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札幌市中央図書館/新札幌市史デジタルアーカイブ

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新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌県の組織)

札幌県の組織 分置された三県は旧開拓使の本支庁をそれぞれ引き継いだものであった。,札幌県では県置の十五年二月八日、共に開拓使札幌本庁に在任していた調所広丈(前開拓大書記官)が札幌県令に,、佐藤秀顕(前開拓少書記官)が札幌県大書記官に、また辰野宗城(前開拓使御用掛准奏任兼一等警部長)が札幌県警部長,その後十七年五月府県官職制中に増補された収税長に、森長保(前札幌県収税属)が准奏任として同年十二月二日任,ぜられたが、この四人が札幌県の奏任官であった。   / 札幌県の組織
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌県の施政)

札幌県の施政 廃使置県により北海道に設置の三県は、一般府県と同様に地方行政を管掌する内務省の指揮監督下,札幌県は他の二県とも同じように、その為政者のみならず官吏全般が開拓使出身者であったので、その県政の方針,このことは山田内務卿がそれら案件を札幌県政にとっての基本的課題と受け止めたからであろう。  ,第四は内務省へ提出のもので、札幌県庁の新築要請である。,札幌県時代の施政は終始国家の厳しい緊縮財政の下に置かれていたのである。 / 札幌県の施政
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌県下の農業概況)

札幌県下の農業概況 開拓使時代の末期、十四年十一月札幌豊平館において組織的農業団体として勧農協会が設立,本会は民間団体であるが官製の色彩が濃く、札幌県庁からは年々補助金をうけた。,十五年から始まる札幌県時代にはやはりこれまでとは多少異なる農業環境が存在していたのである。,札幌県はひき続き種々の勧農施策を実行したが、その一つは全国の流行と軌を一にするものであるが、在村の篤農家,札幌郡・区、札幌県ともにその生産価額はやや不安定ながら著増していた。 / 札幌県下の農業概況
新札幌市史 第2巻 通史2 (【主要参考文献・史料】)

北海道三県巡視復命書』、『開拓使事業報告』、『北海道鉄道百年史』、『開拓使公文録』(道文四四三七)、『札幌県治類典,愛育社取裁録』(道文三九〇四)、『福岡県移民取裁録』(札幌学院大学)、『戸籍関係書類他』(同上)、『札幌県拓殖,福本誠『北門時事』、『北海道毎日新聞』、『函館新聞』、『移住者成績調査』第一・二編、『北海道戸口表』、『札幌県勧業課第一年報,江別太開基百年記念事業協賛会『江別太郷土史』、高倉新一郎「北海道開進社顚末」『経済学研究』第一一号、みねひろし「札幌県治下
新札幌市史 第2巻 通史2 (県立師範学校)

県立師範学校 仮師範学校は、翌十六年五月に札幌県師範学校となり、同時に附属小学校に関する職制も定め、,札幌県立の時代の教員、生徒等を示すと表9のとおりである。,また『札幌県学事第二年報』によれば、十六年現在で教員も適任者がいないためまだ不足であり、かつ生徒も「学業,表-9 札幌県師範学校の規模 年(明治) 15 16 17 18 教員数 16 7 9 10
新札幌市史 第2巻 通史2 (【主要参考文献・史料】)

)、『亘理伊達家文書』(伊達市教育委員会)、『筆算所一件』(道図)、『開拓使学務局沿革』(道図)、『札幌県学事第一,第四年報』、『開拓使公文録』(道文六一五二、五八一六、五八三八)、『御検印済 学校』(道文九六二)、『札幌県治類典,』(道文七五〇五、九六〇九)、『札幌県公文録』(道文一〇一七九)、『白石藩移住後継者団体資料』(道開)
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌周辺地域との連絡網の整備)

そのため札幌県は、道都札幌のためにも、また周辺村落のためにもその連絡網の整備に腐心した。,札幌県時代も同様で、福岡開墾地(現北区篠路町福移辺)には再三の出願の上ではあるが、篠路との連絡路が整備,、十七年篠路村から札幌村字「令都烈府」への道路開設計画、篠路村当別太・対雁間道路開設計画などである(札幌県治類典,さらに札幌県時代には、札幌・丘珠・篠路・山口村など、どちらかというと札幌北半部の入植地への連絡路の整備,しかし曲がりなりにも道庁初期を含む札幌県時代に、札幌市街を中心とする道路連絡網は整備されたのである。
新札幌市史 第2巻 通史2 (教員の配置)

札幌県の時期に、東京師範学校その他府県師範学校の卒業で現市域内学校に勤務した教員は二九人に達するから、,表-8 学校別教員数(明治17年) 学校名 訓導 訓導補 准訓導 授業生 計 札幌県師範学校附属小学校,藤古学校 ― 丘珠学校 ― 篠路学校 1 1 計 19 4 22 45 『札幌県学事第
新札幌市史 第2巻 通史2 (山口村の成立)

山口村の設置伺が札幌県令調所広丈から内務卿山田顕義に出されたのは十五年八月九日で、以下のように述べられている,(札幌県治類典 道文九五九三)。,近い移民があったというが、事実十四年十月に二二人、十五年三月に二六人から地所割渡し願が出されている(札幌県治類典,山口村の設置は十五年十二月二十二日に、下手稲村を割き設置の告示がなされた(札幌県布令全書 明治十五年)
新札幌市史 第2巻 通史2 (市民意識の継承)

市民意識の継承 札幌県時代から市民は札幌の都市の形成について、特に自分たちの生活に深く関わる問題に関心,そのあらわれがすでに札幌県の時代にあった。,この問題は結局薄野遊廓の貸座敷側が植樹や定期清掃をすることで一応の決着がついた(札幌県治類典 道文八七七四,この札幌県時代に公文書に表現された札幌市民の意識が、道庁時代には『北海道毎日新聞』の記事に表現されていると
新札幌市史 第2巻 通史2 (区画改正事業の概要)

区画改正事業の概要 しかしその複雑な所有状況の中で、札幌県は札幌市街の区画整備を実行に移していく。,大通以北の元官地は、開拓使から札幌県、陸軍省、農商務省、工部省などへ引き継がれた。,そのため、札幌県は官園や博物場の所有者である農商務省に了解を求めなければならない。,札幌県がはじめてその旨申し入れたのは十七年八月十八日(農業事務所)・十九日(札幌農学校)である。,ほぼ一年が経過した(札幌県治類典 道文九六二八)。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (学田)

十五年三月、函館・札幌・根室県令連名で「公立学校へ地所下付ノ義ニ付」内務省あて伺い、許可を得たので、札幌県,は同年九月から払下げを行った(札幌県公文録 道文一〇一七九)。,円山学校は山口村にも学田にする計画があった(「札幌県学務課視察報告書」による)。,主要史料は『札幌県治類典』(道文9609)。
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌市街大下水の開削)

さらに札幌県時代には、市中の大下水設置が行われる。,十六年六月、札幌区役所は札幌県衛生課に対し、「当市街の下水を疎通するは、目下の急務と存候間、大下水並に,これらの要望について札幌県庁内では、土木課が衛生課に事業の都合をはかって起工の見込みであることを報告してきた,札幌区役所はそれ以前に札幌県から、この堤防工事が竣工し鴨々川への大水門が完成しなければ大下水工事には着工,竣工報告が見つからないので落成日は不明だが、八月中であろう(札幌県治類典 道文八二二一、八九二六、一〇
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌の都市建設計画)

第二には、何もしなかったといわれる札幌県時代に、市民が自分たちの要望を明確にし、それを区役所が的確に札幌県,そしてそのため第三に、札幌県の時代から道庁初期にかけ、大下水路や市中道路や周辺村落の連絡路などの都市としての
新札幌市史 第2巻 通史2 (【主要参考文献・史料】)

【主要参考文献・史料】 『開拓使日誌』、『開拓使事業報告』、『札幌県布令全書』、『札幌県勧業課年報』,)、山田民弥『恵曽谷日誌』(北大図)、島義勇『石狩大府指図』(北大図)、『市在諸達留』(北大図)、『札幌県,地券発行関渉書類』(道文二四九九)、『地価創定請書』(道文三一四八)、『開拓使公文録』(道文六〇一三)、『札幌県治類典
新札幌市史 第2巻 通史2 (官設の札幌郵便局の設置)

官設の札幌郵便局の設置 しかし十八年四月、十六年から延期になっていた札幌駅逓出張局の設置は、佐藤秀顕札幌県書記官,初代局長は駅逓局七等属関巳吉である(札幌県治類典 道文九五〇二)。
新札幌市史 第2巻 通史2 (【主要参考文献・史料】)

北海道産業発達史』、『殖民公報』第二号、『白石歴史ものがたり』、『札幌案内』、『札幌繁栄図録』、『札幌繁昌記』、『札幌県勧業課年報,布令類聚』、『開拓使日誌』、『北海道毎日新聞』、『北海道鉱山略記』、『開拓使公文録』(道文五八六三)、『札幌県治類典
新札幌市史 第2巻 通史2 (区画改正の方針)

、正誤の議は、到底施工せされば難相成に付、支障なき分より漸次着手の年を俟て、完全の義と相心得可然哉(札幌県治類典,札幌県は、為政者も土地所有者も札幌県、内務省、農商務省、工部省さらに個人と多数になり、複雑になっている
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌郡区役所の改編)

に際し、これら郡区画・郡区役所配置は「可成更正ヲ要セサル見込」(公文録 内務省)をもって、開拓使から札幌県,ところが急速な人口増加と開拓にともない、従前の行政区画では県政上支障が生じてきたとして、十六年九月二十九日札幌県令,以上の観点から札幌県令は、札幌区役所の所管は札幌市街に限定する、既設の石狩の郡役所の所管は石狩・厚田・,なお札幌県令はこの改正伺に先立つ十六年二月十七日に、本年中に樺戸郡の人口は官吏・囚徒・人民を合わせて二三一六人
新札幌市史 第2巻 通史2 (物資の流れ)

物資の流れ 開拓使並びに札幌県統治下、札幌への物資の流れは主として小樽港を通じて日本海ルートでなされていた,酒ハ大山並ニ大阪、越後最モ多ク、醤油ハ酒田、新潟、青森等ニシテ、味噌ハ重ニ津軽ヨリ来ル」(明治十五年札幌県勧業課第一回年報,#160;2.436 小樽  1.118  0.648  0.992 『札幌県勧業年報
新札幌市史 第2巻 通史2 (移住士族取扱規則の適用)

授産策として北海道移住策を採り、農商務省の意を受けた函館、札幌、根室の三県では移住士族取扱規則を定め、札幌県,函館県では木古内村、根室県では鳥取村へ一〇五戸、札幌県では岩見沢村へ二七七戸がこの規則にのっとり移住した,札幌県による適用申請は七月十一日に農商務省の許可がおり(移住士族参考取扱書 道文七八八八)、開墾社の士族
新札幌市史 第2巻 通史2 (祖霊社「東雲祠」の創建)

然ルニ未タ一ツノ祖霊社ノ設無クシテ、鎮魂其所ヲ得ズ」(札幌県治類典 道文九四九七)として「祖霊社新築願,」を札幌県に提出、県は翌月内務省に進達した。
新札幌市史 第2巻 通史2 (人身売買の実態)

典拠文献 明治6 28戸 芸娼300人 市民商業惣高取調、北海紀行 15 15 - 94人 明治15年 札幌県統計概表,16 17 - 79 明治16年 札幌県統計概表 21 15 46人 123 明治21年 札幌区役所統計概表
新札幌市史 第2巻 通史2 (都市景観に関するもの)

都市景観に関するもの 前述のように札幌県時代、薄野遊廓の周囲がゴミ捨て場化していて不潔であるという市民,しかし十一年遊廓の南側が市民に割渡され、市街地が南方へ伸長し、札幌県時代に遊廓は市街地に含み込まれていた,しかし札幌県時代から北方への発展にともなって民地官地の区別が崩れてきたことから、市街全体の景観の問題からもその
新札幌市史 第2巻 通史2 (旧開拓使事務・事業の移管)

旧開拓使事務・事業の移管 十五年二月八日の三県分置と同時に、札幌県令として前開拓大書記官・調所広丈が,、土地人民に属する事務は他府県と異なることにより、当面「旧開拓使ノ仕来リ」をもって処理したい旨の調所札幌県令,このような措置の下に札幌県は、旧開拓使より土地人民を受け取り、札幌県庁を札幌区南一条西三丁目八番地に置,さらに六月二十日「各裁判所位置管轄区画表」の改正布告により、札幌県内では始審裁判所が札幌に、治安裁判所,〈大蔵省〉  旧東京開拓使物産取扱所(大阪・敦賀の同派出所を含む)、北海道準備米(函館県五〇〇〇石・札幌県二万三
新札幌市史 第2巻 通史2 (民設時代の札幌郵便局)

さらに佐藤は、十五年札幌県の准判任官に任命されて仕事が煩雑になったため、代理に沢井福次郎を当てた。,しかし県官との兼任で取扱人の職務を遂行できなくなったため、八月養子の佐藤安親を取扱人にした(札幌県治類典
新札幌市史 第2巻 通史2 (電話の設置)

その後十六年札幌県庁と札幌県監獄署との間に設置された。
新札幌市史 第2巻 通史2 (洋食と「食物改良」論)

札幌県時代では、札幌県令調所広丈が熱心な食物改良論者で、毎日自宅でパンを焼き、これを役所に持参して、部下,牧場が増加し、開拓も進み人も集まって交通の便もよくなり、乱酔狂暴の習慣を脱することができるであろう(札幌県報,ところで十五年の第三回札幌農業仮博覧会では、札幌県後援のもとに農話会が開催された。
新札幌市史 第1巻 通史1 (【主要参考文献・史料】)

『御用留 モンヘツ御用所 安政七年』(道文)、「村垣淡路守範正公務日記」『幕末外国関係文書附録』、『札幌県報,』四三号、『札幌県治類典』庶務課―明治十七年三月(道文)、『地理諸留』(道文)、『手稲町誌』、『手稲村史原稿
新札幌市史 第2巻 通史2 (酒類醸造場)

 18年 3697 1477 17 5191 同 19年 4380 2638 26 7044 『札幌県治類典,なお十八年度の醸造人は二六人であるが二十四年には三七人を数え、醸造高も一万石を超えている(札幌県治類典
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌市街の区画改正)

開拓使は十五年に廃止されたため、その事業は札幌県に引き継がれた。,引き継いだ札幌県勧業課地理係は、十六年三月に十四年の問い合わせの「回答ニ拠リ処分可致、御回答無之ヨリ未了之儘引継相成,熟議之上ハ、不及出願儀ト相考候ニ付、本願書返戻候条、却下相成度候」という方針を示して、願いを却下した(札幌県治類典
新札幌市史 第2巻 通史2 (郵便)

大通西二丁目の切手売下人を秋山清美に変更した(札幌県治類典 道文七四一七、八〇四七、八〇四八)。,開拓使から札幌県になると札幌の郵便業務は、はじめは札幌県が管轄したが、十六年七月農商務省駅逓局の管轄となった
新札幌市史 第2巻 通史2 (総代人と名望家支配)

札幌県では十六年三月に総代人の名簿を作成したが(札幌県治類典 道文八六八三)、その時に財産・品行・名望,札幌県でも総代人による名望家支配を期待したからこそ、この種の調査もおこなったのだろう。  
新札幌市史 第7巻 史料編2 (解題)

めて珍しい且つ困難であった明治二十年代初期までの史料を「民事局布達」「開拓使公文録」「開拓使布令録」「札幌県治類典,これらの情況調と明治十五~十七年の札幌周辺の村々に入地した移民の移住農民生活状況取調復命書は、「札幌県勧業年報,山口村に入地した山口県移住民状況は「札幌県治類典」にも見られるが、ここではまとまった報告になっている明治十六年七月二十日付官報,にある「札幌県報告」を採った。,この進言は「札幌県治類典」にあり、六の「屯田兵村の開設」のところに載せた。
新札幌市史 第3巻 通史3 (道会・衆議院議員)

明治三十三年三月法改正により、札幌区は函館・小樽の二区、旧札幌県(十勝を除く)、旧函館県、旧根室県とともに,区制期に八回(第七~一四回)の総選挙があったが、札幌区及び旧札幌県(札幌支庁管轄町村)から選出された衆議院議員,表-11 札幌区,旧札幌県(札幌支庁管轄町村)選出衆議院議員 回 選挙年月日 札幌区 旧札幌県 (札幌支庁管轄町村
新札幌市史 第2巻 通史2 (学務委員と学区)

札幌県が設置されると、県は十六年七月に「学区規則」を布達して正式に学区が設置された。,札幌区が専員・加員各二人、六番学区(豊平外二カ村)が加員一人のみ、他は専員・加員各一人となっている(札幌県学事第二年報
新札幌市史 第1巻 通史1 (中田儀右衛門・福玉仙吉ほか)

にハッサム村に入植、翌明治元年にのちの上手稲村となる地に移住し、開墾・農業に従事したといわれている(札幌県報,これについては、明治十六年(一八八三)一月付で札幌県に提出された履歴書によれば、大野村から「慶応二年五月末上手稲村即今在住地,へ移転、爾後農業一途従事」(札幌県治類典 庶務課 明治十七年三月)となって、年は一年異なるものの、当地方最初
新札幌市史 第2巻 通史2 (豊平川の治水)

豊平川の治水 札幌市街に与える影響の大きい豊平橋付近の堤防は、札幌県時代に整備され、札幌市街が大きな
新札幌市史 第2巻 通史2 (北海道開進会社)

地所のうち未墾地は十七年四月に札幌県より返還命令をうけ、会社も解散となった(札幌県拓殖)。  
新札幌市史 第2巻 通史2 (図版・写真・表組一覧)

』第1~4回より作成 (267頁) 表-19 主要食料品年平均価格『札幌県勧業年報』第2~4回より作成,』,『札幌県勧業課,年報』第2~4回,『北海道庁勧業年報』第1~3回より作成 (332頁) 第5章,』(道文3989) (381頁) 写真-3 下手稲村学校略図『札幌県治類典』(道文8939) (386,』(道文10264)より作成 (390頁) 表-3 明治16年各校授業料『札幌県治類典』(道文8019,)より作成 (393頁) 表-8 学校別教員数『札幌県学事第2年報』より作成 (395頁) 表-9 札幌県師範学校
新札幌市史 第2巻 通史2 (北海道師範学校)

北海道師範学校 北海道庁の設置にともない、明治十九年三月に札幌県師範学校は庁立札幌師範学校と改称したが
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌病院)

札幌病院 明治十五年(一八八二)の札幌県の設置とともに官立札幌病院は札幌県立病院となったが、十九年の,札幌県の廃止とともに北海道庁立札幌病院と改められた。,二十年、開拓使時代以来開拓使御雇医師として札幌農学校に勤務し、また札幌県立病院顧問として活躍したカッター
新札幌市史 第2巻 通史2 (総代人会の設置と役割)

その後札幌県時代には町村会法の検討がなされ、札幌県の機構の中にも議会係が設けられたが、県会・町村会とも
新札幌市史 第2巻 通史2 (札幌への離宮設置案)

それは県令から札幌県治上に関する意見を求められたときの上申である。,また十五年は開拓使から札幌県に管轄が変更されたときで、開拓建設などの事業の縮小が必須の状態のときであった
新札幌市史 第2巻 通史2 (師範附属小学校の設置)

前述のように創成学校は仮師範学校附属小学校としての機能も持っていたが、十六年五月、仮師範学校を改組して札幌県師範学校
新札幌市史 第7巻 史料編2 (解題)

ここではさらに願書類を通じて、当事者達の“生の声”を聞くとともに、開拓使や札幌県などの官庁に依存せざるを,その故に同校は開拓使・札幌県より補助を受けていたが、(二)に学校経費の史料が多いのも、その為に必要な会計検査,(三)は明治十七年(一七八五)一月札幌県師範学校一等教諭庵崎亮応による、札幌市在の学校巡視の復命書である,札幌県時代の各学校と、学校をとりまく社会・地域の状況をしる上では格好の史料である。    
新札幌市史 第2巻 通史2 (幼稚園の設立)

幼稚園の設立 開拓使および札幌県はそれぞれ幼稚園の設置を企図したが、成功しなかった。
新札幌市史 第2巻 通史2 (米麦生産の状況)

これは札幌周辺の原野排水工事の進捗と共に、開拓使・札幌県時代を引き継いで道庁時代にも、道都となる札幌の,したがって農業移住民たちは、開拓使・札幌県・道庁などの奨励や援助を待たずに米作普及の努力を進めた。
新札幌市史 第2巻 通史2 (官業時代末期の不況)

その事情の例証を各年度の『札幌県勧業年報』によって記載してみる。,札幌県はその対策にも苦慮した。  札幌での物価低落の様子を米価の推移で見ると表18のようである。,年 16年 17年 18年 価格 10円830 11円250 7円842 6円483 7円642 『札幌県勧業年報
新札幌市史 第2巻 通史2 (仮師範学校の設置)

十五年二月に開拓使が廃止され、札幌県がおかれたが、県は同月、創成学校にとりあえず師範速成科を置き、仮師範学校
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