179,044,は現在の札幌市域を示す。 / 大正期の札幌
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌鉱山)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌鉱山 『手稲町史』(昭43)によると、現在の西野の奥発寒川の右股の平和地区にある宮城の沢に、中島商事株式会社,の札幌鉱山があったとある。,このように、昭和九、十年頃に札幌鉱山では、有望金山として精錬を開始しようとすることまで報道されている。 / 札幌鉱山
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌軌道会社)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌軌道会社 札幌茨戸間を走る札幌軌道株式会社は、馬車鉄道で営業を行っていたが、大正十一年ガソリン機関車,九年十一月に札沼線が開通すると札幌軌道は競合路線となり、鉄道省からその損失が保証され、十年二月二日で軌道,写真-8 札幌軌道のガソリン機関車  四月にこの会社は札幌軌道バス株式会社と改称し、北七東一~茨戸間,さらに社名を札幌観江バス株式会社と変更して十八年の企業統合まで存続する(二十五年史)。 / 札幌軌道会社
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌製糸場等)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌製糸場等 三十二年三月段階で北海道製麻会社をはじめ札幌区内では、表19の工場が操業していた。,(株) 北2東4 札幌麦酒(株) 21・ 1 61 33 札幌麦酒、黒酒 札幌電灯(株) 大通西3 札幌電灯,(株) 29・11 13 電気営業 札幌酒造(合) 南3東5 札幌酒造(合) 30・ 9 30 精酒類,買付が行われ、地元札幌での製糸量は微々たるものになっていたようである。  ,一方、札幌麦酒会社では三十二年段階で男六一人、女三二人が働いていた。 / 札幌製糸場等
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌実業協会)

新札幌市史 第3巻 通史3 / 札幌実業協会 政社の誕生をみる中で、政党活動が地方自治の進展を阻害しているのではないかと疑う人たちも, 九八九頁)するのは、道庁が立地する札幌区のあり方に関わり、しかも国家外交の基本政策よりも北海道拓殖施策,会員は札幌区内に住所もしくは居所を持つ者に限り、対馬嘉三郎が幹事総代となったが、「此ノ如ク札幌実業家ノ,多数カ一堂ノ内ニ相会シ、且ツ和気洋々タリシハ、実ニ札幌開府以来未曽有ノ事ナリ」(伊東正三 札幌区史史料,こうして札幌実業協会と憲政党札幌支部が相対立する形で、初の区会議員選出に向けて予選組織を整えた。 / 札幌実業協会
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌神社祭典)

新札幌市史 第3巻 通史3 / 札幌神社祭典 札幌神社の例祭は六月十五日をはさむ三日間行われるが、祭典区をあげての山車行列あり、夜店,・見世物ありと、札幌の区民にとって最大の楽しみであった。,写真-2 明治30年代の札幌神社例祭  札幌神社の例祭は、一人札幌区のみならず近隣の町村にとっても,札幌神社の例祭の頃、札幌地域が祝祭の空間と化すさまについて、新聞は「十四日の夜宮十五、十六日の本祭十七日,札幌神社の例祭は明治期に創られた新しいものであるだけに、札幌神社宮司額賀大直は、「祭典の故実」(北タイ / 札幌神社祭典
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌水電の成立)

新札幌市史 第3巻 通史3 / 札幌水電の成立 札幌における水力発電が始まった頃、前節で述べた鉄道院工場誘致問題が大詰めを迎えていた,札幌水電の創立総会は、札幌貯蓄銀行の休業により延期され、四十一年九月二十五日に行われた。,同年十二月末日をもって北海電気の業務が札幌水電に譲渡され、札幌水電が札幌唯一の電力会社となったのである,札幌水電は、札幌の実業家が広く札幌区民から株式を募って設立した札幌の企業であった。,株主実人数でみても、札幌水電は三四六人中二七四人が札幌区民であった。 / 札幌水電の成立
新札幌市史 第5巻 通史5下 (札幌支部結成)

新札幌市史 第5巻 通史5下 / 札幌支部結成 札幌市に道内各地から仕事を求めてウタリ(同胞)が集まるようになったのは、昭和三十年代後半,四十六年(一九七一)十二月十二日、呼びかけ人小川隆吉の「ウタリ協会石狩支部結成会へのおさそい」に応えて札幌市民会館,冬季札幌オリンピックが開催された四十七年、北海道ウタリ協会主催による「アイヌ物産展」が札幌市内のデパート,当時札幌に居住のウタリの主な生計維持は木彫熊の製作であったため、支部では、公費による共同作業場建設を札幌市議会,なお、札幌市から札幌支部への助成開始は五十三年四月からである。 / 札幌支部結成
新札幌市史 第2巻 通史2 (途上都市札幌)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 途上都市札幌 札幌を北海道の行政府と定め、都市建設を開始して以来約二〇年を経過した明治二十年代の札幌,それは、何々会、何々研究会、あるいは何々倶楽部といった結社団体として呱呱(ここ)の声をあげ、次第に札幌,しかもそれらの団体は、特定の目的のためにきわめて自由な発想のもとに意識的に組織され、共通の目的・関心をもって札幌,それらの結社団体は、札幌の既成の地域共同体から一歩脱して、自らのやらんとする目的を高らかに明示し、ある,このような札幌の結社団体の発生は二十年代に集中しており、結社団体の勃興時代ともいえよう。 / 途上都市札幌
新札幌市史 第5巻 通史5下 (札幌の駅整備)

新札幌市史 第5巻 通史5下 / 札幌の駅整備 昭和四十七年当時に札幌市内の鉄道駅は、函館本線には、手稲、琴似、桑園、札幌、苗穂、白石,、新札幌、厚別、千歳線には、東札幌、月寒(つきさっぷ)、大谷地、上野幌、札沼線には、新琴似、篠路、東篠路,四十年からの千歳線の付け替えで、その開通とともに四十八年九月九日新札幌駅が開業し、新ルートからはずれた,、それにともない直前の七月十六日新札幌駅が札幌貨物ターミナル駅と改称した(北海道鉄道百年史 下、概要 , 札幌市5年計画(昭和63~67年度)昭63・3)。 / 札幌の駅整備
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌の諸神社)

新札幌市史 第3巻 通史3 / するまで、五月八日が例大祭であった(札幌の寺社)。,札幌区の神社になるという意味での画期が、大正四年九月二十一日、「札幌全区の氏神」である幣帛供進神社への,明治三十年代以降の札幌の神社の所在一覧を表2に示した。,表-2 札幌の主な神社(大正期) 地区 神社名 創建 公認 沿革記事 祭神 札幌区 札幌招魂社,伊勢神宮の古材が札幌神社へ、そして札幌神社の古材が稲荷神社へという、国家神道のヒエラルヒーである。 / 札幌の諸神社
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌村の玉ねぎ)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌村の玉ねぎ 札幌の玉ねぎの起源は古く開拓使時代にあるが、それを札幌村に定着させたのは十五年に信濃国諏訪郡,前述の石川の報告にある札幌村の蔬菜とは、おそらく玉ねぎが主であるといってよいだろう。,その後札幌付近の玉ねぎ栽培は二十四、五年頃より作付面積が増えはじめ、日清戦争以降需要が増大し、価格も騰貴,発展の要因は、札幌村辺が土壌・気候とも適していたこと、札幌区という廉価な肥料の供給地があったこと、さらに,労働力供給地である都市札幌の近郊にあったことが労働集約的な農業に適していたことなどのようである。 / 札幌村の玉ねぎ
新札幌市史 第4巻 通史4 (札幌市域の争議)

新札幌市史 第4巻 通史4 / 札幌市域の争議 以上のような大正期から昭和前期にいたる小作争議の全道的傾向は、基本的には札幌市域における,なお、札幌市周辺部における小作争議の状況については、これを知る詳細な史料は少ない。,から十四年までの間に、石狩支庁では少なくとも一二六件、札幌市では三件の争議が発生したことが知られる。,しかしこの時期の石狩支庁には、後に札幌市と合併する札幌村、篠路村、琴似村、手稲村、藻岩村、豊平町、白石村,表-9 札幌市の小作争議 年次 石狩支庁(a) 札幌市(b) 全道(c) (a) ―― (c) ( / 札幌市域の争議
新札幌市史 第3巻 通史3 (札幌育児園)

新札幌市史 第3巻 通史3 / 札幌育児園 同園は、はじめ創立者山谷源治郎の名をとって山谷孤児院と呼ばれたが、明治三十七年札幌孤児院,そこで四十三年内務省より社団法人組織となる許可を得、名称も札幌育児園と改称した。,写真-4 札幌育児園の演芸会のため街を練り歩く職員(大正中期) / 札幌育児園
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌本道の建設)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌本道の建設 ところが四年、お雇外国人たちは札幌を北海道の首府として建設するならば、函館札幌間の車道,そのため開拓使は、函館札幌間に馬車道を建設することにした。,それが、函館から森、室蘭から札幌までの札幌本道である。,これにより函館札幌間の連絡路は、一部内浦湾の森室蘭間の水運を除き、陸路で確保された。,しかし函館では、それは札幌本庁の決定だから札幌本庁から費用を出してもらうように指令した。 / 札幌本道の建設
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌貯蓄銀行)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌貯蓄銀行 札幌貯蓄銀行は二十九年三月、資本金六万円で大通西四丁目に設立された。,三十六年頃全国各地に小資本銀行の合併が起こり、そのため北海道庁では業務の振わない小銀行の合併・整理の必要を認め、札幌貯蓄銀行,三十八年三月、三行を合して資本金一九万円(内払込額一〇万二五〇〇円)の北海道貯蓄銀行を設立し、本店を札幌 / 札幌貯蓄銀行
新札幌市史 第5巻 通史5下 (札幌芸術の森)

新札幌市史 第5巻 通史5下 / 札幌芸術の森 昭和六十一年にオープンした札幌芸術の森は、札幌青年会議所が五十二年三月に、市へアートパーク,札幌市では五十六年五月より開設へ向けての調査を開始し、五十七年に自然の残る南区常盤の丘陵地を場所に選定,そして五十八年三月に基本構想を策定して用地買収に入り、五十九年二月に基本計画の策定、札幌芸術村建設企画委員会,名称も同年七月に、公募七一二件の中から「札幌芸術の森」と決定し、管理運営主体となる財団法人札幌芸術の森,昭和五十九年度からの総事業費は約一四二億円であった(札幌芸術の森10年のあゆみ 平8)。   / 札幌芸術の森
新札幌市史 第5巻 通史5上 (札幌演劇協会)

新札幌市史 第5巻 通史5上 / 札幌演劇協会 昭和二十九年六月、五條の呼びかけで札幌演劇集団が発足するが、意図した発展を見ずに消滅した,三十年、あらためて札幌演劇協会(札演協)が発足、五條が会長となる。,この集団(札幌演劇集団)は各劇団が横のつながりを持ちながら、札幌の演劇運動を高め、全道的なつながりを持,さらに三十四年には、新築成った札幌市民会館を会場として札幌市民劇場(後述)が始まる。,竹岡和田男は、当時の五條について「自分の劇団よりも札幌の劇団のまとめ役、あるいは札幌の各ジャンルのまとめ / 札幌演劇協会
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌県の施政)

新札幌市史 第2巻 通史2 / その第一は農商務省へ提出したもので、旧開拓使事業の処分後に農商務省管轄となった旧札幌勧業育種場・札幌物産課博物場,・同製煉場の札幌県への移管要請である。,第四は内務省へ提出のもので、札幌県庁の新築要請である。,第五も内務省への提出で、札幌・室蘭間の鉄道敷設要請である。,札幌県時代の施政は終始国家の厳しい緊縮財政の下に置かれていたのである。 / 札幌県の施政
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌の水運)

新札幌市史 第2巻 通史2 / 札幌の水運 三年に佐々木貫蔵の計画に端を発する、札幌本府から小樽方面への水路確保は、五年十月札幌運漕掛,いささか気楽な説であるが、札幌の抱えた物価高と本府建設経費削減を真摯にとらえた説ともいえる。 / 札幌の水運
新札幌市史 第5巻 通史5上 (札幌護国神社から札幌彰徳神社へ)

新札幌市史 第5巻 通史5上 / 札幌護国神社から札幌彰徳神社へ 戦没者を英霊として祀る靖国神社や護国神社は、軍国主義・超国家主義を助長,このような札幌護国神社の経済的苦境を支援したのは、旧在郷軍人会である。,十二月十二日、札幌護国神社は、札幌彰徳神社と改め、戦没者だけでなく北海道の開拓功労者、一般功労者も合祀,維持財団の改称は翌二十二年十月のことで、財団法人札幌彰徳会となり現在に至っている(札幌護国神社創祀百拾年史,写真-2 札幌護国神社の境内(昭34)  ところで、二十年当時の札幌護国神社は参集所を建築中で、 / 札幌護国神社から札幌彰徳神社へ
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